2016年11月27日日曜日

待降節第1主日

教会暦では新しい年を、そして待降節を迎えました。
教会ではこの日、降誕祭を迎えるためのクリスマスツリー、馬小屋の飾りつけを行いました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。



『皆さんは待降節という言葉の響きからどんな思いを抱いているでしょうか。私は求道者の時代をいれると50年経ちますので、50回目のクリスマスを迎えようとしています。私はクリスマスの洗礼でしたから、待降節、クリスマスは私にとっては、特に思い出深い待降節、クリスマスになっていますが、皆さんにとって待降節、クリスマスはどんな思いで今日を迎え、教会の歩みをしようとしているでしょうか。今日は、ノアの方舟の話しも少しふれられていますが、私たちのこの教会の設計、デザインは、ノアの方舟の舟底を逆さまにした形のデザインだと言われています。こうして見ているだけでも、そのことを改めて、ノアの方舟はこんなふうだったのかなと考えたりします。そして、方舟の中に入った人々が救われたということを考えると、今日ここに集まっている人々も、教会に足を運んで救いをいただく、その恵みをいただく人々である。そんな思いも私にはしてきます。

  待降節。いろいろな受けとめ方をして今日からの一日を始めるはずです。待降節は元々、私たちが待ち望むというよりも、神が現れて決定的な救いを与えるという意味合いが強かったそうです。でもきっと今の私たちは、私たちが待ち望む、私たちがという、人間の方が中心になって待降節を待つ気持ちの方が強いかなという気がします。元々は神様が現れ救い主を遣わして、この世に神が現れるという意味合いが、待降節に深く結ばれていたということです。 

  世の中の騒がしさに惑わされることなく、神から与えられるその時を見過ごすことのないように、「目を覚ましていなさい。」と今日の福音は私たちに呼びかけます。目覚めていなさい、目を覚ましていなさい。私たちはどんなことに目覚めていなければいけないのか。そんなことも黙想しながら考え、待降節の間、そのことを大切にして主の降誕までいきたいと思います。
  福音は救い主の訪れよりも、主の再臨の時を思わせる内容になっていると思います。いずれにせよ、新しい典礼暦の始めとなる待降節を私たちは今日から迎えています。昨日は、典礼委員を中心として多くの人々がこのクリスマスに向けての準備のために、作業をしてくださいました。馬小屋はまだ出来ていませんが、まず4本のローソクが飾られたアドベントクランツは準備されております。国によってクリスマスツリーを飾ったり、アドベントクランツの4本のローソクを飾ったり、後は馬小屋を飾ったり、その国の伝統、習慣が教会に大きな影響をもたらしたといわれます。でも、今日の教会ではツリーも4本のローソクも馬小屋も全部準備する教会が多くなったのではと思います。目で見えることからもクリスマスを意識して準備の日々を歩むことが出来るようです。今日からの4週間、主の降誕の日を目標にして、救いの喜びを受け取るために私たちは歩んでいきます。父である神は、幼子・救い主を送ってくださるのですから、その幼子を私たちは相応しく迎えることができるように準備をしたいと思います。相応しい準備とは、私たち一人ひとりにとってどんなことでしょうか。自分は幼子を迎えるに相応しい準備が出来ているのでしょうか。どういうふうにその準備をしたら良いのでしょうか。そのことを考える、そして考えながら歩むというのが待降節でもあります。ですから、一人ひとりそのことを忘れないようにして、今日からの待降節を歩むことにいたしましょう。

