2018年1月28日日曜日

年間第4主日

今日の福音では、ガリラヤ湖畔の街カファルナウムでのイエスの最初の活動の様子が語られました。

今月の31日は後藤神父様の霊名 聖ヨハネ・ボスコ司祭の記念日です。
ミサの後、日頃の感謝を込めて霊名のお祝いが侍者の子ども達から手渡されました。


神父様から一言ご挨拶をいただきました。

この日の後藤神父様のお説教は、ただ今準備中です。



『おはようございます。厳しい寒さが続く札幌です。
 今日の聖書のお話し。皆さんはどのようにそのみ言葉を受けとめ、どのようなイメージが広がっているのでしょうか。今日の聖書の背景にはガリラヤ湖があります。ヘルモン山の雪融け水が、ヨルダン川を経てガリラヤ湖に注いでいます。私たちはガリラヤ湖を何となく地図の上で想像するのですが、一番北側にはカファルナムという町があったそうです。そのカファルナムの街道にイエス・キリストは今立っています。現在もその遺跡が保存されているそうです。かつて、当時のカファルナムの街には二千人の人が住んでいたという記録が残っているそうです、そして、その町にはペトロの家があり、イエスが宣教したシナゴーグ(会堂)の跡があるそうです。また、パンと魚の奇跡の教会が建てられて現在に至っています。会堂のある湖畔から湖を見渡す、花が咲き乱れる小道をガリラヤ湖から向かってくると小高い丘になります。その道を登っていくとイエスが山上の垂訓を語って弟子たちを祝福した、現在は美しい八角形の教会があります。山上の垂訓教会が見られるそうです。そういう背景がある中で、このみ言葉が語られていると私自身想像して、黙想しています。

 2千年前、いよいよイエスの公生活が始まり、12人の弟子たちを選んだイエスは福音宣教の旅を始めます。会堂に入ってイエスは、新天地が開かれるときが来たと、神について会衆に語ります。どんなことが話されたのか、今日のみ言葉では触れられていませんが、神についてイエスは語っている。律法学者のようではないという表現が聖書にありますから、口先だけで神の教えを述べている律法学者ではなく、権威ある教えをイエスは会堂で会衆に向かって話していたようです。
 イエスは神について語るだけではなく、病気の人の癒しも行っていたというのが今日のみ言葉でも語られています。口先だけでなく行動においてもイエスは新しい時代を告げ知らせ、行動する人でもあったようです。当時の社会は貧しい人が多いだけではなく、未発達の科学や医学の中で、原因不明の病気もたくさんあったでしょう。今の私たちには簡単に治せる病気も、当時の病気には治せない病気がたくさんあったと思います。病気に苦しむ人が大勢いた。会堂の中で、イエスの話しを聞いている一人が突然イエスに向かって叫びます。「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」汚れた霊に取りつかれた人の叫びに周りの人々も驚きました。こういう言葉だけを聞くとびっくりするでしょう。神の聖者という言葉でさらに驚くでしょう。普段聞くことのない神の聖者。驚きながらその人に沈黙したと思います。霊に取りつかれたこの病人は、イエスを初めから正体は分かっている、神の聖者だと認めています。そこにも不思議を感じますがイエスのかけたひと声。「黙れ。この人から出て行け。」そのひと声で霊に取りつかれた人は変わって病気が回復します。その人の苦しみが開放される瞬間が始まりました。イエスの権威に溢れたひと声が、このカファルナムの町の状況を一変していく宣教が始まるようです。
 ナザレの小さな田舎で人知れず、ごく平凡に暮らしていたと思われるイエス。でも、イエスはヨハネが捕らえられた後に、カファルナムに移り住んだとも言われています。イエスが語り、教え始められると人々はその教えに圧倒されます。その教え、言葉、存在にも力強さが満ち溢れていたのでしょう。人々の心さえも揺さぶるイエスの教えであり、言葉でした。権威に満ち溢れ、慈愛に満ち溢れたイエスの言葉。人々の心を捉えていきます。イエスの宣教の姿がそこに重なっていきます。言うべき時ははっきりとイエスは話されています。時には厳しい言葉にもなったかのようです。伝えるべき内容が中味のない言葉では人の心の中には響かないと思います。触れあう心と心で生きることが出来ていないと感じることがあります。私たちは出会いをとおして、触れあう人と人との関係を大切にしています。本当に心と心の触れあいを感じる言葉や行動に接すると安心も感じます。時には、その言葉、行動によって希望も温もりも感じられます。イエスの権威や言葉はきっと人々に心の変化を促していったと思います。心と心の触れあい、それが信頼へと繋がっていったと思います。語る言葉にごまかしやいつわりがあっては相手にとっても空しいことばかりだと思います。私たちもそうしたとき心を使って大切にしていきたいと思います。

  今日のみ言葉の中に見えてくるイエスの姿から、信じることへのひたむきさ、出会う人への愛、無心な努力。そこにイエスの命をかけて捧げる仕える心もまた感じてきます。ひたすら真っ直ぐに突き進むように、燃えるような愛の心が私たちも必要かもしれません。神の国を告げ知らせ、神の国へとひとり一人を導こうとするイエスのひたむきな態度。私たちも心をそこに向けていくと思いますが、溢れる愛、命の確かさ、権威と光が人々を引きつけているということを、これからイエスの福音の姿をとおして、私たちはこの一年間、学んでいきます。み言葉をとおして接していきます。
 私たちの心を引きつけるマザー・テレサの祈りを紹介します。「主よ私をお使いください」
という祈りに、イエスの宣教の行動が重なって感じています。

