2022年12月24日土曜日

12月25日 主の降誕

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 主の降誕(日中) A年 2022年12月25日 ウルバン神父


“飼い葉桶に寝かせた”


静かな暗い夜でした。冷たい風が吹いている。ほら、野原で何か動いているのではないか。旅する人の姿が見えてきた。ロバも、手綱を持って歩いている人もすごく疲れているようです。ロバの上に冷たい風に震えている若い女の人が座って、自分の服を固く体に巻いている。お腹の中の子を温めようとしているのではなか。男が振り向いて、“ミリジャム、あと少しだよ。見て、ベツレヘムの光が見えてきたよ。もう直ぐ暖かい所で休めるんだよ”と。長い、長い旅でした。ロバもチョコチョコ進み、男の人も疲れて、足を引きずりながら、一歩、また一歩進んでいた。だんだんベツレヘムの家の影が見えてきました。“ミリジャム、大丈夫ですか。着いたんだよ。今は安心だよ”。“はぁぁぁ”と深いため息が聞こえた。

“彼は自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった”との悲しい体験は、まだ二人を待っていた。安心して、期待する心を持って、ヨセフは最初のドアをノックした。“旅人です。泊めていただけないでしょうか”。断られました。次の門、また次の門をたたいたが、どこも受け入れてくれなかった。“もう夜中だ”と怒った人もいて、“迷惑をかけるな”と叫んだ人、“混んでいるよ、もう場所がない”と、優しく断った人、マリアの状態を見て、急いで門を閉じた人もいた。

二人の悲しみと失望を心の中で感じるでしょうか。私たちがよく元気な声で歌うのは、“門よ、開け、永遠の王が入る”だが、今夜はどこの門も開かれなかった。二人は自分の町の人に無視され、捨てられて、暗い夜に立っていた。ホームレスの孤独を体験した事があるでしょうか。二人は夜の深い沈黙に包まれ、互いを悲しそうに見つめあった。どうすれば良いかもう分からなかった。“ほら、ベツレヘムの近くに洞窟があるんだ”と、ヨゼフが気づいた。その暗い洞窟に入ったら、貧しい暮らしに慣れた二人は安心した。生まれた子を抱いた時、すべての不安と苦労を忘れていた。幸せな夜となった。この偉大な子の最初の王座、最初の寝どころはどこにあるのか。“マリアは子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた”、“私はあなたたちに大きな喜びを告げよう”と、知らされた羊飼いたちは走って来て、喜びの涙のうちに赤ちゃんを抱いて親しんだ。軽蔑されている僕たちも神様に愛されている事を喜んだ。羊たちも近付いて鼻をつけた。豚小屋ではなくてよかった。私達も覗き、子を腕に抱きたいでしょ。心から望めば、この夜には会える。

今夜、イエスはあらゆる道を歩いて宿屋をさがしている。誰か自分の家を開けてくれるでしょうか。あなたの門の前をも必ず通るでしょう。ホームレスになってはいかん。ただ遠くから祈って、クリスマスに参加するのは足りない。主はあなたの心の叫びを待っている。“イエスよ、私の所に来て。私の心はボロボロですが、それでも来てね。あなた無しにもう生きられない。共にいてください。あなたを待っている”。その時、この夜は聖なる夜になる。あなたの中、あなたの家にイエスが生まれてくる。



【聖書朗読箇所】


永遠の父よ、

あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、

さらに優れたものにしてくださいました。

神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。

主キリストは、聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、

生きて、治めておられます、世々とこしえに。アーメン

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ52章7-10節)


いかに美しいことか

山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

救いを告げ

あなたの神は王となられた、と

シオンに向かって呼ばわる。

その声に、あなたの見張りは声をあげ

皆共に、喜び歌う。

彼らは目の当たりに見る

主がシオンに帰られるのを。

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。

主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

主は聖なる御腕の力を

国々の民の目にあらわにされた。

地の果てまで、すべての人が

わたしたちの神の救いを仰ぐ。



第2朗読 ヘブライ人への手紙(ヘブライ1章1-6節)


神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

いったい神は、かつて天使のだれに、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。 (むしろ)、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。 



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ1章1-18節)


初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


2022年12月17日土曜日

12月18日 待降節第4主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

※ 湯澤神父様は、ご病気の療養のため聖アントニオ修道院(東京・瀬田)に異動されました。長い間、福音メッセージをいただき大変有難うございました。ご自愛ください。




【福音メッセージ】 待降節第4主日 A年 2022年12月18日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  昨日から降誕祭前の8日間に入りました。今日の福音は、待降節の第四の主日ですが、同時にこの8日間の第二日目に当たります。共観福音書では、二つのお告げのお話を伝えています。一つは有名な、ルカ福音書に出てくるマリア様へのお告げのお話しです。そしてもう一つが今日の福音書にあるマタイ福音書が残したヨゼフ様へのお告げのお話です。マタイは、イエス様の誕生の謂れ(次第)の二つ目として、これを書いています。

