2016年5月30日月曜日

キリストの聖体

聖体の祭日は、キリストの死と復活によってもたらされた救いの恵み、愛の結晶である「聖体の秘跡」を感謝する日です。

札幌は初夏を思わせるような陽気でした。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今、ルカの福音を朗読しましたけれども、このみ言葉を読みながら、今までに気づいたことのない気づきを私は与えらていました。それは、「日が傾きかけたので」(12節)から始まる一節のところにでてくることから感じたことですが、大勢の群衆がイエス様のみ言葉を聴くために集まって来た。そこは人里離れたところであった。そして、日が傾き、いわゆる夕食の時間を迎えようとしていることでしょうか。きっと、それまでにも空腹の状態でイエス様の話に耳を傾けていた群衆がいたということだと思います。弟子たちは食事のことが気がかりになってきます。解散させてそれぞれが自分たちで食事をとるようにしたらどうですか。誰もが考えることだと思います。そして、時間も遅いので宿を見つけて、それぞれ明日に向かうことだと思います。
   私は今まで何度もこの箇所を読んできましたが、今までに気づいたことのない気づきを私は、今日の朗読で感じたことですが、そんな田舎に、不自由な場所に大勢の人が集まり、お腹をすかしてみ言葉を聴いている。周りの町や村に行って宿をとるように言っている。どんなにその人々がみ言葉を聴くことに熱心であったか。宿のことも心配することなく、ただ、み言葉を聴くために集まって時間が過ぎていく。夕方を向けえている。そんな人里離れたところにまで、人々はイエス様のところに押し寄せている。 
 私たちも今、生きている信仰の中でそういう熱心さはどこから来るのでしょうか。時々、大きな行事の打ち合わせの時の話しを思い出します。時間のこと、交通機関のこと、帰る時間のことを考えて、行事の時間を考えなければいけないという話しに進んでいく、今の私たちの教会の姿と、今私たちが聴いた聖書の中の出来事、随分違うということを、今読みながら特別に今日はその気づきを与えられて読んでいました。私たちの現在のクリスチャンの生き方がありますが、当時の人々と比べて、私たちはどこまで、み言葉をまず第一に考えているだろうか。教会を第一に考えているだろうか。そんなことを考えながら読んでいました。

 今日は聖体を記念する祭日、キリストの聖体をお祝いしています。私たちのこの(現)聖堂が100年を迎える年を歩んでいます。(天井彫刻を見ながら)100年間の私たちの教会のシンボルのひとつに、ご聖体があります。皆さんは今改めてご覧になると思いますが。ここにあるのがシンボル、ご聖体ですね。私は時々ミサの祈りの中で目を上げて上を向いたときに、このご聖体に目がいくことがあります。そして、ミサを通してこのご聖体が私たちのところに降りて来る、そういう感覚を一瞬感じることがあります。ミサでご聖体の聖変化を進めているとき、もうすでにイエス様は私たちとともにいてくださり、この教会とともにおられ私たちを見守っていてくださり、導いてくださる。もちろん、聖櫃と呼ばれるところで、現存されておられるイエス様がそこにおられるのですが、このシンボルを通してもそんなことを考えるときがあります。私たちの教会の中には様々な教会のシンボルが記されていますが、時々私たちは気にも留めないで出たり入ったりしているかもしれません。時にはこうしたシンボルを見つめながら、自分の信仰を見つめることも大切かなと考えます。
  キリストの聖体の祭日を迎えて、私たちは今日、何を考えるのでしょうか。どんな祈りを捧げるのでしょうか。聖体と言えば一年の典礼の中で特別のミサが二度捧げられていると思います。ひとつは過ぎ越しの聖なる3ヶ間が始まる聖木曜日の典礼の中で、最後の晩餐を記念するミサがあります。その日のみ言葉は弟子たちにミサの原型となる聖体の制定が聖書から告げられます。それがひとつ。そして今日のキリストの聖体の祭日がもうひとつ。キリストの死と復活によってもたらされた恵みに感謝する、このキリストの聖体の祭日の典礼。

