2021年1月30日土曜日

年間第4主日

 1月31日 年間第4主日 湯澤神父様の「福音への一言」をご紹介します。



【福音への一言 form 湯澤神父様】

2021年1月31日 年間第3主日(マルコ、1章21~28節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音は、イエス様が四人の弟子を呼び、彼らを連れて、神の国の到来を言葉としるしで告げ始めた最初の出来事です。教えたその教えの内容については語られていませんから、イエス様が何を語られたのかわかりませんが、とにかく人々は驚きました。マルコは、イエス様が、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからだと述べています。

ところで何かを教え、語る時、たいていは何かの権威に基づいて教え、語ります。テレビのコメンテーターの「弁護士」などというタイトルを持つ人は、法律が後ろ盾、権威としてありますから信用されます。コロナの解説者の「○○大学病院院長」は、医学が権威です。会堂で教える律法学者は、聖書、律法、「神の言葉」が後ろ盾としてありますから信用されています。しかもユダヤ教では「律法」が最高権威ですから、これ以上の権威はありません。ですから、イエス様は権威あるものとして語られた。つまり、御自分を権威として語られたということでしょう。しかし、普通は、「私が言っているのだから正しい」などと自分を権威としたら誰も信用してくれませんし、驚きもしません。

この権威を証明する「しるし」が続く出来事です。ここでこんな言葉を思い出せます。「神の言葉は生きていて、力がある」(ヘブ、4.12)。人々は「権威ある新しい教えだ」と驚きました。ここでは、教えというより、言葉と理解していいでしょう。イエス様が言葉を発するとそれが実現するからです。そして「光あれ、こうして光があった」(創、1.3)、「神が仰せになると、そのようになる」(詩、33.9)など言葉も思い浮かびます。イエス様が命じられると、悪霊でさえ言うことを聞く。おそらく人々は、イエス様の言葉が神様の言葉と同じようなものだと感じたのでしょう。

このように見てみると、先週の湖畔での出来事も、違った面を見ることができます。イエス様が「私について来なさい」と言われると、ペトロとアンデレの二人はすぐに網などを捨てて従いました。ヤコブとヨハネを呼ばれると、彼らも父親や雇人を置いてすぐについて行きました。旧約時代、神様が誰かを預言者を呼ばれると、彼は預言を始めました。アモスやイザヤなどはその良い例です。私たちはミサで「神の言葉」を聞いています。侍者などが朗読後に「神の言葉」或いは「神に感謝」などと答えているあの「神の言葉」です。私たちは、その「神の言葉」を意識して「神の」言葉として聞いているでしょうか。たとえそうできなくても預言者ヨナの例にあるように、神様の言葉は実現していきます。私たちはミサだけではなく、色々なところで「神の言葉」を聞く機会があります。そんな時、「神の」言葉として意識して聞いてみませんか。その力を感じ取ることができるかもしれません。   

湯澤民夫


2021年1月24日日曜日

年間第3主日

 松村神父様からいただきました「福音のメッセージ」をご紹介します。



2021年1月24日 年間第三主日の福音のメッセージ 

松村繁彦神父

 今日は福音に書かれている「時は満ちた」「私についてきなさい」「2人はすぐに網を捨てて」という三つのポイントから、私たちに語られているメッセージを分かち合いたい。

1) 時は満ちたとは何だろう

イエスがこの世にお生まれになり、福音宣教を始める前に荒れ野で準備をし、イエスの使命を認識して福音宣教を始めた。神が人類をイエスに託したことをもって神の直接介入は以降教会に委ねられる。イエスにとっての最後の関わりという意味で私たちに緊張感を持たせているのだろう。神の国の到来を意味するこの言葉は、既に来ている“神の国”、まだ完成していない“神の国”という矛盾のように聞こえるこの両者の間で、気を引き締める言葉として私たちに投げかけられたのではないだろうか。であるから回心してまずイエスの福音の言葉に心をわしづかみされるよう導かれているのだろう。

2) 私についてきなさいとは

この言葉には力強い神の信頼を感じる。命令として私たちにその使命をゆだね、神の使命を私たちに委ね、その使命を全人類に広めてほしいという強い願いでしょう。もちろん私たちはそれほどの能力はない。しかし、それでも共に生活し、福音を聞き、歩むことを通して至らない私たちに少しでも成長し、罪やミスを犯す私達でも付き従うことが許され、共にイエスの生涯から学び取るよう身近に置いてくださった。イエスは信頼を私たちに持ってくださっていることを喜びとしたい。

