レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】 待降節第2主日 C年 2022年12月4日 レイナルド神父
今日の待降節のテーマは平和です。ここで神がイエスになされたことを思うと勇気が出ます。神と人との間の平和、そしてお互いの間で築かれた平和です。信者として福音書にあるように、イエスに内在する父なる神によってもたらされた平和を祝います。私たちは平和のうちにイエスの再臨と、平和が地上に満ち、それが全ての人々の生き方となるイエスの新しい世界の訪れを待望します。私たちは平和をイエスのうちにのみ見いだす証人として、できるかぎり今、イエスの平和に与ります。
これは当然そういうことです。イエスの第一の来臨の平和を祝い、そして第二の来臨での究極の平和を待望するなら、今、この時、その平和を生きようとはしないでしょうか? 過去の出来事を祝い、将来も同じように願うのなら、現在の今、それをほんとうに望まないのなら、そのことにどんな意味があるのでしょうか。
しかし今、平和に暮らすというのは簡単なことではなく、キリストなくしては不可能なことです。ですから毎年待降節、一年を通しての主日に思い起こすことが必要なのです。そこではイエスの内に全ての平和の源が見いだされるのです。私たちは靴ひもをしめ、頑張って他の人たちと平和に暮らすようにと言われているのではありません。争いが多い世界で平和に生きる大切さや、他の人たちと平和に暮らしていく方法を聴くために集まるのでもありません。そんなことで平和になるのなら、ずっと以前に平和は訪れていたことでしょう。
私たちはもう一度イエスキリストの内にある神の平和を受けるために集まるのです。イエスが私たちのために用意してくださった平和を受け取ること、互いの交わりのなかで平和を生きること、はじめは教会で、そしてできるかぎり世の中にも拡げます。そうこうしていくうちに努力して世の平和を作ろうとしなくても済むです。むしろイエスこそが唯一の平和の源であるという証人としてそのように生きるのです。
これは教会が一つの共同体として生きることの大切さです。神の三位一体としての集まりの証です。私たちは、イエスキリストの内に平和な生活を共に致しましょうと招く証人なのです。力ではなく平和そのものである主なるイエスの聖霊の力によって私たちは世の平和の作り手となるのです。
【聖書朗読箇所】
恵み豊かな神よ、
あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、
キリストに結ばれることができますように。
主キリストは、聖霊による一致のうちに、
あなたとともに神であり生きて、治めておられます、
世よとこしえに。アーメン。
集会祈願より
第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ11章1-10節)
エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。
第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ15章4-9節)
(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。
それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、
あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
わたしは言う。
キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。
それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。
「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
福音朗読 マタイによる福音 (マタイ3章1-12節)
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」