2022年12月24日土曜日

12月25日 主の降誕

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 主の降誕(日中) A年 2022年12月25日 ウルバン神父


“飼い葉桶に寝かせた”


静かな暗い夜でした。冷たい風が吹いている。ほら、野原で何か動いているのではないか。旅する人の姿が見えてきた。ロバも、手綱を持って歩いている人もすごく疲れているようです。ロバの上に冷たい風に震えている若い女の人が座って、自分の服を固く体に巻いている。お腹の中の子を温めようとしているのではなか。男が振り向いて、“ミリジャム、あと少しだよ。見て、ベツレヘムの光が見えてきたよ。もう直ぐ暖かい所で休めるんだよ”と。長い、長い旅でした。ロバもチョコチョコ進み、男の人も疲れて、足を引きずりながら、一歩、また一歩進んでいた。だんだんベツレヘムの家の影が見えてきました。“ミリジャム、大丈夫ですか。着いたんだよ。今は安心だよ”。“はぁぁぁ”と深いため息が聞こえた。

“彼は自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった”との悲しい体験は、まだ二人を待っていた。安心して、期待する心を持って、ヨセフは最初のドアをノックした。“旅人です。泊めていただけないでしょうか”。断られました。次の門、また次の門をたたいたが、どこも受け入れてくれなかった。“もう夜中だ”と怒った人もいて、“迷惑をかけるな”と叫んだ人、“混んでいるよ、もう場所がない”と、優しく断った人、マリアの状態を見て、急いで門を閉じた人もいた。

二人の悲しみと失望を心の中で感じるでしょうか。私たちがよく元気な声で歌うのは、“門よ、開け、永遠の王が入る”だが、今夜はどこの門も開かれなかった。二人は自分の町の人に無視され、捨てられて、暗い夜に立っていた。ホームレスの孤独を体験した事があるでしょうか。二人は夜の深い沈黙に包まれ、互いを悲しそうに見つめあった。どうすれば良いかもう分からなかった。“ほら、ベツレヘムの近くに洞窟があるんだ”と、ヨゼフが気づいた。その暗い洞窟に入ったら、貧しい暮らしに慣れた二人は安心した。生まれた子を抱いた時、すべての不安と苦労を忘れていた。幸せな夜となった。この偉大な子の最初の王座、最初の寝どころはどこにあるのか。“マリアは子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた”、“私はあなたたちに大きな喜びを告げよう”と、知らされた羊飼いたちは走って来て、喜びの涙のうちに赤ちゃんを抱いて親しんだ。軽蔑されている僕たちも神様に愛されている事を喜んだ。羊たちも近付いて鼻をつけた。豚小屋ではなくてよかった。私達も覗き、子を腕に抱きたいでしょ。心から望めば、この夜には会える。

今夜、イエスはあらゆる道を歩いて宿屋をさがしている。誰か自分の家を開けてくれるでしょうか。あなたの門の前をも必ず通るでしょう。ホームレスになってはいかん。ただ遠くから祈って、クリスマスに参加するのは足りない。主はあなたの心の叫びを待っている。“イエスよ、私の所に来て。私の心はボロボロですが、それでも来てね。あなた無しにもう生きられない。共にいてください。あなたを待っている”。その時、この夜は聖なる夜になる。あなたの中、あなたの家にイエスが生まれてくる。



【聖書朗読箇所】


永遠の父よ、

あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、

さらに優れたものにしてくださいました。

神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。

主キリストは、聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、

生きて、治めておられます、世々とこしえに。アーメン

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ52章7-10節)


いかに美しいことか

山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

救いを告げ

あなたの神は王となられた、と

シオンに向かって呼ばわる。

その声に、あなたの見張りは声をあげ

皆共に、喜び歌う。

彼らは目の当たりに見る

主がシオンに帰られるのを。

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。

主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

主は聖なる御腕の力を

国々の民の目にあらわにされた。

地の果てまで、すべての人が

わたしたちの神の救いを仰ぐ。



第2朗読 ヘブライ人への手紙(ヘブライ1章1-6節)


神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

いったい神は、かつて天使のだれに、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。 (むしろ)、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。 



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ1章1-18節)


初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


2022年12月17日土曜日

12月18日 待降節第4主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

※ 湯澤神父様は、ご病気の療養のため聖アントニオ修道院(東京・瀬田)に異動されました。長い間、福音メッセージをいただき大変有難うございました。ご自愛ください。




【福音メッセージ】 待降節第4主日 A年 2022年12月18日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  昨日から降誕祭前の8日間に入りました。今日の福音は、待降節の第四の主日ですが、同時にこの8日間の第二日目に当たります。共観福音書では、二つのお告げのお話を伝えています。一つは有名な、ルカ福音書に出てくるマリア様へのお告げのお話しです。そしてもう一つが今日の福音書にあるマタイ福音書が残したヨゼフ様へのお告げのお話です。マタイは、イエス様の誕生の謂れ(次第)の二つ目として、これを書いています。

  どういうルートかわかりませんが、ヨゼフ様はマリア様と同居する前に、マリア様の身ごもりを知ります。彼は、律法に誠実な正しい人だったので、表ざたにしないように、密かに分かれることを決心しました。すると天使が現れて、お告げを授けます。ヨゼフ様はこれを受け入れました。この時、天使は、生まれる子を「インマヌエル」と呼んでします。この名の謂れは、第一朗読のイザヤの預言に出ています。

  このお告げの箇所は、様々なことが含まれています。そのすべてではありませんが、いくつかのポイントを挙げますので、それぞれを黙想してはいかがかと思います。第一のポイントは、ヨゼフ様は人として律法に忠実に生きる人でしたから、表ざたにすることができましたが、しませんでした。律法によると不倫に当たりますので、マリア様は処罰されます。ヨゼフ様はそれを望みませんでした。これに対して、天使は、ヨゼフ様を「ダビデの子」と呼び、マリア様を受け入れることを命じます。これによって、イエス様は、ダビデの子孫になります。つまり、メシア、キリストです。他人の善意を超える神様の計らいの違いです。

  第二のポイントは、イエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことです。第一の朗読、また、福音によると「神は我々と共におられる」という意味だと説明されています。旧約聖書をよく読むと、アブラハムにも、モーセにも神様は「私はどこにいてもあなたと共にいる」と言っています。いわば、イスラエルに告げられた神様の在り方は、「共にいる神」なのです。イエス様は、生まれる時そうした存在だと告げられていました。そして、イエス様自身が「世の終わりまで、あなた方と共にいる」と弟子たちに告げています。

  まだまだ色々ポイントは探せるでしょう。皆さんの興味に従って、黙想できたらいいですね。この箇所は、クリスマスの出来事の中で、あまり取り上げられることがないので、それだけにこうしてポイントを見つけて、黙想できたら、クリスマスが豊かいなるのではないでしょうか。そして、毎年より豊かなクリスマスを迎えられると思います。

                                湯澤民夫


【聖書朗読箇所】


恵み豊かな父よ、

わたしたちの心にいつくしみを注いでください。

みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、

御子の苦しみと死をとおして復活の栄光にあずかることができますように。

聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、

治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ7章10-14節)


(その日、)主はアハズに向かって言われた。

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず

わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ1章1-7節)


キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、(兄弟の皆さんへ。)

――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、

恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ1章18-24節)


イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

2022年12月9日金曜日

12月11日 待降節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 待降節第3主日 A年 2022年12月11日 松村神父

待降節第3主日は「喜びの主日」と呼ばれ、本来はバラ色の祭服を身に着けます。しかし祭服がありませんので、せめて4本のローソクで色を示しているところが多いのではないでしょうか。今日は主の到来がいよいよ迫ってきていることを祝う日なのです。

わたしは何でもできる人間ではありません。それなのに「自分でやり遂げなければ」と意気込んでいた時もありました。しかし社会の中では、ある出来事を解決できる特別な力や資格を持った方に頼まなければ乗り越えていけないことがあります。だから信頼できる人を選び、解決に挑みます。今の私は多種多様な働きの中で、それらの人々の力によって助けられながら働いています。

いろいろな働きがある中で、その出来事を吟味し、それにふさわしい人を償還します。その出来事に精通していると思われ、尊敬でき、自信をもって委託できる人を選びます。時には友人にも寄りかかることもあります。そのような人に出会えたとき、知りえた時にはどんなに心の慰め、力強さに触れることでしょう。私にできることは、正しく見て聞いて、それにふさわしい者を選び委ねるということ。実はこのことに気が付かされたのは15年前に大学で働いていた時でした。司祭でありながら中間管理職として大学運営をしていた時に、自分の無能さに気づかされ、周りにいる有能な人たちと出会い、自分一人で頑張らなくてもいいのだと気づかされ、焦る心から安心へと変わっていきました。と同時にその中でも、自分でなければできない事を見出し、自分の役割と居場所が見え、自信と誇りを持った働きへと導かれました。

今日の福音ではヨハネの弟子の役割、洗礼者ヨハネの役割、そしてイエス・キリストの役割それぞれが見えます。洗礼者ヨハネにとってイエス・キリストは正しく見て、正しく聞いた中で信頼と尊敬と信仰を見出し、自ら「つまずかない者」となり、多いなる喜びと強いきずなが作り上げられた方でした。そして自分の役割と生きる場が明確になりました。イエスもその姿に信頼を寄せ、最大の賛辞を送ります。そんな洗礼者ヨハネの役割は天の国においても自ら身を低くするという役割を担うからこそ、「天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」と語られたのではないでしょうか。イエス・キリストは天にあげられ、「父の右の座」すなわち天の王国の力ある支配者となりますが、一方この言葉は、洗礼者ヨハネを低く見ているのではなく、その在り方、自分を低くする者の極み、キリスト者の姿勢を示しているではないでしょうか。

一方「身を低くして伏し拝む」(詩編95:6)相手は、天から引っ張り上げる絶対的な御父と共に、もっとも人類で弱い姿、赤ん坊で親の助けが無ければ生きていけない姿で誕生する方にも向けられます。神が送られたその弱さからの出発点だから、第一朗読のイザヤ書に描かれている通り、神を見えない「目が開き」、神の声を聞こえない「耳が開く」ことにより、絶望的な病を回復し、罪の束縛から解放し、死から新たないのちへ、闇から光へと「主と共に」「主の先導」によって成長の喜びへと導かれます。私たちはその方を待ち望みます。その仲介をしたのは洗礼者ヨハネ。導くのはイエス・キリスト。キリスト者として、感謝と喜び、謙虚な姿を通して、自分自身の信仰の成長へと歩んでいければ幸いです。

私たちのすぐそばにいる助け主であるイエス・キリスト、それを伝える洗礼者ヨハネに信頼の内に身をゆだね、共に私たちだからこそできる一人一人の役割と使命を忍耐の内に忠実に果たし、喜びの内に主の降誕の準備へと向かいたいと思います。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である父よ、

御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしたちを顧みて下さい。

喜びのうちに降誕祭を迎え、この救いの神秘を祝うことができますように。

聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、

治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ35章1-6a,10節)

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ野ばらの花を一面に咲かせよ。

花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられカルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。


弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。

見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」


そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。

そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。


主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。



第2朗読 使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5章7-10節)

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。

農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。

兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ11章2-11節)

(そのとき、)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。

そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」


イエスはお答えになった。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、

らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、

死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」


ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。

では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』

と書いてあるのは、この人のことだ。


はっきり言っておく。

およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。

しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

2022年12月3日土曜日

12月4日 待降節第2主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 待降節第2主日 C年 2022年12月4日 レイナルド神父

今日の待降節のテーマは平和です。ここで神がイエスになされたことを思うと勇気が出ます。神と人との間の平和、そしてお互いの間で築かれた平和です。信者として福音書にあるように、イエスに内在する父なる神によってもたらされた平和を祝います。私たちは平和のうちにイエスの再臨と、平和が地上に満ち、それが全ての人々の生き方となるイエスの新しい世界の訪れを待望します。私たちは平和をイエスのうちにのみ見いだす証人として、できるかぎり今、イエスの平和に与ります。

これは当然そういうことです。イエスの第一の来臨の平和を祝い、そして第二の来臨での究極の平和を待望するなら、今、この時、その平和を生きようとはしないでしょうか? 過去の出来事を祝い、将来も同じように願うのなら、現在の今、それをほんとうに望まないのなら、そのことにどんな意味があるのでしょうか。

