2021年12月26日日曜日

クリスマスミサ

 12月24日 18時30分から行われました「主の御降誕(夜半)のミサ」の松村神父様のお説教をご紹介します。


 



主の御降誕(夜半)のミサ(18:30) 松村繁彦神父 説教


 今日のミサの冒頭でキャンドルサービスをしました。闇の中で一人一人がローソクを持って闇を照らす。その闇を照らすローソクがたくさんになればこの聖堂も随分明るいものだと感じます。この私たちのローソクの光を思い出しながら、暗闇の中の光について考えてみたいと思います。

 この光についてですが、今日の聖書朗読の後半の羊飼いから見つめてみたいと思います。羊飼いは遊牧民ですから、定住する家はありませんでした。当然多くの羊を養っている関係で当時のユダヤ教の常識、その常識とは神殿に定期的にお祈りにいく、神殿税を払うのが誰もが課せられた義務でした。でも、職業的には遊牧民ですから、街のなかに羊を連れて歩くわけにはいかないわけです。彼らにとってユダヤ教の常識を守ることは出来なかった。当然彼ら羊飼いは職業差別を受けるのです。あいつらは守らない人間たちだ。そしてたくさんの羊の群れを養っている羊飼いは、一般社会のコミュニティからは阻害され、コミュニケーションも無く、彼らはただ住むところ、生きるところだけでなく、精神的にも追いやられて、阻害されていた。人間として差別を受けていたのです。

 でも、羊飼いと羊の関係というのは、イエス様の宣教の場面ではたくさん出てきます。イエス様は神殿で働く人たちをたとえることはありませんでした。常に羊と羊飼いの関係性の中で、特にルカ福音書ではそれを物語っているのです。イエス様の視点からしたら街の人よりも羊と羊飼いのその関係性の中に価値を見いだしていたといえるだろうと思います。この羊と羊飼いの関係をイエスはお生まれになって実現しようとした。だから天使の群れはどこにでたか。イエスが生まれて最初にこのお知らせがあったのはどこなのか。羊飼いだったことは非常にこのイエスの生涯、これからの歩みに向けて光り輝くものを設定

するものに重要な役割を担っていました。イエスが最初に天使を送ったこの羊飼い、非常に今日は重要な部分として描かれています。羊飼いはそれまで孤独の闇、阻害された闇の中に生きていく、そこに主の天使が光を持ってやってこられた。最初に光が当たったのは闇だったということです。その象徴として今日羊飼いが表されています。

 また、イエス様がお生まれになったその場所というのも「飼い葉桶」というふうに描かれています。イエス様は立派な王様として暖かい布団の上ではなく、藁の敷き詰められた「飼い葉桶」に寝ています。「飼い葉桶」というのは家畜の餌箱です。人間の余ったものをそこに置いておかれるし、人間の食べないようなものがそこに置かれている。人の目から見て捨てるようなものが「飼い葉桶」に置かれている。そこにイエスが置かれたというのも、人の目には重要ではないというところにイエスが置かれた。つまり、羊飼いも「飼い葉桶」も 私たちの価値観の外、私たちが考える常識的な思い、感覚の外に神様は置かれた。

 このことが特にクリスマスの中で闇という言葉を通して私たちに象徴的に表していると思います。つまりそれは何を言いたいかと言うと私たちの胸に手を当ててみる。私たちの心の中に、疑っているもの、隠しているもの、人に表せないもの。いろんな悩みや苦しみやつらさ、汚さ、醜さ。こういうものにイエス様は光を当てようとするのです。あまり光を当てられて表に出されて困るものもありますね。私たちのそういう心の中に、何らかの希望を与えようと、神様はイエス様を私たちに与えてくださる。この私たちの闇の部分にイエスが手を差し述べようとする。社会の中では大変なことというのは、きっとみんな小さなことでひとつやふたつあるかもしれません。ましてや罪を犯した人などは、これをだしたら大変なことになることがあるかもしれません。でも敢えて神様はそこに踏み込んで、そこに何らかの希望を与えよう、何らかのこれからの夢を与えよう、だからカトリックは人の死を決して喜べない。そこに一人でも生き生きと生きることを望まれる。死刑制度の廃止もこの中で置かれています。私たちはどんな犯罪者でもどんな人でも立ち直り立ち戻り、そういう希望、闇にまだ救いがあると、投げかける神様の思いがある。

