2018年1月2日火曜日

12月31日 聖家族

2017年最後のミサになりました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。

『私たちが、教会が「主の降誕」を祝ったのは一週間前のことでした。今日は2017年の最後の一日、それを日曜日(主日)で迎えています。年の瀬の影響でしょうか。この降誕祭のミサは、聖堂を溢れんばかりの参加者でお祝いをしましたが、今日はその半分くらいの参加者です。もうクリスマスの喜びはもう消えてしまったんだろうかと、そんな想いで入堂しました。きっと、忙しい日々に追われている方がたくさんおられるのでしょうか。
 皆さんにとって、今年の一年はどんな一年であったでしょうか。そんなことも考えます。どんな思い出が蘇ってくるでしょうか。様々な出来事をふりかえったり、悲しみや喜びを思い出したりされている方もおられるかもしれません。また、健康をそこなったり、あるいは健康を回復したり、一喜一憂する思い出が蘇たりする人もいると想います。

  先週、クリスマスを祝った私たちですが、ヨセフとマリアは子供をもうけて、ひとつの家族がそこに誕生しました。今日、教会はその三人で構成される、共同体である「聖家族」をお祝いします。三人一組の天上の三位一体に対して、聖家族は地上の三位一体と呼ばれることがある、そんなことを思い出します。父と子と聖霊は天上の三位一体ですが、ヨセフとマリアと幼子イエスは、地上の三位一体である。そして、地上の三位一体を教会は「聖家族」としてお祝いしています。皆さんは三位一体の御絵をいろいろなところで見てきていると思いますが、この地上の三位一体の聖家族の絵もきっと思い出されると想います。芸術的な絵には、聖母子にアンナが加わることになったり、聖母子にヨセフが描かれる絵であったり、地上の三位一体については様々な芸術的な絵が残されているようです。

  さて、今日のみ言葉は天使のお告げを背景にして、ルカの福音が語られています。聖書では八日目に天使から示されたように「イエス」という名前が付けられた後からが、今日のみ言葉で語られています。古来のイスラエルの習慣では両親は産まれた幼子を有名な、立派な老祭司やラビに抱いてもらって、祝福を受けることが習慣だったようです。でも今日のルカの福音によるみ言葉では、ヨセフとマリアは旧約の律法に従って産まれた最初の子供を神殿に奉献する場面が語られています。律法では、出産後40日目に清めの生け贄を捧げることになっていました。聖別を受ける規定もありました。ヨセフとマリアは旧約の掟に忠実に従って、貧しさの中にあっても、山鳩ひとつがいか又は家鳩の雛二羽を捧げる犠牲を神殿で行ったということが語られています。まさに、山鳩ひとつがいか又は家鳩の雛二羽を捧げたとすれば、本当に聖家族も貧しい状況にあった、そのことを示しています。忠実に旧約の律法に従ったということは貧しさの中にあっても、信仰と模範を私たちにルカは示しているのだと思います。
 この貧しい聖家族。でも、神殿においては正しい人で信仰の熱い、聖霊が留まっていた敬虔な老人シメオンの祝福を受けることになりました。このシメオンの素晴らしい姿を聖書は示しています。また、断食と祈りを捧げ仕えていたアンナという女性から歓迎を受けました。シメオンとアンナという老人二人はともに、幼子によって救いを先取りする喜びを味わっています。これはまさに二人が、正しく敬虔な人であった、それだからこそこの救いに加わるあらゆる人たちの先駆けとなったのだと想います。     

 核家族化が進む現在ですが少子化のことも話題にしています。聖家族と現在の私たちの家族の在り方、少しいろいろと黙想ができるようです。私たちの教会の中でも感じるようになっていますが、家族でともに祈っている姿は見えているでしょうか。皆さんの家族の中で、家族が揃って祈りを捧げる習慣は続いているでしょうか。昔は、良く家族で祈った話しを耳にしていました。子供は親と一緒の長い祈りに飽きてしまって、親に叱られたと言う話しも良く聞きました。私も神学生時代のことを思い出しますが、親の代から信仰熱心な同級生が神学校に入って来ていましたので、家族で祈ったときのいろいろな思い出を聞いたことがありました。ある年代になるとロザリオの祈りの先唱も役割として行ったという話しも聞きました。今、そういった習慣を持っている家族はどこにあるかなと、考えてもしまいます。夫婦で祈ったり、家族で祈ったり、そういうことは少し少なくなったような気がいたします。