しかし今、平和に暮らすというのは簡単なことではなく、キリストなくしては不可能なことです。ですから毎年待降節、一年を通しての主日に思い起こすことが必要なのです。そこではイエスの内に全ての平和の源が見いだされるのです。私たちは靴ひもをしめ、頑張って他の人たちと平和に暮らすようにと言われているのではありません。争いが多い世界で平和に生きる大切さや、他の人たちと平和に暮らしていく方法を聴くために集まるのでもありません。そんなことで平和になるのなら、ずっと以前に平和は訪れていたことでしょう。

私たちはもう一度イエスキリストの内にある神の平和を受けるために集まるのです。イエスが私たちのために用意してくださった平和を受け取ること、互いの交わりのなかで平和を生きること、はじめは教会で、そしてできるかぎり世の中にも拡げます。そうこうしていくうちに努力して世の平和を作ろうとしなくても済むです。むしろイエスこそが唯一の平和の源であるという証人としてそのように生きるのです。

これは教会が一つの共同体として生きることの大切さです。神の三位一体としての集まりの証です。私たちは、イエスキリストの内に平和な生活を共に致しましょうと招く証人なのです。力ではなく平和そのものである主なるイエスの聖霊の力によって私たちは世の平和の作り手となるのです。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、

キリストに結ばれることができますように。

主キリストは、聖霊による一致のうちに、

あなたとともに神であり生きて、治めておられます、

世よとこしえに。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ11章1-10節)


エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。

彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。

弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。

その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。


狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ15章4-9節)


(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。

それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。


だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、

あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

わたしは言う。

キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。

それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。

「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ3章1-12節)


そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。


「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」


ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。

そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。


ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

2022年11月26日土曜日

11月27日 待降節第1主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 待降節第1主日 A年 2022年11月27日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日のミサから典礼の日本語が変わるので、福音をゆっくり味わう気分ではないかもしれませんが、待降節に入りますのでこの季節の典礼の意味を考えてみましょう。先週、私たちは王であるキリスト、世の終わりを祈念し、世の終わりについての福音を味わいました。今週から、未来から過去へ、私たちは二千年前のキリストの到来に目を向けていきます。

  福音の中で、イエス様は「人の子が来る時」と言っています。「その時は、ノアの時と同じである。」ここで、重要な言葉は、「時」です。第一の朗読、イザヤの預言では、「終わりの日」という言葉が使われています。戦争が間近に迫ってきている時、イザヤは、世の終わりの時の到来について語ります。その「時」こそ、救いの時だからです。

  第二朗読も見てみましょう。パウロは、ローマの教会に宛てて、「時は近づいた」と語り掛けます。「今がどんな時か分かりますよね。私たちが洗礼を受けた時より、救いの時が近づいています。だから、洗礼を受けた時のように、新たになりましょう。」

  この「時」が重要なのは、それは、「到来の時」だからです。今週は、まだ王であるキリストの雰囲気が残っています。しかし、そこにあるのは「到来の時」です。私たちは、「アドベント」という言葉を聞いたことがあります。待降節を表す言葉です。もともとこの言葉は、「アド・ヴェントゥス」というラテン語から来る言葉です。その意味は、向こう側からこちらへ「やって(アド)」「くる(ヴェントゥス)」という意味です。その意味は、「もういくつ寝るとお正月」と待つことではありません。また、努力して引き寄せること、実現させることでもありません。私たちにはどうにもできない「時」なのです。ただ、神様がやってくる、実現してくださるその時を、待つことしかできません。

  ところが、私たちは、そのことをいつも意識できているわけではありません。イエス様は、ノアの時の例を挙げています。「人々は、食べたり飲んだりしていた。」つまり、普通に日常生活をしていたということです。この「到来」の時は、日常に起こることです。それが待つことしかできない時を待つということですが、たいていは、すっかり意識していない時でもあるのです。ですから、私たちは「第三の到来」ということを考え、意識する必要があるでしょう。第一の到来は二千年前の到来、もう一つの到来は世の終わりの到来。そして第三の到来です。これも、私たちの日常生活の中で起こります。

  第三の到来は、普通あまり意識されませんが、日常生活の中で、父である神が、御子であるキリストが、そして聖霊が、私たちに語り掛けます。いつ、何を語り掛けるかわかりません。待降節を迎えたこの季節、日常生活に起こるこの第三の到来を、考えてみませんか。私たちは、いつ語り掛けられてきてもよい用意ができているでしょうか。 



【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは救いを待ち望むすべての人とともにいてくださいます。

  待降節を迎えたわたしたちの心を照らしてください。

  争いや対立が絶えないこの世界にあって、

  キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ2章1-5節)


アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。


終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい


多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。

わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。


主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。


ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ13章11-14a節)


更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。

あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。

今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。


夜は更け、日は近づいた。

だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。


日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。

酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、


主イエス・キリストを身にまといなさい。

欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ24章37-44節)


(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

このことをわきまえていなさい。

家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

2022年11月18日金曜日

11月20日 王であるキリスト

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 王であるキリスト C年 2022年11月20日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日は、教会の暦の中でこの一年間の最後の主日です。そして、王であるキリスト、世の終わりの完成を記念します。しかし、朗読個所は、なぜ十字架の場面なのでしょうか。それは、第一朗読との関係でわかります。第一朗読は、ダビデが全イスラエルの王となる個所です。彼は、油注がれることによって王となりました。イエス様は、エルサレムに入城し、メシア、王として十字架にかかることによって、ご自分がキリスト、メシアであることを示されました。ここで、大きな誤解が生まれました。

  第一朗読によると、ユダ族とそれに属さない部族の間に和解が生じ、ユダ族の長であるダビデのもとに、他の部族が集結し、彼らはダビデに油を注ぐことで、イスラエル統一王国を成立させました。この出来事は、後々メシアのモデルになっていきます。当時の人たちは、こうして神様から油注がれる(メシアになる)と、彼は政治的経済的もちろん軍事的力を持ち、諸国を征服し、神の国の完成のためにイスラエルの人々を率いてエルサレムに王として君臨するはず、とイメージしました。それが伝統的なメシアのイメージだったからです。だから、本物のメシアなら十字架などから降りて、諸国に対して王として君臨するはずです。だからそれを、イエス様に求めました。「十字架から降りてこい」

  しかし、実際のイエス様は、そうではありませんでした。その逆で、むざむざと殺されていきました。伝統に生きるイスラエル人としては、イエス様のその姿を、とてもメシアとして見ることができませんでした。ただ一人、イエス様と一緒に十字架にかけられた盗賊の人だけが例外でした。後に、エマオに向かう弟子たちに、聖書を通して教えたように、伝統的なメシア理解とは別のことが聖書には書かれていました。人々は、それを知ることができませんでした。イエス様が教えても。

  このことは、そう簡単ではありません。同じ歴史を生き、伝統を重んじ、聖書を知り、神様を知ったとしても、まったく別の理解になってしまったこのイスラエルの人たちと同じことを起こしかねません。今日の福音は、こうした私たちの持つ危険性を教えています。世の終わりの完成の時、違っていましたでは済まされない事が起こり得るからです。キリストは、人間の姿で現れ、わたしたちのうちに暮らしました。そこにイエス様の求めたものを、私たちが求めるべきものを見逃さないようにしましょう。それには、わたしたちと暮らしたイエス様の言動から目を離さないことでしょう。イエス様は常に話しかけています。父である神様のように、そして、聖霊のように。耳を傾け、識別することを心がけていきましょう。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは十字架につけられたひとり子イエスを、

  すべての人の救い主として示してくださいました。

  キリストこそ、世界に平和をもたらし、

  人類を一つにする主であることを、

  きょう、深く心にとめることができますように。

集会祈願より



第1朗読 サムエル記 (サムエル下5章1-3節)


(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。

「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」


イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。

ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。

長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 (コロサイ1章12-20節)


(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)


御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。


御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。

こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。


神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ23章35-43節)


民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」


兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。


十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。


するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

2022年11月12日土曜日

11月13日 年間第33主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ】 年間第33主日 C年 2022年11月13日 松村神父

現代人にとって世の終わりとは何を示すのでしょうか?1999年を迎えた時、あちらこちらで“2000年になるとコンピューターが誤作動を起こす”とか、“ノストラダムスの大予言で地球が滅びる”とか、はたまたこの世の終わりをつげカルト教団が街のあちらこちらで説法を説いて、市民をあおっていました。私自身も声をかけられた事がありました。「あなたは不幸にみえますよ!手をかざしてあげますから安心してください。」と。よっぽど私の顔が暗く見えたのでしょう。でもニコニコして歩いている人などは逆に奇妙ですよね。

 この世の終わりや、人生の終わりに恐怖を覚えるということはどういった心の動きがあるのでしょう。それは“未練”と“執着”ということなのかもしれません。それは何かに対する“不完全さ”を表すと同時に、「もっと」「さらに」という“欲求”の表れかもしれません。逆にそれだけ“成し遂げていない”思いや、“満足できていない”ということなのかもしれません。

 今日の福音の前提には、エルサレム神殿を見たイエスのこの世的人間の儚さが目に映っていたことがあげられます。この世で成し遂げることに翻弄される人々。しかし神殿が後に崩壊の道をたどることを予見し、今の“人”の努力には限界がある事を示します。ここでイエスが語りたいのは“神”の働きを中心に置かなければならないこと。神殿は人の体そのものである事が忘れ去られ、形と見えるものにその重要度が移されてしまっていることです。イエスの到来は「神を愛し、隣人を愛すること」を宣べ伝えることで、形・体裁に力点が置かれる事ではありません。ヘロデ大王によって改築されたエルサレムの神殿は人間のエゴそのもので形作られてしまったことへの嘆きなのかもしれません。つまり本来的ではないということです。

 揺るがない神の示す道がありますが、私たちの世界には横から人の想いで意見を指し示す人が現れたり、「私の信仰こそ正しい」と、自分の信仰を揺るがす人がいます。これを偽預言者やイエスの名を語るものと表現されています。そこにいさかいや戦いが生じます。迫害もあり苦しみも生じます。しかし神の想い、キリストの想いを中心に置いたときには、それらの事は「神のみ旨に」と聖母マリアのようにお捧げして、忍耐の中で“しるし”が現れるまで耐え忍ぶこと、そして自身の中におごり高ぶる心に回心を促すことこそ大切ではないでしょうか。なかなか一人で乗り越えることは難しいかもしれません。ですから教会共同体の謙虚な分かち合い、現在進められているシノドスの動きは、私たちを成長に導いていくのです。愚痴のはけ口の場ではなく、自身の至らなさを分かち合い、全ての人の回心への神の導きを通して、主の来臨まで耐え忍んでいきたいと思います。耐え忍ぶと言われると苦しいように感じますが、私たち一人一人は先に救いの道を示された弟子のひとりであることに、安心と勇気をもって、互いの信頼のうちに過ごしていきたいと思います。


【聖書朗読箇所】

すべてのものの主である神よ、

  あなたはご自分をおそれ敬う者を助け、導いてくださいます。

  み前に集うわたしたちを聖霊によって強めてください。

  どのような試練にあっても、キリストに従うことができますように。

集会祈願より



第1朗読 マラキの預言 (マラキ3章19-20a節)

見よ、その日が来る炉のように燃える日が。

高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。

到来するその日は、と万軍の主は言われる。

彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。

その翼にはいやす力がある。



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ3章7-12節)


(皆さん、あなたがたは、)わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。

わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。


また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。

むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。


援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、

あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。


実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、

「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。


ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、

少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。


そのような者たちに、わたしたちは

主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。

自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ21章5-19節)


(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。


「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」


そこで、彼らはイエスに尋ねた。

「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」


イエスは言われた。

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」


そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

2022年11月5日土曜日

11月6日 年間第32主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第32主日 C年 2022年11月6日 レイ神父

イエスを試すのにサドカイ派の人々は難しい質問をしました。跡継ぎを残さずに亡くなっていった7人の兄弟のことを尋ねます。長男が亡くなるとその妻を次々とその兄弟がめとっていくのです。

彼らの質問はこうでした。復活の時この女はだれの妻となるのか?イエスを試すために彼らはこのように尋ねたのです。前のところではサドカイ派の人々は復活があることを否定しています。

