ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】
聖家族の祝日、 12月26日 “子よ、なぜこんなことをしたのか” ウルバン神父
もう旅の四日目の午後になりました。本当に長い道でした。百何十キロ歩いた後、旅人は疲れ果て、埃だらけになったが、一歩一歩、歩き続けました。母マリアの目は先頭にいる子供達のほうへ行って、若者の中に歩いている息子を見た。夫ヨゼフに「御覧なさい、うちの子、本当に良くできた力のある子ですね」と。「へー、本当にいい子、とっても立派だよ」との答えがあった。親の心は疲れを忘れるほどの喜びと神への感謝でいっぱいでした。親のプライドも顔の微笑の中に現れた。三人家族にとっては幸せな旅でした。
「ほら、オリブ山が見えた。もうすぐエルサレムだよ」と、声があった。その時、皆に力が戻って来て、大きな声で祈り、疲れを忘れ、「サー、皆で主の山に登ろう..」と歌いながらオリブ山の頂上についた。目の前にあこがれの町、夕日に照らされた偉大なる神殿が見えた。感動的な有様でした。その時、多くの人は感動の内に手を上げて大きな声で神を賛美し、また涙の内に聖なる土に平伏した。皆は山の上でしばらくの間、この聖なる町、神の都の雰囲気を味わって、心の深いところまで飲み込んだ。
12才の子はその時何をなさったでしょうか、何を感じたでしょうか。だれも、父母も息子の中の激しい動きを知りませんでした。自分はもう小さい時から、まだ暗いうちに外へ行って雑草の中で座って、神様に祈って、「アバ、父よ、パパ」と呼んでいた。すでにご自分がどこから来て、メッシアであることを知っていた。「アバ、父よ、今来ました。望むとおりに何でもします」と祈って、山から下りて神殿、我父の家に近づいた。今、自分の時が来たと信じて、もうそこから離れませんでした。親は皆と共にいると思っていた。
里帰りの時が来た。一日歩いた後、初めて子供がいないことに気がついた。心配と恐れのあまり、叫びながら暗い夜にエルサレムへ戻っていたが、次の日も一日中、大都会の群衆の中で探しても、子供はいなかった。「もうシメオンに “この子の為にあなたの心は剣で抜かれる” と言われたとおりになったか。もう子供が取られるのか」と涙の内に考えた。
三日目に、行く所もなくて神殿へ泣きに行った。神殿にいると全く思わなかった子は、そこにいた。「なぜこんなことをしたのか。心配して探したのです」と母が泣きながら言った時、謝りのない答えがあった「なぜ探したのか。我父の家にいるのは当たり前だと知らないのか」両親はその意味を分からなかった。母は「我愛する子、あなたはいったい誰でしょうか」と心の中で考え、大きな目で息子を見ていた。その時12才のイエスは”時はまだ来ていない“と知って、何もなかったように明るい顔をして父と母と共に帰っていった。
聖家族に喜びと深い親しみがあったのに、涙と行き違いもあった。私達の家族はまだ聖なるものではないから、親しみと助け合いがあっても、傷つけ合いと分裂もよくありますが、ところが、もし家族の皆が悪の道を歩いたとしても、あなただけでも祈って神を信頼する心があれば、家族に聖なるものがある。あなたの祈りは一人、一人を失なわらせないで、命とのつながりであり、いつか必ず一つに結ぶ。許す心、受け入れる心、信じる心があれば、私達は自分の生活、自分の家族に神の力を見る。神様が生きて、弱い私たちを愛しているからです。
【聖書朗読箇所】
恵み豊かな父よ、
あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。
わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、
あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。
集会祈願より
第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節
ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。
主に願って得た子供なので、
その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと
自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、
ハンナは行こうとせず、夫に言った。
「この子が乳離れしてから、
一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。
そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、
麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、
その子を連れてシロの主の家に上って行った。
この子は幼子にすぎなかったが、
人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。
ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。
わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。
わたしはこの子を授かるようにと祈り、
主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。
わたしは、この子を主にゆだねます。
この子は生涯、主にゆだねられた者です。」
彼らはそこで主を礼拝した。
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。
それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、
事実また、そのとおりです。
世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、
自分がどのようになるかは、まだ示されていません。
しかし、御子が現れるとき、
御子に似た者となるということを知っています。
なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、
神の御前で確信を持つことができ、
神に願うことは何でもかなえられます。
わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、
この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、
神もその人の内にとどまってくださいます。
神がわたしたちの内にとどまってくださることは、
神が与えてくださった“霊”によって分かります。
福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
イエスが十二歳になったときも、
両親は祭りの慣習に従って都に上った。
祭りの期間が終わって帰路についたとき、
少年イエスはエルサレムに残っておられたが、
両親はそれに気づかなかった。
イエスが道連れの中にいるものと思い、
一日分の道のりを行ってしまい、
それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、
話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
両親はイエスを見て驚き、母が言った。
「なぜこんなことをしてくれたのです。
御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
すると、イエスは言われた。
「どうしてわたしを捜したのですか。
わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
それから、イエスは一緒に下って行き、
ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。
母はこれらのことをすべて心に納めていた。
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。