 聖体ということで私は別なことを思い起こしています。今の教皇フランシスコが就任したときのこと。就任してまもなくキリストの聖体を祝う書簡を全世界に送られていました。教皇様とともに聖体を前に祈りを捧げることを呼びかけたのは3年前のことです。当時、私は函館の教会におりました。その教会にも日本の司教団がその教皇様のメッセージを送ってきました。教皇様は一時間の聖体礼拝を行う、日本の司教団も教皇様の意向にならって、小教区の中で教皇様とともに祈ってくださいというのが、日本の司教団からのメッセージでした。教皇様が就任直後、全世界の教会に呼びかけ、信徒に呼びかけ、聖体の前で新しくなられた教皇様と心をひとつにして祈ってください、そういうメッセージでもありました。教皇様の覚悟というものがその中に私は感じました。先のベネディクト教皇の後を受けて、新しい教皇様はある種の覚悟を決めて就任されたのではないでしょうか。必ずしも若い教皇様ではありませんが、自分の生涯をかけて、命をかけて神の御国のため、そして人々の平和のために、ご自身を捧げる覚悟をされたかのように、まず最初に全世界の教会の信徒に向けて、ご聖体の前でともに祈ってくださいと呼びかけられました。
  その後、3年が経とうとしていますが、現在に至るまでその時の教皇様の覚悟は変わらないものとして、カトリック新聞にも度々教皇様としての行動、祈りの言葉、メッセージが伝えられているような気がします。現在の教会はどうあるべきなのか、どんな反省をして新しく歩み出さなくてはならないのか。信徒一人ひとりに向けては、自分の信仰を見つめてくださいと何度も何度も様々なメッセージの中で呼びかけておられます。そして、特に貧しい人、病気の人に想いをよせて、私たちにもその心を大切にするよう話されているような気がします。教皇様は3年の歩みをしていますが、当初のメッセージの中から伝わってきた心は、今も変わりなく私たちに届けられているような気がします。
  呼びかけの中でいくつかの言葉を想いめぐらしています。「私たちは皆、心の中である種の不信仰を抱いています。だから主に言わなければなりません。私は信じます。不信仰な私を助けてください。」教皇様はきれいごとだけを語るのではなくて、正直に自分の心の内を開いて祈りなさいと私たちに呼びかけます。「利己心に屈する度に私たちは神を否定します。私たちのために神の愛の計画をダメにしていくからです。」そして、続けて言われています。「奇跡は起こります。しかしそのためには私たちは祈らなければなりません。形式的にではなく勇気を持ってうむことなく堅忍、忍耐を持って祈らなければなりません。心から神に信頼して祈り、聖体の前で沈黙して  自分を捧げるようにして祈る、その時奇跡は起こります。」と教皇様は話されておられました。それは過ぎ去ったことですが、その心は今も私たちに届けられているような気がします。キリストのからだ、ご聖体によって養われている私たちは、聖体を頂くことに満足することなく、キリストによって変えられるために、聖体の前で祈り続けなければならないでしょう。

 キリストの聖体の祭日を迎えてもう一つ思い出します。かつてどの教区においても、どの地区においても、この札幌地区においても聖体大会が盛大に祝われていました。今、聖体大会は札幌地区では行われていませんが、聖体に対する祈りや想いは変わったとは言えないと思います。私たちには、変わらない聖体に対する想いや祈りがあると思います。一人ひとりが聖体の前で沈黙のうちにキリストを見つめ、自分の信仰が聖体によってどのように日々成長しているのか、そのことも考えてみなければなりません。私たちは、毎日毎日三度の食事を通して成長しているはずです。身体が保たれているはずです。同じように私たちは聖体を通して私たちの信仰が保たれているはずですが、成長しているでしょうか、変えられているでしょうか。そんなことも聖体の祭日を迎えて、私は考えさせられています。新しい歩みを踏み出すために聖霊の助けを願い、信頼を持って私たち一人ひとりが心から祈り続けているのかどうかも、今日改めて考えてみたらと思っています。
  教皇様が話されているように、本当に私たちは神の赦しを求めています。神の慈しみを求めます。不信仰、弱さから犯してしまった罪の赦しを願い、自分の生活の中で働きの場所で、置かれた場所で、和解と愛のメッセージをどこまで伝える使徒となっているか、イエス・キリストの弟子となっているか、そんなことも想いめぐらしたいと想います。私たちに託された弟子の一人としての使命、福音宣教、そんなことも改めて考え、黙想する日を迎えているような気がします。
 イエスは弟子たちに自分の十字架を背負って私に従いなさいと話されました。十字架を背負って、それも自分の十字架を背負って従いなさい。でも、私たちは自分の十字架を降ろして歩もうとしているのではないでしょうか。出来れば自分の十字架は、つらい十字架は、重い十字架は、心の痛む十字架はなるべく早く自分の肩から降ろさせてください。降ろしてくださいと
そういう祈りの方が強くなっているのではないでしょうか。自分の十字架を背負うということの意味もまたもう一度考えてみたいと想います。