イエスは、結婚は生きている時のことであり復活の時の事ではないと彼らに説明し、答えます。それは罠にかけようとしたサドカイ派の人たちを負かし、死者の復活を信じていた律法学者たちはイエスを讃えます。

この話は、私たちに真実は完全でそれは打ち負かすことはできないことを明らかにします。真実は常に勝利します。イエスは何が真実かを述べ、サドカイ派の人々の愚かさを暴露します。どんな人間の策略も真実を打ち負かすことはできないと教えます。

これは私たちがここで学べる大切な教訓であり、生活全てにあてはまります。サドカイ派の人々のような質問を受けることはなくても、人生の中で難しい質問に出会うでしょう。イエスにしかけられたようなものでなくても、そのような問は必ずあるでしょう。

私たちがどんなに困ってもその答えはある、とこの福音は確信させてくれます。たとえ理解しえなくても、もし真実を探し求めるのなら、私たちはその真実を見つけ出すのです。


今日は、あなたの信仰の旅で最も挑戦的なことについて黙想しましょう。 それは死後の世界、苦しみ、あるいは創造についての質問かもしれませんし、大変個人的なこともかもしれません。あるいは現在はまだ、私たちは主への質問に充分な時間を取ってないかもしれません。それが何であれ、全てのことに真実を求め、主に知恵を尋ね、そうすることで日毎にさらに深い信仰に入って行くことでしょう。


【聖書朗読箇所】

すべての人の救いを望まれる神よ、

   ひとり子イエスは、死からの復活によって、

   永遠のいのちの扉を開いてくださいました。

   ここに集められたわたしたちに希望の光を注ぎ、

   尽きることのない喜びで満たしてください。

集会祈願より



第1朗読 マカバイ記 (Ⅱマカバイ7章1-2,9-14節)

また次のようなこともあった。

七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。


彼らの一人が皆に代わって言った。

「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」


(二番目の者も)息を引き取る間際に言った。

「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」


彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。

彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。

「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。

わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」

そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。


やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。

死ぬ間際に彼は言った。

「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ2章16-3章5節)

(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。


終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。

すべての人に、信仰があるわけではないのです。

しかし、主は真実な方です。

必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。

そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。


どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ20章27-38節)

(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。


「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。

すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」


イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

2022年10月29日土曜日

10月30日 年間第31主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第31主日 C年 2022年10月30日 松村神父

今日の福音、有名なザアカイについての物語について次のような見方をしたことがある。最初ザアカイは木の上にいる。イエスは下を歩く。見下ろすザアカイと見下ろされるイエス。次にイエスの呼びかけでザアカイが降りてくると、ザアカイは背が低いので最初はイエスを捜すところから始まり、そして見つけるとイエスを見上げる。イエスは背の低いザアカイを見下ろす。最後にイエスとザアカイは共に家に入り椅子に座り食卓に着くと、ほぼ同じ目線となる。

ここで大きく変わったのはイエスによる呼びかけであろう。「人を見下すのではなく、地に足を付けてごらん。ザアカイに自らの行動を通して伝えたかったのは、人を見下ろすのではなく、与えられた自分を受け入れ、すべてを見上げる姿勢、すなわち尊敬の念をもって見る事ではないだろうか?ということ。自分の存在、体格、性格、職業、どれをとっても決してよろしくはない。しかし、「それが事実で、それが自分そのもの」であるという劣等感を捨てて、受け入れたザアカイの心は晴れやかになり、解放感に心が満たされたのではないだろうか。イエスは「今のあなたが、あなたそのもの。自分を愛するように隣人を愛せ」ということを思い出し、「自分を愛することの大切さ」を伝えたとも読み取れる。そしてそこに衝撃的な一言。「あなたの家に泊まります。」というイエスの呼びかけ。そこで湧き起る衝動は、自分の心をつかんだ主が、私を選ばれたことへの喜び。出エジプト記には過ぎ越しによる救いが現されているが、ここでは主が目の前で立ち止まられる出来事。同じ目線に立ち関わるイエスとの体験は、多くの弟子が体験した出来事。それは弟子以外の他の人々にも与えられていたのではないだろうか。そしてこの選びこそ召命そのものでもあろう。選ばれた者はすぐにその使命に気づかされる。ザアカイの使命は、受けた恵を返すこと。しかもそれをさらに実践にまで高め「財産を半分施し、また罪を犯した場合は4倍にしてでも返済し、赦しを願う」こと。

ザアカイの人間性はこの福音書では最初は見た目だけであったが、徐々にその姿が内面にまで掘りさげられ、イエスの前で丸裸にされた。そしてなすすべもなくあらわにされた人ザアカイは、最後にイエスに語ったことは回心による信仰宣言だった。イエスが最も望んだ結果だったに違いない。無くした1枚の金貨が返ってきた出来事と同じである。

私たちはミサで定型文の信仰宣言を唱えています。しかし、他の場では祈りとして、私たち一人一人の信仰宣言があってもいいのではないか。喜びの・赦しの・栄光の信仰宣言等。長い信仰宣言でなくても私たちのつたない言葉が、「イエスは主である」ということを語れる言葉は、すべて信仰宣言であることに気づかされる。今日の第一朗読の知恵の書の一文一文が、私たちにその信仰宣言の語り方を伝えるために描かれているように感じられる。

さぁ、今日も私の中から湧き起るイエスへの想いを信仰宣言にして捧げてみようじゃありませんか。


【聖書朗読箇所】

いつくしみ深い神よ、

  あなたは失われたものを探し救うために、

  ひとり子を世にお遣わしになりました。

  きょうここに集うわたしたちが、

  救い主であるイエスを迎える喜びに満たされますように。

集会祈願より


第1朗読 知恵の書 (知恵 11章22-12章2節)

(主よ、)

御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、

朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し、

あなたが呼び出されないのに存在するものが

  果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

  あなたはすべてをいとおしまれる。

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。

主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、

罪のきっかけを思い出させて人を諭される。

悪を捨ててあなたを信じるようになるために。


第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (2テサロニケ1章11-2章2節)

(皆さん、わたしたちは)いつもあなたがたのために祈っています。 どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、 また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、 わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、 あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、 そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、 主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、 すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ19章1-10節)

(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。 この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、 背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。 そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。 また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

2022年10月14日金曜日

10月23日 年間第30主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第30主日 C年 2022年10月23日 レイ神父

ファリサイ派の人と徴税人のたとえ

この福音の箇所はファリサイ人と徴税人のたとえ話です。このたとえでは二人の態度の際立った対比がされています。まず、ファリサイ人の態度は自身や世間のイメージを高く評価し、自らの罪のことは意識していないということがわかります。

次に徴税人の態度は自分の罪を深く意識し、それを悔やみ、神の憐れみを必要としていることがわかります。この全く異なった二人の態度の結果は、徴税人は義とされて家に帰り、一方でファリサイ人はそうではなかったとあります。義とされるとはどういうことでしょうか?それは徴税人は明らかに罪悪感を持っており、真理に根差していたのです。かれは憐れみを必要としている事をわかっていたしそれを懇願して、それを受け取ったのです。彼は自分にも、他人にも、神にも嘘はつかなかったのです。彼は自分が何者かがわかっており、そしてこの真実により神は彼を高めたのです。徴税人が義とされたのは、彼の人生における罪の許しとそして神からの憐れみを授かることだったのです。

ファリサイ人の方は皆に見えるように立ったことで、ある意味自分自身は気持ちよく感じていたかもしれません。自分の正しさを確信していましたが、しかしそれは正しさではありませんでした。ただ自分が正しいと思っていただけです。彼は嘘に生き、そしてその嘘を信じており、他人にもその嘘を信じ込ませようとしていたかもしれません。しかし事実はそのままです。ファリサイ人は不正であり、そして真に義とされません。

この箇所からくみ取るべきことは真理に生きる大切さを深く悟ることです。誤った自己認識をするものは自分をだまし、そして他人さえもあざむくかもしれません。ですが神をだますことはできませんし、おのれの魂の平安を得ることもできません。わたしたちは皆自分たちの罪や弱さを謙虚に認め、そうすることで唯一の救いである神の憐れみを乞うのです。.

この徴税人のことを今日は黙想しましょう。「神様、罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18章13節)あなたの祈りにしてください。神の憐れみが必要だと認め、神の義のうちに神の憐れみによってあなたを高めましょう。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

  わたしたちが自分のありのままを差し出すとき、

  あなたは大きな愛をもって受けとめてくださいます。

  ともに祈るわたしたちが、あなたにすべてをゆだねることができますように。

集会祈願より


第1朗読 シラ書 (シラ 35章15b-17,20-22a)

 主は裁く方であり、

人を偏り見られることはない。

貧しいからといって主はえこひいきされないが、

虐げられている者の祈りを聞き入れられる。

主はみなしごの願いを無視されず、

やもめの訴える苦情を顧みられる。

御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、

その祈りは雲にまで届く。

謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、

それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。

彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、

正しい人々のために裁きをなし、

  正義を行われるときまで。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 4章6-8,16-18節)

(愛する者よ、)わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。 世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、 決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、 だれにでも授けてくださいます。

 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、 皆わたしを見捨てました。 彼らにその責めが負わされませんように。 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、 すべての民族がそれを聞くようになるために、 主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。 そして、わたしは獅子の口から救われました。 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、 天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。 主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章9-14節)

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、 イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。 一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、 姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者 でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、 胸を打ちながら言った。 『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、 あのファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

10月16日 年間第29主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第29主日 C年 2022年10月16日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音も、ルカだけが残している個所です。ルカは、イエス様が「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるためにこのたとえ話を残したと記しています。そして、最後にこうした強い信仰があってほしいというイエス様の望みを付け加えています。

  ところで、今日の第一朗読は、『出エジプト記』から採られています。イスラエル民族は、シナイ山で神様と契約を結んで神の民として歩み始めました。しかし、まだ神様に助けてもらう必要がありました。同時にまた、自分の力で歩まなければなりませんでした。つまり、異民族から食べ物や水を奪う必要がありました。つまり、勝利できる部族や民族を選び、戦いを挑み、食べ物や財産を略奪しなければなりませんでした。そうしないと生きていけないからです。その最初の相手がアマレク人でした。アマレク人にしてもイスラエル人にしても生きるか死ぬかですから必死で戦います。ここではモーセが手を挙げている間は、優勢に戦えていますが、疲れて手を下すとアマレク人が優勢になり、一進一退の戦いが続いたと記されています。夕方までこの戦いは続きましたが、ここでは象徴的な形が記されています。イスラエル人にとって手を上げるとイスラエル人は優勢となり、疲れて手を下すと劣勢になった、と。モーセが手を上げることは祈りの一つの形だったのです。つまり、モーセとその助け手たちは、一日中モーセと共にいて、祈り続けたことになります。

  この話しは、裁判官を訪れて願い続けた婦人の姿にどこか似ています。神を畏れず人を人とも思わない裁判官は、冷徹で非情な裁判官というよりは、ある意味では公正な裁判官と言えるでしょう。何ものにも左右されない公正さを持ち合わせています。そこに一人の婦人が尋ねてきます。この裁判官は、最初は婦人の訴えを取り上げようとはしませんでしたが、婦人の執拗さに、ついに取り上げることにしました。

  最初のアマレクの出来事もこの婦人の出来事も、物事の善悪を問う話ではありません。一日中祈り続けたモーセと従者のように、ひっきりなしにやって来る婦人。この祈り続ける姿をイエス様は問題にしたかったようです。そこには頼り切る姿、絶えず祈る姿を見ることができます。

イエス様は最後に言います。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。十字架を目の前にしてのイエス様の言葉であることを心に留めましょう。その時、イエス様を、そして神様を信頼し、頼る心をもって十字架に、また御父に迎うことができるでしょうか。徹底的に、頼れるでしょうか。イエス様の言葉は、単に祈り方を教える言葉ではなく、もっと厳しい言葉のようですね。        湯澤民夫


【聖書朗読箇所】

信じる者の力である神よ、

  あなたは呼び求める者の願いにこたえてくださいます。

  わたしたちが祈りと信頼の心をもって、あなたに近づくことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 (出エジプト 17章8-13)

 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 モーセはヨシュアに言った。

 「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。 明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」