                 「主よ、私をお使いください」
   主よ 今日1日 貧しい人や病んでいる人々を助けるために  
    私の手をお望みでしたら今日 私のこの手をお使い下さい
   主よ 今日1日 友を求める小さな人々を訪れるために
    私の足をお望みでしたら今日 私のこの足をお使い下さい
   主よ 今日1日 優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
    私の声をお望みでしたら今日 私のこの声をお使い下さい
   主よ 今日1日 人というだけで どんな人々も 愛するために
    私の心をお望みでしたら今日 私のこの心をお使い下さい
 主よ私をお使いくださいというマザーテレサの祈り。マザー・テレサはこの祈りにあったように、自分の信仰を全身全霊をもって生涯、主のために自分のすべてを使い天に召された方です。

 神の世界のすべての人に伝える、これがイエスの使命でした。口も手も足も、すべてを使ってイエスは神の国の宣教に翻弄されていきます。私たちもイエスの手、足となって福音を伝えることは大切なことです。私たちに出来る福音宣教。愛のメッセージを伝えることは言葉だけでなく手も足も使うことが必要です。手も足も言葉も使いキリストの愛を伝えていく私たちの信仰生活になります。私たちはそのためにも、強い信仰に支えられなければならないはずです。今日も心の目を開けて心から祈り、そして新しい一週間に向かって歩んでいきましょう。』


2018年1月21日日曜日

年間第3主日

今日の福音は先週と同じように召命がテーマです。
私たちは神の呼びかけにどう応えようとしているでしょうか。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『昨日は「大寒」ということで、暦の上では一年で最も寒い季節を迎えていますが、冬至が過ぎて日中の時間は少しづつ長くなって来ており、春も少しづつ近づいて来ているようです。毎年、雪道で滑って転んで怪我をされる方がおりますが、そのようなことがないよう願っております。

さて、先週はヨハネの福音が朗読され、ヨハネがイエスを見て「見よ、神の子羊だ」と弟子たちに示しました。その出会いによってヨハネの弟子たちはイエスとともに過ごし始めるという召し出しの話でした。今日はヨハネの福音からマルコの福音に変わっていますが、内容としては同じ状況のなかでの召し出しの話が語られています。先週のお話では、シモンがイエスからケファという名前をいただいたということが触れられていました。新しい名前をもらうということは、イエスとともに新しい命を歩み始める、神の命をいただくということにも繋がっていきます。私たちも洗礼の時に、「洗礼名」という新しい名前をいただいて、新しく生まれ変わって信仰の道を歩み始めています。
年間の季節が始まり、聖書はヨハネの準備の時が終わって、新しい時代の転換が始まったということを語っています。「新しい時」を迎えたことを、今日のマルコの福音ではイエスの言葉として「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と記されています。新しい時を迎えて、ガリラヤの漁師たちはイエスの弟子となって、宣教の協力者になるのです。これは洗礼者ヨハネの逮捕のすぐ後のことだと聖書は記しています。
召命・召し出しということを私たちは心に留めて今日のみ言葉を味わい、私たちは神の呼びかけに対してどう応えようとしているのか、ということを黙想する一週間に繋げていきたいと考えています。

今日のメッセージは、「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」というイエスの福音生活の第一歩の言葉が述べられているように思います。
弟子たちへの招きは、もう皆が待ち望んできた救いの時は終わって、今、時は満ち、まさに決断の時に至った。それは救いを信じて歩み出す時である。そのことを強調しているのではないでしょうか。
神の国とは、パウロのことばを借りると「食べたり飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる正しさ、平和、喜び」ということを表すということが話されます。それは神の支配によって神の愛がゆきわたる国のことです。
福音を信じるとは、キリストによる救い、キリストの無限の愛にもとづく救いの計画の実現を信じることです。福音とは「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」ともいえます。
そして宣教は、まさにキリストによって実現される救いを信じ、キリストを受け入れ、キリストに生きよ、ということです。キリストそのものは宣教そのものでもあるといえると思います。キリストと出会い、キリストを知り深め、それを生きることは私たちの福音を生きるということにつながると思います。

イエスは神の国の実現のために、自分の協力者を求めます。イエスは最初に二人の漁師である兄弟を見て、自分に従うように招かれました。私たち一人一人も神が私たちを見出して招かれた一人一人ではないでしょうか。私たちはその招きに応えて、信仰の道を歩んでいるのではないでしょうか。私たちはその招きにどのように応えているでしょうか。応えようとしているでしょうか。
弟子たちの召命の姿を黙想しながら、私たち一人一人に呼びかけられたその招きを黙想しながら、具体的に生きることを私たちは見出していかなければなりません。
弟子たちの召命の姿には、キリストの宣教の呼びかけに応える弟子たちの決意や選択というものがはっきりと現れています。彼らは網を捨て、父ゼベダイと雇い人たちを船に残してキリストに従ったことは、主の呼びかけに必要ならば全てを捨てて従っていく、根本的な悔い改めの姿を表しています。弟子たちは招かれた時、その選びを受け入れキリストに従う者となりました。
私たち一人一人が従う道は様々であると思います。12人の弟子たちと同じように生きなさいということではないと思います。しかし私たちも心を新たにして、キリストに従うことができるように祈らなければなりません。