  私たち人間は弱く、ずるく、汚く、醜くそして失敗を犯し罪をつくり、逃げる存在であると自分の中に自覚します。それでも天の御父は私たちを信用し続ける、与え尽くす、愛し何度も立ち直ろうとする私たちの罪を赦して迎え入れてくださる。放蕩息子のことを思い起こせばまさに神の愛、それが私たちの闇に与えられている愛だと気づかされます。

私たちが良く知っている「ブラックホール」。すべてを飲み込むと言われているもの。私たちには贖えない、常識的にも贖えないけれども、神様はそれでも分かっていても光を与え続けどんどん送り続ける。私たちの醜い心を汚い部分においても、改善する余地がないかもわからないけれど、神様はそこに光を与えて、必ず光が勝つと自身をもって私たちを導こうとしている。これが神様の深い慈しみの愛であり、そしてその愛をイエス様は自分の身体をもって、宣教活動を通して現そうとしてお生まれになった。

 この神様の深い愛が今日、私たちの闇の中に誕生した。単に幼子が生まれたということではなくて、闇に飲み込まれそうな中でも光を与えて、必ずその闇が光によって希望が見い出されることを今日、私たちは祝っています。主の御降誕の祝いとは毎年の出来事ではなくて、まさに私たちが今持っている心の闇、そういうところに光を見出そうとする。そして神様ならばそこに必ず希望が与えられる。何らかの次へのステップが私たちに与えられる。過去の出来事ではなくて、今の私たちの心の中に生まれることを毎年毎年確認をし、自分の胸に今年どうだったのか、これからどうなのか、それを思いお越しながら私たちが誓える大きなチャンスを頂いている。毎年、毎年、このチャンスを頂いていることに気づかされて、私たちはへこたれることなく、そしてむかし教えられた教えではなく、今日生き生きと与えられている恵として、今日の日を私たちは喜びを持って迎えたいと思います。

 私たちはいつもいつも慰められている。周りに気づかれていないところを理解し、包み込もうとする神様の愛。今日、私たちはともに歩もうとしている。そして常に、そしてすでに与えられている愛を私たちは誇りとする。この御降誕のお祝いは、実は主イエスのご誕生のひとつのシーンでは無く、私たちの心の中に今日またイエスがいることを、愛の神がおられることを思い起こす日です。

   同じように私たちも他者に対してどれだけ光となって生きるのか、闇を包み込みそしてそこに苦しみながら共に歩み、そしてゆるしあっていく励ましあっていく。これは主の御降誕によって生まれた出来事だと、私たちはそのきっかけを大事にして歩んでいきたいと思います。私たちにはその能力、その恵がすでに与えられている。そのことを誇りに思いながら、本当に今日私たちの中に、一人一人の中に生まれたイエスの光を感謝をこめて祈り、そして感謝を込めて今日の御ミサを捧げていきたいと思います。                                                                        


2021年12月24日金曜日

12月26日 聖家族

ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】

聖家族の祝日、 12月26日  “子よ、なぜこんなことをしたのか”    ウルバン神父

もう旅の四日目の午後になりました。本当に長い道でした。百何十キロ歩いた後、旅人は疲れ果て、埃だらけになったが、一歩一歩、歩き続けました。母マリアの目は先頭にいる子供達のほうへ行って、若者の中に歩いている息子を見た。夫ヨゼフに「御覧なさい、うちの子、本当に良くできた力のある子ですね」と。「へー、本当にいい子、とっても立派だよ」との答えがあった。親の心は疲れを忘れるほどの喜びと神への感謝でいっぱいでした。親のプライドも顔の微笑の中に現れた。三人家族にとっては幸せな旅でした。

「ほら、オリブ山が見えた。もうすぐエルサレムだよ」と、声があった。その時、皆に力が戻って来て、大きな声で祈り、疲れを忘れ、「サー、皆で主の山に登ろう..」と歌いながらオリブ山の頂上についた。目の前にあこがれの町、夕日に照らされた偉大なる神殿が見えた。感動的な有様でした。その時、多くの人は感動の内に手を上げて大きな声で神を賛美し、また涙の内に聖なる土に平伏した。皆は山の上でしばらくの間、この聖なる町、神の都の雰囲気を味わって、心の深いところまで飲み込んだ。