 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。 モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、 手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 モーセの手が重くなったので、 アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。 モーセはその上に座り、 アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。 その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 3章14-4章2節)

 (愛する者よ、)あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。 あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。 この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、 あなたに与えることができます。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、 人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、 十分に整えられるのです。

 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られる キリスト・イエスの御前で、 その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい。 とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章1-8節)

 (そのとき、)イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、 弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 ところが、その町に一人のやもめがいて、 裁判官のところに来ては、 『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。 しかし、その後に考えた。 『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから 、彼女のために裁判をしてやろう。 さもないと、ひっきりなしにやって来て、 わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。 「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、 彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。 しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

2022年10月8日土曜日

10月9日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第28主日 C年 2022年10月9日 松村神父

水平社宣言100年にあたり、現在シンポジウムが数度行われ改めて忘れてはならない事が思い起こさせられています。さて、この水平社宣言とは北海道の人にはなじみがないと思います。なぜならばその宣言は部落差別に対して、強い思いのなか部落の人々がその人権を主張し、社会を変えようとした宣言であるからです。蝦夷全体がそもそも部落のようだという人もいるほど、私たちはすでにその中で生きていますし、江戸以降の歴史が薄い北海道にとって認識が薄いのは致し方ありません。せいぜい松前藩によるアイヌ民族迫害やオホーツク沿岸に居住されていた北方少数民族ぐらいしか脳裏をよぎらないことでしょう。しかし誰しも差別を身近なものとして、そこに向かって思いめぐらすことなく世界の家族の共存の道はありません。

今日の聖書では重い皮膚病の人を中心に描かれています。「ハンセン病」と呼ばれ、かつて日本では「ライ病」と呼ばれていた人。「ライ」は差別用語にもなり、家族親族まで忌み嫌われていきました。

少し話は変わりますが、先週、私の恩師である元東京カトリック神学院の院長を務めた東京教区の寺西英夫神父様が亡くなりました。寺西神父からは神学生時代に随分と心の助けをいただきました。その中でも神山復生病院に一緒に行った時の事を思い出します。

まだ入学して間もない私にとって、初めて見たハンセン病の一人の患者さんは驚く姿をされていました。目は白濁、鼻は崩れ落ち、手足の指は無く、口も裂けていました。寝たきりのその患者さんは80代。その方のもとに寺西神父と共に二人で会いに行ったのですが、寺西神父は当たり前のように枕元に近寄り、ティッシュをつまんで零れ落ちるよだれをふきながら優しく声をかけられました。もちろん今の時代は感染することはありませんが、衝撃が走り近寄ることに恐れが生じました。しかし寺西神父の姿によって、気が付いたら足をさすりながら自己紹介を始めていました。その間僅か10秒ほどでしょうか。

この寺西神父の姿を見て患者さんに磁石のように引き寄せられた体験は、患者さんへの自己の感情や意識した壁を越えられたといった問題ではなく、神父さんの姿の中から勇気や力が湧いたことを思い出させられました。

理屈で整理することが得意な私にとって、引き寄せられた体験は初めてだったかもしれません。この差別を受けている人たちへの関わりとは、自分の能力や態度ではなく、私たちに与えられた神の態度とその恵みに突き動かされる衝動なのでしょう。神学生になって間もない頃のこの体験は、貴重なものでした。

今日の福音では異邦人のみが感謝のためにイエスのもとに戻ります。この出来事は信仰生活が長いから、年長者だから、信仰に熱心だからという“言い訳や主張”を否定し、神から受けた恵みを“受け止められるセンス”を求めていることが語られています。

たった10秒の中に起きた自分の中での出来事を、その後何度も何度も反芻し考えていく中で、センスの無い私でも寺西神父を通して自分の中に起きた神体験は今も忘れることはありませんし、忘れてはならないと感じています。そしてそのことに限らず、同時に差別を受ける人々がまだ大勢居り、私にさらに心の開放を求めている主がおられることも忘れてはならないことが語られていると感じました。


【聖書朗読箇所】


いつくしみあふれる神よ、

  あなたはすべての人をいやし、豊かないのちを与えてくださいます。

  ここに集うわたしたちが感謝の心を一つにして、賛美の祈りをささげることができますように。

集会祈願より


第1朗読 列王記 (列王記下 5章14-17)

  (その日、シリアの)ナアマンは神の人(エリシャ)の言葉どおりに下って行って、ヨルダン(川)に七度身を浸した。 彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。 「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。 今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。 わたしは受け取らない」と辞退した。 ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 ナアマンは言った。 「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。 僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物や その他のいけにえをささげることはしません。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 2章8-13節)

 (愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 わたしの宣べ伝える福音によれば、 この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 この福音のためにわたしは苦しみを受け、 ついに犯罪人のように鎖につながれています。 しかし、神の言葉はつながれていません。 だから、わたしは、選ばれた人々のために、 あらゆることを耐え忍んでいます。 彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 次の言葉は真実です。

 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

  キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

  キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

  キリストもわたしたちを否まれる。  わたしたちが誠実でなくても、

  キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を否むことができないからである。」


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17章11-19節)

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。 彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

2022年10月1日土曜日

10月2日 年間第27主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第27主日 C年 2022年10月2日 レイ神父

この命令を行うのは難しいです。私たちはたいてい上手に何かをしたり、義務を果たしたときには褒められ認められることを求めます。私たちは注目されたいのです。これは普通のことですが、とても謙虚といえる反応ではありません。謙虚さには様々な程度があり、最もへりくだった人が上記の一節を繰り返し、それを意味することができるのです。

まず、神のご意志は私たちにとって良いものであると気づかねばなりません。それは私たちに愛の義務を課します。神の意志を果たすとき、そのことだけを喜ぶべきです。なぜならそれは良いことだからです。神の意志を果たすそのことは私たちの喜びの源となります。他人から認められることではありません。

一方、他の人の良さを見てそれを認めるのは良いことです。その人たちのエゴを助長するためではなく、良いことがなされたと神を称えるためにするのです。そして他の人から私たちの生きざまに神のご意志が成し遂げられた、と認められたとき、私たちはその賞賛を自分のプライドにするのではなく、神は良いものであり、神の意志がなされつつあるのだと直に認めなければなりません。私たちは「しなければならないこと」が出来たことに感謝すべきです。

神のご意志に聖なる義務として従うことで、私たちはそれをより完全に果たすことができます。神の意志を果たすことが何か途方もないことのように思えるとき、私たちは正しいやり方をしていないのかもしれません。それは愛からの任務であり、なすべき当たり前の行為であると見なされるとき、神の意志により完全に従うことはたやすいのです。

この謙虚さについて今日は黙想しましょう。「私どもは取るにたらない僕です。しなければならないことをしただけです。」そう言ってみましょう。そのつもりでいましょう。そしてこの言葉をあなたの日々の神への奉仕への基礎にしてみてください。そうすることであなたは聖性への「高速コース」につくのです。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたはすべての人を招き、信仰の道を歩むよう支えてくださいます。

  キリストの名のもとに集うわたしたちが、信じる心をたえず新たにし、

  福音をよりどころとして生きることができますように。

集会祈願より


第1朗読 ハバククの預言 (ハバクク1:2-3,2:2-4)

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、 あなたは聞いてくださらないのか。 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ 労苦に目を留めさせられるのか。

暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。


主はわたしに答えて、言われた。

「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (Ⅱテモテ1:6-8 ,13-14)

(愛する者よ、)そういうわけで、わたしが手を置いたことによって あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 神は、おくびょうの霊ではなく、 力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 だから、わたしたちの主を証しすることも、 わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。 むしろ、神の力に支えられて、 福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、 わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 あなたにゆだねられている良いものを、 わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17:5-10)

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、 この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、 言うことを聞くであろう。

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、 その僕が畑から帰って来たとき、 『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、 わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。 お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。 自分に命じられたことをみな果たしたら、 『わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

2022年9月23日金曜日

9月25日 年間第26主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第26主日 C年 2022年9月25日 湯澤神父

兄弟姉妹の皆様

  この箇所はルカだけが残しているたとえ話です。お金持ちがお金持ちらしい生活をしています。その門前にラザロという皮膚病を病む貧しい人が物貰いをしています。お金持ちもラザロがいることを知り、家の出入りのたびに、なにがしかの施しをしていたのでしょう。また、ラザロもお金持ちの家の入り口にいて、お金持ちから何らかのものを、何らかの施しを受けていたのでしょう。おそらくこれが彼らの日常的な生活だったのでしょう。金持ちもラザロを虐めていたわけではなく、日常というのはそうしたものではなかったかと思います。私たちは、こうした日常生活を想像することができます。

  しかし、イエス様があえてこの話をしたのは、それで十分ではなかったからだと思います。イエス様は、最初に「モーセと預言者に耳を傾けなさい」とのべています。これは、日常、常識の世界です。旧約聖書では、弱い人、貧しい人に心を配るようにと教えています。特に、孤児、未亡人、難民に対して配慮することが求められています。彼らは、食べる手段を持たないからです。こういう在り方は、隣人愛の教えとして旧約聖書の中で繰り返し教えられています。ですから、たとえばホームレスの人たちにワンコインを施すことはある意味では普段の日常なのです。

  しかし、ここで、イエス様は二つのことを教えているのではないでしょうか。一つは、もう一度その人たちを見直してみることです。イエス様は、サマリア人のたとえ話をしています。ファリザイ派の人々も祭司も悪い人ではなかったでしょう。しかし、自分の日常を生きたのではないでしょうか。彼らは与えられた使命、与えられた仕事を果たすことそれを優先したに過ぎないでしょう。しかし、そこでもう一度怪我人に目を注いだのはサマリア人でした。イエス様は、日常の中で出会う人たちの中でもう一度見直す必要のある人のいることに気付いて欲しかったのではないかと思います。この金持ちにとっては、それが、毎日が見慣れたラザロではなかったかと思います。

  もう一つは、イエス様の十字架です。イエス様はこの話を十字架に向かうときに話をしています。そして、十字架を暗示することを金持ちに語らせています。「誰か死んだ者が生き返って兄弟のところに行ったら気が付くのではないでしょうか」。しかし、アブラハムの口を借りてイエス様は語っています。「旧約聖書で語られていることが理解できなければ、実際十字架にかかって死んでもそれが理解できないだろう」。十字架の在り方は、人のためにという在り方です。

  こうして見ると、実は、イエス様の言いたいことは一つの同じことだったのではないかと思います。このたとえ話を通して、もう一度普段の在り方を見直し、一番そばにいる人を見直し、人のために生きることが何か、考え直してはいかがでしょうか。


【聖書朗読箇所】

 いつくしみ深い神、

  苦しむ者の叫びを聞き、

  貧しい者の嘆きにこたえてくださる方。

  あなたのもとに集まったわたしたちに

  救いのことばを語りかけてください。

  みことばの光によって、

  わたしたちの住む世界が照らされますように。

集会祈願より


第1朗読 アモスの預言 6章1a,4-7節

 (主は言われる)災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは。

お前たちは象牙の寝台に横たわり長いすに寝そべり

羊の群れから小羊を取り牛舎から子牛を取って宴を開き

竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考え出す。

大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。

しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。

それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き

寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 6章11-16節

 神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。 正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。 命を得るために、あなたは神から召され、 多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 万物に命をお与えになる神の御前で、 そして、ポンティオ・ピラトの面前で 立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、 あなたに命じます。 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、 おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。 神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、 だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。 この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 16章19-31節

 「そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた)ある金持ちがいた。 いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。 犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、 天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。 金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、 宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、大声で言った。 『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。 ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。 わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。 『子よ、思い出してみるがよい。 お前は生きている間に良いものをもらっていたが、 ラザロは反対に悪いものをもらっていた。 今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、 ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、 そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。 『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。 あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、 よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。 『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。 彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。 『いいえ、父アブラハムよ、 もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、 悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。 『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、 たとえ死者の中から生き返る者があっても、 その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

2022年9月17日土曜日

9月18日 年間第25主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第25主日 C年 2022年9月18日 松村神父