  信仰はイエスに従うことと良く言われます。イエスに従うことと言うのであれば、今の自分から出て行くということ、そんなことを意味するとも考えます。今の自分をずっと保とうとすれば、イエス様に近づいていけないのではないでしょうか。今の自分を変えてもらって新しい歩みにイエス様は招いておられるのではないでしょうか。どこまで私たちはイエス様に従い、どこまでイエス様の声を聴こうとして歩みを続けているでしょうか。今日のパウロの第2朗読の中で「あなたがたは、このパンを食べ杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである。」第2朗読の最後でパウロはこう述べています。主の死を告げ知らせるのである、この言葉はミサのたびごとに、聖変化の直後にも唱えられている言葉に結ばれます。「信仰の神秘、主の死を想い、復活を告げ知らせよう、主が来られるまで。」パウロの主の死を告げ知らせるのである、この意味は結ばれていると思います。聖体の恵みに与り、聖体拝領をしながら、不消化のまま留まることなく、私たちは復活の主に与るものでなければならないはず。聖体は私たちの罪を受けとめながらそれを赦す。私たちの罪を背負い清め、愛の力もまた与えてくださる。素晴らしい愛の結晶であるとも思います。
 今日もまた私たちはそのご聖体をいただきます。イエス様のもたらされた愛の神秘を心から感謝し、共に祈りたいと思います。5月の聖母月がまもなく終わろうとしています。イエス様を産み、そして育てた神の母マリアに感謝しながら、今日のミサをとおして近づいてくる、 ご聖体をいただきたいと思います。』