3) 2人はすぐに網を捨ててとは

ここでは“すぐ”という言葉が強調されている。旧約聖書での召命物語では声をかけられた後には多少のゆとりがある。(列王記19:19~)エリヤはエリシャに親族への挨拶を許しているが、イエスはいとまごいに行かせることを許していない。(マタイ8:21~では)私たちはつい油断やゆとり、自分の都合や事情を言い訳に自分を正当化してしまうが、神のみ旨を行う者はまさに“今”の行いが問われているのだろう。目の前に倒れている人を前に、ちょっと用事があるので終わらせてから!と言えるだろうか・・・・ということである。後回しにしてしまう性質を見抜いて厳しさが要求される。なぜならば愛は常に今、目の前で行われるべきだからであろう。イエスが十字架にかかったことも、神ならばもっと後回しにもできたはずだが、あえてそのタイミングを受け入れることが求められた。“時が満ち”というその時のしるしは常に救いのため、弱い者・救いを求めている者への徹底した態度だからと感じる。そこを中心に置かれるイエスの姿勢は、人類に強い言葉をもって示し、要求されたのだろう。

信仰生活、特に日々の私たちの生き方にスパイスを与えてくれた今日の福音。至らない私でいいんだ!そんなあなたを選んだ!というイエスの覚悟。しかしその先には救いを待ち望んでいる人々がいるというイエスの暖かなまなざし。そこに私たちも“今”共感し、共に痛み寄り添うための心構えが“今”伝えられたのではないだろうか。


2021年1月17日日曜日

年間第2主日

 1月17日(日)主日ミサの様子 松村神父様司式

ウルバン神父様からいただきました年間第2主日の福音メッセージをご紹介します。


出会い                        年間第二主日  2021. 1. 17

今日共にヨルダン川へ行きましょう。もう午後になって西風が吹い始めたので、気分が少し楽になりました。大群衆も弟子もいないのでその辺りは静かになった。洗礼者ヨハネと二人の弟子、アンドレとヨハネ、川沿いに休んでいた。“あの方は今どこにいるでしょうか、何をやっているでしょ言うか。もう一回会えるでしょうか”と、ため息の中に洗礼者の心から流れ出た。ヨハネは川の中のあの方との出会いを忘れることができません。その方の名前さえも知りませんが、いつかまた会うこと心から望んで、その日を待っています。 

目を上げてみると、遠くから誰かが来るのを見ています。“もしかしたら、あの方ではないでしょうか。本当にそのとおりだよ”。感動と嬉しさで震えながらヨハネは二人に言った:“見よ、これは神の子羊ですよ”。三人はじっとイエスの近付いて来るのを見ています。ところがあの方が静かに左右を見ないで三人の前を通って行ってしまいました。その時二人の若い弟子は自分の先生ヨハネを全く忘れて静かにイエスに付いていきました。この方の不思議な神秘に心が捕らえられた。

しばらく後について歩いたら、イエスが振り向いて二人を見つめた。二人も足を止めて恥ずかしそうに足元を除いていた。声が聞こえた:“何を探しているのか”。何と答えたらいいかと困っていた。それで子供のように素直に尋ねた:“ラビ、あなたはどこに住んでいるのか”。イエスはこの素直な心の中から出た願いを聞いた時どんなに喜んだでしょうか。イエスの答えも二人の心の真中に入りました。“来なさい、そうすればわかるでしょう”。その時二人は急いでイエスのそばに来て、共に歩き続きました。その後どこへ行ったか、何を見たか、何を体験したか、二人は誰とも話しませんでした。

イエスとの出会いの美しさ、その深い感動を言葉で言い表せないのです。何も言いませんでしたが、心の中の力の泉とのようになりました。使徒ヨハネが何十年後この出会いについて書いたのは:“これは午後、四時ごろでした”。イエスとの出会い心の中で何十年生きていた。弟子たちにとって一生の思い出、心の中に抱く消えない宝です。私たちも二人の弟子のように探しに付いて行こう。イエス様も私たちの付いて来るのを待っています。いつかあなたにも、私にも振り向いて言う:“来なさい。そうすれば、分かる”。

