2014年4月27日日曜日

復活節第2主日 (神のいつくしみの主日) 

復活祭からちょうど1週間が経ちました。今日の福音(ヨハネ20・19-31)では、復活され弟子たちの前に現れたイエス様がいつくしみ深く「あなたがたに平和があるように」と語りかけられる姿が書かれています。

祭壇の前には、今日の主日にふさわしく、慈しみ、哀れみ深いイエス様の御絵が飾られました。


今日の主日ミサを司式された新海神父様のお説教の一部をご紹介します。


『私は、お説教にあたって、いつも自分でテーマを決めてお話しするようにしています。今日のテーマは「イエス様が真ん中にいる平和」です。
イエス様が十字架にかけられ亡くなられた後、弟子たちは家の戸に鍵をかけ隠れるように閉じこもっていました。それは、ユダヤ人たちからの迫害、拷問され殺されるのではないかという恐怖心からでした。そして何よりも彼らを恐れさせ追い詰めたのは、イエス様を見捨てた自分達の弱さ、卑怯な行いに対峙しなければならないことでした。
使徒たちの中心人物であったペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は漁師でした。漁師は男気があり、気風のいいものです。彼らも恐らくそのような気質ではなかったかと想像できます。自分の全てを捧げるほどにイエス様を尊敬し愛していた彼らにとって、よもやこのような状況は予測もできないような事態だったに違いありません。
最後の晩餐の席で、イエス様はペトロに「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われました。そして、ペトロはそのとおりの行動をとってしまい、鶏が鳴いたときに号泣したのでした。ペトロはこの時、最も大切な存在であったイエスをも裏切ってしまった人間の弱さ、意思の脆さというものを思い知らされたのです。

このような恐怖心に慄いていた弟子たちの真ん中にイエス様は現れました。そして彼らの裏切りなどまるで無かったかのように、慈しみ深くこう言われたのです「あなたがたに平和があるように」、この言葉には全ての赦しが含まれていたのではないかと思います。生前のイエス様は、かなり厳しこともおっしゃられていたのですが、復活されてからは寛大でやさしく、本質が変わられたのではないかと感じます。
メシアとして復活され弟子たちの真ん中に現れたイエス様は、彼らに聖霊と罪を赦す権能を与えられました。そしてそれは彼らにとって、その後の宣教・福音と、現代に続く教会共同体を作る力となっていったのです。
罪の重荷は重たいものです。しかもそれはどんどん積み重なっていくものです。しかし私たちは、ゆるしの秘跡(告解)によって、罪の重さから開放されることができます。イエス様の十字架はそれほどの力を持っているのです。そして、ご聖体の中にこそイエス様は現存しておられます。
いつも私たちの”真ん中”にいてくださるイエス様に感謝しましょう。』



2014年4月20日日曜日

復活の主日

主のご復活おめでとうございます。

復活徹夜祭から一夜明けた今日、勝谷司教様の司式により復活の主日ミサが行われました。


今日の福音は、ヨハネによる福音書の「空(から)の墓」についてです(ヨハネ 20・1-9)。
勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

