2019年1月27日日曜日

年間第3主日

今年はC年ということで、今日の主日からルカ福音書を中心に読まれていきます。
福音ではイエスのナザレにおけるはじめての説教の様子が語られました。

1月31日(木)は、当教会主任司祭 後藤神父様の霊名である「聖ヨハネ・ボスコ司祭」の記念日です。この日のミサの「派遣の祝福」前に、信徒一同から日頃からの感謝込めて、お祝いをお贈りしました。


「皆さんに感謝いたします。今後もよろしくお願いします。」


後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の福音は、「ルカ福音書」の第1章一節から朗読されました。そこでは、聖書の書かれた理由が「イエスを中心にした活動、福音宣教の一部始終を伝える」ことであり、「その教えが事実にもとずくものである」ことを伝えたいがために書かれたことを宣言しています。
昨年11月に「パウロ」という映画が上映されご覧になった方もおられると思います。映画は、パウロとパウロの信仰を記録し伝えようとするルカが主人公でした。そのルカという人は、ギリシャ語のよく理解できた高い教養のある人であったと言われ、医者であったとも伝えられ、映画でも医者としてのルカの姿が描かれていました。当時のキリスト者から見ると、異教徒であったルカはパウロと出会い改宗者として信仰を得て、パウロの弟子として一緒にマケドニア、ギリシャ、小アジアを宣教しています。
ですから、キリスト教共同体のこともよく知るようになり、イエスの行い、教えを周りの人から聞かされてよく知っていたので、ルカ福音書はイエスの活動のエピソードが一番多く記録されていると言われています。
ルカによると、イエスの宣教の開始は、ガリラヤから始まったとなっています。 今日の聖書のみことばにもあるように「イエスが“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」と記されています。
そして、イエスは度々会堂で話されたようです。聖書を開いて聖書を語り、またその聖書の話の内容を深く人々に理解されるように話されます。
わたしたちにとって信仰生活の中心ともなる日曜日(主日)が大切なように、当時のイスラエルの民には律法で示されているように神の民としての義務でもある安息日はとても大切にされていました。安息日には会堂で、みことばを聞き、祈る一日でした。

ガリラヤはエルサレムから 65 kmほど離れた小さな自然に恵まれた田舎町。
ガリラヤ地方とは一体どのくらいの広さなのかと想像しながら地図を広げて見てみました。札幌を中心にすると小樽~岩見沢。千歳や倶知安を含む一帯になるのでしょうか? イエスは弟子たちを連れて会堂を巡りながら福音宣教をしていた、そんなイメージが浮かんでくるような気がします。
イエスの住む町ナザレもそのガリラヤ地方にあり、先週、出てきたカナの婚宴が行われた町は隣町でした。ルカが記すように、イエスの歩むべき道は、父なる神について語り、神の国を伝え、そのみこころを人々に告げ知らせることでした。

エルサレムに比べて人口も少ない、ガリラヤの町々から宣教活動を始め、霊に満たされたイエスですが、そこは素朴に信仰を受け入れる地域でもありました。イエスの宣教活動は、人間的な力に頼るのではなく「霊の力」に頼りながらはじまりました。この時、イエスは貧しい大工ではなく、洗礼を受けて聖霊に満たされたメシアであり、預言者でもありました。

ユダヤ教の礼拝、宗教教育の場所でもある会堂、シナゴグはイエスの教えの場としても福音書にしばしば登場します。救い主であるイエス・キリストは、聖霊の力によって安息日の会堂に集まるイスラエルの民の前に立ち、貧しく、苦しみにある人たちに向かって「神は決して見捨てることがない」 と福音を宣べ伝えました。
そこでは、まず最初に申命記(第二法の書)6,4 や民数記15 章に書かれている信仰宣言を唱えることから始まります。
当時の信仰宣言は 「イスラエルよ、聞け! 主はわれわれの神、主は唯一のものである。あなたの神である主をこころをつくし、魂をつくし、全力を尽くして愛せよ。わたしが今日命じることばがいつまでも、こころにあるように。それらをあなたの子らに教えこみ、家にいるときも、道を歩むときも、横たわっているときも、立っているときも、それらを語り伝えよ。...あなたのかまちと門とに書き記せ。」
今も熱心なユダヤ人は正しい道からそれることがないように、教えを心に留めるために朝晩の祈りとして唱え続けているそうです。