12才の子はその時何をなさったでしょうか、何を感じたでしょうか。だれも、父母も息子の中の激しい動きを知りませんでした。自分はもう小さい時から、まだ暗いうちに外へ行って雑草の中で座って、神様に祈って、「アバ、父よ、パパ」と呼んでいた。すでにご自分がどこから来て、メッシアであることを知っていた。「アバ、父よ、今来ました。望むとおりに何でもします」と祈って、山から下りて神殿、我父の家に近づいた。今、自分の時が来たと信じて、もうそこから離れませんでした。親は皆と共にいると思っていた。

里帰りの時が来た。一日歩いた後、初めて子供がいないことに気がついた。心配と恐れのあまり、叫びながら暗い夜にエルサレムへ戻っていたが、次の日も一日中、大都会の群衆の中で探しても、子供はいなかった。「もうシメオンに “この子の為にあなたの心は剣で抜かれる” と言われたとおりになったか。もう子供が取られるのか」と涙の内に考えた。

三日目に、行く所もなくて神殿へ泣きに行った。神殿にいると全く思わなかった子は、そこにいた。「なぜこんなことをしたのか。心配して探したのです」と母が泣きながら言った時、謝りのない答えがあった「なぜ探したのか。我父の家にいるのは当たり前だと知らないのか」両親はその意味を分からなかった。母は「我愛する子、あなたはいったい誰でしょうか」と心の中で考え、大きな目で息子を見ていた。その時12才のイエスは”時はまだ来ていない“と知って、何もなかったように明るい顔をして父と母と共に帰っていった。

聖家族に喜びと深い親しみがあったのに、涙と行き違いもあった。私達の家族はまだ聖なるものではないから、親しみと助け合いがあっても、傷つけ合いと分裂もよくありますが、ところが、もし家族の皆が悪の道を歩いたとしても、あなただけでも祈って神を信頼する心があれば、家族に聖なるものがある。あなたの祈りは一人、一人を失なわらせないで、命とのつながりであり、いつか必ず一つに結ぶ。許す心、受け入れる心、信じる心があれば、私達は自分の生活、自分の家族に神の力を見る。神様が生きて、弱い私たちを愛しているからです。 



【聖書朗読箇所】


恵み豊かな父よ、

あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。

わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、

あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節


ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。

主に願って得た子供なので、

その名をサムエル(その名は神)と名付けた。


さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと

自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、

ハンナは行こうとせず、夫に言った。

「この子が乳離れしてから、

一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。

そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」


乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、

麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、

その子を連れてシロの主の家に上って行った。


この子は幼子にすぎなかったが、

人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。


ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。

わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。


わたしはこの子を授かるようにと祈り、

主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。


わたしは、この子を主にゆだねます。

この子は生涯、主にゆだねられた者です。」

彼らはそこで主を礼拝した。



第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節


御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。

それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、

事実また、そのとおりです。

世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。


愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、

自分がどのようになるかは、まだ示されていません。

しかし、御子が現れるとき、

御子に似た者となるということを知っています。

なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。


愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、

神の御前で確信を持つことができ、

神に願うことは何でもかなえられます。

わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。


その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、

この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。


神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、

神もその人の内にとどまってくださいます。

神がわたしたちの内にとどまってくださることは、

神が与えてくださった“霊”によって分かります。



福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節


さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。

イエスが十二歳になったときも、

両親は祭りの慣習に従って都に上った。


祭りの期間が終わって帰路についたとき、

少年イエスはエルサレムに残っておられたが、

両親はそれに気づかなかった。

イエスが道連れの中にいるものと思い、

一日分の道のりを行ってしまい、

それから、親類や知人の間を捜し回ったが、

見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。


三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、

話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。


両親はイエスを見て驚き、母が言った。

「なぜこんなことをしてくれたのです。

御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」


すると、イエスは言われた。

「どうしてわたしを捜したのですか。

わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、

知らなかったのですか。」


しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

それから、イエスは一緒に下って行き、

ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。

母はこれらのことをすべて心に納めていた。

イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


2021年12月18日土曜日

12月19日 待降節第4主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】

2021年12月19日 待降節第四主日(ルカ、1.30-45)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、誕生物語の中の「聖母のご訪問」として知られる個所です。聖書を見ると、とても具体的で人間味が溢れ、身近で微笑ましい感じがします。エリザベトは、身ごもってから半年以上も経って、そろそろお腹の中の赤ちゃんが動き出し、お母さんとしてはますますお腹の中の子の存在が実感できる状態です。他方、身ごもったばかりのマリア様の方は、理由が分かりませんがガリラヤから、ユダまで長い旅をしながらそのエリザベトに会いに来ます。一人でトボトボというのは、危険極まりありませんから、もしかしたら巡礼団に交じって旅をしてきたのかもしれません。