皆さんご存知のように、キリストからの召し出しを受けて、この春、神学校に入る青年が一人いるということを発表しております。そしてこの春、札幌教区に叙階の恵みを受ける二人の神学生がいることを皆さんは既に御存知だと思います。一人は箕島神学生が助祭叙階の恵みを受けます。そしてもう一人は、佐久間助祭が司祭の叙階の恵みを受けることになっています。私たちにとっては喜ばしい日が来るということだと思います。
召命による歩みは「悔い改めて福音を信じなさい」ということにも繫がるでしょう。しかし、悔い改めて福音を信じなさいということは、単に自分が何かを反省するということではないはずです。もっと大切なことは、神の国が近づいたという恵みに応える決心を持って歩むということです。
今月の18日から始まっているキリスト教一致週間は今日で4日目ですが、4日目の祈りの中に次のような祈りの言葉がありました。
神の右の手は、わたしたちが行きべき道を指しておられます。その道はあまりにも混乱し、迷いやすい道です。それでも、神の右の手は導いてくださいます。」
召命を生きるということにも繫がる言葉に私は感じました。

どんな試練の中にも神の力が働くことを信じること。そしてこの春、その召し出しに応えて、神学校へ向かう一人の青年がいるということ。既に神学を学んできた二人の神学生が叙階の恵みをいただくということ。彼らの上に神の恵みを祈るとともに、私達自身一人一人の上にも神の恵みに応えて生きる力と希望の召命の恵みを祈りたいと思います。』

2018年1月14日日曜日

年間第2主日

年間の典礼季節がはじまりました。今日の典礼のテーマは、神の呼びかけの神秘です。

第1朗読(サムエル記)では、主が少年サムエルに呼びかけられました。
そして、ヨハネによる福音では、イエスが最初の弟子となるアンデレとヨハネに「何を求めているのか」と尋ねられました。これは、ヨハネが福音書に記しているイエスの最初の言葉であり、彼らへの招きでした。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『年間の典礼季節に入っています。
 今日、私たちが聴いたヨハネの福音、B年の福音と違い、今日だけヨハネの福音になっています。毎年、年間第2主日の福音朗読は、ヨハネの福音が読まれます。来週からはマルコによる福音に戻ります。ヨハネの福音が読まれるためには、きっと何かそこに深い意味があるのだと考えます。共観福音書と違って、ヨハネの福音の序文は特別な内容で始まります。ヨハネの福音は創世記と同じように「はじめに言葉があった。」という書き出しで福音が書かれます。「はじめに言葉があった。」永遠の言葉の存在から書き記されるヨハネの福音の序文。そこから展開するヨハネの福音の物語。それは、イエスが神の子キリストであるという、真の信仰に導いていくものでもあります。
  「はじめに言葉があった。」という序文に続いて、1章の途中から特別な一週間の出来事が書かれています。その内容は、洗礼者ヨハネが登場したり、最初の弟子たちの召し出し、最初の奇跡であるカナの婚礼の出来事まで、最初の一週間の出来事だと言われています。そして、2章に入るとイエスの公生活に入っていきます。ヨハネの福音だけがガリラヤではなく、過越祭が近づく中での、神殿から商人を追い出す出来事、それはエルサレムで起こったという出来事で、ガリラヤではなくエルサレムでの公生活の出来事として語られています。そういう意味で共観福音書と違って、独特の書き出し内容で、福音でヨハネの福音は書かれているものです。

   今日のみ言葉は、その一週間の出来事の中の、三日目の出来事であるといわれています。イエスによって弟子たちを召し出している。その弟子たちとの最初の出会いを伝える場面が今日のみ言葉です。召し出しの内容に入っています。どんな状況で弟子たちとの出会いがあったのでしょうか。ヨハネは後にイエスに洗礼を授ける「洗者ヨハネ」と呼ばれる人ですが、弟子を持っている立派な人でした。熱心な信仰の人でした。
 この時、ヨハネの傍には二人の弟子がいたと書かれています。先生であるヨハネは旧約聖書のみ言葉を使って人々に悔い改めを述べる人でもありましたが、ヨハネ自身は自分の使命を自覚して、そのことに忠実に生きている信仰の人でもありました。いつの日か、救い主は自分たちの前に訪れる、現れる、そのことを信じて弟子たちを指導しています。弟子たちにとって尊敬する偉大な先生であるヨハネが、イエスを見つけて、指を示して「見よ、神の小羊だ。」と証言しています。尊敬する先生が 目の前でイエスを指さして言われたのですから、弟子たちは素直に日頃から教えを聞いているように、その救い主、神の小羊と言われた人に付いていく。私はこのように召し出しの場面を見つめています。