信仰宣言のあと、預言者イザヤの書が読まれましたが、「主の霊がわたしの上におられる。主がわたしに油を注がれたのである。そして、主が解放を告げるために、わたしをお遣わしになった。」と読みあげてから、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にした時実現した」と宣言されたのです。
人は、社会から見捨てられたり、抑圧されてはなりません。 神から大切にされ、かけがえのない者として愛されていると言うことこそイエスの福音なのです。

わたしたちは、神が与えてくださっている「恵みの時」を見失ってはいないでしょうか? 
イエスは神の恵みが、今、ここにあるというのです。イエスは未来への希望としてではなく、今、神の恵みがここにあるというのです。
イエスのことばを心を開いて受け入れることができるように、わたしたちの信仰宣言が心から信頼に満ちた宣言となり、心からの祈りとなって歩むことが出来ますように。』

2019年1月21日月曜日

年間第2主日 「カナの婚礼」

この日の福音朗読では、イエスがはじめて人々の前で行った”しるし”、「カナの婚礼」の出来事が朗読されました。
また、第2朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙(12・4-11)」では、聖霊のはたらきによって、一人一人に与えられるタレントは、よりよい共同体づくりに活かされるためと、パウロが語りかけています。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『先週は「主の洗礼」を記念する日曜日でした。今日のヨハネによる福音によると、イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた翌日に、シモン・ペトロとその兄弟アンデレに出会っています。そして二人はイエスに従う者となりました。さらにその翌日は、ベトサイダという郷里が同じであったフィリポとナタナエルに出会いっています。彼らも従う者となって、イエスは弟子たちと共に福音を伝える旅に出て行きます。

 今日の福音の始りは「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」…聖書で読んでみると「三日目」にという言葉になっています。ですから、三日目にガリラヤのカナで婚礼があったという出だしになります。
 この「三日目」ということばを取り上げてみたいと思います。三日目に、招かれた婚宴の席で奇跡が起こります。奇跡は神の栄光を人々に示すために行われると良く言われます。カナの婚礼で行った奇跡は、イエスが最初に行った奇跡のひとつと言われます。イエスはこの最初の奇跡でどんな神の栄光を表そうとしていたのでしょうか。私は「三日目」ということばに繋がっているしるしがあったのではと推測します。みなさんは「三日目」とうことばから、何を考えるでしょうか。
 神の子イエスは「わたしたちの罪のために死んでくださり、三日目に復活した。」と聖書に書かれています。わたしは「三日目」と聞くとイエスの「復活」を第一に想い出します。十字架上で死なれたイエスを見たとき、弟子たちはどんな思いだったでしょうか。悲しみのどん底に突き落とされたような苦しみを味わった弟子たちがそこにいました。三日後のイエスの復活に出会ったとき、弟子たちは驚きとともに言葉も出ない不思議な体験をします。弟子たちは驚きとともに喜びも味わうことになりました。その喜びは三日目の「婚礼」の宴にも繋がっているような気がします。婚礼の宴は天国の宴も表しているかのようにも思えます。単なる喜びだけでない弟子たちの目にはっきりと神の栄光を現すことで、その信仰を固く保つことでもあったようです。そのことは、今日の福音の最後のことばでもはっきりと述べています。「この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」と。
  この後、弟子たちがイエスに従い、一致して神の国を証しする旅に出ます。イエスは婚宴の喜び以上に、神の栄光を見た弟子たちが信じるようになる。神の国のために喜びを持って働くことを望まれていたと思います。