 皆さんはこの待降節を迎えて何か特別な思いおこしがあったでしょうか? 私は待降節を迎えて、ベネディクト16世教皇は在任期間は短かったのですが、私たち教会にメッセージを下さったことがあります。前の教皇ですが、待降節にあたって、私たちのために生まれた幼子を迎える時にあたり、「すべての命のために祈って欲しい。」そういうメッセージを流されたことがあります。幼子だけを待ち、そして幼子だけを待ち望むのではなくて、すべての命を考えましょう、というメッセージでした。そのとき全世界の教会は共に祈ったと思います。皆さんも同じ意向で祈ったのではと思います。私は今日、待降節の一日目を歩むこの時、そのことを少し思い出しました。今の私たちの少子化の時代、私たちは口にしていますが、様々な原因がそこにはあると思います。そして、全世界を見れば命がどんなに無残に消されているかという時代も、今日だと思っています。少子化だけの問題ではなくて、難民とか内戦、紛争、様々な争いの中で、また自然災害の中で貧しい人が子供を育てられない、子供に食事を与えられないそういう厳しい状況に置かれている人々も、大勢いるということが私たちのこの世界にもあると思います。幼子を待つという中で、命についても忘れてはならないということです。このときベネディクト教皇は、主イエスが人となられ完全にご自身を捧げることによって、すべての人の命の価値と尊厳を示してくださったことに感謝して、すべての人の命を守ってくださるように主に願い求めましょう、こういうメッセージがありました。私たちも与えられた命に感謝するとともに、すべての命、特に幼子の命が大切にされる社会を願いながら歩みたいと思っています。

   幼子を待つ待降節。私たちにとって幼子の存在はいつも大きな希望をもたらしてくださる
命です。今日の入堂のときに子供のほっぺたを少しつつきながら入堂しましたが、幼子、子供をみているだけで私たちの心は喜びに溢れます。純粋な気持ちにかえることが出来ます。私たちの周りに幼い子供がいるということは、私たちにとっても幸せなときであるとも思います。そういうことを大切にしたいと思います。そういう心を見失わないように、いつも私たちは持っていたいと思います。時々、お歳を召されてきますと子供の声が煩わしいという時もあるかと思います。健康上の理由でそのようなことがあるかと思いますが、私たちの周りに若い人、子供や赤ちゃんがいるというだけで、素晴らしい私たちの社会、世界であるということに喜びを見いだせる心を保ちたいと思っています。

  さて、「目を覚ましていなさい。」。いろんなことが考えられる目覚めていなさいという言葉です。私たちはみ言葉をとおしていつも目覚めていられるように、その心を大切に出来るようにこの1年を歩んでいきましょう。今年の待降節、今日から3年周期の福音朗読ではマタイの福音が朗読されることになります。今日も最初としてマタイの福音が朗読されましたが、終末と主の来臨を告げるそういう内容になりました。でも、今日の福音の中心は、いつ何が起こっても不思議ではない、そういう恐れを私たちに募らせていきます。それがいつ起こるのか、どういうことなのか、イエスから直接話しを聞いている人々も不安を感じながら その言葉に耳を傾けていました。今、私たちは福音を通しても、そのことに少し不安や戸惑いを感じながら、み言葉に耳を傾けています。イエスは彼らの期待に反して、その日その時は誰も知らない。それは思わぬ時に突然やってくると言います。パウロは今日の第2朗読で、「救いは近い。」と言う言葉を使っていますが、救いと言うよりも何か訳の分からない恐ろしいことが起こるのではないかと、パウロの言葉に耳を傾けた人が多かったようです。私たちの命の歩み、人生は いつ何が起きてもおかしくない、そういう日々を生きています。明日のことは誰も保証されていないことを時々言葉にだしますが、明日のことは心配しないで済むのでは、そういう生き方をしていると思います。
 そのとき私たちは何が起きるか分からないとう状態で人生を歩んでいるんだと思います。このお話はキリストが十字架に架けられ、受難の苦しみを受け、弟子たちの前から去っていく直前の時の話しでもあります。遺言のように語られている言葉ですが、弟子たちにはまだそのことが分からないままに聞いています。ですから、不安でしょうがなかった。聖書の話しは二人の男が畑にいても、二人の女がいっしょに臼をひいていても、一人は連れていかれ、一人は残る。そういわれます。同じ仕事、同じ場所にいたはずなのに「どうして一人だけが連れていかれるのですか。」というのが私たちの考えになってしまうと思います。死というものは同じ仕事、同じ場所にいたとしても、時には何の予告もなく訪れます。思いがけなく突然にやってくることを伝えています。それはとりもなおさず、弟子たちにそして私たちに常に警戒し用意しておく必要を諭すためのお話でした。だから、目を覚ましていなさいというメッセージになっています。
 盗人のたとえも同じことを言っています。霊的な宝を不用心のために盗まれて、大切なものを失うことがないように、目覚めて警戒しているようにと諭します。私たちが本当に大切なものをしっかり心の中に保っていることが何よりも大事なんだということを言います。私たちは一番大切なものを本当に心の中でしっかりと保っているでしょうか。大切なものよりも違う方向に目を向けて、そっちに気遣いだけをしている、そういうことも多い私たちです。でも、イエスの目から大切なものをいつも大切にしなさい、見失うことのないようにしなさいと、私たちに諭します。
 現代の時代を不信仰の時代と神不在の時代と呼ぶ人がいます。ストレスが爆発して誰でもいいから殺傷するという事件も、一年に何度も何度も新聞やテレビで聞いています。まさにその時、同じ場所にいても、親しい家族が亡くなり自分だけが助かるという状況を経験する時代です。自分だけは大丈夫とは云えない時代になっていると思います。ましてや幼い命、子供の命がそういう中で踏みにじられ消えていく、そういう時代を私たちは生きています。でも、そういう時代を変えていかなければならないのも私たちの努めだと思います。

