2021年1月30日土曜日

年間第4主日

 1月31日 年間第4主日 湯澤神父様の「福音への一言」をご紹介します。



【福音への一言 form 湯澤神父様】

2021年1月31日 年間第3主日(マルコ、1章21~28節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音は、イエス様が四人の弟子を呼び、彼らを連れて、神の国の到来を言葉としるしで告げ始めた最初の出来事です。教えたその教えの内容については語られていませんから、イエス様が何を語られたのかわかりませんが、とにかく人々は驚きました。マルコは、イエス様が、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからだと述べています。

ところで何かを教え、語る時、たいていは何かの権威に基づいて教え、語ります。テレビのコメンテーターの「弁護士」などというタイトルを持つ人は、法律が後ろ盾、権威としてありますから信用されます。コロナの解説者の「○○大学病院院長」は、医学が権威です。会堂で教える律法学者は、聖書、律法、「神の言葉」が後ろ盾としてありますから信用されています。しかもユダヤ教では「律法」が最高権威ですから、これ以上の権威はありません。ですから、イエス様は権威あるものとして語られた。つまり、御自分を権威として語られたということでしょう。しかし、普通は、「私が言っているのだから正しい」などと自分を権威としたら誰も信用してくれませんし、驚きもしません。

この権威を証明する「しるし」が続く出来事です。ここでこんな言葉を思い出せます。「神の言葉は生きていて、力がある」(ヘブ、4.12)。人々は「権威ある新しい教えだ」と驚きました。ここでは、教えというより、言葉と理解していいでしょう。イエス様が言葉を発するとそれが実現するからです。そして「光あれ、こうして光があった」(創、1.3)、「神が仰せになると、そのようになる」(詩、33.9)など言葉も思い浮かびます。イエス様が命じられると、悪霊でさえ言うことを聞く。おそらく人々は、イエス様の言葉が神様の言葉と同じようなものだと感じたのでしょう。

このように見てみると、先週の湖畔での出来事も、違った面を見ることができます。イエス様が「私について来なさい」と言われると、ペトロとアンデレの二人はすぐに網などを捨てて従いました。ヤコブとヨハネを呼ばれると、彼らも父親や雇人を置いてすぐについて行きました。旧約時代、神様が誰かを預言者を呼ばれると、彼は預言を始めました。アモスやイザヤなどはその良い例です。私たちはミサで「神の言葉」を聞いています。侍者などが朗読後に「神の言葉」或いは「神に感謝」などと答えているあの「神の言葉」です。私たちは、その「神の言葉」を意識して「神の」言葉として聞いているでしょうか。たとえそうできなくても預言者ヨナの例にあるように、神様の言葉は実現していきます。私たちはミサだけではなく、色々なところで「神の言葉」を聞く機会があります。そんな時、「神の」言葉として意識して聞いてみませんか。その力を感じ取ることができるかもしれません。   

湯澤民夫