何年前のことで、三日間の黙想会―マリッジエンカウンターの帰り道の時でした。車の中で9歳の息子は参加した未信者のお父さんに聞きました。“お父さん、イエス様が好き?”お父さんは返事しませんでした。しばらくたつと、子供はもう一度聞きました。“お父さん、イエス様が好き?” 返事はありませんでした。夜になって家に近くなった時、子供はもう一回聞きました。”お父さん、イエス様が好き?“ 返事は:”うるさい“。それで家に着きましたが、お父さんはドアを広く開けて、深いおじぎをしながら大きな声で言った:”イエス様、どうぞ、私の家に入ってきてください“。そのあと家族は家の中にはいりました。確実に、その時イエスは彼の家にだけではなく、彼の心にも入ったのです。復活祭の夜みなの前で聞かれた時 ”洗礼を望みますか“と、彼が ”はい、望みます“と答えた。彼もイエス様に出会って、喜びにあふれた。              ウルバン神父


2021年1月10日日曜日

主の洗礼

 レイ神父様からいただきました「主の洗礼」の福音メッセージをご紹介します。


主の洗礼の祝日

 私たちの洗礼と今日の洗礼の更新約束により、イエスの福音宣教と十字架において、私たちは引き続きキリストと共に旅をする約束を新たにするのを思い出すべきです。

 イエスは洗礼により、私たち人間の罪ある状態をご自身に罪がなくても明らかにされ、そして、その方が世の罪をやがて取り去るのです。しかし私たちはイエスに尋ね従順である必要があります。

この洗礼でイエスは30年前に受肉されたように、この世へともう一度水に浸りました。典礼的には少し前のクリスマスの日にです。この期間最後の日である今日、私たちはもう一度神が私たちと結びつき、抱き、愛し、皆を求められ、そうです、すべての人々が神の統治の中にいるのを見ます。

 洗礼者ヨハネが舞台から去りイエスが中心となるこの時、わたしたち自身の洗礼は、罪深い過去をとり除きキリストのうちに新しい生活を始めることを思い出させます。洗礼は私たち皆にとって新しい始まりであり、神の生活の中での共有であります。神は私たちと共にある。あまりにも美しく力強いので、ときおり私たちは神がいかに私たちを愛し、神の子どもとして作られたということをわかりずらくします。残念なことに私たちの多くは、洗礼やそれが私たちの生活や態度に意味をなす新しい始まりを覚えていません。ですから特に今日、私たちは洗礼が意味する全てのことを思い起こさねばなりません。僅か10日前、新年の決意とともに新しいスタートを切ったことでしょう。2週間も経っていませんが、いかがですか。今日は私たちの新しい始まりを振り返る日であります。洗礼からの呼びかけ、それを再約束し、新年の決意のようにそれを怠っていないかを振り返る日なのです。

 イエスにとって洗礼は神に愛されるものであるということを認識する、大変重要な経験でありました。それは私たちの洗礼がクリスチャンとしての旅の始まりであるのと同様に、イエスの旅の一部でした。私たちへの洗礼は、ヨハネが差し出したものよりもはるかに大きなものでした。ヨハネの洗礼に身をゆだねることによりイエスは洗礼の水を祝福しました。ですから私たちの洗礼は罪が流されるだけではなく、キリストの体と結びつき、神の子どもに成るのです。私たちの洗礼は他の秘跡への入り口であり、究極的には永遠の命に続きます。(カテキズム1213)

 洗礼を受けたクリスチャンである私たちは皆、世に出て行き、良き知らせをするよう呼びかけられています。創設者の言葉を借りれば、キリストを熱狂的に信じ、御父に愛されていることを人々に知らせるべきなのです。洗礼の油によって、私たちは災難、特に悪を克服する神の強さを受けます。頭に水が注がれ、聖霊の賜物により浄化と清めがなされます。「司祭であり、預言者であり、王である」ことを示すため、「イエスの体の一部であり、永遠の命を分かち合いながら」いつも生きるようにと香油が塗油されました。洗礼によりイエスの伝道を分かち合い、「十字架上でイエスの胸を刺しぬいたところへと導く己の態度、選択、任務」をするよう、既に述べたように呼ばれています。洗礼とはなんという挑戦でしょうか。今日の更新、その覚悟はできていますか?


January 10, 2021 Feast of the Lord’s Baptism

Our baptism and the renewal of our baptismal promises today, should remind us of our continual need for new beginnings in our lives, of renewing our commitment continually to journeying with Christ in his evangelical and crucified life.

