今夜のミサは「最後の晩餐」を記念するのものとして、勝谷司教様と地主司教様の司式により「主の晩餐の夕べのミサ」が行われました。
福音朗読はヨハネ福音書の13章1~15節、「最後の晩餐」の席でイエス様が弟子たちに対して行った洗足の様子が書かれています。弟子たちの足を洗った後イエス様が言われた「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」この御言葉の意味を考える日としましょう。
勝谷司教様のお説教の後、洗足式が行われ司教様が12人の信徒の足を洗いました。
聖体拝領後、隣接するカテドラルホールに前もって準備された聖体安置所に聖体が運ばれ、その前で礼拝が行われました。
閉祭の後、祭壇上のものは全て取り除かれ、十字架と御像には紫布がかけられました。
今夜の司教様のお説教の一部をご紹介します。
『第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。
しかしこの例のように共同体の在り方ということに関して、外面的な側面ばかりでなく、内面的・本質的なことも同時に考えていく必要があります。たとえ聖体拝領などの所作が一見、外面的には一致しているように見えていたにせよ、内面的に周囲から受け入れられていないと感じている人がいるならば、それは本来の意味での一致とは言えません。内面の一致とは、一人一人の考えは違っているにせよ、そのことをお互い許し合い受け入れていくということです。
その人の心の重荷が見えずに外面だけを捉えて、「あの人は変わった人だ」と受け取ることはどうなのでしょうか?
大切なのは自主的に一つと成り得る、そのような雰囲気を作り出していくことなのではないでしょうか?
今日の福音朗読にあるように、イエス様が「互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃられた意味を考える日としましょう。』