  この神の小羊という宣言、私たちもミサの中で何度も何度も繰り返す言葉です。私たちは神の小羊とどんな関わりがあるのでしょうか。私たちの信仰は神の小羊にどう繋がっているのでしょうか。あまり意識しないでその信仰を見ているかもしれません。深い繋がり、関わりを持っているのが私たちの信仰であるということです。聖書と典礼でも説明されているとおりですが、旧約時代から人々の救いのために、神殿で神に捧げられる犠牲の供え物、すなわちそれは生け贄の小羊を指し示しているものです。よくよく考えていくとそれはまた、私たちの購いのために十字架に架かるイエス自身を差し示しているということが私たちの信仰であるはずです。私たちの救いのために、私たちの購いのためのに、私たちを永遠の御国に導くために、この神の小羊は生涯をとおして御父を私たちに示して、十字架の道にまっすぐに進まれる方でした。この神の小羊をとおして、私たちは贖われ、罪の赦しを得、新しい命に生きる者としてくださいます。
 以前にも話したことがあります。私たちの祭壇の真上には、その神の小羊のレリーフが描かれています。もう皆さんは気づかれていることですが、今は煤で真っ黒になって、神の小羊か判断が付きにくくなっているのですが、こちらの傍に来て見上げると小羊であることが分かります。まだ、良く見ていない方は是非、ミサの後で前に来られ確認して欲しいと思います。いつも祭壇の真上に神の小羊のレリーフが私たちの教会にはあったんだ。ミサの中の祈りもこの神の小羊に繋がっているんだということを考えると、私たちはもっとミサの中の祈りも、キリストに繋がる羊に繋がる信仰の祈りもまた意識も変わってくるかもしれません。

  ヨハネはイエスを指し示して、神の小羊と呼んで、イエスは自分に従おうとして付いてきたヨハネの二人の弟子に振り向いて話されています。私はこの「振り向いて」と言う言葉に特別な感情を抱いて味わっています。敢えてイエスが自分に従って来た人に「振り向いて」というのはもっと深い意味があるのではと創造しています。自分の意志で振り向いて、確認してそして声を掛けてきた。あなた方は何を求めているのか。イエスはそうに二人の弟子に声を掛けています。ヨハネ福音書では、イエスが発した最初の言葉です。「あなた方は何を求めているのか。」そのことも深い意味を表しているのではと考えられます。誰を探しているのかではありません。何を求めているのか。

 多くの人は人生に何かを求めています。その多くは自分たちの欲望を満たしてくれる物質的なものかもしれません。でも、ヨハネの弟子たち、彼らが、求めているのは決して物質的なものではありませんでした。彼らは真実を求めています。救いを求めています。私たち人間の本当の真実、平和を求めています。彼らは先生と呼ばれる人の話を聞き、それを悟ろうとしていました。彼らの周りにはラビと呼ばれるたくさんの宗教的指導者がいましたが、まだ自分たちの問い掛けに、十分に答えてくれる先生はいませんでした。自分の先生が指し示した神の小羊の救い主イエスに対して、彼らはラビと呼びかけ、何処に泊まるのですか?と聞いています。イエスが泊まっているところ、自分たちに真実を伝えてくれるかもしれない。その先生が泊まるところに自分たちは赴いて、その先生から話しを聞きたい。真実を聞きたい。本当の平和を聞き出したい。イエスと膝を交え語り合い、親しく教えを受けたいと彼らは願っていたのではないでしょうか。この一連のやりとりに私は興味を持っていますが、流れに戸惑いも感じます。イエスと弟子たちとの会話。何を求めているかとの問いに、直接答えることなく、何処に泊まっているのか、という質問に変わっています。イエスは何処に泊まっているのか、具体的に答えることなく「来なさい。そうすれば分かる。」という答え方で導いていきます。もう少し具体的に会話が交わされていたのではないかと思いますが、聖書の言葉はポンポンと飛んで、具体的に示されていないような気がします。でも、そこに象徴的な深い意味が入っているのではと、黙想するとそうしたことに、その世界に入っていけるような気がします。

  彼らはイエスの泊まるところを見たとはありますが、イエスが泊まるところは本来ならば、父なる神との交わりによる天上の住まいであるはずです。イエスが答えた「来なさい。そうすれば分かる。」というその場所は、単なるこの地上の宿泊場所ではなく、イエスといっしょに過ごすことによって天の住まいが分かるようになること。また、父なる神の御心を悟るようになること。そしてやがて、弟子としてその心理を理解し、実践することが可能になるところ。そこがイエスの泊まるところであり、泊まるところの意味はきっと、留まるところであり、存在するところであり、生きるところであったとも思われます。何処に泊まっているのですか。私たちもそういう質問をしていかなけばならないと思います。信仰の目でみることができないなら、イエスの十字架の死は悲惨な死であり、否定的にしか受け取ってしまうことになります。信仰を十分に理解していなし一般の人は、イエスが十字架で亡くなった。そういうことに残酷さだけを感じます。でも、イエスの十字架の死は信仰の目で見れば、神の光の中で見るならば、人類を救うという偉大な力に包まれた死でもあるのです。
 ヨハネの福音はそのことに私たちを導こうとして聖書を書いていきます。見よ、神の小羊と指し示したヨハネの言葉。叫びは弟子たちだけでなくて、私たち一人ひとりにも神秘的な意味を持つ神秘的な言葉です。そしてそれは私たちの召命、召し出しにも繋がっています。信仰による召し出し。

