佐藤神父様のお説教をご紹介します。
『司祭叙階されて最初の主日を迎えました。
皆さんの祈りと励ましにささえられてここまで来ることができたと叙階式のときに感じました。これから毎週迎える主日をミサに与るだけではなく、ミサという秘跡を執行することになります。自分自身に与えられた使命をこれから毎週毎週ずっと果たしていきます。皆さんにとってもうれしいことだと思いますが、わたし自身にとっても大変ありがたいことです。
ところで、ミサの中で司祭に与えられた第ーの職務は、司教の協力者として、神の福音をすべての人に告げ知らせることです。福音の朗読を通してみことばを告げ知らせ、説教によって皆さんがよりよくみことばを理解する助けをする役目です。信者の方々が自分の実践していることを十分に理解していなかったり、信じていなかったりするときのために、すべての秘跡の中でみことばの説教が必要です。あらゆる秘跡は信仰がその根底にあり、信仰はみことばによって生まれ養われるからです。特にミサの中でのことばの典礼では重要なことです。ミサにおいて主の死と復活が告げられ、それにみことばを聞く人々がそれに応えることと、祈りと聖体拝領によってミサに参加することは分けることができないほど重要なことなのです。そしてそれは、その場において司祭がいなければできないことなのです。ですから、今神学校で学んでいる神学生だけではなく、これからも司祭になろうとする方々が多く出て来るように祈りましょう。
今日の第ー朗読は使徒言行録でした。
アンティオキアの教会での意見の対立と論争の中、分裂の危機に直面した初代教会の様子が描かれています。初代教会は最終的に、異邦人とユダヤ人の間には何の差別もすべきではないという結論に至りました。現代のわたしたちにとってみれば、何らかの特権階級であったり、どこの国の人だからというレッテルを張ったり、肌の色による差別として、実際に存在している問題です。これらのあらゆる隔てが完全に取り払われたときにのみ、キリスト教の真の意味が分かるということを示しています。どうしてもわたしたちは何らかの差別をしてしまいます。そのようなとき聖霊の助けを願って祈ることが必要です。今日の箇所では、「聖霊とわたしたちは次のように決めた」とあります。聖霊の導きによって一致を見いだしたのです。
さて、ヨハネの黙示録では、ヨハネの幻が語られますが、城壁に十二の門があると言っています。この十二の門は神の国に入るにはたくさんの道があるということです。
召命としては、信徒としての召命、修道者としての召命、司祭としての召命などがあります。他人のためにいのちを捨てることをもいとわない召命があります。
東の門が示しているのは、日が昇る方角です。人生の初めを示します。イエスを子供のころに友として知り、あるいは青年時代の理想、英雄として知り、聖なる都に入った人を表します。
北の門が示しているのは、寒く冷たい方角です。イエスを思索し、理論的に理性的に検討して、心情よりも理性によって信仰に入った人を表します。
南の門が示しているのは、暖かい方角です。これは感情を通してキリストに導かれた人たち、理性よりもむしろ心でキリストを受け入れた人たちであり、十字架にふれて愛の泉がわき出た人たちを表します。
西の門が示しているのは、日が沈む方角です。これは人生の黄昏にキリストを受け入れた人たち、旅路の終わりに信仰に入った人たちを表します。聖なる都に入る道、つまり神のみ前に出る道が数多くあり、人はそれぞれ自分の道を見つけることができるのです。このことはたとえ人生のどんな時期にキリストと出会っても人それぞれに自分の道を見いだすことができるということを表しています。
わたしの司祭召命が42歳という年齢であっても遅すぎるということはないということを示していると思います。今日のヨハネによる福音では、イエス様は「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とおっしやっています。イエス様は死んで復活し使徒たちの前に現れましたが、父である神とともに聖霊を遺わすために父のもとに昇天してくださったのです。わたしたちはその聖霊によって力づけられそれぞれの召命を歩むことができるのです。このように、主の昇天、そして聖霊降臨を迎える前にイエス様は聖霊の派遺を約束してくださいました。 聖霊は、キリストのことばの真の意味を時と場所、またその状況に応じて理解させてくださいます。 この聖霊を祈り求め、わたしたち自身の中にいる聖霊に感謝しながら、聖霊降臨の祝日に向けて、このミサを続けてまいりましょう。』