明日の「主の洗礼」の祝日で降誕節は終わり年間の季節に移ります。
主との出会いを忘れずにこの一年を歩みましょう。
後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。
『「主の公現」の祝日を迎えています。
私は今、思い出に浸っています。かつてドイツの田舎町でクリスマスから「主の公現」の祝日のあたりまで冬休みを過ごしたことがありました。「主の公現」のミサが終わった後で、その教会の子ども達が数組のグループを作って、星を持った子供を先頭に3人の博士に扮した子供の4人一組で町に繰り出します。どんなことをするのか私にはさっぱりわかりませんでしたが、子ども達が教会へ戻ってきて初めてそれがわかりました。子ども達は各家庭を訪れて、貧しい人たちのために寄付を集めていたのです。その日教会に来られなかったり未信者の人も、子ども達の訪問を受けて、今日は「エピファニア(主の公現)」の祝日であると感づいたのではないでしょうか。日本ではこのような習慣は聞いたことはありませんが、私たち一人一人が主がこの世に現れた日、主が私たちの元に降りてきて下さったことを知らせるという使命を、このような行事を通してドイツでは大事にされてきたのだと思います。
主の降誕をお祝いした私たちは、クリスマスから降誕節という季節を迎えていましたが、明日の「主の洗礼」の祝日で降誕節は終わり、明後日からは年間の主日、緑の季節に入ります。クリスマスの喜びの気持ちも少しづつ遠くなります。主との出会いを忘れずにこの一年を歩まなければと思います。
聖書を読んでいると、ここ数日福音をとおして、もう既に年間の季節を表すような内容が入ってきていました。神の子羊と宣言したヨハネと出会い、またガリラヤの道で出会ったフィリッポにイエスは「私に従いなさい」という言葉をかけて、12人の弟子たちを選んでいくイエスの姿が福音の中で語られていました。
2000年前に生まれた幼子イエス・キリストを私たちは祝い続けていますが、そのイエスは私たちのためにもお生まれになった方だということを、私たちはどこまで心の中に留めているでしょうか。波乱のない静かな人生を送る人は少ないと思います。多くの人は人生の歩みの中でときには涙を流したり、苦労したり、絶望を味わうこともあるでしょう。でもそのような人の中に、幼子イエスは誕生します。そうした人々ともイエスは出会いをもたらします。そして私たちの中に生まれ、私たちの中で出会ったイエス・キリストは、私たちを立ち上がらせ慈しみの神の元へ、永遠の命の世界へと導く方であるということを忘れてはなりません。』