神の豊かな恵みに満ちあふれた1年となりますよう。
1月1日 「神の母聖マリア」の祭日のミサが、午前10時から勝谷司教様の主司式で行われました。
新しい年の始まりを感謝の祭儀で迎えようと、多くの皆さんが集い祈りを捧げました。
今日は「世界平和の日」です。
緊張が続く最近ですが、私たち一人一人が平和を祈り、その実現のための歩みを続けていけますように。
この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『ちょうど20年前に1年間の休暇をとってヨーロッパに向かっていました。途中の経由地としてコペンハーゲンで一泊することになりました。空港の近くの街でしたが、慣れない中、ホテルをとることができました。そこで、驚いたのは街が大変きれいだったのです。街並みの統一性がとられ、ゴミひとつ落ちていない。何よりも驚いたのは、着いたのが昼頃でしたので、どこかで食事をと、街中を歩いていました。そうすると、すれ違う人々がまったく知らないこのアジア人にあいさつをするのです。ようやく見つけた食堂でそれを話したのです。「みんながあいさつしてくれる。」何を当たり前のことを言ってるんだという顔をされました。このときの体験は、ずっと自分の心のアルバムにしまっておいたのです。
そのアルバムが開かれたのは北広島教会に在任中のことでした。司祭としての生活は忙しかったので、移動手段は車でした。そしてあるとき何を思ったのか、今、飼っているボーダーコリーを飼ってしまったのです。自分の健康のためでした。あの犬は運動量が豊富で、犬との散歩で私の運動不足が解消出来ると想ったのですが、間違っていました。いっしょに歩く程度では、あの犬には運動にならないのです。走り回らないと運動にはならない犬でした。結局、ディスクやボールで思い切り走り回り、飼い主は椅子に座り動かない…後から気付いたのです。
ともあれ、北広島教会にいたとき、犬の散歩に出かけることになったのです。すぐ近くに犬のドリームコースがありました。北広島市はヨーロッパのある街をモデルにした街づくりを進めていると聞いていますが、散歩道路の周りに施設や幼稚園、学校などが整備されているのです。そして、それぞれに公園が設置されていて、こういう街づくりをしていることに気付いたのです。
そして、驚いたのは犬を散歩している者同士すぐに友達になれたのです。お互いの名前は知らないのですが、犬の名前は知っている。犬はオス、メスとは言わないで男の子、女の子と呼び、(人間は)○○チャン(犬)のパパ、ママと呼ぶのです。
犬の散歩同士このように知り合いになれるのですが、更に驚いたのは、街を歩いている子どもたちが見知らぬ大人にあいさつをするのです。気持ちの良いものです。子どもたちとも知り合いになれる。幼稚園の園長もしていましたから、卒園後数年経ってもちゃんと街で会えばあいさつしてくれます。本当に居心地の良いものでした。北一条教会に赴任したときは、そんなこともなくホームシックにかかったような気分でした。それまで自分はどんな顔の表情をして歩いていたのだろうか。無表情、しかめっ面。でも、あいさつをされると本当に気持ちの良いものです。やがて自分の方からあいさつをしていくようになったのです。
しかし、考えてみると一日誰とも会わない、笑顔を作れない生活をしている人がいたということに気付かされると同時に、多くの日本人、特に老人たちが一日誰とも会わず、会話もせず、笑顔もつくれない生活をしていることを感じたのです。
そして衝撃的なエピソードがあるのです。ある教会に赴任したとき、家庭集会と繋がり、数ヶ月毎に集まりました。その集会には一人の老人が隣のブロックから参加していました。家族は信者ですが別に住んでいました。最初、数回は「何かお話しはありませんか?」と聞いても黙っておられました。三回目くらいにまた「何かお話しはありませんか?」と聞きました。そうすると「しばらく教会には行ってません。」「どうしてですか?」「足が悪く、夏はいいが、冬は雪が障害で行けない。」その老人が冬場に教会に来れないことを誰も気付いていなかったのです。同じ(隣の)ブロックにいながら、教会にも家庭集会にも車で来ているのですが。ですからちょっと寄って、その方を乗せて教会に来ることは、ごく自然のことと思うのです。でも、そのような老人がいたことは知らない、気付かなかった。
結局、この老人は冬の間、教会に来れず誰とも会わない生活を強いていたのです。そして、その老人が加えた言葉は「私は教会に行っても、誰とも話すことはありませんでした。」その場(家庭集会)に居合わせた人たちは、自分たちの共同体とは何か、反省させられました。その時から、教会はあいさつをしましょう、名札を付けましょうと変わりました。システムとして、家庭集会や様々な集まりを持つことは大事なことですが、それよりもなによりも教会の中で私たちは笑顔で、あいさつを交わし合っているのか。自然な笑顔であいさつをされる。これは自分を受け入れてくれている、そういう実感を感じるのです。そこから、自分(たち)のことを分かち合うことが出来るようになるのです。教会の中で受け入れられていると感じることなく、でも、神さまは受け入れてくださっているというのは、少し憂いがある話しですね。私たちは教会に来て祈る時に、お互いに受け入れ合っていると実感しなければ、自分の居場所があるということを肯定出来なければ、そこは福音が実現していない教会です。
私たちに出来ることはささやかなことです。今日の教皇様の平和メッセージですが、クリスマスの夜半ミサでは、その中の難民についてここからお話しをしました。私たちはその人たちに心を留め、何かをするように求められていますが、まず身近なところで何が出来るか。世界に溢れている難民のために何かしましょうと言われても、すぐに出来るのは祈りです。しかし、身近なところで私たちが出来ること、外に一歩出たときの始まりが、私は笑顔と考えます。今、身近な人に目を向けることになる。笑っていない人がいれば、どうぞ笑わせて。笑顔を大切にすれば笑顔を返してくれるようになると思います。そこから互いに何か出来るのではないか。そこに小さな働きかけや何かやろうとする歩み出した一歩を神さまが用いて、私たちに何かするように、私たちの思惑を超えたところに導いてくださる。そう感じています。
まず私たちはこの笑顔を人に向ける前に、自分が愛されていると感じるためには、マリア様に祈ることが必要だと思います。神の母聖マリアは、遠くにあって女王の冠を被って鎮座されている方ではなく、私たちのお母さんとして私たちを包み込んでくださる方です。私たちに向けられている愛、その表情は私たちに微笑みを向けてくださっていると思います。それを具体的にイメージしながら、今私に向けられているあなたの微笑みを、私が会えた人に分かち合うことが出来るように。それを日々の祈りとして、日々出会う人々に、この笑顔を分かち合おうとする姿勢が世界を変えていく、何らかの働きかけとして導かれているのではないかと思います。マリア様の執り成しを願って、私たちをとおして世界に平和を実現していくように、引き続き神さまに祈りましょう。』