With his baptism, Jesus is identifying with our human sinful state, even though he was sinless, and he who is without sin will take away the sins of the world. But we to need ask and submit ourselves to Jesus. With his baptism, Jesus immerses himself once again into our world just as he did with his incarnation thirty years previously, and in liturgical terms, only a short time ago on Christmas Day. Today on our last day of the Christmas season, we once again see our God identifying with us, embracing our humanity, loving us and wanting all of us, yes all of humanity, to be part of the reign of God.

Now as John the Baptist disappears off the scene and Jesus comes into focus, we are reminded of how our own baptism eliminates our sinful past and begins our new live in Christ. Baptism is a new beginning for all of us, it’s a sharing in the life of God, God-With-Us. It’s so beautiful and powerful, that it’s sometimes hard for us to grasp how much God loves us and makes us his children.

Unfortunately many of us do not remember our Baptism or the new beginning it was meant to be to our lives and attitudes. That’s why, especially today we should remind ourselves about all that our baptism should mean to us. Only ten days ago we may have started a new beginning with our New Year’s resolution. How are we doing with these less than two weeks on? Today is a day to reflect on another new beginning in our lives, our baptismal calling, and recommit to it, like our New Year’s resolution, if we are not living up to it.

For Jesus, his baptism was a very important experience in him coming to know that he was beloved of God. It was the part of his journey, just as our baptism was the beginning of our journey as Christians. Our baptism offered us something greater than what John offered.

“Jesus, in submitting to John’s baptism, blessed the waters of baptism, and so our baptism is not just the cleansing of our sins, but of our incorporation into the body of Christ, making us children of God. Our baptism is the gateway sacrament to the other sacraments, and ultimately eternal life” (CCC 1213).


All of us as baptised Christians are called then to go out into the world and proclaim the Good News. We are, to borrow a phrase from our founders, to be zealots, to bring people to know they are beloved of the Father. Through the oil of Catechumen we received God’s strength to overcome adversity and especially evil. Water was poured on our heads to remind us of our cleansing and purification through the gift of the Holy Spirit, and we were anointed with Chrism to show that we are ‘Priest, Prophet and King’ and to live always ‘as a member of His body, sharing everlasting life’. By our Baptism we share in the mission of Jesus and we are asked, as mentioned already, to make ‘our own the attitudes, options and tasks that led Jesus to the point of having his heart transpierced on the cross’. What a challenge our Baptism should be! Renewing it today, are we ready to live it?



2021年1月3日日曜日

主の公現

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。

2021年1月3日 主の公現(マタイ、2章1~12節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日は、主の御公現の祝日です。今日の福音は、東方から来た三人の博士たちがイエス様を見出し、礼拝したという『マタイ福音書』の個所が読まれます。この物語が『民数記』の「バラアムの物語」を背景にしていることは、よく知られています。先日、クリスマスのミサに参加できない洗礼志願者たちを対象に小さいオルガン・メディテイションを行いましたが、その時にこの個所を皆さんで黙想していただきました。

東方に住むこのイスラエル人ではない人たちは、ある星の出現に気づき、その星に導かれて救い主を求めてユダヤまでやってきましたが、この先どこに行けばよいかわかりません。しかし、彼らは、聖書を手掛かりにベトレヘムへ向かうようにと知らされました。こうして、星と聖書によって救い主を探し当てることができました。星と聖書は、救い主に導く導き手だったのです。これは、彼らに限らず、今の私たちにとっても同じです。

では、星に当たる導き手は何でしょう。「神様は私たちに二冊の書物を与えてくださった。一つは自然で、自然は神様について語っており、昔は、この本を読めば神様を知ることができた。しかし、アダムが罪を犯したために、それだけでは神様を知ることができなくなってしまった。そこで、神様は、第二の本、聖書を与えてくれた」と、ボナヴェントゥラが語ったと伝えられています。ここでいう「自然」は、「星」に当たります。単純に自然的存在や自然現象だけではなく、書物や人との出会い、私たちの周りで起こる様々な出来事をも指しています。極端なことを言えば、私たちを含めたあらゆるものが神様について語っています。私たちはその声を聴き、それを見るだけで神様に導かれるはずです。しかし、現実にはそれだけでは全く不完全であることを、切実に実感するところです。

そこで、私たちには、どうしても「神様の言葉」である「聖書」が必要なのです。ここでいう聖書とは、単なる書物ではありません。教会の中で語られる神様の言葉です。あらゆる人々に聞かれるために語られている生きた神様の言葉なのです。典型的な神様の言葉は、ミサその他、典礼の中で語られています。それだけではありません。信徒が伝える神様の言葉も含まれます。信徒一人ひとりは、教会共同体の中で神様の言葉を預かっているからです。それを聖霊に助けられてあらゆる機会に語っているはずだからです。