2016年5月29日日曜日

三位一体の主日

三位一体の祝日を記念する今日、洗礼によって神の民が教会共同体の一員となった私たち一人一人を祝福し、導いてくださることを感謝いたしましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の日曜日は三位一体の祭日を迎えています。
教会の典礼は先週もお話ししたように年間の季節に入り、典礼の色は緑に変わっていますが、5月の主日は祝祭日が続きますので、日曜日の祭服の色は白が続くことになります。ということで、最近、緑の祭服を新調したのですが、皆さんにお披露目するのは6月に入ってからということになってしまい少し残念です。
さて今日は三位一体の祭日です。説教をするのには難しい日曜日が続いているのです。私にとっても日曜日を迎えるのが心が苦しくなるような状況なのですけれど、三位一体については話しづらいのですが、少しお話をしていきたいと思います。
私の神学生時代、ネメシェギ神父様(イエズス会のペトロ・ネメシェギ神父様)という方が講義をしてくださっていました。皆さんもご存知の方が多いと思います。今は御高齢になって自分の国に帰られています。それでも2,3年おきには日本に戻ってきて講演をしてくださっています。そのネメシェギ神父様が三位一体の授業で話されたことを思い起こしています。三位一体とは何かという説明の中で私たち神学生に問題提起をして話されたことを思い出します。ネメシェギ神父様も神学者の一人ではありますが、神学者は「父と子と聖霊」それ自体に関する一切の研究を断念して、唯一の神の人間に対する働きだけを考察しなければならない、こういったご自分の見解を問題提起として私たちに話されたことがあります。とても驚くようなお話だと思うのですが、それは、神様が私たち人間に対する働きを聖書は語っているので、そのことに心を向けなければならない。聖書自体は神が人間のために何をなさり、人間とどのような関係を結んでいるのかということを聖書は語っているのであるから、「父と子と聖霊」がそれ自体、誰であり何であるかという質問を出してはいけない。神とは何かということを語るのは私たち人間の業ではないということを私たちに話されていたのだと思います。何よりも神様が私たちに何を望み、何をしようとし、何を教えているのか、何を大切にしなければならないのか、ということの方が私たちには大切なことではないか、ということを訴えられたわけです。
皆さんはどう考えるでしょうか?
人間に対する神様の働きをまず何よりも大事にしてみたらどうですか、ということを私たち若い神学生に話された三位一体論の神学者であるネメシェギ神父様のお話を思い出します。もしかしたら、「あなた方にいくら説明しても理解できないだろう」ということが前提にあったのではないかと今になっては思うこともあるのですが、そのくらい三位一体の授業は私にとっても難しいものでした。非常に日本語が堪能で、お話が上手であったネメシェギ神父様の傍にいてお話を聞いているだけで神様の平和を感じられ、三位一体の授業よりもそちらの思い出の方が印象に残っています。
人間は他者を知り他者を愛する能力を持っているから偉大である。知識欲がある故に、神自体についても私たちは語ろうとしてしまう、神様の定義を勝手に私たちが作ってしまう、というようなことも話されていたような気がします。
ネメシェギ神父様は今遠くにおられますが、私たち神学生一人一人に、何が大切なのか、ということを本当に一生懸命伝えようとしていたその時代を私も振り返り懐かしく考えています。
三位一体の教義を説明する神学書は数多くありますが、父と子の愛から派出されるのが聖霊であるという説明が多くて、神学者であっても人間の知性で理解することはとても難しいと言われます。ですから今、三位一体について分かりやすく何かを伝えようとは思うのですが、それは至難の業です。私自身は自分の信仰において、この三位一体の神をただ信じるということに集中して自分の信仰を生きているような気がします。「父と子と聖霊」は一つである。三位一体の説明の思い出の中で、去年も皆さんにお話ししたかもしれませんが、私に公教要理を指導された神父様は、三角形を示して、三角形全体が神様であり、その角に父と子と聖霊があり、その中のどこをとっても神様なのだと話されました。公教要理を習い始めたころは、私の信仰もおぼつかないものでしたので、それはそれで分かりやすい三位一体論の説明であったと思います。もっともっと深遠なる教義がそこにはあると思いますが、子供たちにとっても分かりやすい説明だと思います。
皆さんは、「父と子と聖霊」というその三位一体に向かう祈りの言葉を毎日のように使いながらどんな理解をされているのかと思います。聖書の中でイエスの話される言葉で三位一体を示す話があります。今日のヨハネの福音の短い朗読においても、三位一体論を表すみ言葉が語られました。
今日のみ言葉で少し触れてみますと、真理の霊が来るというところから入っていきました。真理の霊とは、聖霊、弁護者を表します。中ほどから語られたみ言葉は、「その方はわたしに栄光を与える。」という表現をとっています。聖霊を”その方”と人格を表す言葉で表現しています。「聖霊はわたしに栄光を与える。」と言い換えられます。続いて、「わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」ここの「わたしのもの」いうのはイエス自身を表していますが、「イエス自身を受けてあなた方に告げる」と、イエスと聖霊の深い一致をここで表現しています。さらに次の一節では、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」ここでは、御父とイエス自身との関係について語られ、父とイエスは一つであるということが表されています。そして、「父と子と聖霊」の一体がここで示されます。
「神を見たものはひとりもいないが、父のふところにおいでになるおんひとり子の神がこれをお示しになった。」「わたしを見るものは父を見る、わたしは父におる、父はわたしのうちにおられる。」父と子の関係は、聖書の中では度々語られています。
聖霊については、御父と御子がおくってくださるのが聖霊であることを、復活の主であるイエスが弟子たちの前から去る時に説明します。「わたしが去ることは、あなたたちにとってよいことである。わたしが去らないなら弁護者は来ない。弁護者すなわち父が私の名によって遣わすのが聖霊である。」このように、聖霊のはたらきについても弟子たちに説明しました。それ故、父と子と聖霊は一体であることを私たちが受け入れ、三位一体を神秘として私たちは信じるということになると思います。
何よりも一番に、身近にイエスを信じて私たちは祈っていると思います。そしてゆるぎない希望を持って、歩み続けています。イエスを愛することによって、父なる神もまたそのことを愛してくださるとイエスは約束されました。父と子が一体であるように、イエスは私たちともまた、一つになることを望んでいます。イエスと一つになるということは三位一体の神と私たちが一つになるということでもあります。
いつくしみの特別聖年を歩んでいるなかで、私たちは一人一人の信仰者として、自分の信仰をさらに見つめて成長し、前に進んで行かなければなりません。それを導いてくださるのも三位一体の神でもあり、聖霊の導きです。
教会の恵みの秘跡である洗礼の秘跡が、三位一体の神との交わりに招いてくださったことを私たちは忘れてはならないと思います。私たち一人一人が洗礼の恵みによって、三位一体の神に深く結ばれているということ、そしてその交わりを深めていくことが、私たちの新たな歩みであり、このいつくしみの特別聖年の招きでもあると思います。
三位一体の祝日を記念する今日、洗礼によって神の民が教会共同体の一員となった私たち一人一人を祝福し導いてくださることを感謝いたしましょう。
キリスト者として、三位一体の神との交わりから新しい力を汲み取っていくことができるよう皆さんとともにこのミサで祈り前に進んで行きたいと思います。』