 婚宴では欠かせない「ブドウ酒」についても、一つの考察ができます。奇跡により、水がブドウ酒に変わったというそのブドウ酒ですが、普段味わうことの出来ない格別な味だとも言われています。旧約のメシアの時代には、ブドウ酒は特別な意味をもって振る舞われたという聖書の箇所もあります。神が救われた人々に与える最高の宝、そのシンボルとして考えられていました。ですから、カナの婚礼において宴に招待された人々が受ける神の恵みと喜びが、いかに大きなものであったかを考えることが出来るのではないでしょうか。

 今日の 福音のなかで、私は特別にひとつの言葉、イエスが母マリアに言われたことばが気になります。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と、こんな言葉があります。母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけ、さらに「どんなかかわりがあるのか」。あまりにも冷たい言葉のようにも感じられるのです。もちろん「わたしの時はまだ来ていません」という言葉をよくよくかみしめるのならば、イエスの言わんとしていることが分かるのですが、「わたしにどんなかかわりがあるのか」という言葉が先にしていることを私には気になる言葉になります。婚宴の席で言われたイエスのことば、母マリアがイエスに対して言われた言葉。よくよく味わっていかなければなりません。
 婚宴の席で「ぶどう酒がありません」とイエスに言われるマリアがいます。イエスであれば何とかしてくれる。イエスに対するマリアの信頼もこの言葉に良く見えてきます。世話役に言うのではなく、イエスに言っている母親の立場も不思議に感じます。イエスなら何とかしてくれるという深い信頼が感じられます。ゆるぎない信頼を持つマリアの姿がここにあります。マリア自身、時が満たなければ、時が満ちてこなければ、神の計画はいつもすぐには成就しないということも、自分の経験をとおしてマリアは知っています。時が来るのを待ちながら「何でもこの人の言うとおりにしてください」とマリアは伝えています。わたしたちもこのマリアの信頼、信仰の姿を模範としたいものです。

 「どんなかかわりがあるのですか」。ひとつの言葉を思い巡らしているときに、24年前の1月17日に発生した阪神淡路大震災のことを考えました。10万以上の住宅が全壊し、6,434名の命が失われた大きな自然災害を体験しました。今年の追悼の集会で、「つなぐ」ということばをテーマに行われたという記事を見ています。「つなぐ」、「きずな」という言葉が、わたしたちの精神生活を豊かにするために、日常生活の安心・希望を支えるためにどんなに大切であるかを考えさせられます。「わたしとどんなかかわりがあるのですか」という言葉から、あらためて人との関わりが、いかに脆いものであるかも気づかされます。

 私たちの教会でも献堂100年の記念をした時に「次の世代につなぐ」という言葉、「つなぐ」という言葉を表題に掲げましたが、「つなぐ」「きずな」という言葉をもう一度想い出し、大切にしたいものです。
 人という文字はふたつの線で支え合う形で文字になっています。支えることによって「人」が成立する。そういう説明が良くされています。
 互いに支え合いながら、私たちの歩みをこの一年を本当にともに歩んでいきたいと改めて思い起こします。』

2019年1月13日日曜日

1月13日(日)主の洗礼

ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始まりでした。



当教会では、今回成人式を迎える若者が2名おられます。
今日教会に来られていたその中の一人に、「派遣の祝福」の前、教会からプレゼントが贈られました。新成人を祝して皆で「アーメン・ハレルヤ」を唄いました。
新成人おめでとうございます!


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日、ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、気の遠くなるような遙かな時間、長い時の流れの中でイスラエルの信仰の民にとって、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始りでした。
救い主を待ち続けていた当時の人々の関心がいかに強かったかをルカの福音で告げています。ヨハネの前にも後にもメシアと主張する人物が政治的地位を持とうとしたり、武器を手に取ったりする人物が多く現れていたそうです。民衆の最後の期待は、政治に介入することなく、また、武器を手にすることのない貧しい男、「心を入れかえ、悔い改めよ」と荒野で叫んでいたヨハネとナザレで成長を遂げヨハネから洗礼を受けるイエスに注目することになります。ヨハネのメッセージは「神の国」への準備として、心づもりのある人には、迷った道を引き返し、正しい道に入れという意味があったそうです。