今日の福音の個所は、司祭を含めて大きな壁の個所と言われています。だからこそ、どこに着目するかで、その解釈は大きく変わり、場合によればキリスト教に対する不信感を得るかもしれません。そのため、この福音を喜びの知らせに変換させる視点は、私たちの信仰、私たちのイエスに対する見方が問われているのかもしれないと思い、私はいつもドキドキしながらこの聖書の個所に挑んでいます。

聖書に向き合うたびに、毎回その視点は変わり新しさをくみ取っている個所となります。

さて、今日の個所を今の私から眺めてみると、次のように感じましたので、分かち合いたいと思います。

「不正な富」と言われていますが、そもそも「富」とはこの世で人間が作り出したもう一つの神に似たものではないかと思うわけです。私たちは「富」の誘惑といつも戦っています。人によっては「富」の虜になってしまい、奴隷になってしまう恐れまである強い力を宿すものです。だからこそすべてを捨てて「富」との関係性を断ち、神に向かって邁進するようにアシジのフランシスコは心を決めて歩みました。必要なもの、「日ごとの糧」を神から受ける托鉢修道会の誕生です。しかし世俗の中で生きる私たちは、その生活基盤を支える「富」なしに生きてはいけません。ついつい少し多めに、はたまたゆとりをもっていきたいと願うのが私たちです。昨今残りの人生2000万円騒動もあったぐらいです。だからこそ有り余るほど持ちたいと願う人も少なくなく、またお金で何でもできると考える人まで出てきます。もともと人間の心を揺るがす「富」は、「不正を起こさせる富」として人間社会に存在しています。これを「不正な富」と表現しているのであればあながち間違ってはいません。問題はこの「不正な富」を上手に制御し、神から離れないようにしなければなりません。神と富とどちらに使えるか。それは神を私たちが制御することはできませんが、「富」は私たちの心もち一つで制御できるのです。

いろいろな神父様を見てみると、定期的にご自身の給与を寄付される人もいれば、貧しい方を支援している人もいます。多額の寄付を貧しい団体に寄付している人もいれば、良い活動を陰ながら支援をしている人もいます。それはキリストの心でもありながら同時に、ため込まずご自身が「富」に左右されない生き方を示しているということでもあります。自分を律し、富に心を奪われないように、溜まれば放出するというダム的な考え方ですね。

ある学校で私は先生たちにこのように説明したことがあります。「頭のいい生徒を育ててください」「お金持ちになるように育ててください」と。なんという神父でしょうと言われるかもしれません。でもそのあとに付け加えます。「得た頭脳、得たお金を誰のために使うかも、必ず教えてください」と。それぞれ持てる人は持てない人のために働く使命がキリストから来ているからです。分かち合うことが何よりも大切。人をさげすんだり、比べたり、蹴落としたりするために教育しているのではありませんし、そのためにミッション校は存在していません。誰かのために「富」を得ているのであって、自分の為ではありません。もともと親からもらった命だし、そもそも神から与えられた命だからです。だから持てない人の分をしっかり稼いで、分かち合う必要があるのです。

だから今日の福音は、「不正な富」を制御する管理者になり、神の働き手になっていくことが求められているという意味で、不正な管理人が褒められていることを忘れてはいけないと感じるのです。「不正な富」が悪いのではなく、その「富」に制御されないように、イエス様は私たちの心に最大の恵みである「愛」を注いでいるのです。


【聖書朗読箇所】

 恵み豊かな神よ、

  ひとり子イエスは、その生涯をとおして、

  貧しさに徹して生きる道を示してくださいました。

  キリストに従うわたしたちが、

  まことの豊かさを知ることができますように。

集会祈願より



第1朗読 アモスの預言 8章4-7節


このことを聞け。

貧しい者を踏みつけ

苦しむ農民を押さえつける者たちよ。

お前たちは言う。 「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。

安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。 

エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。

弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。 また、くず麦を売ろう。」

主はヤコブの誇りにかけて誓われる。

「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」



第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 2章1-8節

(愛する者よ、)まず第一に勧めます。 願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。 わたしたちが常に信心と品位を保ち、 平穏で落ち着いた生活を送るためです。 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、 喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、 人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。 これは定められた時になされた証しです。 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、 すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。 わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、 清い手を上げてどこででも祈ることです。


福音朗読 ルカによる福音 16章1-13節

(そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。   「ある金持ちに一人の管理人がいた。 この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。 会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。 『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。 土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。 管理の仕事をやめさせられても、 自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、 まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。 『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。 そうしておけば、金がなくなったとき、 あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。 ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、 だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、 だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。 一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


2022年9月8日木曜日

9月11日 年間第24主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第24主日 C年 2022年9月11日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、「主の憐みに三つのたとえ話」などとタイトルが付けられている個所です。また、それぞれ「見失った羊のたとえ」、「なくした銀貨のたとえ」、「いなくなった息子のたとえ」と別々のタイトルをつけているものもあります。いずれにせよ、今日読まれる最初の状況設定が大切になります。そのために三つのたとえ話がここにまとめられているからです。その意味では、一つ一つのたとえ話に囚われてしまうと、大切な全体が見えてこなくなってしまいます。

  まず大切なことは、ルカが三つのたとえ話をここにまとめ上げるきっかけとなった出来事です。それは、徴税人や罪人たちがイエス様の話を聞きに来た時、ファリザイ派の人たちや律法学者たちがそれを、「あんな人たちまで仲間にして」と、好ましく思わなかったということです。それで、三つのたとえ話を並べています。これら全体のまとめになるのは、放蕩息子のたとえ話のお兄さんと父親との会話です。

  探し、見つけるものはそれぞれのたとえで異なっていますが、共通しているのは、喜びです。そしてその喜びは、変わっていきます。最初の見失った羊のたとえでは、見失ったもの(一頭の羊)を見つけることは、「喜びです」。次に、なくした銀貨を見つけることは、「近所の人と一緒に喜ぶような喜びです」。最後に行方知れずになった弟を見つけることは、「ともに喜ぶべきことではないか」、そうした喜びです。喜びは、周りの人たちを引き入れて深まっていきます(喜ぶ、喜ぼう、喜ぶべきだと)。

  ところで徴税人は、政務書の役人ではなく、徴税請負人のことです。その職業のゆえに差別されている人たちです。罪びとは、犯罪者ではなく、悪いことをする半端ものでもありません。様々な理由でファリザイ派の人たちのように律法に従って生きることが難しい人たち、神様から離れてしまった人たちです。神様を知らない人も含まれるでしょう。

  もしかしたら、ここに宣教の原型があるかもしれません。皆さんの周りに一人でもキリストに興味を持つ人がいたら、それは見失った羊のように喜びでしょう。少なくとも神様にとっては喜びだとイエス様は教えています。もしそんな人を見いだせたら、神様にとって喜びでしょうし、私たちも一緒に喜ぶよう招かれています。それは、兄が弟にしたように、それはファリザイ派の人がしていたようですが、評価したり、裁いたりすべきことではなく、喜ぶべくことなのです。

  イエス様のたとえ話は、実は非常に身近なことです。しかし、私たちは、宣教も含めて遠いところに置いてしまって、評価したり、栽いたりして、喜ぶことを忘れていないでしょうか。もし、身近なものとして味わえたら、イエス様の残念さが、この例え話をしなければならなかった気持ちがわかるのではないでしょうか。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


 いつくしみ深い神よ、

  あなたはひとり子を遣わし、

  すべての人を回心の道へと招いておられます。

  キリストのもとに集められたわたしたちが、

  たえずあなたの救いを喜び歌うことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 32章7-11,13-14節

 (その日、)主はモーセに仰せになった。 「直ちに下山せよ。 あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、 それにひれ伏し、いけにえをささげて、 『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と 叫んでいる。」 主は更に、モーセに言われた。 「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 今は、わたしを引き止めるな。 わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。 わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 モーセは主なる神をなだめて言った。 「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。 あなたが大いなる御力と強い御手をもって エジプトの国から導き出された民ではありませんか。 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを 思い起こしてください。 あなたは彼らに自ら誓って、 『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、 わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、 永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 1章12-17節

(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。 この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。 しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、 あふれるほど与えられました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。 わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、 キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、 わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、 誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 15章1-32節

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と 不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、 その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも 大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、 その一枚を無くしたとすれば、 ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、 『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、 神の天使たちの間に喜びがある。」

  (また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を ください』と言った。 それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、 そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、 彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、 その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、 食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。 『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、 わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。 「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、 憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。 『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。 『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、 足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、 音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。 無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。 言いつけに背いたことは一度もありません。 それなのに、わたしが友達と宴会をするために、 子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、 娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、 肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。 『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」)

2022年8月31日水曜日

9月4日 年間第23主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

イエスが言われることは全てにおいていつもそうですが、これは福音書全体の内容から読みとらなければなりません。思い出して下さい、最も大切な最初の命令は「心を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」とイエスは言われたのです。

 このことはもちろん家族も含みます。ですが、今日の福音でイエスは私たちに「神を愛するのに何であれ妨げとなるものがあれば、それは自分の生活から取りのぞかなければならない。それを憎まなければならない」と言われます。

 憎しみ、ここでいう意味は憎しみの罪のことではありません。私たちの心に沸きあがり抑えることができなくて、ひどいことを言ってしまうような怒りのことではありません。むしろここでの憎しみとは、神との関係で邪魔になるようなものからは喜んで距離をとってしまいなさいということです。

 それが富、名声、権力、肉欲、酒など何であれ、その邪魔ものを私たちの生活の中から追い払うべきなのです。時には驚くことですが、ある人たちは神との関係をいつも生きるため、自分たちは家族から離れるべきとすることです。しかし、このような場合でも、私たちは家族を愛し続けます。愛とは時には異なる形をとるものです。

 家族は平和、調和そして愛の場として計画されました。しかし多くの人が人生で経験する悲しい現実は、時として私たちの家族関係が神や他者との愛の妨げに直接なってしまう事です。このような場合には、神への愛のため別の方法をとるようにと言われるイエスに耳を傾けなければなりません。

 おそらくこの聖書の箇所は時に誤解され誤って使われるかもしれません。家族のものたち、また他人を軽蔑、残酷、恨み等で扱ったり、又、怒りの感情にまかせてしまう言い訳にしてはなりません。これは正義と真実に基づいて行動し、神の愛から私たちを遠ざけるものは拒否しなさいという神からの呼びかけなのです。

 今日は、神とあなたの関係で何がもっとも大きな妨げであるかを黙想しましょう。誰が、何が、あなたの心からの神への愛を引き裂いているのでしょうか。望むらくは、何も、誰もこの中にいないことですが、もしそうだとしたら、あなたが強められるように力づけ、何よりも生活の中で神を優先するように呼びかけるイエスの言葉を聞きましょう。


【聖書朗読箇所】

永遠の神である父よ、

  ひとり子イエスは、

  わたしたちの救いのために十字架を担ってくださいました。

  きょう、救いの神秘を祝うわたしたちに聖霊を注いでください。

  いつもあなたに心を開き、み旨に従うことができますように。

   集会祈願より



第1朗読 知恵の書 9章13~18節


 神の計画を知りうる者がいるでしょうか。

主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。

死すべき人間の考えは浅はかで、

わたしたちの思いは不確かです。

朽ちるべき体は魂の重荷となり、

地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。

地上のことでさえかろうじて推し量り、

手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、

まして天上のことをだれが探り出せましょう。

あなたが知恵をお与えにならなかったなら、

天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、

だれが御旨を知ることができたでしょうか。

こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、

人はあなたの望まれることを学ぶようになり、

知恵によって救われたのです。」



第2朗読 フィレモンへの手紙 9b~10、12~17節

(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、 このパウロ(は、) 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、 頼みがあるのです。 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 本当は、わたしのもとに引き止めて、 福音のゆえに監禁されている間、 あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 あなたの承諾なしには何もしたくありません。 それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、 自発的になされるようにと思うからです。 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、 あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、 つまり愛する兄弟としてです。 オネシモは特にわたしにとってそうですが、 あなたにとってはなおさらのこと、 一人の人間としても、 主を信じる者としても、 愛する兄弟であるはずです。

 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、 オネシモをわたしと思って迎え入れてください。


福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、 イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、 父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、 これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、 造り上げるのに十分な費用があるかどうか、 まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、 見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』 と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、 二万の兵を率いて進軍して来る敵を、 自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、 まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、 敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、 和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