 今日の第一朗読でも、サムエルの召し出しの話しが語られました。サムエルは神からの呼びかけを感じて、先生でもあるエリのところにいきました。エリは自分は呼んではいないよと答えます。今日の福音のみ言葉の中にも二人の弟子の召し出しが描かれていますが、そこには先生であるヨハネがイエスとの間に立っています。ヨハネは弟子たちをイエスのもとに行かせます。導きます。そうして考えてくると、召し出しというのは、必ずしも直接、神と自分との関係ではなく、人間、人が介入していることがあるということを指し示しています。皆さんが信仰に導かれたこと、そのことを考えるともしかすると、人をとおして教会に、信仰に導かれる人も大勢おられるのではないでしょうか。
  私たちの一人ひとりの召し出しも考えながら、一人ひとりが召し出しに答えるために人に
深い関わりを持っていることも大切にしなければと思います。私たち一人ひとりが友人、そうした人々を神のもとに導くきっかけを作っているということを忘れてはならないと思います。召命、召し出しは私と神との関係だけではなくて、私とほかの人々との関わりも召し出しに繋がっていくとうことを大切にしたいと思います。

 召し出しの大切な要素を三つあげると言われます。
 ひとつは好奇心にも似た問い掛けが大切な要素になるということ。イエスは何を求めているのかと問われましたが、そうした関心を持つことによって、召し出しに繋がっていきます。私たちの周りにいる隣人が何かそういう思いを持っているならば、それはひとつの大きなきっかけになるかもしれません。第二の段階は、キリストに従うことと言えるでしょう。弟子たちがヨハネの指示に従ってイエスに付き従ったように、キリストに従うこと、イエスに従うこと。従うことは大きな要素になります。さらに第三段階としては、主とともに生きること、ということができます。キリストを探し求め永遠の住みかにいたるまでキリストを探し求めるならば、キリストに従い生きることは大切になる。それが召し出しをさらに深めるということ。

 年間の季節に入りました。四旬節の始まる「灰の水曜日」まで第一段階の年間の季節になります。み言葉は日曜日に告げられる聖書の言葉は、イエスの生涯における様々な出来事を私たちに告げ知らされることになります。私たちはそのみ言葉に出会いながら、信仰を成長させなければと思います。主イエスとの出会い、そしてその言葉に従い、歩み続けることが出来るように、今日もまた、皆さんと心をひとつにして、主の祭壇の前に一致して祈りたいと思います。

2018年1月8日月曜日

1月7日(日)主の公現

明日の「主の洗礼」の祝日で降誕節は終わり年間の季節に移ります。
主との出会いを忘れずにこの一年を歩みましょう。

後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『「主の公現」の祝日を迎えています。
私は今、思い出に浸っています。かつてドイツの田舎町でクリスマスから「主の公現」の祝日のあたりまで冬休みを過ごしたことがありました。「主の公現」のミサが終わった後で、その教会の子ども達が数組のグループを作って、星を持った子供を先頭に3人の博士に扮した子供の4人一組で町に繰り出します。どんなことをするのか私にはさっぱりわかりませんでしたが、子ども達が教会へ戻ってきて初めてそれがわかりました。子ども達は各家庭を訪れて、貧しい人たちのために寄付を集めていたのです。その日教会に来られなかったり未信者の人も、子ども達の訪問を受けて、今日は「エピファニア(主の公現)」の祝日であると感づいたのではないでしょうか。日本ではこのような習慣は聞いたことはありませんが、私たち一人一人が主がこの世に現れた日、主が私たちの元に降りてきて下さったことを知らせるという使命を、このような行事を通してドイツでは大事にされてきたのだと思います。

主の降誕をお祝いした私たちは、クリスマスから降誕節という季節を迎えていましたが、明日の「主の洗礼」の祝日で降誕節は終わり、明後日からは年間の主日、緑の季節に入ります。クリスマスの喜びの気持ちも少しづつ遠くなります。主との出会いを忘れずにこの一年を歩まなければと思います。

聖書を読んでいると、ここ数日福音をとおして、もう既に年間の季節を表すような内容が入ってきていました。神の子羊と宣言したヨハネと出会い、またガリラヤの道で出会ったフィリッポにイエスは「私に従いなさい」という言葉をかけて、12人の弟子たちを選んでいくイエスの姿が福音の中で語られていました。

2000年前に生まれた幼子イエス・キリストを私たちは祝い続けていますが、そのイエスは私たちのためにもお生まれになった方だということを、私たちはどこまで心の中に留めているでしょうか。波乱のない静かな人生を送る人は少ないと思います。多くの人は人生の歩みの中でときには涙を流したり、苦労したり、絶望を味わうこともあるでしょう。でもそのような人の中に、幼子イエスは誕生します。そうした人々ともイエスは出会いをもたらします。そして私たちの中に生まれ、私たちの中で出会ったイエス・キリストは、私たちを立ち上がらせ慈しみの神の元へ、永遠の命の世界へと導く方であるということを忘れてはなりません。』