『私たち人間は、永遠の時の流れの中にあって、与えられた限りある時間を生きる存在です。今の幸せが永遠にあって欲しい、このまま時が止まってくれたらといくら願っても、残酷にそして冷淡に時は過ぎていきます。永遠の神の存在を知らないものにとっては、過去は過ぎ去り、やがて忘れ去られていくものにすぎません。たとえそれが大切な人との関わりであったにしても、やがては忘却の中に埋没してしまいます。
信仰を持たない人にとって、すなわち人の命がこの世において完結し、死の後には何もないと考える人たちにとって、故人の存在は過去のみとなります。全ての関わりが途切れ、そこに描いていた望みや希望、それら全てが忘れ去られる過去の思い出に過ぎなくなるのです。
それぞれの期待のうちにキリストに付き従っていた使徒たちの多くも、キリストの惨めな死に直面し、そのような思いに捉われて絶望のうちに途方に暮れていたのです。彼らの多くは恵まれない状況の中で、キリストの愛に触れ新しい希望に向かって救い上げられた人たちでした。今日の福音の中に出てくるマグダラのマリア、そして12使徒呼ばれる人たちも例外ではありませんでした。
キリストの死によって彼らの抱いていた明るい未来への希望は、脆くも崩れ去ってしまったのでした。彼らが見た力ある業、彼らが聞いた美しい説教、キリストが示してくれた希望と愛、それらが幻影のごとく崩れ去り、全てが思い出の彼方に消え去ろうとしていたのです。恐れと絶望のうちに彼らは逃げ惑い、混乱の極地に陥っていました。
しかし、そこで彼らは、これまでの人生を全く変えてしまうような出来事を経験するのです。ユダヤ人を恐れ家の中に閉じこもっていた彼らの前にイエスは現れ、「あなたがたに平和があるように」と声をかけられました。絶望と混乱の中にあった彼らの心の中に、この言葉が沁み込んでいきました。
主が復活した!それは全く想像も付かなかったことでした。死と悪に対して全く無力であるとしか思われなかった方が、今、完全な勝利をおさめられて生きておられる。そして、脆くも崩れ去ろうとしていた無力とも思えたような「愛」に、永遠の価値が与えられたのです。
このことは、何よりも今生きることの意味、今私たちが経験している愛する人たちに尽くしていることの全てが、過去の思い出の中に消えていくものではなく、永遠の交わりの中で、確かな価値と永遠の意味があるのだということを私たちに教えてくれます。』

派遣の祝福の前に、司教様からあらためて、昨夜受洗されたお二人(石川さん、川口さん)のご紹介がありました。

おめでとうございます!今後とも共同体の兄弟姉妹としてよろしくお願いします。


奉納されたイースターエッグが、司教様により祝別されました。


閉祭の後、侍者から一つ一つイースターエッグが手渡されました。


場所をカテドラルホールに移して、御復活の祝賀会が行われました。

勝谷司教様、森田神父様と
受洗された川口さん、石川さんを囲んで


勝谷司教様からのご挨拶
司教様は今月いっぱいで住居を司教館に移されるそうです
短い間でしたがお世話になりました


聖歌隊のうた


復活のよろこびのうちに、神に感謝!

2014年4月19日土曜日

聖土曜日 - 復活の聖なる徹夜祭 -

今夜の復活徹夜祭は主の復活をお祝いする、一年の典礼のうち最も盛大で荘厳な祭儀です。
この夜キリスト者は、あかりをともして主の帰りを待ち、目をさましているのを見いだされ、ともに復活の宴にあずかり主の食卓に招かれます。
この復活徹夜祭の典礼は、第1部「光の祭儀」、第2部「ことばの典礼」、第3部「洗礼の儀」、第4部「感謝の典礼」から構成されています。
勝谷司教様、地主司教様、森田神父様の司式で行われました。