2016年5月15日日曜日

聖霊降臨の主日

聖霊のはたらきによって、イエスはいつも私たちとともにおられ、そしてイエスのみ言葉を思い起こすことができます。



今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日で復活節が終わり、明日からは年間の典礼になります。
復活のローソクも今日で取り外され、典礼の色も緑に変わります。
先週の主日(主の昇天)のみ言葉で、イエスは聖霊の訪れを告げます。
そして、今日のみ言葉「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」において、イエスはいつも私たちとともにいて下さるということを語りかけています。
ミサの中では、聖霊に対する祈りが多くあります。今日はそのことを少し意識してミサに与りましょう。
今日の福音朗読では、聖霊のはたらきのうち「いつもイエスと一緒にいさせてくださる」、「イエスのみ言葉を思い起こさせてくださる」という2つのはたらきが語られています。
私たちも弟子たちのように聖霊のはたらきを信じ、私たちのエゴイズムを打ち消し、人を赦し、そして愛し、私たちの信仰を深め成長させていきましょう。』

2016年5月8日日曜日

主の昇天

「主の昇天」の祭日を迎えました。復活して弟子たちに姿を現したイエスが、天に昇る日となりました。

ミサの後、教会総会が行われました。




後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は主の昇天の祝日を迎えます。
 使徒言行録では、復活の後40日目に昇天があったと記されています。ルカの今日の福音では弟子たちを祝福した後で、復活の主イエスは空で天で昇っていきます。そのイエスの最後の姿を見つめる弟子たち。イエスとの別れの寂しさよりも、この時はイエスが神の世界に移っていかれるというその情景を見つめながら、心に留めながら、弟子たちは平和に満たされています。その光景を見ながら弟子たちは礼拝したと聖書は記しています。きっと心は喜びに満ち溢れ、イエスの教えに基づきエルサレムに心は向かっていたのだと思います。
 でも今しばし、聖霊が降るまで留まっていなければならなかった。主の昇天の出来事は大きな転換を与えるもの、そういう出来事であったようです。キリストの地上での役割が終わりをつげて、同時に使徒たち弟子たちを中心とした、新しい教会の誕生をも告げるかのような出来事になりました。
  主の昇天、私たち人間が簡単に「はい。」と言うことの出来ない神の世界への誘いであるようです。人間の目には隠されている神の臨在する、その天の世界にイエスが招いていた。もし自分が天に上げられるイエスの姿を見ることができたらとしたら、どんな気持ちになるのかなと想像します。喜びで満ち溢れてその姿を見送るでしょうか。ただ驚き恐れる方が先になって、落ち着かない状況で見つめてしまうのではないか、そのような気もします。心の平和に満たされる、そういう落ち着き、信頼を持って主とともに自分の信仰を成長させたいとただ願います。
  私たちの今の世界、それは桜の開花を待っている、心の平和、現実に重なってくるような気もします。空を見つめるその心はイエスの昇天から与えられた平和。日本人の心は桜を見つめながら歩く、なぜかしら平和を感じる国民性も持っているかのようです。札幌の桜は今、どうでしょうか。ところ変われば今なお、 地震に対する不安な生活をおくる人々がいるなかで、北海道の人たちは桜の咲く季節を迎え、淡い桜色の花びらがもたらす平和を味わっている、そういう私たちがいます。時折冷たい風、雨の日もありますが 太陽の光は初夏を運んできているような気もします。桜に包まれる世界は私たちにとってもひとときではありますが、平和をもたらす季節のような気がしています。
  弟子たちは自分たちのもとを離れて昇天するイエスを見つめました。そして伏し拝んでいます。苦しみを全うされ、三日目に死者の中から復活したイエスは、今や礼拝を受ける身となって天に昇られ、父のもとから今度は約束した聖霊を送ると言い残されました。そういう主の昇天を私たちは黙想しながら、平和な心を持って新しい一歩を踏み出すことが出来るように、そのミサの中でも祈っていきたいと思います。