2022年8月27日土曜日

8月28日 年間第22主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 “もしあなたは招待されたら。” ウルバン神父

イエスが食事のためにファリサイ派のある議員の家に呼ばれた時、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気が付いた。それでイエスが言われた。「もし招待されたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、招いた人が来て、さあ、友よ、もっと上に進んでください、と言うだろう」。

皆さんは、宴会の時の悩みを知っているでしょう。誰をどこに座らせようか、誰に挨拶をさせようか、誰かを”先生“と呼ぼうか、と心は悩みにいっぱいです。もし間違ったら、大変ですよ。私が末席に座って無視されたら、素直に喜んで皆と共に祝う事が出来るでしょうか。できる人もいますが、みんなはそうではない。自分はどうでしょうか。もし、忘れられて、「もうちょっと上のほうに進みなさい」と呼んでくる人がいなかったら、まあ、大変だ。心は傷つけられて、怒りと暗闇に満ちているだろう。この傷は癒しがたい。長い、長い間、忘れられなく、許せないでしょう。

イエスの弟子でさえも、素直に末席を喜ばなかった。自分達の中で誰が一番偉いのだろうかと、よく話し合って、争っていた。最後の晩さんまで、イエスのそばの席を狙っていた。二階の階段を上った時、大騒ぎだったと思う。やっと座った時、きつい顔で互いを見つめあったでしょう。暗い雰囲気でした。その時、イエスは一人ひとりの前で床の上に座って、足を洗って接吻した。足元に座って、小さくなったイエスの姿は一人ひとりの心に触れた。

何十年も前に留萌という町に住んでいた。ある時、家のゴミを車に乗せて、ゴミ捨て場へ持っていた。ボロ服を着て、長靴を履いて、雨でドロドロになった臭い所で自分のゴミを降ろした時、ちょうどそこにいた人達が走って来て叫んだ。「先生、それはいかん。こんな汚い所で、こんな事をするなんて」。自分の偉い園長先生のボロ姿を見た時、びっくりした。ところが、うちの親は貧しくて、私は土と泥に慣れていた。偉い者だと感じなく、汚くなるのは恐れなかった。

何週間か前に話したように、ガールスカウトと共に韓国のあるライ病村へ行った事があります。あるガレージみたいな物置に近づいたら、数人の患者さんが立っているのが見えた。何だろうと思って近くに行ったら、そこに病人が座って、いたずらの顔をしながら、自分のライで腐った足の残りを皆の前で伸ばしていた。足の様子はひどかった。血とうみが流れ出た。彼の前に一人の神父さんが土の上に座って、優しく丁寧に、すごく良い顔をして、その足を洗って世話をした。その患者さんは不思議な王様のように、嬉しそうにそこで座っていた。本当にかわいそうな姿であったのに、まったく悲しまなかった。どうしてでしょうか。自分の足元にいた方の顔を見て、その優しい手を感じた時、とても愛されているのを知った。忘れられない時でした。末席より低い所に座って、血とうみが流れる足を触れるのを見たら、私たちの心はすごく動かされて、イエスの姿を見ていた。この体験は、私たちの心のなかに長く響いていた。


【聖書朗読箇所】


信じる者の救いである神よ、

  あなたは高ぶる者を退け、へりくだる者に目を留めてくださいます。

  わたしたちが神の前に皆等しく貧しいことを悟り、

  キリストのことばに希望を見いだすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 シラ書 3章17-18 , 20 , 28-29節


子よ、何事をなすにも柔和であれ。

そうすれば、施しをする人にもまして愛される。

偉くなればなるほど、自らへりくだれ。

そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。

主の威光は壮大。

主はへりくだる人によってあがめられる。

高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。

彼の中には悪が深く根を下ろしている。

賢者の心は、格言を思い巡らし、

知者の耳は、格言を熱心に聴く。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章18-19 , 22-24a節


 (皆さん、)あなたがたは手で触れることができるものや、 燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、 更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、 近づいたのではありません。 しかし、あなたがたが近づいたのは、 シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、 無数の天使たちの祝いの集まり、 天に登録されている長子たちの集会、 すべての人の審判者である神、 完全なものとされた正しい人たちの霊、 新しい契約の仲介者イエス(なのです。)



福音朗読 ルカによる福音 14章1 , 7-14節


 安息日のことだった。 イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、 人々はイエスの様子をうかがっていた。

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、 彼らにたとえを話された。 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。 あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、 『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。 そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。 そうすると、あなたを招いた人が来て、 『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。 そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。 「昼食や夕食の会を催すときには、 友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。 その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、 足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。 正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

2022年8月17日水曜日

8月21日 年間第21主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】

年間第21主日(8月21日)福音のメッセージ

 イエス様の言葉は時に優しく、時に非常に厳しく語られる。「私の平和を与える」と言いながらも「むしろ分裂だ」とも言う。「罪びとを招くために」来たのだが、同時に「地上に火を投ずるため」とも言われる。あえて相対するこれらの言葉群を投げつける目的は、聖書学者によれば「知恵ある言葉」として与えられるイエスの思いであろうとのことだ。決して分離させてその文字だけを取り上げないようにしなければならないという意味だろう。実際私たちは悩んでいたわけである。

 かつて「「一致」と「離散」はキリスト教の中で相対する言葉だが唯一それを成り立たせる言葉がある。」と神学生時代に授業で教えられた。矛盾しているようだが唯一それを完成する言葉は「愛」のみであるとのこと。確かに愛あれば「一致」を可能とし、また神の懐における「離散」も愛ゆえの出来事であろう。

 これを前提で福音を読み進め、「狭い戸口」を考えた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の物語を思い出す。人間は罪深いものだが、それでもどんな人にでもわずかながらお釈迦様に認められる善い行いはあるもの。そこで重罪であったカンダタにも蜘蛛を助けたことから一本の糸が地獄へと投げ込まれる。しかしカンダタはその糸で登り始めると、下から他の罪人が糸を辿って登り始めた。重く糸が切れるかもしれない。そこで下からくる罪人を蹴落とし、自分だけが助かろうとした。その結果カンダタの持っていた糸が切れてしまった。

 このお話はここで終わりだが、福音書から眺めてみよう。もしカンダタが他の罪人をこの場で救おうとしてらどうだろうか。私はきっと皆が助かったに違いないと思う。自分の手前で糸は切れるかもしれない。それでも最後に多くの人にも救いの道をともに歩みたいという思いがあれば、この物語はきっと皆を引き上げたのだろう。つまり、狭い戸口は、自ら狭くさせる必要があるのではないだろうか。どんなに大きな門であっても、多くの仲間を共にすればその門は全体からして狭くなってくる。一人で通るのはたやすいが、私たちの信仰の在り方は、一人で通る生き方を求めていない。常に神の民全体に目が向けられている。だからこそ一人でも多く手をつなぎ、神の救いの大きな門を狭くする行動が必要なのだ。手をつなぐ努力は一長一短ではできない。だからこそ今から一人、また一人と手をつなぐ作業を続けなければ、その時に「お前たちがどこの者か知らない」と門の前で言われるに違いない。カンダタの前で糸が切れたように。

 今日の福音は、愛によって人を繋いできたイエスを振り返り、私たちもイエスに倣い歩む姿が見る。後の者が先になり、先の者が後になる心、すなわち謙虚さと人への尊敬の念が無ければ、この課題を乗り越えていけない。救われる者が多いか少ないかをイエスに質問するが、それは自分が救われたいという裏返しの質問ではないだろうか。しかし、数の問題を投げかけるその人に対し、イエスは質の在り方すなわち「知恵」で返答された。改めて、私たちも見えるものに惑わされず、見えないものに心を向けていきたいと思う。9月は「すべてのいのちを守る月間」であるが、見える命にとらわれず、見えないいのちにも目を向けられるよう、周りの日常の環境を黙想してはどうだろうか。



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

  国籍や民族の異なるわたしたちを、

  あなたはきょうも神の国のうたげに招いてくださいます。

  呼び集められた喜びのうちに、

  わたしたちが一つの心であなたをたたえることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 イザヤ書 66章18~21節


 (主は言われる。)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、 すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。 彼らは来て、わたしの栄光を見る。 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、 彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。 すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、 更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。 彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、 馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、 あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。 それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、 主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章5~7、11~13節


 (皆さん、あなたがたは、)子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

 主から懲らしめられても、

   力を落としてはいけない。

 なぜなら、主は愛する者を鍛え、

 子として受け入れる者を皆、

   鞭打たれるからである。」

 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、 悲しいものと思われるのですが、 後になるとそれで鍛え上げられた人々に、 義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、 自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。



福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節


 (そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。 イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。 言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、 あなたがたが外に立って戸をたたき、 『御主人様、開けてください』と言っても、 『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、 『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、 また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』 と言いだすだろう。 しかし主人は、 『お前たちがどこの者か知らない。 不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや すべての預言者たちが神の国に入っているのに、 自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

2022年8月11日木曜日

8月14日 年間第20主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第20主日 C年 2022年8月14日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音で、イエス様は突然弟子たちを驚かせるようなことを言い出します。「地上に火を投ずるために来た。その火が既に燃えていたら……。」イエス様は、文字通りに、この世界が火に焼きつくされていること、或いは、この世界が炎で燃え盛っていることを望んだのでしょうか。

  キリスト教が広まったヘレニズムの世界では、世の終わりには火が全世界を焼き尽くし、世界が新しくなるという考え方がありました。これがきちんとした思想になるのは、ルカが福音書を書く少し後のことですが。こうした思想があったことを考える時、イエス様の言葉が世の終わりの裁きについてのこうした考え方に結び付いたとしても不思議ではありません。

  しかし、今日の福音は別の理解と結びついてもよいようです。今日のこの福音を選んだ教会は、その別の意味で捉えているようです。集会祈願を見てみましょう。「あなた(御父である神)はすべての人の救いのために、御ひとり子を遣わしてくださいました。ここに集う私たちを聖霊によって清めてください。」つまり、教会は、この火を世の終わりに降ってくる裁きの火の意味ではなく、聖霊の意味で理解している、と捉えていることができます。父である神は、世を救うために御子をお遣わしになり、救いを全うされました。御子は、十字架の死を通して弟子たちに聖霊を派遣しました。ルカは、このことを『使徒言行録』で詳しく説明しています。ペンテコステの日、弟子たちが集まっていると、激しい音がして、天から炎のような舌が現れ、弟子たちの上に留まります。聖霊降臨の出来事です。弟子たちは新しい命に生かされ、その使命に生きる者となりました。

  イエス様は、その前に苦しみの洗礼を受けると予告しています。ルカは、他の福音書を書いた人たち以上に具体的にイエス様の十字架の苦しみを描いています。それは、私たちが聖霊に生かされるためです。イエス様が来るまでに、既に弟子たちが聖霊に生かされていたらどれだけよかっただろうに。イエス様の気持ちがうかがい知れます。

  ただし、弟子たちがこの使命に生きることは、さほど容易なことではないようです。イエス様は、誕生物語で、シメオンが預言しているように、異邦人の光であり、イスラエルの栄光ですが、同時に逆らうを受けるしるしともなるからです。この救いのための決断の厳しさは、聖母マリアでさえ例外扱いされませんでした。その使命に生きることの厳しさは、ここでは家庭の不和をもってたとえられています。

  私たちも、集会祈願にあるように、聖霊に清められ、聖霊に生かされて、キリストに従って生きる喜びを味わえたらと思います。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】

いつくしみ深い神よ、

  あなたはすべての人の救いのために 御ひとり子を遣わしてくださいました。

  ここに集う私たちを聖霊によって清めてください。

  キリストに従っていきる喜びが 一人ひとりのうちに満ちあふれますように。

集会祈願より

第1朗読 エレミヤの預言 38章4-6 ,8-10節

 (その日、役人たちはエレミヤについて)王に言った。

「どうか、この男を死刑にしてください。 あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。 この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」

ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。 王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」

 そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。 水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。

 エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。

 「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。 彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。 もう都にはパンがなくなりましたから。」

 王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。


第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章1-4節

 (皆さん、わたしたちは、)このようにおびただしい証人の群れに 囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、 恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、 神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、 御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。


福音朗読 ルカによる福音 12章49-53節

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。 それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。 そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、 二人は三人と対立して分かれるからである。