【第1部 光の祭儀】
聖堂に隣接するカテドラルホールに会衆が集まり光の祭儀が始まりました。

勝谷司教様によるローソクの祝福



祝福された火が、復活のローソクにともされました。


復活のローソクを先頭に暗闇の中、行列が聖堂にむかいました。聖堂入口で会衆が手にしたローソクへ次々に火がうつされ、さらに行列は進みます。

「キリストの光」 「神に感謝!」





暗闇の聖堂内に復活のローソクの灯りだけが明るく輝いています。これは、死の暗闇に打ち勝って復活したキリストの勝利が象徴的に表されています。


森田神父様による復活賛歌


【第2部 ことばの典礼】

第1、第3、第7、使徒書が朗読されました。
そして、栄光の賛歌が高らかに奏でられ、祭壇が整えられ、十字架と御像にかけられた紫布が取り除かれました。

福音朗読の後の勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。

『皆さんが復活という言葉からイメージするのはどのようなことでしょうか?死んだ後に生き返ること。世の終わりに神の国に招かれること。
しかし、復活とは死んだ後のことを意味しているのはありません。
私たちは生きていく中で、人生の意味というものを考えていくのものです。今生きていることに一体どんな意味があるのか?人生を歩む中では、私たちに何の落ち度がなくても、厳しく、苦しい現実というものに直面する場合があります。さらに多くの場合、全く選択の余地のないこともあります。例えば、男に生まれる、女に生まれるなど。そのような状況の中でどのように生きていくのか?私たちはそれを招命と呼ぶことができます。神が与えて下さった命。そこには、知られざる意味があるのです。そのことを証明するのが主の復活です。私たちは復活の信仰によって苦しみに打ち勝つことができ、たとえ厳しい現実の中にあっても、生き方を選び、乗り越えていく力を得ることができます。』

【第3部 洗礼と堅信】

「洗礼の儀」では、お二人の方が洗礼の秘跡を受け、私たちの共同体に加わりました。

おめでとうございます!


【第4部 感謝の典礼】

通常のミサと同じように、奉納、聖体拝領が行われ、派遣の祝福を受け閉祭となりました。


主のご復活おめでとうございます!

明日は、朝9時から「復活の主日ミサ」が行われ、イースターエッグが配られます。
また、ミサ後にはカテドラルホールで復活祭の祝賀会が行われます。

2014年4月18日金曜日

主の受難の祭儀(聖金曜日)

今夜は「主の受難」の祭儀が行われました。この祭儀は、ことばの典礼、十字架の崇敬、聖体拝領の3部からなっています。
昨日から引き続き、勝谷司教様と地主司教様の司式により行われました。
ヨハネ福音書 18章1節~19章42節(主の受難)が朗読されました。

十字架の顕示


十字架の崇敬


勝谷司教様によるお説教の一部をご紹介します。

『この教会の聖堂にかかげられている十字架は「復活の十字架」ですが、1ヶ月ほど前から祭壇の横に行列用の十字架も置くようにしています。私たちはキリストの十字架をシンボルとしていますが、その核心は十字架に磔にされたイエス様の無力で惨めな姿の中にこそあるのです。私たちが信じている全知全能の神は、幾多の哲学者でさえ的確に表現しきれない存在ですが、イエス様が人間という形で来られたことで、神の本質であるアガペー(神の無償の愛)を身近に感じ信じることができるのです。その神の本質を最もよく現しているのが十字架上のイエス様です。
私たちに対する神の慈しみに感謝し、これから十字架の崇敬を行います。』

2014年4月17日木曜日

聖木曜日 - 主の晩餐の夕べのミサ -

今日から「聖なる三日間」がはじまります。
今夜のミサは「最後の晩餐」を記念するのものとして、勝谷司教様と地主司教様の司式により「主の晩餐の夕べのミサ」が行われました。


福音朗読はヨハネ福音書の13章1~15節、「最後の晩餐」の席でイエス様が弟子たちに対して行った洗足の様子が書かれています。弟子たちの足を洗った後イエス様が言われた「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」この御言葉の意味を考える日としましょう。

勝谷司教様のお説教の後、洗足式が行われ司教様が12人の信徒の足を洗いました。


聖体拝領後、隣接するカテドラルホールに前もって準備された聖体安置所に聖体が運ばれ、その前で礼拝が行われました。


閉祭の後、祭壇上のものは全て取り除かれ、十字架と御像には紫布がかけられました。


今夜の司教様のお説教の一部をご紹介します。

『第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。
しかしこの例のように共同体の在り方ということに関して、外面的な側面ばかりでなく、内面的・本質的なことも同時に考えていく必要があります。たとえ聖体拝領などの所作が一見、外面的には一致しているように見えていたにせよ、内面的に周囲から受け入れられていないと感じている人がいるならば、それは本来の意味での一致とは言えません。内面の一致とは、一人一人の考えは違っているにせよ、そのことをお互い許し合い受け入れていくということです。
その人の心の重荷が見えずに外面だけを捉えて、「あの人は変わった人だ」と受け取ることはどうなのでしょうか?
大切なのは自主的に一つと成り得る、そのような雰囲気を作り出していくことなのではないでしょうか?
今日の福音朗読にあるように、イエス様が「互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃられた意味を考える日としましょう。』