2018年1月2日火曜日

12月31日 聖家族

2017年最後のミサになりました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『私たちが、教会が「主の降誕」を祝ったのは一週間前のことでした。今日は2017年の最後の一日、それを日曜日(主日)で迎えています。年の瀬の影響でしょうか。この降誕祭のミサは、聖堂を溢れんばかりの参加者でお祝いをしましたが、今日はその半分くらいの参加者です。もうクリスマスの喜びはもう消えてしまったんだろうかと、そんな想いで入堂しました。きっと、忙しい日々に追われている方がたくさんおられるのでしょうか。
 皆さんにとって、今年の一年はどんな一年であったでしょうか。そんなことも考えます。どんな思い出が蘇ってくるでしょうか。様々な出来事をふりかえったり、悲しみや喜びを思い出したりされている方もおられるかもしれません。また、健康をそこなったり、あるいは健康を回復したり、一喜一憂する思い出が蘇たりする人もいると想います。

  先週、クリスマスを祝った私たちですが、ヨセフとマリアは子供をもうけて、ひとつの家族がそこに誕生しました。今日、教会はその三人で構成される、共同体である「聖家族」をお祝いします。三人一組の天上の三位一体に対して、聖家族は地上の三位一体と呼ばれることがある、そんなことを思い出します。父と子と聖霊は天上の三位一体ですが、ヨセフとマリアと幼子イエスは、地上の三位一体である。そして、地上の三位一体を教会は「聖家族」としてお祝いしています。皆さんは三位一体の御絵をいろいろなところで見てきていると思いますが、この地上の三位一体の聖家族の絵もきっと思い出されると想います。芸術的な絵には、聖母子にアンナが加わることになったり、聖母子にヨセフが描かれる絵であったり、地上の三位一体については様々な芸術的な絵が残されているようです。

  さて、今日のみ言葉は天使のお告げを背景にして、ルカの福音が語られています。聖書では八日目に天使から示されたように「イエス」という名前が付けられた後からが、今日のみ言葉で語られています。古来のイスラエルの習慣では両親は産まれた幼子を有名な、立派な老祭司やラビに抱いてもらって、祝福を受けることが習慣だったようです。でも今日のルカの福音によるみ言葉では、ヨセフとマリアは旧約の律法に従って産まれた最初の子供を神殿に奉献する場面が語られています。律法では、出産後40日目に清めの生け贄を捧げることになっていました。聖別を受ける規定もありました。ヨセフとマリアは旧約の掟に忠実に従って、貧しさの中にあっても、山鳩ひとつがいか又は家鳩の雛二羽を捧げる犠牲を神殿で行ったということが語られています。まさに、山鳩ひとつがいか又は家鳩の雛二羽を捧げたとすれば、本当に聖家族も貧しい状況にあった、そのことを示しています。忠実に旧約の律法に従ったということは貧しさの中にあっても、信仰と模範を私たちにルカは示しているのだと思います。
 この貧しい聖家族。でも、神殿においては正しい人で信仰の熱い、聖霊が留まっていた敬虔な老人シメオンの祝福を受けることになりました。このシメオンの素晴らしい姿を聖書は示しています。また、断食と祈りを捧げ仕えていたアンナという女性から歓迎を受けました。シメオンとアンナという老人二人はともに、幼子によって救いを先取りする喜びを味わっています。これはまさに二人が、正しく敬虔な人であった、それだからこそこの救いに加わるあらゆる人たちの先駆けとなったのだと想います。     

 核家族化が進む現在ですが少子化のことも話題にしています。聖家族と現在の私たちの家族の在り方、少しいろいろと黙想ができるようです。私たちの教会の中でも感じるようになっていますが、家族でともに祈っている姿は見えているでしょうか。皆さんの家族の中で、家族が揃って祈りを捧げる習慣は続いているでしょうか。昔は、良く家族で祈った話しを耳にしていました。子供は親と一緒の長い祈りに飽きてしまって、親に叱られたと言う話しも良く聞きました。私も神学生時代のことを思い出しますが、親の代から信仰熱心な同級生が神学校に入って来ていましたので、家族で祈ったときのいろいろな思い出を聞いたことがありました。ある年代になるとロザリオの祈りの先唱も役割として行ったという話しも聞きました。今、そういった習慣を持っている家族はどこにあるかなと、考えてもしまいます。夫婦で祈ったり、家族で祈ったり、そういうことは少し少なくなったような気がいたします。

  先日、司祭の会議があり、その中でも話題となり話し合いました。家庭での祈り、私たち教会が少し力を入れていかなければならないのではとの話しも出て来ます。家庭で祈る小冊子を作成したらどうかと検討もしていますが、現実的には祈りの本はこれまでたくさん発行されています。改めて作る必要があるのかそういう話しも出て来ました。喜ぶ人もいるでしょうが、また祈りの本が増えたと思う人もいるでしょう。少し時間をかけて検討しましょうということになっています。司教様も教区100周年の中のメッセージの中で、家庭の祈りについても少し呼びかけられました。でも、具体的には教会の中では、それについて深めて話し合うことは持たないで今日に至ってると思います。まず、私たち一人ひとりが自分たちの信仰生活、祈りの生活をもう一度しっかりと見つめていかなければ、ただ音頭をとっただけでは、本当の祈りが動き出すわけではないと私自身は考えてしまいます。
  聖家族を黙想するとき、現代の家族の多様な変化の中で、様々な家庭の崩壊ということもどうしても考えざるを得ません。家庭の祈り、家族の祈りと家族の崩壊が何らかで繋がっているような気もいたします。皆さんはどのように考えるでしょうか。