聖書では、母親同志の出会いをとおして胎内の子が踊ったこと、ベトレヘムの馬小屋での誕生、エルサレムの旅で12歳の少年イエスが語られた以外、ヨハネについてもイエスについても影に隠されたような30年が過ぎていましたが、ヨハネに続いてイエスもまた公にその姿をあらわしたのです。ヨハネは修行者のような生活をし、荒野で厳しい孤独な生活を送りながら「道を開く」先駆者として紹介されその使命も明らかにされます。
聖書は「荒野でザカリアの子ヨハネに神のみことばが降った」と記してヨルダン川地方一帯の人々に「罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」として、道を準備するヨハネの使命が語られました。
当時の人々はさておき、わたしたちは神の子であり、救い主イエスが罪の許しを得るため、悔い改めの洗礼を受けるとは一体どういうことかと考えてしまいますが、ルカの福音は洗礼後のイエスを重要視して展開していきます。神の子でありながら、人間と同じ者になって洗礼のすぐ後でも祈るイエスの姿は、何よりもわたしたちの目をひきつけています。これまでもマリアやヨゼフの両親に倣い、一人、真剣に祈るイエスがいたのだと思います。イエス自身、どんな覚悟、思いを持って洗礼を受けられたのでしょうか? ゲッセマネのイエスの祈りの時、血の涙を流したとあるように、自分が人間であり、弱い、限界のある自分自身であることを受け入れ、その覚悟・決心を持って父なる神にご自身のすべてを捧げる決意をもったでしょう。 それは御父への愛であり、御父からの愛でもあったはずです。

今日のみことばを黙想するとき・・・、洗礼の場面での祈りは、種々の活動の出発点となっているとも考えることができますが、わたしたちにとっても洗礼や堅信の秘跡を初めて受けた時と同じなのではないでしょうか?
主の洗礼を祝う今日、わたしたちはもう一度、一人一人の洗礼を振り返りつつ黙想して、新しい歩みを始められるように祈りましょう。

そして、イエスの洗礼を黙想する時、洗礼は御父からのいつくしみと愛を受けとる瞬間であり、それを人々に伝える使命の出発でもありました。
イエスが洗礼を受け祈っていると天からの声が聞こえたように、その原点に「祈り」があったのです。
わたしたちは、すでに神の救いの恵みである洗礼を受けて信仰を歩んでいますが、わたしたちも、日々の生活に信仰があり、信仰の中心に祈りが大切にされるこの一年となるようにしたいものです。

新しい一年がスタートしたばかりですが、改めて、洗礼を思い起こし、聖霊の恵みとともに、祈ることをイエス自身から学びましょう。
イエス自身、洗礼から出発してすべての人々を神に出会わせる道を歩み出されたように、祈りをもって、わたしたちの道にも宣教への実り、恵みが注がれるよう切に願いたいと思います。』



2019年1月6日日曜日

1月6日(日)主の公現

 この祭日は、神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。

この日のミサは、後藤神父様と簑島助祭の共同司式により行われました。


簑島助祭は今のところ、3月21日に司祭叙階式を迎えることになりそうだということです。この日のミサ後すぐに、神学校へ戻るために空港へと向かわれるそうで、次にお目にかかるのは叙階式の直前になります。
「派遣の祝福」の前に、簑島助祭からご挨拶があり、6年間の神学校生活を感慨深く振り返っておられました。