2014年4月13日日曜日

受難の主日(枝の主日)

今日から聖週間に入ります。
イエス様のエルサレム入城を記念し、司教様により祝別された枝を手にした会衆が行列をし聖堂に入りました。


イエス様のエルサレム入城は、イエス様が自ら受難と十字架への道に入ったことを意味しており、今日の主日はイエス様の受難が復活の栄光に至る道であることを思い起こす日です。

今日の主日ミサを司式された勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。


今日から聖週間に入ります。木曜日から始まる「聖なる3日間」は典礼の頂点であり、その中でも土曜日の夜に行われる「復活徹夜祭」は最も荘厳なミサです。この夜のミサでは洗礼式も行われます。次の日の「復活の主日」のミサよりも優先させて「復活徹夜祭」のミサに与るようにしてください。
今日は受難の主日です。イエス様のエルサレム入城を記念する日になり、福音では主の受難が朗読されました。この受難の朗読には様々な重要な出来事が書かれているため、この日のお説教では、毎年内容を絞ってお話しするようにしています。
今日お話しするのは、第42節の「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」という箇所です。
イエス様は神の子ですから、エルサレムに入城することが自らの死を選ぶということを既に承知していました。そして、ご自分の力で十字架を降りることも当然出来るわけですが、このことがイエス様にとって最大の誘惑でした。しかし、ゲッセマネの園で既にこの誘惑に打ち勝っていたのでした。それは「この杯を遠ざけてください」というイエス様のみ言葉に表れています。自分の危機から自分を救うことは罪ではありません。しかし、イエス様は神の御心にかなうことをお選びになりました。この決心には何の苦しみもなかったわけではありません。エルサレムにある教会の聖堂のフレスコ画には、ゲッセマネの園で岩にもたれ掛かり苦しみに打ちひしがれ疲れ果てたイエス様の姿が描かれています。死への恐れ、様々な失意、裏切り、不安、孤独・・・。そのような人間的な感情の中で答えを導かれていったのです。「御心が行われますように」と。そして避ける事の出来ない死を選んだのです。
今日の福音では、イエス様が愛した使徒の二人、ユダとペトロの姿をとおして、私たち人間の典型的な姿が描かれています。ユダは、金貨30枚でイエス様を売り渡し逃げました。一方、ペトロはイエス様に盲目的に従っていたが自分の現実というものを分かっていませんでした。そして自分の死の危険を感じたときにさっさと逃げたのでした。この二人の姿は、私たち人間が取り得る行動、人間の弱さというものを如実に映し出しています。
しかし、イエス様はゲッセマネの園で私たち人間と同じように自らが苦しんだように、人間の弱さをも理解してくださいます。私たちは、そのようなイエス様を共感できる存在として信じているのです。
イエス様をとおして復活の栄光に与かるように、この聖週間の祈りを続けてまいりましょう。

2014年4月12日土曜日

第15回カテドラルコンサート

4月12日(土)15時から、カトリック北一条教会聖堂で、カテドラルコンサートが行われました。聖週間を目前にしたこの日、300名を超える方々が訪れ、すばらしい演奏に聞き入りました。

演奏されたのは、フランソワ・クープラン作曲による「ルソン・ド・テネーブル全3曲」。旧約聖書の「エレミア書 哀歌」に付けられた声楽曲です。歌詞は紀元前6世紀にあったエルサレム崩壊とバビロン捕囚を嘆く内容となっています。この曲が作曲された当時は、四旬節中にオーケストラなどによる華美な演奏会は禁止されており、この曲のように宗教性を前面に出した楽曲の演奏だけが許されていたそうです。

