2021年12月26日日曜日

クリスマスミサ

 12月24日 18時30分から行われました「主の御降誕(夜半)のミサ」の松村神父様のお説教をご紹介します。


 



主の御降誕(夜半)のミサ(18:30) 松村繁彦神父 説教


 今日のミサの冒頭でキャンドルサービスをしました。闇の中で一人一人がローソクを持って闇を照らす。その闇を照らすローソクがたくさんになればこの聖堂も随分明るいものだと感じます。この私たちのローソクの光を思い出しながら、暗闇の中の光について考えてみたいと思います。

 この光についてですが、今日の聖書朗読の後半の羊飼いから見つめてみたいと思います。羊飼いは遊牧民ですから、定住する家はありませんでした。当然多くの羊を養っている関係で当時のユダヤ教の常識、その常識とは神殿に定期的にお祈りにいく、神殿税を払うのが誰もが課せられた義務でした。でも、職業的には遊牧民ですから、街のなかに羊を連れて歩くわけにはいかないわけです。彼らにとってユダヤ教の常識を守ることは出来なかった。当然彼ら羊飼いは職業差別を受けるのです。あいつらは守らない人間たちだ。そしてたくさんの羊の群れを養っている羊飼いは、一般社会のコミュニティからは阻害され、コミュニケーションも無く、彼らはただ住むところ、生きるところだけでなく、精神的にも追いやられて、阻害されていた。人間として差別を受けていたのです。

 でも、羊飼いと羊の関係というのは、イエス様の宣教の場面ではたくさん出てきます。イエス様は神殿で働く人たちをたとえることはありませんでした。常に羊と羊飼いの関係性の中で、特にルカ福音書ではそれを物語っているのです。イエス様の視点からしたら街の人よりも羊と羊飼いのその関係性の中に価値を見いだしていたといえるだろうと思います。この羊と羊飼いの関係をイエスはお生まれになって実現しようとした。だから天使の群れはどこにでたか。イエスが生まれて最初にこのお知らせがあったのはどこなのか。羊飼いだったことは非常にこのイエスの生涯、これからの歩みに向けて光り輝くものを設定

するものに重要な役割を担っていました。イエスが最初に天使を送ったこの羊飼い、非常に今日は重要な部分として描かれています。羊飼いはそれまで孤独の闇、阻害された闇の中に生きていく、そこに主の天使が光を持ってやってこられた。最初に光が当たったのは闇だったということです。その象徴として今日羊飼いが表されています。

 また、イエス様がお生まれになったその場所というのも「飼い葉桶」というふうに描かれています。イエス様は立派な王様として暖かい布団の上ではなく、藁の敷き詰められた「飼い葉桶」に寝ています。「飼い葉桶」というのは家畜の餌箱です。人間の余ったものをそこに置いておかれるし、人間の食べないようなものがそこに置かれている。人の目から見て捨てるようなものが「飼い葉桶」に置かれている。そこにイエスが置かれたというのも、人の目には重要ではないというところにイエスが置かれた。つまり、羊飼いも「飼い葉桶」も 私たちの価値観の外、私たちが考える常識的な思い、感覚の外に神様は置かれた。

 このことが特にクリスマスの中で闇という言葉を通して私たちに象徴的に表していると思います。つまりそれは何を言いたいかと言うと私たちの胸に手を当ててみる。私たちの心の中に、疑っているもの、隠しているもの、人に表せないもの。いろんな悩みや苦しみやつらさ、汚さ、醜さ。こういうものにイエス様は光を当てようとするのです。あまり光を当てられて表に出されて困るものもありますね。私たちのそういう心の中に、何らかの希望を与えようと、神様はイエス様を私たちに与えてくださる。この私たちの闇の部分にイエスが手を差し述べようとする。社会の中では大変なことというのは、きっとみんな小さなことでひとつやふたつあるかもしれません。ましてや罪を犯した人などは、これをだしたら大変なことになることがあるかもしれません。でも敢えて神様はそこに踏み込んで、そこに何らかの希望を与えよう、何らかのこれからの夢を与えよう、だからカトリックは人の死を決して喜べない。そこに一人でも生き生きと生きることを望まれる。死刑制度の廃止もこの中で置かれています。私たちはどんな犯罪者でもどんな人でも立ち直り立ち戻り、そういう希望、闇にまだ救いがあると、投げかける神様の思いがある。

  私たち人間は弱く、ずるく、汚く、醜くそして失敗を犯し罪をつくり、逃げる存在であると自分の中に自覚します。それでも天の御父は私たちを信用し続ける、与え尽くす、愛し何度も立ち直ろうとする私たちの罪を赦して迎え入れてくださる。放蕩息子のことを思い起こせばまさに神の愛、それが私たちの闇に与えられている愛だと気づかされます。

私たちが良く知っている「ブラックホール」。すべてを飲み込むと言われているもの。私たちには贖えない、常識的にも贖えないけれども、神様はそれでも分かっていても光を与え続けどんどん送り続ける。私たちの醜い心を汚い部分においても、改善する余地がないかもわからないけれど、神様はそこに光を与えて、必ず光が勝つと自身をもって私たちを導こうとしている。これが神様の深い慈しみの愛であり、そしてその愛をイエス様は自分の身体をもって、宣教活動を通して現そうとしてお生まれになった。

 この神様の深い愛が今日、私たちの闇の中に誕生した。単に幼子が生まれたということではなくて、闇に飲み込まれそうな中でも光を与えて、必ずその闇が光によって希望が見い出されることを今日、私たちは祝っています。主の御降誕の祝いとは毎年の出来事ではなくて、まさに私たちが今持っている心の闇、そういうところに光を見出そうとする。そして神様ならばそこに必ず希望が与えられる。何らかの次へのステップが私たちに与えられる。過去の出来事ではなくて、今の私たちの心の中に生まれることを毎年毎年確認をし、自分の胸に今年どうだったのか、これからどうなのか、それを思いお越しながら私たちが誓える大きなチャンスを頂いている。毎年、毎年、このチャンスを頂いていることに気づかされて、私たちはへこたれることなく、そしてむかし教えられた教えではなく、今日生き生きと与えられている恵として、今日の日を私たちは喜びを持って迎えたいと思います。

 私たちはいつもいつも慰められている。周りに気づかれていないところを理解し、包み込もうとする神様の愛。今日、私たちはともに歩もうとしている。そして常に、そしてすでに与えられている愛を私たちは誇りとする。この御降誕のお祝いは、実は主イエスのご誕生のひとつのシーンでは無く、私たちの心の中に今日またイエスがいることを、愛の神がおられることを思い起こす日です。

   同じように私たちも他者に対してどれだけ光となって生きるのか、闇を包み込みそしてそこに苦しみながら共に歩み、そしてゆるしあっていく励ましあっていく。これは主の御降誕によって生まれた出来事だと、私たちはそのきっかけを大事にして歩んでいきたいと思います。私たちにはその能力、その恵がすでに与えられている。そのことを誇りに思いながら、本当に今日私たちの中に、一人一人の中に生まれたイエスの光を感謝をこめて祈り、そして感謝を込めて今日の御ミサを捧げていきたいと思います。