  明日には新しい一年の日を迎える元旦がやってくるとは私には実感がわいてきませんが、新しい一年の信仰の歩みを黙想しながら、新年を迎えなければと思いました。今日、聖家族を迎えた老人シメオンの姿も私たちへの信仰の模範を示しているのではないでしょうか。この幼子、嬰児をイエスのうちに、このシメオンは受難を暗示したようにも思います。聖書の言葉では「反対を受けるしるし」という言葉が使われ、幼子イエスを見つめるシメオンです。イエスの将来を見据えながら、共に苦しむことの大切さを私たちに示されているとも思います。十字架をとおして、受難をとおして、私たち一人ひとりを救われるイエスキリストの未来を、シメオンは心の中で悟ってイエスと出会っていたのではないでしょうか。
 私たちにとって信仰を持っているといいながら、神の愛を生きているといいながら、喜びをともにし一致することは容易なことではありません。家庭の中でも試練があるはずです。失敗したり、苦しみが突然起こることも、ままあることだと思います。苦悩をともにしながら、手を取り合い生きていることは、家族にあっても決して容易なことではないと思います。それは私たち教会共同体人一人にとっても同じ事が言えます。ですから私たちの信仰の歩みはけっしてなおざりには出来ません。もっともっと主に信頼しながら、私たちが歩むべき愛を黙想してそれを実践する努力をしていかなければと思います。

  皆さんも悲しみの中で、驚きの中でニュースを受けとめていたと思いますが、つい先日、我が子を僅か二畳のプレハブ部屋に15年間、隔離、監禁して、一日に一食しか与えず凍死した女性の方の記事が賑わっていました。33歳の娘さんですが、僅か19㎏の体重しかありませんでしたと新聞では報道されています。33年間生きた人の体重が20㎏に満たないということをどのように想像できるでしょうか。まして一日一食。水は管から飲めるようにしてあったということですが、信じられない事件で今日の朝刊にも載っていました。でも、これは私たちの生きている現実にもあることだと、もっともっと考えなくてはならないと思います。

  神の子イエスとマリアとヨセフの幸せな家庭を私たちは想像します。神を中心にして結ばれた家族を黙想しながら、現代社会にあって一人ひとりの生き方、そしてあるべき姿を真剣に見つめなければと思います。親として、一人の人間としてどう歩まなければならないのか。私たちが持っている信仰はどういう形に変わっていかなければならないのか。変えようとしているのか。
  福音に示されたように神殿に奉献したことは、両親にとって子供は神のものであるという宣言でもあるのではないか。「子は鎹(かすがい)」という諺(ことわざ)もありますが、子離れの痛みをとおして、親の心も広げられ深められていくことが言われています。親として、一人の人間として私たち一人ひとりが更に真剣に立ち向かって、神の子に相応しい生き方に結ばれたいと願います。

 一年の最後の日、聖家族を黙想しながら、見つめながら、この一年の恵みに感謝いたしましょう。そして来るべき新しい一年の歩みには、一人ひとりの使命が全うすることが出来るように、心を合わせてこのミサで祈りたいと思います。』

1月1日 「神の母聖マリア」

新年明けましておめでとうございます。
神の豊かな恵みに満ちあふれた1年となりますよう。

1月1日 「神の母聖マリア」の祭日のミサが、午前10時から勝谷司教様の主司式で行われました。
新しい年の始まりを感謝の祭儀で迎えようと、多くの皆さんが集い祈りを捧げました。

今日は「世界平和の日」です。
緊張が続く最近ですが、私たち一人一人が平和を祈り、その実現のための歩みを続けていけますように。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『ちょうど20年前に1年間の休暇をとってヨーロッパに向かっていました。途中の経由地としてコペンハーゲンで一泊することになりました。空港の近くの街でしたが、慣れない中、ホテルをとることができました。そこで、驚いたのは街が大変きれいだったのです。街並みの統一性がとられ、ゴミひとつ落ちていない。何よりも驚いたのは、着いたのが昼頃でしたので、どこかで食事をと、街中を歩いていました。そうすると、すれ違う人々がまったく知らないこのアジア人にあいさつをするのです。ようやく見つけた食堂でそれを話したのです。「みんながあいさつしてくれる。」何を当たり前のことを言ってるんだという顔をされました。このときの体験は、ずっと自分の心のアルバムにしまっておいたのです。