  先日、司祭の会議があり、その中でも話題となり話し合いました。家庭での祈り、私たち教会が少し力を入れていかなければならないのではとの話しも出て来ます。家庭で祈る小冊子を作成したらどうかと検討もしていますが、現実的には祈りの本はこれまでたくさん発行されています。改めて作る必要があるのかそういう話しも出て来ました。喜ぶ人もいるでしょうが、また祈りの本が増えたと思う人もいるでしょう。少し時間をかけて検討しましょうということになっています。司教様も教区100周年の中のメッセージの中で、家庭の祈りについても少し呼びかけられました。でも、具体的には教会の中では、それについて深めて話し合うことは持たないで今日に至ってると思います。まず、私たち一人ひとりが自分たちの信仰生活、祈りの生活をもう一度しっかりと見つめていかなければ、ただ音頭をとっただけでは、本当の祈りが動き出すわけではないと私自身は考えてしまいます。
  聖家族を黙想するとき、現代の家族の多様な変化の中で、様々な家庭の崩壊ということもどうしても考えざるを得ません。家庭の祈り、家族の祈りと家族の崩壊が何らかで繋がっているような気もいたします。皆さんはどのように考えるでしょうか。

  明日には新しい一年の日を迎える元旦がやってくるとは私には実感がわいてきませんが、新しい一年の信仰の歩みを黙想しながら、新年を迎えなければと思いました。今日、聖家族を迎えた老人シメオンの姿も私たちへの信仰の模範を示しているのではないでしょうか。この幼子、嬰児をイエスのうちに、このシメオンは受難を暗示したようにも思います。聖書の言葉では「反対を受けるしるし」という言葉が使われ、幼子イエスを見つめるシメオンです。イエスの将来を見据えながら、共に苦しむことの大切さを私たちに示されているとも思います。十字架をとおして、受難をとおして、私たち一人ひとりを救われるイエスキリストの未来を、シメオンは心の中で悟ってイエスと出会っていたのではないでしょうか。
 私たちにとって信仰を持っているといいながら、神の愛を生きているといいながら、喜びをともにし一致することは容易なことではありません。家庭の中でも試練があるはずです。失敗したり、苦しみが突然起こることも、ままあることだと思います。苦悩をともにしながら、手を取り合い生きていることは、家族にあっても決して容易なことではないと思います。それは私たち教会共同体人一人にとっても同じ事が言えます。ですから私たちの信仰の歩みはけっしてなおざりには出来ません。もっともっと主に信頼しながら、私たちが歩むべき愛を黙想してそれを実践する努力をしていかなければと思います。

  皆さんも悲しみの中で、驚きの中でニュースを受けとめていたと思いますが、つい先日、我が子を僅か二畳のプレハブ部屋に15年間、隔離、監禁して、一日に一食しか与えず凍死した女性の方の記事が賑わっていました。33歳の娘さんですが、僅か19㎏の体重しかありませんでしたと新聞では報道されています。33年間生きた人の体重が20㎏に満たないということをどのように想像できるでしょうか。まして一日一食。水は管から飲めるようにしてあったということですが、信じられない事件で今日の朝刊にも載っていました。でも、これは私たちの生きている現実にもあることだと、もっともっと考えなくてはならないと思います。

  神の子イエスとマリアとヨセフの幸せな家庭を私たちは想像します。神を中心にして結ばれた家族を黙想しながら、現代社会にあって一人ひとりの生き方、そしてあるべき姿を真剣に見つめなければと思います。親として、一人の人間としてどう歩まなければならないのか。私たちが持っている信仰はどういう形に変わっていかなければならないのか。変えようとしているのか。
  福音に示されたように神殿に奉献したことは、両親にとって子供は神のものであるという宣言でもあるのではないか。「子は鎹(かすがい)」という諺(ことわざ)もありますが、子離れの痛みをとおして、親の心も広げられ深められていくことが言われています。親として、一人の人間として私たち一人ひとりが更に真剣に立ち向かって、神の子に相応しい生き方に結ばれたいと願います。

 一年の最後の日、聖家族を黙想しながら、見つめながら、この一年の恵みに感謝いたしましょう。そして来るべき新しい一年の歩みには、一人ひとりの使命が全うすることが出来るように、心を合わせてこのミサで祈りたいと思います。』