私たちにはあまり馴染みのない古楽弦楽器であるリュート(高木一郎さん)、バス・ドゥ・ヴィオール(宇田川貞夫さん)の落ち着いた音色が木造の聖堂に溶け込み、伴奏に徹し抑制されたパイプオルガン(広野嗣雄さん)の演奏を背景に、ソプラノのお二人(小林木綿さん、陣内麻友美さん)の美しく力強いエレミアの哀歌が聖堂に響きわたりました。



演奏の前に、このコンサートのプロディーサーでもある宇田川貞夫さんが「この聖堂に最もふさわしい楽曲だと思います」というお言葉どおり、復活祭を迎えるための四旬節にふさわしいすばらしい内容のコンサートでした。演奏者の皆さま大変ありがとうございました。


【お知らせ】
第16回カテドラルコンサートのお知らせ
2014年7月12日(土)15:00 カトリック北一条教会聖堂
演奏者 パスカル・マルソーさん (キタラ初代専属オルガニスト)
入場料 1,000円




ベネディクト 荒木関巧神父様の追悼ミサのお知らせ

大分教区で病気療養中でありました札幌教区司祭 ベネディクト 荒木関巧神父様が4月9日入院先の大分岡病院で帰天されました。
4月14日(月)午前11時よりカトリック北一条教会で追悼ミサが行われます。
神父様の神様のみもとでの安息をお祈りしましょう。



2014年4月7日月曜日

四旬節第5主日 -ラザロの復活-


四旬節も三分の二が経過しました。
 約40キロのマラソンは30キロ過ぎに疲労がピークになるそうですし、約400日間の信仰年で北一条教会が取り組んだ「聖書通読の旅」も夏に向かってから(私を始め)ペースダウンする人が出てきました。
 四旬節に量的結果を求める必要はありませんが、復活祭までの2週間を、自身の信仰を振返り、洗礼の更新の準備、受洗者を受け入れる準備、そして教皇メッセージの「キリストの受難と死、復活の神秘を私たちが祝う」準備、を完成させる大切な期間にしたいと思います。
今日の福音はラザロの復活です。祐川神父様はお説教を通して、私たちの大切な準備に風諭と勇気を与えて下さいました。


<説教概要>
宗教絵画を観ることでその時代背景の変遷がわかりますが、キリスト教の異端の歴史も同様で、イエス・キリストの人性を強調し過ぎる異端と、神性を強調し過ぎる異端が、振り子のように両極端に傾いていた時がありました。
今日、ラザロの物語では、イエス様が私たちと同じ様に、人の死に対して、その不条理、無力に涙を流された。私たちはこのイエスの人間性に共感、安心を覚えたが、私たちは時としてイエスの人間性を忘れしまいます。私たちと同じように荒れ野で誘惑を受けたイエス、十字架で「我、渇く!」と言って私たちと同じように渇きを覚えられたイエス、ゲッセマネの祈りの中で「この杯を遠ざけて下さい!」と言われた人間味溢れるイエスを、私たちは忘れがちになります。イエスは全き人間として私たちの状況を良く知っておられる。そこに私たちは希望を見出します。
イエスは「良い羊飼いはその羊の為に命を捨てる」、同じヨハネ福音書で「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためであると」と言われた。
ラザロが蘇生することで、私たちは死後のことを考えがちですが、復活と言うのは死んでからの事ではなく、今、この時にも復活は始まっています。暗闇の中にいる私たち、沈んでいる私たち一人ひとりにイエスは「出てきなさい、あなた方に命を与える」と言われている。それは、「豊かに生きるためだ」と。そのためにイエスは十字架の上で贖いの業をして下さいました。
このことを四旬節で、聖週間の中で、洗礼を希望されている方々と共に私たちが深く理解できるように祈ります。