 そのアルバムが開かれたのは北広島教会に在任中のことでした。司祭としての生活は忙しかったので、移動手段は車でした。そしてあるとき何を思ったのか、今、飼っているボーダーコリーを飼ってしまったのです。自分の健康のためでした。あの犬は運動量が豊富で、犬との散歩で私の運動不足が解消出来ると想ったのですが、間違っていました。いっしょに歩く程度では、あの犬には運動にならないのです。走り回らないと運動にはならない犬でした。結局、ディスクやボールで思い切り走り回り、飼い主は椅子に座り動かない…後から気付いたのです。
 ともあれ、北広島教会にいたとき、犬の散歩に出かけることになったのです。すぐ近くに犬のドリームコースがありました。北広島市はヨーロッパのある街をモデルにした街づくりを進めていると聞いていますが、散歩道路の周りに施設や幼稚園、学校などが整備されているのです。そして、それぞれに公園が設置されていて、こういう街づくりをしていることに気付いたのです。
  そして、驚いたのは犬を散歩している者同士すぐに友達になれたのです。お互いの名前は知らないのですが、犬の名前は知っている。犬はオス、メスとは言わないで男の子、女の子と呼び、(人間は)○○チャン(犬)のパパ、ママと呼ぶのです。
  犬の散歩同士このように知り合いになれるのですが、更に驚いたのは、街を歩いている子どもたちが見知らぬ大人にあいさつをするのです。気持ちの良いものです。子どもたちとも知り合いになれる。幼稚園の園長もしていましたから、卒園後数年経ってもちゃんと街で会えばあいさつしてくれます。本当に居心地の良いものでした。北一条教会に赴任したときは、そんなこともなくホームシックにかかったような気分でした。それまで自分はどんな顔の表情をして歩いていたのだろうか。無表情、しかめっ面。でも、あいさつをされると本当に気持ちの良いものです。やがて自分の方からあいさつをしていくようになったのです。

  しかし、考えてみると一日誰とも会わない、笑顔を作れない生活をしている人がいたということに気付かされると同時に、多くの日本人、特に老人たちが一日誰とも会わず、会話もせず、笑顔もつくれない生活をしていることを感じたのです。
 そして衝撃的なエピソードがあるのです。ある教会に赴任したとき、家庭集会と繋がり、数ヶ月毎に集まりました。その集会には一人の老人が隣のブロックから参加していました。家族は信者ですが別に住んでいました。最初、数回は「何かお話しはありませんか?」と聞いても黙っておられました。三回目くらいにまた「何かお話しはありませんか?」と聞きました。そうすると「しばらく教会には行ってません。」「どうしてですか?」「足が悪く、夏はいいが、冬は雪が障害で行けない。」その老人が冬場に教会に来れないことを誰も気付いていなかったのです。同じ(隣の)ブロックにいながら、教会にも家庭集会にも車で来ているのですが。ですからちょっと寄って、その方を乗せて教会に来ることは、ごく自然のことと思うのです。でも、そのような老人がいたことは知らない、気付かなかった。
 結局、この老人は冬の間、教会に来れず誰とも会わない生活を強いていたのです。そして、その老人が加えた言葉は「私は教会に行っても、誰とも話すことはありませんでした。」その場(家庭集会)に居合わせた人たちは、自分たちの共同体とは何か、反省させられました。その時から、教会はあいさつをしましょう、名札を付けましょうと変わりました。システムとして、家庭集会や様々な集まりを持つことは大事なことですが、それよりもなによりも教会の中で私たちは笑顔で、あいさつを交わし合っているのか。自然な笑顔であいさつをされる。これは自分を受け入れてくれている、そういう実感を感じるのです。そこから、自分(たち)のことを分かち合うことが出来るようになるのです。教会の中で受け入れられていると感じることなく、でも、神さまは受け入れてくださっているというのは、少し憂いがある話しですね。私たちは教会に来て祈る時に、お互いに受け入れ合っていると実感しなければ、自分の居場所があるということを肯定出来なければ、そこは福音が実現していない教会です。

  私たちに出来ることはささやかなことです。今日の教皇様の平和メッセージですが、クリスマスの夜半ミサでは、その中の難民についてここからお話しをしました。私たちはその人たちに心を留め、何かをするように求められていますが、まず身近なところで何が出来るか。世界に溢れている難民のために何かしましょうと言われても、すぐに出来るのは祈りです。しかし、身近なところで私たちが出来ること、外に一歩出たときの始まりが、私は笑顔と考えます。今、身近な人に目を向けることになる。笑っていない人がいれば、どうぞ笑わせて。笑顔を大切にすれば笑顔を返してくれるようになると思います。そこから互いに何か出来るのではないか。そこに小さな働きかけや何かやろうとする歩み出した一歩を神さまが用いて、私たちに何かするように、私たちの思惑を超えたところに導いてくださる。そう感じています。
 
  まず私たちはこの笑顔を人に向ける前に、自分が愛されていると感じるためには、マリア様に祈ることが必要だと思います。神の母聖マリアは、遠くにあって女王の冠を被って鎮座されている方ではなく、私たちのお母さんとして私たちを包み込んでくださる方です。私たちに向けられている愛、その表情は私たちに微笑みを向けてくださっていると思います。それを具体的にイメージしながら、今私に向けられているあなたの微笑みを、私が会えた人に分かち合うことが出来るように。それを日々の祈りとして、日々出会う人々に、この笑顔を分かち合おうとする姿勢が世界を変えていく、何らかの働きかけとして導かれているのではないかと思います。マリア様の執り成しを願って、私たちをとおして世界に平和を実現していくように、引き続き神さまに祈りましょう。』