2019年1月13日日曜日

1月13日(日)主の洗礼

ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始まりでした。



当教会では、今回成人式を迎える若者が2名おられます。
今日教会に来られていたその中の一人に、「派遣の祝福」の前、教会からプレゼントが贈られました。新成人を祝して皆で「アーメン・ハレルヤ」を唄いました。
新成人おめでとうございます!


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日、ルカの福音で告げられているイエスの洗礼の出来事は、気の遠くなるような遙かな時間、長い時の流れの中でイスラエルの信仰の民にとって、当時のユダヤの民が待ち望んでいた救い主の訪れの始りでした。
救い主を待ち続けていた当時の人々の関心がいかに強かったかをルカの福音で告げています。ヨハネの前にも後にもメシアと主張する人物が政治的地位を持とうとしたり、武器を手に取ったりする人物が多く現れていたそうです。民衆の最後の期待は、政治に介入することなく、また、武器を手にすることのない貧しい男、「心を入れかえ、悔い改めよ」と荒野で叫んでいたヨハネとナザレで成長を遂げヨハネから洗礼を受けるイエスに注目することになります。ヨハネのメッセージは「神の国」への準備として、心づもりのある人には、迷った道を引き返し、正しい道に入れという意味があったそうです。

聖書では、母親同志の出会いをとおして胎内の子が踊ったこと、ベトレヘムの馬小屋での誕生、エルサレムの旅で12歳の少年イエスが語られた以外、ヨハネについてもイエスについても影に隠されたような30年が過ぎていましたが、ヨハネに続いてイエスもまた公にその姿をあらわしたのです。ヨハネは修行者のような生活をし、荒野で厳しい孤独な生活を送りながら「道を開く」先駆者として紹介されその使命も明らかにされます。
聖書は「荒野でザカリアの子ヨハネに神のみことばが降った」と記してヨルダン川地方一帯の人々に「罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」として、道を準備するヨハネの使命が語られました。
当時の人々はさておき、わたしたちは神の子であり、救い主イエスが罪の許しを得るため、悔い改めの洗礼を受けるとは一体どういうことかと考えてしまいますが、ルカの福音は洗礼後のイエスを重要視して展開していきます。神の子でありながら、人間と同じ者になって洗礼のすぐ後でも祈るイエスの姿は、何よりもわたしたちの目をひきつけています。これまでもマリアやヨゼフの両親に倣い、一人、真剣に祈るイエスがいたのだと思います。イエス自身、どんな覚悟、思いを持って洗礼を受けられたのでしょうか? ゲッセマネのイエスの祈りの時、血の涙を流したとあるように、自分が人間であり、弱い、限界のある自分自身であることを受け入れ、その覚悟・決心を持って父なる神にご自身のすべてを捧げる決意をもったでしょう。 それは御父への愛であり、御父からの愛でもあったはずです。

今日のみことばを黙想するとき・・・、洗礼の場面での祈りは、種々の活動の出発点となっているとも考えることができますが、わたしたちにとっても洗礼や堅信の秘跡を初めて受けた時と同じなのではないでしょうか?
主の洗礼を祝う今日、わたしたちはもう一度、一人一人の洗礼を振り返りつつ黙想して、新しい歩みを始められるように祈りましょう。

そして、イエスの洗礼を黙想する時、洗礼は御父からのいつくしみと愛を受けとる瞬間であり、それを人々に伝える使命の出発でもありました。
イエスが洗礼を受け祈っていると天からの声が聞こえたように、その原点に「祈り」があったのです。
わたしたちは、すでに神の救いの恵みである洗礼を受けて信仰を歩んでいますが、わたしたちも、日々の生活に信仰があり、信仰の中心に祈りが大切にされるこの一年となるようにしたいものです。

新しい一年がスタートしたばかりですが、改めて、洗礼を思い起こし、聖霊の恵みとともに、祈ることをイエス自身から学びましょう。
イエス自身、洗礼から出発してすべての人々を神に出会わせる道を歩み出されたように、祈りをもって、わたしたちの道にも宣教への実り、恵みが注がれるよう切に願いたいと思います。』