  一方は、子供のできない老夫婦で、アブラハムとサラがモデルになっています。子供を産めない女性は一人前の女性と見なされない。そのために負い目を感じ、悩む女性の例は、サムエルの母親のアンナなど他にも旧約聖書には、幾組か出てきます。他方、まったく新しい誕生の形がマリア様の例です。結婚状態であっても、まだ同居、同棲していない夫婦。予想もできない身ごもりの出来事でした。このマリア様に起こった出来事が、どんな出来事なのか、今日の福音は、その一端を教えてくれています。

  私たちは、旧約聖書の最初から新約聖書の最後まで、全体を一つのものとして見渡してみることはあまりありませんし、歴史を見通して出来事を位置づけることもあまりしません。ルカは、ルカなりに全体の流れを見渡しています。かつて、天地創造の時、地を覆っていたあの神の霊は、その後離れることなく、世の終わりまでそばにいてくれています。この聖霊をヨハネはそばにいて導く者(弁護者)と呼んでいます。時には、大きく時の流れが変わるそうした時に働くことがあります。マリア様のみごもりは、キリストのこの世への到来であり、歴史の中で聖霊が働いた大きな出来事の一つです。この時の流れの大きな転換点にあって、洗礼者ヨハネは旧約を代表し、キリストの到来を喜びをもって受け入れています。それをエリザベトは、おなかの中の子が動いたことでこれを表しています。

  さて、私たちにとって、キリストの到来、クリスマスの出来事はどうでしょうか。クリスマスのデコレーション、馬小屋作り、クリスマスパーティ。お正月と同じ年中行事の一つに過ぎないとしたら寂しいですね。逆に、クリスマスをヨハネのような喜びをもって受け止められたら、素晴らしいですね。また更に、私たちへのキリストの到来もヨハネのように受け止められたら、それもまた素晴らしいことです。このように歴史の中で聖霊は、キリストの受肉の神秘の時も、世の終わりの再臨の時も大きな働きをしますが、私たち一人一人へのキリストの到来の時にも働いています。クリスマスの前の八日間も既に三日目です。あと五日、キリストの大きな到来と合わせて私たちへの小さな到来も、見直してみることはよいことではないでしょうか。                 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深く、小さなものに目をとめてくださる神よ、

あなたはひとり子を遣わし、

救いに飢え乾く世界を祝福で満たしてくださいました。

主の降誕を迎えるわたしたちが、その生涯にも結ばれますように。

   集会祈願より



第1朗読 ミカ書 5章1~4a節


エフラタのベツレヘムよ

お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、

わたしのために

イスラエルを治める者が出る。

彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。


まことに、主は彼らを捨ておかれる

産婦が子を産むときまで。

そのとき、彼の兄弟の残りの者は

イスラエルの子らのもとに帰って来る。


彼は立って、群れを養う

主の力、神である主の御名の威厳をもって。

彼らは安らかに住まう。

今や、彼は大いなる者となり

その力が地の果てに及ぶからだ。


彼こそ、まさしく平和である。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章5~10節


それで、キリストは世に来られたときに、

次のように言われたのです。

「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、

むしろ、わたしのために

体を備えてくださいました。


あなたは、焼き尽くす献げ物や

罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。


そこで、わたしは言いました。

『御覧ください。わたしは来ました。

聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、

神よ、御心を行うために。』」


ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、

焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、

つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、

好まれもしなかった」と言われ、


次いで、「御覧ください。

わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。

第二のものを立てるために、

最初のものを廃止されるのです。


この御心に基づいて、

ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、

わたしたちは聖なる者とされたのです。



福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節


そのころ、マリアは出かけて、

急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。


マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、

その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、

声高らかに言った。

「あなたは女の中で祝福された方です。

胎内のお子さまも祝福されています。


わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、

どういうわけでしょう。


あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、

胎内の子は喜んでおどりました。


主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、

なんと幸いでしょう。」


2021年12月11日土曜日

12月12日 待降節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 松村神父】

待降節第3主日 福音のメッセージ 

子供のころは目の前にあるお菓子をたくさん欲しくて、ふところにいっぱい貯めこもうとしたことがあります。「食べられる数だけ取りなさい」という親の注意をしり目に、抱え、結局食べきれず、「だから言ったでしょう~」なんてことはたくさんあったと思います。昨今幼稚園での仕事をしていると、未だにそのような子供に出会えて、懐かしさと同時に我を振り返りさせてくれます。さて私たちはそこから成長しているかと問われるなら・・・・。今となってはそれがお菓子ではなくなっただけで、違うものに変わり、相変わらず成長していないのかもしれません。