 部屋の書類を整理していると1枚の絵はがきに出会いました。その絵はがきは東京の大先輩の神父さんが描かれたものです。表には絵と詩も添えられています。小さな文字で創作された神父さんの名前もありました。良く知っている神父さんですが、絵を描いたり詩を創ったりする神父さんとは全く想像もしていませんでした。その詩を少し紹介したいと思います。
 「  今日 一日中  ぶつぶつ言っていました
   茨の棘のように 人を突き刺していました
   気持ちを あなたに向けるのは  大変です
   ぶつぶつばかりが 心の中を占領し
     あなたの居場所は ないのです
   明日 空を見上げます
   そして 大きく 伸びをします  」
短い詩ですがそこに「空を見上げる」という言葉がありました。この昇天の日を迎えて、この一言に心惹かれてこの詩を味わってみました。空を見上げます。自分が日頃抱えている心を見ながら、もう一度空を見つめていたい。そういう神父さんの信条が詠われている詩でした。一日、不平不満を言っている自分に気づきながら空を見上げてみよう。正直に自分の心を表現している詩(うた)だと思いました。そして、自分にも神父さんが詠まれたその世界、いろんな形で気づかされ考えさせてくれました。
  この一週間、祝祭日が続いていましたが、自分はこの一週間どのように過ごしていたのだろうか。不平不満を口にしない日は何日あったろうか。そんなことも考えてしまいます。休暇が続いたこの一週間の間に何度人に喜ばれることをしたのだろうか。心から神様に自分の心を向けた日は、時間はあっただろうか。私の心の中に神様の居場所があって、それを大切にしただろうか。心を落ちつけて空を見上げる余裕は自分にあったのだろうか。心から神に祈るひとときは自分は持てたのだろうか。祈りをしているつもりで、心を神に向けるのではなくて、自分が出合った様々な人に心を向けて、時には不平不満を思い浮かべていたり、そういう時間の方が長かったのではないだろうか。そんなことを考えてしまいました。どんな祈りをしたのか。誰のために何のために自分は祈ったのだろか。神のいつくしみの特別聖年を歩む中で、ゆっくり落ち着いて心を見つめると、自分の信仰の課題、祈りの課題もまた気づかされるような気がしました。皆さんはこの一週間、どのような日々を過ごしてこられたでしょうか。そんな黙想をしながら、今日の主の昇天の祝日を迎えました。

  イエスは別れを前に改めて弟子たちにメシアの苦しみ、死から三日目に復活すること、そして、罪の赦しについても話しをし、その後に宣教が世界に広がっていくことを話されました。やがて聖霊があなたがたを包みこむから、それまでは都エルサレムに留まるように。その後、弟子たちは新しい使命を受けることになりました。あなたがたはこれらのことの証人となる。イエスは手を上げて弟子たちを祝福し天に昇られた。そのキリストの心に触れた弟子たち、十字架の死と復活を体験した弟子たちは、キリストの証人(あかしびと)となる使命を十分に自覚して教会を築いていきます。そして、自分たちの役割をしっかりと受けとめて、新しい出発をしていきます。主の昇天は弟子たちにとっても、大きな転換を与える出来事でした。その弟子たちの役割が、私たち一人ひとりにも与えられていることを、今日改めて心に留めたいと思います。弟子たちとともにおられる主は今、私たちのうちにもおられます。わたしたちとともに留まってくださる主でもあります。私たちの信仰はその主であるイエスを証しする信仰でなければならないはず。私たちはそのイエスを信じ、ミサに与り聖体をいただいています。自分の目で見たり耳でその声を確かめられるものではありませんが、キリストは私たちの信仰の目でとらえられる、現存する存在でもあります。

 今日の主の昇天の祝日から始まって日曜日は大きな祭日、祝日が続いていきます。来週は聖霊降臨の主日を迎えて復活節の典礼が終わりを告げます。主の昇天を黙想しながら、聖霊の恵みを願い、新しい一週間の日々を過ごしていきたいと思います。
  私たちには祈らなければならないことがたくさんあります。新聞の紙面を見ていても苦しむ人の事件がたくさん出てきます。日本だけではなく、海外においても同じ状況がたくさん見えてきます。私たちの祈りを本当に心から捧げて、主の平和が私たち一人ひとりの心に満ち溢れる、そして一人ひとりの心にその平和が届けられるように、今日もまた主の祭壇を囲んで祈りを捧げたいと思います。』