叙階式を迎えるまでの間の最後の神学校生活が、どうか充実した日々でありますように。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『新聞テレビでは、何をするにも「平成最後・・・」のということばが繰り返されていましたが、この新しい一年が神のみ旨に適う歩みが出来るように、互いに祈りあい、支え合ってゆくことが出来るようにと、今日もまた皆さんとともに祈りたいと思います。
 新しい一年の日々に困難がないように願いたいところですが、年を重ねてくると考えも少し変わってくるような気がします。困難があっても、神への信頼を欠くことなく、希望を失わずに明るく乗り越える事が出来ますようにと考えるばかりのような気もします。
 このことを考える一つは、元旦に、私たち共同体の家族、アンナ水野るりさんが84歳で亡くなられました。家族の方のお話を聞くと、退院するのを楽しみに待っていたということでしたが、神のもとへと帰りました。神の秘められた計画の中で生きている限り、幸せと悲しみ、困難がこの世の中で繰り返されるような気がします。日々の生活の中で信仰、希望、愛がわたしたちの心から離れないようにとみなさんのために、そして、自分のために祈りたいと思います。

 さて、クリスマスを迎えるまでの「待降節」から典礼暦は、来週まで短い期間ですが「降誕節」に入っていて、今日は「主の公現」の祝日です。みなさんの聴いた福音の言葉は、毎年変わることなくマタイの福音が朗読されています。
 新年を迎えたわたしたちに、博士たちの姿をとおして「信仰、希望、愛」を求める心の姿勢が重なるようです。純朴な心をもっていた羊飼いたちの前に天使が現れ、ベトレヘムの幼な子のもとへと導いたように、異境の地にあって真理を求める博士たちは、不思議な星に導かれて幼な子のもとへと導かれたのです。博士たちとは、羊飼いたちのように素朴で、素直な人…、神を探し求め、神のみ旨を求めている善意あふれるすべての人を代表しているかのようです。
 マタイの聖書が書かれたのは紀元81年頃といわれます。当時の社会では、夜空に輝く星は神秘的であり、不思議な世界でした。占星術も盛んであり、東方の博士たちと書かれていますが、マタイ福音では博士たちの名前も人数も書かれていません。星を神の計画、神のみ旨のしるしとみなしてその解釈につとめていたのが占星術師であり、天文学者であったろうと考えられています。星は当時の社会では天使的、霊的存在でした。星は、羊飼いたちをキリストに導く天使と同じような意味合いを持って博士たちに現れ、導かれたと当時の人々は考えたことでしょう。

 キリストはすべての人の救い主でありますが、とくに善意ある人々、キリストを探し求め、真理を待ち望む人々の救い主でもあったのです。その限りにおいては、私たち一人ひとりも、救い主を知らない人々をキリストに導く、星の役割を持たなければなりません。
 「主の公現」の祭日。救い主が世に公けにされたことを記念する祭日ですが、聖書では危険を顧みず、遠路はるばる訪ね来て礼拝する博士たちの熱意に対し、ヘロデや律法学者たちのかたくなな心が比較されています。メシアを一番知っていたつもりの人たちが、メシアから最も遠い人だったというメッセージも語られているような気がします。わたしたちはこのメッセージをどのように受け止めているでしょうか。

 博士たちの姿を崇敬し、憧れる人々の思いは、後のキリスト教伝承を広げてゆきました。聖書では記されていない博士たちの名前もカスパー、バルタザル、メルキオルと異邦人の世界の代表者と理解されるようになったのです。こうして、博士たちの訪問がキリストがすべての民の救い主であること、さらに、キリストが人類待望の救い主であることを示した、そのことを祝う主の公現の日でもあるのです。
 今日の第二朗読の、使徒パウロのエフェソの教会への手紙の最後の言葉も私たちに大切なものとなっています。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(3:6) 私たちの使命もパウロの言葉によって示されているかもしれません。

 私たちは真剣に救い主を捜し求めて訪問した博士たちの素朴で謙遜な姿を黙想しながら、すべての人をキリストへと導く使命・役割をさらに考えながら、この一年の歩みに結んでいきたいと思います。』

2019年1月3日木曜日

1月1日(火)神の母聖マリア「世界平和の日」

明けましておめどうございます。
新しい年が神の恵みに満ちた一年でありますようお祈りします。

この日のミサは勝谷司教の主司式によるミサでした。
後藤神父様、簑島助祭も共同司式されました。


司教様はお説教の中で、「世界平和の日」教皇メッセージ(2019.1.1)の内容を中心にお話されました。

司教様のお説教の大要をご紹介します。


『今日、1月1日は「世界平和の日」となります。毎年この日のために教皇様はメッセージをくださります。そのメッセージは聖堂の入り口に置いてあります。少し長いメッセージなので皆さんそれぞれ家に帰ってから読んでいただきたいと思います。