さて、私たちは、いつどこであの「星」を見たでしょうか。そして、その星が指し示す方に救い主を探して歩んできたでしょうか。いつどこであの「聖書」がベトレヘムにおられる救い主を教えてくれたでしょうか。私たちは、何度「星」を見つけたでしょうか。何度「聖書」、神様の言葉を聞き、助けられたでしょうか。この二つのしるしに導かれて何度イエス様を探し当てたでしょうか。もし、見出せた体験に気づくことができたとしたら、神様を賛美し、感謝しないではいられないでしょう。          湯澤民夫


2021年1月2日土曜日

1月1日(金)神の母聖マリア



明けましておめでとうございます。新しい年が神の恵みに満ちあふれた一年となりますように。元旦ミサを司式されました勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『今日の福音書を読みますと、キリストの誕生のお告げを受けた羊飼いたちは、すぐさまこの救い主をさがしに出かけていきました。この救い主の誕生のお告げを受けた人々の反応は、聖書によるとふたつに分かれています。3人の博士と羊飼いたち、そしてヘロデ王です。羊飼いたちはこのお告げに従って 救い主を飼い葉桶の中に見いだします。およそ救い主が生まれる場所としては考えられない家畜といっしょに、もっとも不衛生な、もっとも汚い、当時であったとして考えうるもっとも悲惨な場所にお生まれになり、救い主をそこに発見するわけです。3人の博士たちは救い主であるから当然、王宮で生まれたと思い、まずまっさきに王宮へ行くのです。しかし、そこでは会えない。そして星の導きに従い、馬小屋で生まれた救い主を発見します。しかし同様に、救い主の誕生を告げられたヘロデ王はそれを聞いて不安に思うのです。そして何とか救い主を抹殺しようとするのです。

 今、現在、救い主はどこにお生まれになっているのか。このことを考えるならば、このもっとも象徴的な場所にお生まれになった。現代社会の中でいえば、もっとも傷つき、 苦しみ阻害され、人々の中から排除されている人。そういう人のなかに救い主がお生まれになり、そこに聖家族、その中心としてマリア様が、そういう人たちへの配慮するものとして、その希望の印として存在しています。そういうふうに言えると思います。

 このコロナ感染症によって、世界の自由な人々の心の中があぶりださせるような感じがしています。自分の身を守るとする者。自分さえ良ければとそのような行動に走る人。あるいは多くの苦しむの人の存在を知りながら無関心を貫いている人。自分のことだけ考える。そういう人たちに対して教皇フランシスコは、コロナウイルスよりももっと恐いウイルス…それは「無関心」。自分さえ良ければ良いという考え。これが今、全世界に急速に広まっていることを懸念されています。。

 しかし、私たちは多くの人たちが連帯し、この問題に立ち向かっていくために、そして多くの困難に追い込まれている人たちに対して、何とか支え合って生きていこうとする、そういう人間の美しい力強い側面も何度か見せられています。

 今日、教皇様は平和の日メッセージとして新型コロナウイルスについて発信しています。

その中にあって教皇様が提案しているのは、「ケアの文化」。これは仮の中央協議会の訳したものですが、「ケア」を使います。注意とか関心とかそういう意味です。しかし、この文章全体をみると、これはわたしの異訳ですが、ケアを日本語で「いたわり」と訳すのが一番適切だと感じています。

 この美しい日本語の中に、教皇様が言われているのはすべて集約されているような気がします。互いにいたわり合うという文化は、キリスト教の最も本質的な部分にあたるもので、教皇様はこのメッセージの中で、旧約聖書に始まりずっと聖書を紐解き、現在社会における状況、特にコロナウイルスに関連する部分もそうですが、さらに今日は平和の日ですから、世界平和をいかに憐れみあうではなく、むしろ分裂し殺し合うような武器の製造、そのしくみのための膨大なお金が使われている。特に核兵器の開発に関して、教皇様は 強い懸念のメッセージを発しておられます。武器より地球上にあって 助けを必要としている人たちにお金を回すならば、どれだけ支えが実現していくか。

  今日の教皇様のメッセージの導入の部分があります。

『愛と連帯の数多くのあかしの傍らで、悲しいことに、さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していることを、残念ながら認めざるをえません。