  どういうルートかわかりませんが、ヨゼフ様はマリア様と同居する前に、マリア様の身ごもりを知ります。彼は、律法に誠実な正しい人だったので、表ざたにしないように、密かに分かれることを決心しました。すると天使が現れて、お告げを授けます。ヨゼフ様はこれを受け入れました。この時、天使は、生まれる子を「インマヌエル」と呼んでします。この名の謂れは、第一朗読のイザヤの預言に出ています。

  このお告げの箇所は、様々なことが含まれています。そのすべてではありませんが、いくつかのポイントを挙げますので、それぞれを黙想してはいかがかと思います。第一のポイントは、ヨゼフ様は人として律法に忠実に生きる人でしたから、表ざたにすることができましたが、しませんでした。律法によると不倫に当たりますので、マリア様は処罰されます。ヨゼフ様はそれを望みませんでした。これに対して、天使は、ヨゼフ様を「ダビデの子」と呼び、マリア様を受け入れることを命じます。これによって、イエス様は、ダビデの子孫になります。つまり、メシア、キリストです。他人の善意を超える神様の計らいの違いです。

  第二のポイントは、イエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことです。第一の朗読、また、福音によると「神は我々と共におられる」という意味だと説明されています。旧約聖書をよく読むと、アブラハムにも、モーセにも神様は「私はどこにいてもあなたと共にいる」と言っています。いわば、イスラエルに告げられた神様の在り方は、「共にいる神」なのです。イエス様は、生まれる時そうした存在だと告げられていました。そして、イエス様自身が「世の終わりまで、あなた方と共にいる」と弟子たちに告げています。

  まだまだ色々ポイントは探せるでしょう。皆さんの興味に従って、黙想できたらいいですね。この箇所は、クリスマスの出来事の中で、あまり取り上げられることがないので、それだけにこうしてポイントを見つけて、黙想できたら、クリスマスが豊かいなるのではないでしょうか。そして、毎年より豊かなクリスマスを迎えられると思います。

                                湯澤民夫


【聖書朗読箇所】


恵み豊かな父よ、

わたしたちの心にいつくしみを注いでください。

みことばが人となられたことを信仰によって知ったわたしたちが、

御子の苦しみと死をとおして復活の栄光にあずかることができますように。

聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、

治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ7章10-14節)


(その日、)主はアハズに向かって言われた。

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず

わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ1章1-7節)


キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、(兄弟の皆さんへ。)

――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、

恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ1章18-24節)


イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

2022年12月9日金曜日

12月11日 待降節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 待降節第3主日 A年 2022年12月11日 松村神父

待降節第3主日は「喜びの主日」と呼ばれ、本来はバラ色の祭服を身に着けます。しかし祭服がありませんので、せめて4本のローソクで色を示しているところが多いのではないでしょうか。今日は主の到来がいよいよ迫ってきていることを祝う日なのです。

わたしは何でもできる人間ではありません。それなのに「自分でやり遂げなければ」と意気込んでいた時もありました。しかし社会の中では、ある出来事を解決できる特別な力や資格を持った方に頼まなければ乗り越えていけないことがあります。だから信頼できる人を選び、解決に挑みます。今の私は多種多様な働きの中で、それらの人々の力によって助けられながら働いています。

いろいろな働きがある中で、その出来事を吟味し、それにふさわしい人を償還します。その出来事に精通していると思われ、尊敬でき、自信をもって委託できる人を選びます。時には友人にも寄りかかることもあります。そのような人に出会えたとき、知りえた時にはどんなに心の慰め、力強さに触れることでしょう。私にできることは、正しく見て聞いて、それにふさわしい者を選び委ねるということ。実はこのことに気が付かされたのは15年前に大学で働いていた時でした。司祭でありながら中間管理職として大学運営をしていた時に、自分の無能さに気づかされ、周りにいる有能な人たちと出会い、自分一人で頑張らなくてもいいのだと気づかされ、焦る心から安心へと変わっていきました。と同時にその中でも、自分でなければできない事を見出し、自分の役割と居場所が見え、自信と誇りを持った働きへと導かれました。

今日の福音ではヨハネの弟子の役割、洗礼者ヨハネの役割、そしてイエス・キリストの役割それぞれが見えます。洗礼者ヨハネにとってイエス・キリストは正しく見て、正しく聞いた中で信頼と尊敬と信仰を見出し、自ら「つまずかない者」となり、多いなる喜びと強いきずなが作り上げられた方でした。そして自分の役割と生きる場が明確になりました。イエスもその姿に信頼を寄せ、最大の賛辞を送ります。そんな洗礼者ヨハネの役割は天の国においても自ら身を低くするという役割を担うからこそ、「天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」と語られたのではないでしょうか。イエス・キリストは天にあげられ、「父の右の座」すなわち天の王国の力ある支配者となりますが、一方この言葉は、洗礼者ヨハネを低く見ているのではなく、その在り方、自分を低くする者の極み、キリスト者の姿勢を示しているではないでしょうか。