今回のメッセージの大きなテーマとして教皇様は「政治家」について述べられています。教会で政治的な話をするのは長い間無視されてきた傾向が続いていますが、私自身といえば「日本カトリック正義と平和協議会」の会長という立場もあり、そのような問題に対して教会がどのような態度で取り組んでいくかということを議論しています。ですから皆さんにお伝えしたいこともたくさんあるのですが、非常に難しさを感じています。いわゆる政治的な話をするときに、どうもイデオロギー的な話へと誤解されてしまいがちであるからです。しかし、今でもカトリック教会が政治的な発言をすることは、福音の精神に乗っ取って、「今、行われていることが本当に”共通善”、つまり全ての人の善のためになっているのかどうか」それが損なわれていたり、あるいは損なわれる危険性がある時に、それに対して警告を発することは、重大な教会の務めであると考えているからです。
今日の教皇様のメッセージで、「政治は市民権と人間活動を築くうえでの基本的な手段ですが、それを司る人々が、人間社会に奉仕するのでなければ、抑圧、疎外、さらには破壊の道具にすらなってしまいます。」そして、残念ながら、今世界の情勢を眺めるならば、対立や人と人との間に壁を作るような動きが非常に顕著になってきており、憂える状況になってきていることは皆さんもご承知のとおりだと思います。
また別なところではこのように書かれています。「政治の役割と責任とは、絶え間ない挑戦です。人間のいのちと自由、尊厳に対する根本的な敬意のもとに行われるとき、政治は愛のわざの卓越したかたちとなるにちがいありません。」政治が”愛のわざ”なのだということはあまり聞いたことのない表現ですが、しかし本当に人間の命と自由、尊厳に関することに直接影響を及ぼすのが政治ですから、その根本的な姿勢の中に人間に対する敬意や愛がなければならないという主張です。
それを受けて「「すべてのキリスト者は、その呼ばれている役割と、社会体制(ポリス)の中での影響力の度合いに応じて、この愛を実践するよう召されています。」と書かれています。

私たちはこの世に生きている限り政治とは無関係でいられません。世界の問題に目を向けると「一体私には何が出来るのか?」というような無力感を感じてしまいますが、しかし身近な問題として日本の社会を生きるとき、私たちの身の回りにはどのような政治的な問題があるのか、それらを政治的な問題だからといって一切口をつぐんで、あるいは目を閉じて見ようともせず、耳を塞いで聞こうともしないならば、それは私たちの務めを放棄していると言わざると得ないのです。
今日本の教会が取り組んできた社会問題はたくさんあります。「移住労働者」の問題。差別の問題。司教団が取り組んでいる脱原発について。死刑廃止。沖縄問題など。

今、教皇様がその中で伝えていることは、特に、平和を作り出すために、恐怖や不信感が支配するこのグローバル化された世界に根強くあるこの閉鎖的なナショナリズム的な姿勢が世界を覆おうとしていますが、それに抗っていくことが大切であると言われています。かつての2度の大戦が残してくれた教訓は、力と恐怖の均衡だけの問題として平和を捉えてはならないということ。しかし今、軍事力の均衡によって平和が保たれるのだという思想が、唱えられ始めている中で、私たちは本当にそれが正しいのかどうか、自分の目と耳で確かめ、その中で自分が何をすべきかを判断することが大切なことと強く勧めておられます。
最後に、平和の元后であるマリア様の歌ったマニフィカトは、まさに平和を作り出す私たちが参考にすべき賛歌です。 マリア様の取り成しを願って私たちのささやかな取り組みが日本や社会を変えていくものになるように強く願ってミサを進めたいと思います。』