2016年5月1日日曜日

復活節第6主日

今日のミサは佐藤神父様の主日における初ミサでした。



佐藤神父様のお説教をご紹介します。



『司祭叙階されて最初の主日を迎えました。
皆さんの祈りと励ましにささえられてここまで来ることができたと叙階式のときに感じました。これから毎週迎える主日をミサに与るだけではなく、ミサという秘跡を執行することになります。自分自身に与えられた使命をこれから毎週毎週ずっと果たしていきます。皆さんにとってもうれしいことだと思いますが、わたし自身にとっても大変ありがたいことです。
ところで、ミサの中で司祭に与えられた第ーの職務は、司教の協力者として、神の福音をすべての人に告げ知らせることです。福音の朗読を通してみことばを告げ知らせ、説教によって皆さんがよりよくみことばを理解する助けをする役目です。信者の方々が自分の実践していることを十分に理解していなかったり、信じていなかったりするときのために、すべての秘跡の中でみことばの説教が必要です。あらゆる秘跡は信仰がその根底にあり、信仰はみことばによって生まれ養われるからです。特にミサの中でのことばの典礼では重要なことです。ミサにおいて主の死と復活が告げられ、それにみことばを聞く人々がそれに応えることと、祈りと聖体拝領によってミサに参加することは分けることができないほど重要なことなのです。そしてそれは、その場において司祭がいなければできないことなのです。ですから、今神学校で学んでいる神学生だけではなく、これからも司祭になろうとする方々が多く出て来るように祈りましょう。

今日の第ー朗読は使徒言行録でした。
アンティオキアの教会での意見の対立と論争の中、分裂の危機に直面した初代教会の様子が描かれています。初代教会は最終的に、異邦人とユダヤ人の間には何の差別もすべきではないという結論に至りました。現代のわたしたちにとってみれば、何らかの特権階級であったり、どこの国の人だからというレッテルを張ったり、肌の色による差別として、実際に存在している問題です。これらのあらゆる隔てが完全に取り払われたときにのみ、キリスト教の真の意味が分かるということを示しています。どうしてもわたしたちは何らかの差別をしてしまいます。そのようなとき聖霊の助けを願って祈ることが必要です。今日の箇所では、「聖霊とわたしたちは次のように決めた」とあります。聖霊の導きによって一致を見いだしたのです。
さて、ヨハネの黙示録では、ヨハネの幻が語られますが、城壁に十二の門があると言っています。この十二の門は神の国に入るにはたくさんの道があるということです。
召命としては、信徒としての召命、修道者としての召命、司祭としての召命などがあります。他人のためにいのちを捨てることをもいとわない召命があります。
東の門が示しているのは、日が昇る方角です。人生の初めを示します。イエスを子供のころに友として知り、あるいは青年時代の理想、英雄として知り、聖なる都に入った人を表します。
北の門が示しているのは、寒く冷たい方角です。イエスを思索し、理論的に理性的に検討して、心情よりも理性によって信仰に入った人を表します。
南の門が示しているのは、暖かい方角です。これは感情を通してキリストに導かれた人たち、理性よりもむしろ心でキリストを受け入れた人たちであり、十字架にふれて愛の泉がわき出た人たちを表します。
西の門が示しているのは、日が沈む方角です。これは人生の黄昏にキリストを受け入れた人たち、旅路の終わりに信仰に入った人たちを表します。聖なる都に入る道、つまり神のみ前に出る道が数多くあり、人はそれぞれ自分の道を見つけることができるのです。このことはたとえ人生のどんな時期にキリストと出会っても人それぞれに自分の道を見いだすことができるということを表しています。

わたしの司祭召命が42歳という年齢であっても遅すぎるということはないということを示していると思います。今日のヨハネによる福音では、イエス様は「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とおっしやっています。イエス様は死んで復活し使徒たちの前に現れましたが、父である神とともに聖霊を遺わすために父のもとに昇天してくださったのです。わたしたちはその聖霊によって力づけられそれぞれの召命を歩むことができるのです。このように、主の昇天、そして聖霊降臨を迎える前にイエス様は聖霊の派遺を約束してくださいました。 聖霊は、キリストのことばの真の意味を時と場所、またその状況に応じて理解させてくださいます。 この聖霊を祈り求め、わたしたち自身の中にいる聖霊に感謝しながら、聖霊降臨の祝日に向けて、このミサを続けてまいりましょう。』