一方「身を低くして伏し拝む」(詩編95:6)相手は、天から引っ張り上げる絶対的な御父と共に、もっとも人類で弱い姿、赤ん坊で親の助けが無ければ生きていけない姿で誕生する方にも向けられます。神が送られたその弱さからの出発点だから、第一朗読のイザヤ書に描かれている通り、神を見えない「目が開き」、神の声を聞こえない「耳が開く」ことにより、絶望的な病を回復し、罪の束縛から解放し、死から新たないのちへ、闇から光へと「主と共に」「主の先導」によって成長の喜びへと導かれます。私たちはその方を待ち望みます。その仲介をしたのは洗礼者ヨハネ。導くのはイエス・キリスト。キリスト者として、感謝と喜び、謙虚な姿を通して、自分自身の信仰の成長へと歩んでいければ幸いです。

私たちのすぐそばにいる助け主であるイエス・キリスト、それを伝える洗礼者ヨハネに信頼の内に身をゆだね、共に私たちだからこそできる一人一人の役割と使命を忍耐の内に忠実に果たし、喜びの内に主の降誕の準備へと向かいたいと思います。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である父よ、

御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしたちを顧みて下さい。

喜びのうちに降誕祭を迎え、この救いの神秘を祝うことができますように。

聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、

治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ35章1-6a,10節)

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ野ばらの花を一面に咲かせよ。

花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられカルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。


弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。

見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」


そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。

そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。


主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。



第2朗読 使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5章7-10節)

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。

農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。

兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ11章2-11節)

(そのとき、)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。

そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」


イエスはお答えになった。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、

らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、

死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」


ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。

では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』

と書いてあるのは、この人のことだ。


はっきり言っておく。

およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。

しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

2022年12月3日土曜日

12月4日 待降節第2主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 待降節第2主日 C年 2022年12月4日 レイナルド神父

今日の待降節のテーマは平和です。ここで神がイエスになされたことを思うと勇気が出ます。神と人との間の平和、そしてお互いの間で築かれた平和です。信者として福音書にあるように、イエスに内在する父なる神によってもたらされた平和を祝います。私たちは平和のうちにイエスの再臨と、平和が地上に満ち、それが全ての人々の生き方となるイエスの新しい世界の訪れを待望します。私たちは平和をイエスのうちにのみ見いだす証人として、できるかぎり今、イエスの平和に与ります。

これは当然そういうことです。イエスの第一の来臨の平和を祝い、そして第二の来臨での究極の平和を待望するなら、今、この時、その平和を生きようとはしないでしょうか? 過去の出来事を祝い、将来も同じように願うのなら、現在の今、それをほんとうに望まないのなら、そのことにどんな意味があるのでしょうか。

しかし今、平和に暮らすというのは簡単なことではなく、キリストなくしては不可能なことです。ですから毎年待降節、一年を通しての主日に思い起こすことが必要なのです。そこではイエスの内に全ての平和の源が見いだされるのです。私たちは靴ひもをしめ、頑張って他の人たちと平和に暮らすようにと言われているのではありません。争いが多い世界で平和に生きる大切さや、他の人たちと平和に暮らしていく方法を聴くために集まるのでもありません。そんなことで平和になるのなら、ずっと以前に平和は訪れていたことでしょう。

私たちはもう一度イエスキリストの内にある神の平和を受けるために集まるのです。イエスが私たちのために用意してくださった平和を受け取ること、互いの交わりのなかで平和を生きること、はじめは教会で、そしてできるかぎり世の中にも拡げます。そうこうしていくうちに努力して世の平和を作ろうとしなくても済むです。むしろイエスこそが唯一の平和の源であるという証人としてそのように生きるのです。

これは教会が一つの共同体として生きることの大切さです。神の三位一体としての集まりの証です。私たちは、イエスキリストの内に平和な生活を共に致しましょうと招く証人なのです。力ではなく平和そのものである主なるイエスの聖霊の力によって私たちは世の平和の作り手となるのです。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、

キリストに結ばれることができますように。

主キリストは、聖霊による一致のうちに、

あなたとともに神であり生きて、治めておられます、

世よとこしえに。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ11章1-10節)


エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。

彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。

弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。

その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。


狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ15章4-9節)


(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。

それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。


だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、

あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

わたしは言う。

キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。

それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。

「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ3章1-12節)


そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。


「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」


ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。

そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。


ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」