 この一年の間に人類の歩みに刻まれたこうした出来事は、兄弟愛に満ちた関係に基づいた社会を築くには、互いをケアし、被造物を大切にすることが、いかに重要であるかを教えてくれます。ですから、このメッセージのテーマを「平和への道のりとしてのケアの文化」としました。今日、はびこっている無関心の文化、使い捨ての文化、対立の文化に打ち勝つための、ケアの文化です。』

 当然、先ほども言ったように、地球環境もに強い関心を持っておられます。そしてこの新型コロナに関しては、

『このパンデミックに直面して、「わたしたちは自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。皆弱く、先が見えずにいても、だれもが大切で必要な存在なのだと。皆でともに舟を漕ぐよう求められてい」るのだと。なぜなら、「自分の力だけで自分を救うことはでき」ず、孤立している国は自国民の共通善を確保できないからです。』

 今回の世界のパンデミックは、すべての準備、すべてが同じ運命共同体であることが意識させられました。わたしも年頭書簡の中にに書きましたが、どんな立場の人に区別することなく襲いかかってくるこのウイルスは、私たちが個人で立ち向かうことは不可能。私たちが社会として、国としてあるいは人類として共通の目的と連帯で取り組んでいかなければ、絶対に克服出来ないものである。そういう現実を私たちに突きつけています。

 そんななかにあっても、この世が優先され、貧しい人たちが後回しにされる、それが現実です。これは私たちキリスト者たちにとっても看過できない現実として、声を上げなければならない、神様から与えられているのではないかと思います。

 しかし日本の国内でいうならば 、このクリスマスや年末年始の日本人が最も幸せと感じる季節。その季節だからこそ孤独を感じている人たちがたくさんいる現実も報告されています。民間調査機関によると、日本人の3人に1人はこの季節を特別に楽しみだとは思っていない。みんなが浮かれているような季節ですが、3人に1人は期待していない。

 これは例年行われている調査ですが、1万4千人を対象にした調査ですが、36.3%が関心がない。この背景の分析は説明されていませんが、この数字から見えてくるものとして私が感じるのは、男女とも年齢を重ねるごとに楽しみの割合が減っている。多分、このアンケートに答えてくれた人たちは、クリスマスや年末年始が自分を幸せにさせてくれるかどうかという観点で考えているのだと思います。しかし、自分の現状をみるならば、そういった楽しみや喜びを分かち合う人が回りにいない、と感じている人たちが多くいるのではとわたしは感じています。

 今回のコロナ感染症によって多くの人たちが人間的なふれあいから遠ざけられている。わたしも年末にコロナに汚染されているわけでないが、訪問しようと思ったが一切の面会はできません。親友でも家族であってもだめ。病院もそうですが、老人福祉施設もそうです。一部には時間的制限を設けたり、今この時期は何とか会ってもらおうと工夫している施設もあるようですが、ほとんどの人たちが家族と会えるのを許されず、ベットで一人孤独でいるのが現実です。

 イエスはそういう人たちと共に、馬小屋でお生まれになられました。世界中の人からみるならば、日本は経済的な豊かな国であると羨ましがられながら、私たちは生きているはずですが、しかし実は日本の家庭ではこの関わりやぬくもりが欠如して、いっしょにいてももがき苦しんでいる人もたくさんいます。なかには頼る人は誰もいない。コロナ禍で同じように苦しんでいる人もたくさんいます。

 聖家族の中心である母マリアの愛、こういう人たちも含めて全人類に受けいれられている慈しみのまなざしです。そしてそのまなざしを受けて、その愛を地上で体現していくように、招かれているのは私たちしかいません。教皇様は平和メッセージの最後にこのように述べられています。

「わたしたちキリスト者はつねに、海の星、希望の母であるおとめマリアを見つめなければなりません。愛と平和、兄弟愛と連帯、助け合いと相互受容の新たな地平にむけて進むために、皆で協力しましょう。他の人々、とりわけもっとも弱い立場にある人に対して無関心でいようとする誘惑に負けないようにしましょう。目を背けるのに慣れないようにしましょう。そうではなく、「互いを受け入れ、互いをケアする兄弟姉妹から成る共同体を築く」ために、具体的な努力を日々、重ねていきましょう。」

 先ほどのアンケート調査に加えていうならば、今私たちが問われているのは、この時季にわたしを幸福な気持ちにさせてくれるかどうか、この時季がわたしたちを幸福な気持ちにさせてくれるかどうかではなくて、わたしがだれを幸福な気持ちにさせることが出来るか、問われている。このことを深く心に留めていきたいと思います。』