 父は子と、子は父と、

 母は娘と、娘は母と、

 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、 対立して分かれる。」

2022年8月6日土曜日

8月7日 年間第19主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

8月7日 説教 レイ神父

イエスは弟子たちに言われた。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」ルカ12章32節。 このイエスからの短い言葉は3つの事を私たちに示します。

まずイエスは、恐れが私たちの生活を支配するのを許してはならないという、よく知られている事を思い出させます。人生には恐れ、悩み、心配などを生じさせる様々な事があります。恐怖を克服するというのは謙虚さの問題です。その謙虚さが自分自身や直面する問題から私たちの主へと目を向けさせるのです。主に目を向けるとき、恐怖は消え、そして信頼に取りかわります。

次に、これもまたイエスからのたいへん優しい言葉です。その中でイエスは彼の弟子たち、そして私たちをイエスの”小さな群れ”と呼ばれます。これは愛情ある言葉で、主の優しく思いやりのある心を表しています。この愛ある言葉は私たちが主に属すというだけでなく私たちへのイエスの愛が親密で心からのものであることを表します。もし私たちがこのイエスの愛を理解するなら、同じく深い思いをもってイエスに愛をお返しするしかありません。

最後にこの行(言葉)は天におられる父なる神の国を私たちに指し示しています。私たちが信頼し、親密な関係を持つべき父なる神は、私たちを最も栄光ある王国において、分かち合うようにと招いておられます。神の王国は私たちものとなり、その呼びかけがなんと素晴らしいものであるかとわかれば、それを追い求めるとき私たちは希望と興奮に包まれることでしょう。

今日は、思いやり深いイエスの心からの招きを、神の王国に目を向けるために黙想しましょう。そうするとき、この啓示によってあなたは人生から恐れを取り去り、その重荷に打ち勝つ強さを得て行く事でしょう。あなたの信頼を神に置き、神にあなたを変えていただきましょう。



【聖書朗読箇所】


希望の源である神よ、

  あなたは深いはからいによって、

  世界に救いをもたらしてくださいます。

  あなたの民の集いに聖霊を注いでください。

  神の国の実現を信じるわたしたちの心が、

  希望のうちに一つになりますように。、

   集会祈願より



第1朗読 知恵の書 18章6~9節


あの夜のことは、我々の先祖たちに

   前もって知らされており、

彼らはあなたの約束を知って

  それを信じていたので、   動揺することなく安心していられた。

神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、

あなたの民は待っていた。

あなたは、反対者への罰に用いたその出来事で、 わたしたちを招き、光栄を与えてくださった。 善き民の清い子らは、ひそかにいけにえを献げ、 神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。 それは、聖なる民が、順境も逆境も

  心を合わせて受け止めるということである。 そのとき彼らは先祖たちの賛歌をうたっていた。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~2、8~19節(または、11章1~2、8~12節


 (皆さん)信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に 出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、 同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を 待望していたからです。 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに 子をもうける力を得ました。 約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、 また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

 (この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、 自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを 明らかに表しているのです。 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、 戻るのに良い機会もあったかもしれません。 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。 だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。 神は、彼らのために都を準備されていたからです。 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。 つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、 「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。 それで彼は、イサクを返してもらいましたが、 それは死者の中から返してもらったも同然です。)




福音朗読 ルカによる福音書 12章32~48節(または 12章35~40節)


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

 (「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 自分の持ち物を売り払って施しなさい。 擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。 そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、 すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、 そばに来て給仕してくれる。 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、 目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 このことをわきまえていなさい。 家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、 自分の家に押し入らせはしないだろう。 あなたがたも用意していなさい。 人の子は思いがけない時に来るからである。」

 (そこでペトロが、 「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。 それとも、みんなのためですか」と言うと、 主は言われた。 「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした 忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、 下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、 彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 主人の思いを知りながら何も準備せず、 あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。 すべて多く与えられた者は、多く求められ、 多く任された者は、更に多く要求される。」)


2022年7月31日日曜日

7月31日 年間第18主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第18主日 C年 2022年7月31日

“神の前に豊かにならない者は”  ウルバン神父

“有り余るほど物を持っても、人の命は財産によってどうする事もできない”と主の言葉は本当です。自分の人生を振り向いてみると、小さい時から豊かな生活を知りませんでした。それでも私たち子供達は、毎日明るく生きていました。自分の貧しさをあまり感じませんでした。親を囲んで愛されて生きることで十分でした。

10才の時のある夜でした。戦争の時でした。母親は、激しいサイレンで目が覚めて飛び上がった。飛行機が来るんだ、「起きて、早く起きて」と叫びながら、私達を起こそうとしたが、私たちは動かなかった。叩きながら、蹴とばしながら、やっと私達3人を4階から地下へ動かした。そこに着いた途端に空爆が始まった。突然、ものすごい爆発があって、家の土台まで響いて、私たちの上に色々と崩れ落ちたが、誰がどこにいるか、知らなかった。暗闇の中で叫び声があった。朝になって、ガレキの中から出ると、私たちは互いを見つめあった。ボロボロの姿でしたが、生きていた。隣の家では、そうではなかった。みな死んでいた。私達はすべてを失って、もう何もなかったが、それでも嬉しかった。傷なしで生きていた。ガレキの中に立った時、泥どろの中、私の小さい金魚を見つけた。必死にごみの中で生きようとしたが、助ける事ができなかった。その日、一番悲しんだのは、この金魚の事でした。その日、私たちは家のない貧しい旅人となった。何百km離れた田舎にある本家の人に受け入れてもらった。私はまだ子供でしたが、「物はどうでもいい、生きるだけでもありがたい」と体験した。 

二年後の復活祭ごろ、戦争が終わりました。夏になると、刈入れが終わった後、私たち子供は毎日畑へ行って、聖書に書いてあるモアブ人のルツのように、落ちた麦の穂を拾って、種を集めていた。秋ごろ、町へ帰る事が出来た。父はもう戦争から無事に帰って来て、小さいちょっとボロ住まいを準備した。その時のクリスマスの夜を忘れる事が出来ません。プレセントはありませんでしたが、ローソク一本を囲んで、歌ったり、祈ったり、沈黙のうちに見つめあったりして、手を繋いで共にいるのは幸せでした。私達が畑で集めた種で母親が作ったクッキーをかじりながら。

家族の中の親しみは、神様からの最高の恵みです。どうしてこの宝を、遺産と色々な貪欲によって壊せるでしょうか。それは残念ながら、よくあるのです。けれども、私達はまず神の国と家の平和を探しましょう、後の物は与えられる。どうにかなる。

ある日、車で達布村の山から留萌へ帰った時、共にいた方は私に、雑草の中の古いわら小屋を見せた。「見なさい。子供の時あのわら小屋に住んだ時に、私はすごく幸せでした」。神様の言葉です。「いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、すべての事について感謝しなさい」。富があっても、貧しさがあっても、感謝しよう。あなたの心に喜びが湧き出る。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、

  わたしたちが日々の労苦に疲れ果てるときも、

  さわやかな憩いを与えてくださるのはあなたです。

  真実の生き方を求めてここに集うわたしたちが、

  キリストのうちに生きる喜びを見いだすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 コヘレトの言葉 1章2節,2章21-23節


 コヘレトは言う。

 なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。

 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、 まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。 これまた空しく大いに不幸なことだ。 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、 労苦してみても何になろう。 一生、人の務めは痛みと悩み。 夜も心は休まらない。 これまた、実に空しいことだ。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3章1-5,9-11節


(皆さん、)あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、 キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、 あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、 および貪欲を捨て去りなさい。 貪欲は偶像礼拝にほかならない。 互いにうそをついてはなりません。 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、 日々新たにされて、真の知識に達するのです。 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、 未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。



福音朗読 ルカによる福音 12章13-21節


(そのとき、)群衆の一人が言った。 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。 「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、一同に言われた。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも できないからである。」 それから、イエスはたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、 『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』 と思い巡らしたが、やがて言った。 『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、 そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。 ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、 『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

2022年7月23日土曜日

7月24日 年間第17主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第17主日 C年 2022年7月24日  松村神父

今回は「祖父母と高齢者のための世界祈願日」である本日の教皇のメッセージから考えてみたいと思います。

 教皇は詩編を用いて「白髪になってもなお実を結び」(詩編92:15)と、語りだし、これこそ福音、これこそ喜びの知らせであると私たちにメッセージを与えてくださいました。そこで個人的に思い出したことを分かち合いたいと思います。

 2016年4月に熊本県を襲った熊本地震。多くの被害を出して東日本大震災に引き続いて日本に不安を与えました。当時東日本大震災の復興支援担当をしていた私は、急遽熊本に対しても復興支援を始め、教区内で集めた募金をどこに振り分けるかを吟味し、決定したところに視察を兼ねて直接手渡しに行くことにしました。11月に現地視察に仲間の司祭を派遣し、その土産話を聞いたところ、阿蘇の麓の過疎地域“西原村”というところで面白い活動を行っていると、情報をいただきました。そこでは高齢者が率先して復興に立ち上がっていました。というよりも、もともと若い人がいないので、若い人がいなくてもできることをしなければと、みずから”爺(じじぃ)“”婆(ばばぁ)“の農業復興、頭文字を取って”じ・ば“産業(地場産業)を始めました。西原村の町長が、町長を辞職し復興に全精力をかけ呼びかけたところ、多くのじじ・ばばが立ち上がったのです。その勢いと努力、ネーミングのセンスから、復興支援担当として飛びついたわけです。翌年に早速募金をもって訪れ、現地の復興状況などを拝見したところ、さすが年の功。米と栗を中心に、素晴らしいものを作り上げ、また多くのネットワークまでつながりを持たれていました。九州全域から収穫時には若い人たちが手伝いに訪れ、じじ・ばばさん達はよりパワーアップし、若返り、逆に訪れた私たちのほうが元気をいただいたのでした。

 門をたたくものには、神様は開いてくださることを示されたことを実感した出来事でした。彼らは信者ではない人たちのほうが多いのですが、カトリックのネットワークも上手に生かし、西原村の人が一人も零れ落ちないよう元町長が配慮し、また自分たちの家の立て直しを最後に回し、村の復興に皆を巻き込んで再構築に臨んだ姿は、言葉にならない願いと祈りと力を感じました。その行動からまさに「白髪になっても実を結び」続けようとする高齢者の底力を目の当たりにしたときに、まだまだ高齢者であっても前線で生きる人々であることを意識づけられたのでした。私はこの一連の中にすべてが凝縮されていると感じます。

 力は衰えるものと決め、その身を引いていく人たちは多くいます。確かにできることは限られてきているのは事実ですが、逆により研ぎ澄まされ神の知恵が輝き出る姿があります。それは人の力ではなく、神様がこの身を通して示しています。隠し持つのではなく、証していくことが求められます。教皇は「高齢者は孫をひざの上で抱きしめるとき」でもあると訴えています。「ひざの上に座らせること」「だきしめること」「語ること」を成り立たせるのは高齢者でなければできません。そこに多くの実が結ばれ、その実を食する多くの子供たちがいることを忘れないようにしましょう。皆さんは神様に選ばれていること、若い人にはできないことを担っています。年齢を超えて尊敬しあい、神の弟子として選ばれた喜びの知らせを味わい、もうひと踏ん張りいたしましょう。


【聖書朗読箇所】

いのちの源である神よ、

 主イエスはわたしたちに、

 あなたを父と呼ぶことを教えてくださいました。


 主のことばに従い、

 ともに祈るために集まったわたしたちを祝福し、

 聖霊の光りで満たしてください。

集会祈願より


第1朗読 創世記 18章20-32節

 (その日、)主は言われた。

 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、 と訴える叫びが実に大きい。 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 アブラハムは進み出て言った。

 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、 あなたがなさるはずはございません。 全くありえないことです。 全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

 主は言われた。

 「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

 アブラハムは答えた。

 「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。 それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」

 主は言われた。

 「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」

 アブラハムは重ねて言った。

 「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「その四十人のためにわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。

 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。 もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。

 「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」

 アブラハムは言った。

 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。 もしかすると、十人しかいないかもしれません。」

主は言われた。

「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」


第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 2章12-14節

 (皆さん、あなた方は、)洗礼によって、キリストと共に葬られ、 また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、 キリストと共に復活させられたのです。 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、 神はキリストと共に生かしてくださったのです。 神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、 これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。


