四旬節も三分の二が経過しました。
約40キロのマラソンは30キロ過ぎに疲労がピークになるそうですし、約400日間の信仰年で北一条教会が取り組んだ「聖書通読の旅」も夏に向かってから(私を始め)ペースダウンする人が出てきました。
四旬節に量的結果を求める必要はありませんが、復活祭までの2週間を、自身の信仰を振返り、洗礼の更新の準備、受洗者を受け入れる準備、そして教皇メッセージの「キリストの受難と死、復活の神秘を私たちが祝う」準備、を完成させる大切な期間にしたいと思います。
今日の福音はラザロの復活です。祐川神父様はお説教を通して、私たちの大切な準備に風諭と勇気を与えて下さいました。
<説教概要>
宗教絵画を観ることでその時代背景の変遷がわかりますが、キリスト教の異端の歴史も同様で、イエス・キリストの人性を強調し過ぎる異端と、神性を強調し過ぎる異端が、振り子のように両極端に傾いていた時がありました。
今日、ラザロの物語では、イエス様が私たちと同じ様に、人の死に対して、その不条理、無力に涙を流された。私たちはこのイエスの人間性に共感、安心を覚えたが、私たちは時としてイエスの人間性を忘れしまいます。私たちと同じように荒れ野で誘惑を受けたイエス、十字架で「我、渇く!」と言って私たちと同じように渇きを覚えられたイエス、ゲッセマネの祈りの中で「この杯を遠ざけて下さい!」と言われた人間味溢れるイエスを、私たちは忘れがちになります。イエスは全き人間として私たちの状況を良く知っておられる。そこに私たちは希望を見出します。
イエスは「良い羊飼いはその羊の為に命を捨てる」、同じヨハネ福音書で「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためであると」と言われた。
ラザロが蘇生することで、私たちは死後のことを考えがちですが、復活と言うのは死んでからの事ではなく、今、この時にも復活は始まっています。暗闇の中にいる私たち、沈んでいる私たち一人ひとりにイエスは「出てきなさい、あなた方に命を与える」と言われている。それは、「豊かに生きるためだ」と。そのためにイエスは十字架の上で贖いの業をして下さいました。
このことを四旬節で、聖週間の中で、洗礼を希望されている方々と共に私たちが深く理解できるように祈ります。