今日の福音のメッセージは、まず本日の福音個所をしっかり目を通したうえでこの文章を読んでいただきたいと思います。

前半部で心に入ってきた内容は、私にとって主の祈りの一文「日ごとの糧を今日もお与えください」です。多くの人たちは余分なものを必ず持っています。もちろん私も。いわゆる物心両面におけるストック品ですね。お金はもとより、余分な品、心を満たす事を大切にし、そのために不必要な時間も使っています。  

ヨハネの呼びかけは、自分に与えられた最低限の物「今日だけの糧」、上記で言うならば「食べられるだけの数を取りなさい」に目を向け、その他のものは他者に喜んで分かち合ってほしいとの呼びかけではないでしょうか。すべてを差し出すことも神の愛なのでしょうが、実践する者があっての他者への恵みの分配なのだから、私たちは与えられたものに感謝をこめていただき、分けられるものは存分に与えていこうという、すべての人との間でWinWinの関係、すなわち神の兄弟姉妹に対して隣人愛の実践を要求しています。“規定以上~”というのは正にそうなのでしょう。教皇回勅「兄弟の皆さん」にもこの隣人愛の重要性が強く唱えられていました。分かち合うことの重要さがキーワードなのでしょう。


さて後半部では洗礼者ヨハネが語る、「聖霊と火」とは聖霊による賜物と最後の審判を意味しているのでしょう。ヨハネの水による洗礼の“洗い清め”に加え、後から来る方は“恵みの与え主”であり“裁き主”として来られること。しかし裁きと聞くと恐れを抱かせるが、最大の恵みと救いに導く方であり、そこから一人もこぼれないように救いの道を示され、そこを外れないようにとしてくださる方です。それでも外れる私たちだからこそ、裁きの時に向け、恵みを受ける準備、裁きの前での潔白さを用意するためには、やはり回心しかないという、私たちを愛するからこそのアドバイスです。逆に言うと、私たちは回心させてもらえる。回心の可能性を常に持たせてくれているということこそ、救いの道、裁きの時の慰めへと道を開かれるのでしょう。回心して待つというよりも、私は待降節に回心(ゆるしの秘跡とは別の意味で)が許されるという、いつくしみの愛、私たちを兄弟姉妹として救いたいという主イエスの恵みを深く味わい、「その方(イエス)」が来られることを喜びのうちに待ち望みたいと思います。



【聖書朗読箇所】


希望の源である神、

いつもわたしたちのそばにいてくださる方、

あなたのもとに集まり、キリストを待つわたしたちを、

聖霊によって一つにしてください。

喜びのうちに、あなたを賛美し続けることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 ゼファニヤ書 3章14~17節


娘シオンよ、喜び叫べ。

イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。

娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。


主はお前に対する裁きを退け

お前の敵を追い払われた。

イスラエルの王なる主はお前の中におられる。

お前はもはや、災いを恐れることはない。


その日、人々はエルサレムに向かって言う。

「シオンよ、恐れるな

力なく手を垂れるな。


お前の主なる神はお前のただ中におられ

勇士であって勝利を与えられる。


主はお前のゆえに喜び楽しみ

愛によってお前を新たにし

お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」。



第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4~7節


主において常に喜びなさい。

重ねて言います。喜びなさい。


あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。

主はすぐ近くにおられます。


どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい。


そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。



福音朗読 ルカによる福音書 3章10~18節


「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。

ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、

一枚も持たない者に分けてやれ。

食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。


徴税人も洗礼を受けるために来て、

「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。

ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。


兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。

ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、

だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。


民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、

もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。


そこで、ヨハネは皆に向かって言った。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、

わたしよりも優れた方が来られる。

わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。


そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、

麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」


ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、

民衆に福音を告げ知らせた。

2021年12月5日日曜日

12月5日 待降節第2主日

レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




 【福音メッセージ レイ神父】

この待降節第2主日に、私たちは洗礼者ヨハネを黙想に与えられています。なんと素晴らしい贈り物でしょう!イエスご自身が言われました。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった。」(マタイ11章11節)すばらしい誉め言葉です。