福音朗読 ルカによる福音 11章1-13節

 イエスはある所で祈っておられた。 祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、 わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。 「祈るときには、こう言いなさい。

 『父よ、

 御名が崇められますように。

 御国が来ますように。

 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

 わたしたちの罪を赦してください、

 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 また、弟子たちに言われた。 「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、 真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。 『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、 何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。 『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、 子供たちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。 その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、 しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。 求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる 。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、 門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、 魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、 自分の子供には良い物を与えることを知っている。 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


2022年7月15日金曜日

7月17日 年間第16主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 


年間第16主日 C年 2022年7月17日 湯澤神父

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、イエス様の一行がマリアとマルタの家を訪問した時の話です。おそらく二人は、イエス様に好意を持っており、喜んで迎えたのでしょう。しかし、実際に受け入れた時に問題が起こります。マルタは、行動的な女性だったのでしょう。一行をもてなそうと考えたようです。部屋を準備したり、お茶などを準備したり、歓迎するには、色々と大変なことがあります。他方、姉妹のマリアは、イエス様の言葉にひかれて、離れられなくなっていたのかもしれません。

  そこで、猫の手も借りたいマルタは、イエス様に言います。「マリアは、わたしだけに働かせて、一向に手伝おうとしていません。手伝うように注意してください」と。どこまで本気だったのか、軽く不満を述べたのか、その辺はわかりませんが、親しさを考えると、軽い感じだったのではないでしょうか。

  ところで、イエス様の時代、律法(神のことば)に関して何が大切かが問題になっていました。つまり、律法を聞き、学ぶことが重要で先か、それとも実践することが重要で先か、という問題です。イエス様の時代は、まず神のことばを聞き、それから実践するというように、聞くことが優先するという考えが主流だったようです。おそらくイエス様もそれに従ったのではないでしょう。ですから、まず大切なことは、マリアのように神のことばに耳を傾けることだということでしょう。これを実践するとなると、様々な条件が係って来て、それこそ心が乱れてしまいます。そんなときも、やはり神のことばに立ち返り、神のことばに戻る他ないのです。

  11月末に、ミサの中のことばが新しく変えられるところがあります。その中に、今現在は、神のことばの朗読の後に、侍者や朗読者が言っている曖昧なことばがありますが、11月以降は、はっきり宣言しなければならなくなるところがあります。第一と第二朗読の後、朗読者は「神のことば」と宣言し、一同は「神に感謝」と応え、福音朗読の後には朗読者が「主のみ言葉」と宣言し、一同が「キリストに賛美」と応えます。

  マリアとマルタの出来事を、こうした具体的な事例に当てはめてみましょう。ミサにおいて私たちは、朗読を聞くのではありません。そこで語られる神様の言葉、キリストの言葉を聞くのです。神御自身が、そしてキリスト御自身が語り掛けられるのです。朗読なら聞き流すことはできるでしょうが、じかに語り掛けられたら黙っているわけにはいません。何らかの反応をします。説教も同じです。それこそ朗読における神とキリストの現存です。まず聞かなければ、相応しい応えは出てきません。そうでないと、応えにはならず、勝手な行動をする人の勝手な思い込みが入り込む余地が生まれるからです。ミサの中で神とキリストの言葉に耳を傾ける大切さを、思い起こしてみましょう。


【聖書朗読箇所】

救いの源である神よ、

  あなたはいつもわたしたちのもとを訪れ、

  語りかけてくださいます。

  神の子として集められたわたしたちが、

  きょう語られるいのちのことばに

  耳を澄ますことができますように。

集会祈願より



第1朗読 創世記 18章1-10a節

 (その日、)主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。 暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。 アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。

 「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 水を少々持って来させますから、 足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。 せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」 その人たちは言った。

「では、お言葉どおりにしましょう。」

 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。

「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」

 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、 召し使いに渡し、急いで料理させた。  アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。 そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

 彼らはアブラハムに尋ねた。

 「あなたの妻のサラはどこにいますか。」

「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。

 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、 そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」


第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 1章24-28節

 (皆さん、)今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの 苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。 その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。


福音朗読 ルカによる福音 10章38-42節

 (そのとき、)イエスはある村にお入りになった。 すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。 マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。 手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

2022年7月9日土曜日

7月10日 年間第15主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


年間第15主日     2022年 7月10日    

 “ 私の隣人とはだれですか”             ウルバン神父

ある人はエルサレムからエリコへ下って行った。私は小さい時からこの話を知って、これをちょっと震えながらも、喜んで聞いていた。私達も今覗きながら、 旅する人について行きましょう。

何時間も寂しい砂漠を通る遠い道だった。暫くの間まだあちこち羊の群れに出会ったが、だんだん緑が消えて怖い砂漠に入った。時間が進んでエリコに向かって下り道を進むと、暑さに覆われた。草が一本も見えなくなって、渇きを癒す水もなかった。鳥の鳴き声もなかった。石だらけの狭い道の左右に、高い岩の山ばかりがあった。旅人はもう疲れて、命のない恐ろしい自然を見回しながら、心が震えてきた。突然ひどい叫び声があって、岩の陰から追いはぎが走ってきた。追いはぎはその人を殴りつけ、裸にして、半殺しにしたまま消えてしまった。

意識が戻ったら、体から血と共に命が流れ出るのを知った。ホラ、音が聞こえた、足音だ。司祭が歩いて来た。アア、良かった。ところが、行ってしまった。「せっかく神殿で清められたから、神様に呪われたあの血だらけな者に触れたら、汚されるんだ」と。「ああ、また誰が来る。聖なるレビ人だ」。最後の力で手を上げて「助けて」と言い出したが、その人も血が付かないように白い衣をも持ち上げて、祈りながら行ってしまった。旅人は絶望と暗闇に沈んだ。もう夕方になった。太陽が次第に沈みそうになった。沈けさの中に獣の声が聞こえた。体の上にいっぱい虫がいて血を吸っていた。また音が聞こえた。『タプ、タプ』ああ、ロバだ。良かった。ちょっと覗くと「大変だ。サマリア人だ。今度は殺される」と隠れようとした。足音が近づいて、頭のそばに止まった。体と心が震えた時に優しい声か聞こえた「友よ、もう震えるな。安心して、あなたを助けるよ」と、柔らかい手に抱かれた。水を飲ませて、ひどい傷を油とぶどう酒で癒した後、ロバに乗せて、抱きながらエリコの手前の宿屋に連れて行った。そこで夜中、彼の側にいて居眠りを見守っていた。

その夜は二人にとって恵みの夜となった。二人は一生失わない友を得たのだ。隣人となるのは実に美しい事です。傷を包帯するだけではなく、相手に希望を与える人になる。不信頼は深い信用に、暗闇は光に、孤独は暖かさに変わる。隣人に手を伸ばすのは、美しい心と心の出会いです。二人の心の中の喜びはもう奪われることはない。私の隣人、あなたの隣人はどこにいるのでしょう。

何十年前の事でした。二人の若者が朝早く道端に座っていた。16才の私と私の兄でした。夏休みの時、何百㎞離れた古里へ帰ろうとしたが、お金はなかった。一日歩いた後どこかの草の中で寝ていた。夜に雨が降ったが、いま道端で、腹の餓を我慢しながら、止まってくれる車を待っていた。「おお、車が止まっている」と叫んで二人は走っていた。すごいアメリカンの車でした。中には若い黒人の軍人いた。「Oh boys, come in please」と呼ばれた時、私たちは急いで車に乗った。とっても嬉しかったが、そのうちに腹が「ググ」となった。若い軍人は袋に手を入れて、でっかいサンドを出した。ワァァ、ステーキサンドウイッチでした。彼を見つめながら美味しく食べていた。ただの一回の出会いでした。若い黒人の軍人は私達を忘れたと思うが、私の心の中に彼はまだ生きています。


【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い父よ、、

  人とのかかわりを見失い、

  愛に飢え渇く世界に、

  主イエスは、

  ことばと行いをとおして愛をもたらしてくださいました。

  わたしたちが、きょう語られるキリストのことばを、

  誠実に受け止めることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 申命記 30章10~14節


 (モーセは民に言った。あなたは、)あなたの神、主の御声に従って、 この律法の書に記されている戒めと掟を守り、 心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰(りなさい)。

 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。




第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章15~20節


 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、 王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。 つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、 すべてのものは御子によって支えられています。 また、御子はその体である教会の頭です。 御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。 こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、 地にあるものであれ、天にあるものであれ、 万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。




福音朗読 ルカによる福音書 10章25~37節


 (そのとき、)ある律法の専門家が立ち上がり、 イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい、 また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。 「正しい答えだ。それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、 追いはぎに襲われた。 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、 半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、 その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、 宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、 宿屋の主人に渡して言った。 『この人を介抱してください。 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。 「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」


2022年7月2日土曜日

7月3日 年間第14主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第14主日 2022年7月3日  レイ神父


この週の福音書でイエスは一つの光景をご覧になります。サタンが稲妻のように天から落ち、敵はイエスの教会から遣わされた布教者たちの教えに屈服しました。

神聖な裁きによる収穫で民族を集め始めるようにとイエスから派遣された(イザヤ27:12-13,ヨエル書4:13)その72名は教会を受け継ぐ使命の象徴となりました。その72名の使命を継承し、教会は神の国の到来を宣言して、イエスの平和と憐れみの祝福を地上全ての家々、イエスが訪れようとする全ての町や場所に提供します。

今日の主の語調は厳粛です。それは教会の教えの中で「神の国が近づいた」、誰にとっても決断の時はやってきたからです。イエスが遣わされた使者たちを受け入れない人々はソドムのような運命となるのです。

しかし信じる者は、パウロが今週の書簡で祝福する「神のイスラエル」、それは美しい第一朗読で祝う母なるシオンの教会のその乳房からの滋養と、平和、憐れみ、保護を見出すのです。

教会は新しい信仰の家族であり(ガラテヤ書6:10)そこで私たちは永遠に持続する新たな名を受けますが(イザヤ66:22)、それは天に書き記されています。

今週の詩編では、私たちは救いの歴史を通して神の「人々におこなわれたおそるべきわざ」を歌います。しかし全てのみ業のうち、海を乾燥した大地に変えた事とはパウロが「新たな創造」と呼んだ私たちの期待と過ぎ越しへの準備そのものに違いありません。

そして出エジプト記の時代の人々が荒野の蛇やサソリから守られたように(申命記8-15)神はその教会に「敵の全ての力」を上回る力をお与えになりました。この世の荒野を進んでいくとき、なにものも私たちを傷つけません。収穫の主を待ち、そして地上の全てのものが神に向かって喜びの声をあげる時を待ちながら、神の栄光を褒め歌って参りましょう。


【聖書朗読箇所】

救いの源である神よ、

  あなたは分裂に悩む世界にひとり子を遣わし、平和と一致の道を示してくださいました。

  この集いに招かれた一人ひとりが、新しい心で救いのことばを聞くことができますように。

集会祈願より


第1朗読 イザヤの預言 66章10-14c節

エルサレムと共に喜び祝い 彼女のゆえに喜び躍れ 彼女を愛するすべての人よ。

彼女と共に喜び楽しめ 彼女のために喪に服していたすべての人よ。

彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り 豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。

主はこう言われる。

見よ、わたしは彼女に向けよう

平和を大河のように 国々の栄えを洪水の流れのように。

あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。

母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める。

エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ あなたたちの骨は青草のように育つ。

主の御手は僕たちと共にあ(る)ことがこうして示される。


第2朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 6章14-18節

 (皆さん、)このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、 誇るものが決してあってはなりません。 この十字架によって、世はわたしに対し、 わたしは世に対してはりつけにされているのです。 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 このような原理に従って生きていく人の上に、 つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。 わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、 あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 10章1-12,17-20節

 (そのとき、)主はほかに七十二人を任命し、 御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。 そして、彼らに言われた。 「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。 行きなさい。 わたしはあなたがたを遣わす。 それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 財布も袋も履物も持って行くな。 途中でだれにも挨拶をするな。 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。 もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。 働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、 広場に出てこう言いなさい。 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。 しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。 「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、 わたしはあなたがたに授けた。 だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」