この日の福音朗読では、イエスがはじめて人々の前で行った”しるし”、「カナの婚礼」の出来事が朗読されました。
また、第2朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙(12・4-11)」では、聖霊のはたらきによって、一人一人に与えられるタレントは、よりよい共同体づくりに活かされるためと、パウロが語りかけています。
この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『先週は「主の洗礼」を記念する日曜日でした。今日のヨハネによる福音によると、イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた翌日に、シモン・ペトロとその兄弟アンデレに出会っています。そして二人はイエスに従う者となりました。さらにその翌日は、ベトサイダという郷里が同じであったフィリポとナタナエルに出会いっています。彼らも従う者となって、イエスは弟子たちと共に福音を伝える旅に出て行きます。
今日の福音の始りは「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」…聖書で読んでみると「三日目」にという言葉になっています。ですから、三日目にガリラヤのカナで婚礼があったという出だしになります。
この「三日目」ということばを取り上げてみたいと思います。三日目に、招かれた婚宴の席で奇跡が起こります。奇跡は神の栄光を人々に示すために行われると良く言われます。カナの婚礼で行った奇跡は、イエスが最初に行った奇跡のひとつと言われます。イエスはこの最初の奇跡でどんな神の栄光を表そうとしていたのでしょうか。私は「三日目」ということばに繋がっているしるしがあったのではと推測します。みなさんは「三日目」とうことばから、何を考えるでしょうか。
神の子イエスは「わたしたちの罪のために死んでくださり、三日目に復活した。」と聖書に書かれています。わたしは「三日目」と聞くとイエスの「復活」を第一に想い出します。十字架上で死なれたイエスを見たとき、弟子たちはどんな思いだったでしょうか。悲しみのどん底に突き落とされたような苦しみを味わった弟子たちがそこにいました。三日後のイエスの復活に出会ったとき、弟子たちは驚きとともに言葉も出ない不思議な体験をします。弟子たちは驚きとともに喜びも味わうことになりました。その喜びは三日目の「婚礼」の宴にも繋がっているような気がします。婚礼の宴は天国の宴も表しているかのようにも思えます。単なる喜びだけでない弟子たちの目にはっきりと神の栄光を現すことで、その信仰を固く保つことでもあったようです。そのことは、今日の福音の最後のことばでもはっきりと述べています。「この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」と。
この後、弟子たちがイエスに従い、一致して神の国を証しする旅に出ます。イエスは婚宴の喜び以上に、神の栄光を見た弟子たちが信じるようになる。神の国のために喜びを持って働くことを望まれていたと思います。
婚宴では欠かせない「ブドウ酒」についても、一つの考察ができます。奇跡により、水がブドウ酒に変わったというそのブドウ酒ですが、普段味わうことの出来ない格別な味だとも言われています。旧約のメシアの時代には、ブドウ酒は特別な意味をもって振る舞われたという聖書の箇所もあります。神が救われた人々に与える最高の宝、そのシンボルとして考えられていました。ですから、カナの婚礼において宴に招待された人々が受ける神の恵みと喜びが、いかに大きなものであったかを考えることが出来るのではないでしょうか。
今日の 福音のなかで、私は特別にひとつの言葉、イエスが母マリアに言われたことばが気になります。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と、こんな言葉があります。母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけ、さらに「どんなかかわりがあるのか」。あまりにも冷たい言葉のようにも感じられるのです。もちろん「わたしの時はまだ来ていません」という言葉をよくよくかみしめるのならば、イエスの言わんとしていることが分かるのですが、「わたしにどんなかかわりがあるのか」という言葉が先にしていることを私には気になる言葉になります。婚宴の席で言われたイエスのことば、母マリアがイエスに対して言われた言葉。よくよく味わっていかなければなりません。
婚宴の席で「ぶどう酒がありません」とイエスに言われるマリアがいます。イエスであれば何とかしてくれる。イエスに対するマリアの信頼もこの言葉に良く見えてきます。世話役に言うのではなく、イエスに言っている母親の立場も不思議に感じます。イエスなら何とかしてくれるという深い信頼が感じられます。ゆるぎない信頼を持つマリアの姿がここにあります。マリア自身、時が満たなければ、時が満ちてこなければ、神の計画はいつもすぐには成就しないということも、自分の経験をとおしてマリアは知っています。時が来るのを待ちながら「何でもこの人の言うとおりにしてください」とマリアは伝えています。わたしたちもこのマリアの信頼、信仰の姿を模範としたいものです。
「どんなかかわりがあるのですか」。ひとつの言葉を思い巡らしているときに、24年前の1月17日に発生した阪神淡路大震災のことを考えました。10万以上の住宅が全壊し、6,434名の命が失われた大きな自然災害を体験しました。今年の追悼の集会で、「つなぐ」ということばをテーマに行われたという記事を見ています。「つなぐ」、「きずな」という言葉が、わたしたちの精神生活を豊かにするために、日常生活の安心・希望を支えるためにどんなに大切であるかを考えさせられます。「わたしとどんなかかわりがあるのですか」という言葉から、あらためて人との関わりが、いかに脆いものであるかも気づかされます。
私たちの教会でも献堂100年の記念をした時に「次の世代につなぐ」という言葉、「つなぐ」という言葉を表題に掲げましたが、「つなぐ」「きずな」という言葉をもう一度想い出し、大切にしたいものです。
人という文字はふたつの線で支え合う形で文字になっています。支えることによって「人」が成立する。そういう説明が良くされています。
互いに支え合いながら、私たちの歩みをこの一年を本当にともに歩んでいきたいと改めて思い起こします。』