何がヨハネをこのように偉大にしているのでしょうか?二つのことが特にあげられます。ひとつは、神からの呼びかけであり、二つめはヨハネの美徳です。まず、彼は旧約の予言書から新約への移行を行った偉大な方なのです。彼はやがて来る新しい命への道を用意した橋なのです。彼の特別な使命はヨハネを本当に偉大にしています。

ヨハネはその特別な呼びかけのために偉大であっただけではなく、彼が生涯持っていた美徳のために偉大だったのです。このギフトこそが何よりも私たちの霊感にとって価値あるものです。

ヨハネの持っていた特別の美徳は謙虚さでした。彼自身は「荒れ野で叫ぶ者の声」である以外の何者でもないとわかっていました。そして彼の話した言葉はイエスの言葉だったのです。ヨハネはかがんでイエスの履物のひもを解く値打ちもないと認めました(マルコ1章7節)。彼はたくさんの人々に賞賛されて、たくさんの人々が彼の後についてきました。それでも彼はいつも「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と言いました。(ヨハネ3章30節)

賞賛や名誉のためというよりは彼の使命は皆に救世主を指し示すことだったのです。ヨハネは多くの人々からの栄誉や賞賛を求めることもできましたし、又もちろんそれを受け取ることもできたでしょう。人々はヨハネを王にすらしたかもしれません。

しかし、ヨハネはそれよりも自分の使命を喜んで果たし、そのすぐ後で残酷な死刑執行人の刃にわが身をまかせたのです。彼の謙虚さとはイエスだけに集中し、イエスを指し示すことだけを望んだことです。

あなたの暮らしの中でこのような謙虚さについて今日はよく考えてみましょう。あなたは自分自身へ向かいがちになりますか、それともイエスへでしょうか?あなたは他の人からの賞賛を求めますか、それとも謙遜して全ての賞賛や栄光を神に向けますか?謙虚さは洗礼者ヨハネがたどった道であり、私たちが日毎に進んでいくべき道であります。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ豊かな神よ、

あなたの栄光の輝きはすべての人を照らし、

悲しみを喜びへと変えてくださいます。

救いの道に招かれたわたしたちが、

キリストと一つに結ばれる日まで、

あなたの愛のうちに歩み続けることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 バルク書 5章1~9節


エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、

神から与えられる栄光で永遠に飾れ。

神から与えられる義の衣を身にまとい、

頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。


神は天の下のすべての地に

お前の輝きを示される。


お前は神から「義の平和、敬神の栄光」と呼ばれ、

その名は永遠に残る。


エルサレムよ、立ち上がれ、

高い山に立って東の方に目を向けよ。

お前の子らは、神が覚えていてくださったことを喜び、

西からも東からも

聖なる者の言葉によって集められる。


お前の子らは敵に追い立てられ、

徒歩でお前のもとを去ったが、

神は彼らを、玉座につく王のように高く上げ、

栄光のうちにお前のもとに連れ戻される。


すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、

谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。

それはイスラエルが神の栄光に包まれ、

安全に歩むため。


森も、香り高いすべての木々も、

神の命令でイスラエルのために木陰をつくる。


神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、

喜びのうちにイスラエルを導かれる。



第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章4~6、8~11節


あなたがた一同のために祈る度に、

いつも喜びをもって祈っています。


それは、あなたがたが最初の日から今日まで、

福音にあずかっているからです。


あなたがたの中で善い業を始められた方が、

キリスト・イエスの日までに、

その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。


わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、

あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、

神が証ししてくださいます。


わたしは、こう祈ります。

知る力と見抜く力とを身に着けて、

あなたがたの愛がますます豊かになり、

本当に重要なことを見分けられるように。


そして、キリストの日に備えて、清い者、

とがめられるところのない者となり、

イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、

神の栄光と誉れとをたたえることができるように。



福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節


皇帝ティベリウスの治世の第十五年、

ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、

ヘロデがガリラヤの領主、

その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、

リサニアがアビレネの領主、

アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、

神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。


そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、

罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。


これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。


『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。

谷はすべて埋められ、

山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、

でこぼこの道は平らになり、

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」