 主の降誕を待つ準備をしながら、生まれてくる子ども達がいつものびのびと成長する社会を描いて、人権が尊ばれ社会の一員として健康に恵まれるように、私たちは祈り続けなければならないし、そのためにも私たちの行動が大切になっています。その心を見失うことなく、いつも目覚めていられるように、今日はこのミサの中で特に祈りたいと思います。私たち自身も世の騒がしさに惑わされることなく、信仰と神への信頼のうちに主の訪れと喜びを受け入れることが出来ますように。待降節を歩む私たちが、私たち一人ひとりに相応しい道のりを自分の足で、自分のペースで幸せに歩くことが出来る、これこそ私たちが願っていることだと思います。その足もとを主の光がいつまでも照らしてくださるように。待降節、いろいろな意味で私たちは相応しい準備をしていかなければなりません。私にとっての相応しい準備、私たちの教会にとっての相応しい準備を考えながら、共に歩んで行きましょう。』

2016年11月20日日曜日

11月20日(日) 「王であるキリスト」

今日は年間最後の主日です。そして「王であるキリスト」の祭日でした。
メシアであり王であるイエスの愛といつくしみは、十字架の死の苦しみの中にあっても自分を犠牲にし、人々の平和を願い、一人一人を救うという姿に現されています。

今度の日曜日からは典礼の新しい一年が始まります。
待降節が始まる11月27日(日)のミサ後には、クリスマスの準備を行います。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『先週、ローマを除く地方教会は、聖年の扉を閉じる儀式を行いました。そして、この「王であるキリスト」の祭日、ローマでは聖年の閉幕のミサが行われようとしています。時差がありますので、日本の時間では今日の夜、教皇様によってミサが行われるのだと思います。
この一年、「神のいつくしみの特別聖年」として神から注がれるいつくしみに心を向けて歩む一年でもありました。歩みの中で教区100周年があり、また私たちの教会もまたこの祈りの教会が建てられた献堂100周年を迎える一年でもありました。典礼は三年周期のC年にあたり、朗読聖書はルカの福音を中心に歩んできましたが、今日が年間の季節最後の主日になり、今度の日曜日からは別な福音に変わろうとしています。今日は「王であるキリスト」の祭日です。皆さんにとっての王とは?、キリストとは?、そのような繋がりをもう一度深く黙想する一日でありたいと思います。
今日、わたしたちに告げられたみ言葉は、イエスが十字架に架けられて息を引き取る瞬間の出来事です。イエスが生涯をかけて伝えようとしたメッセージがここにあります。イエスが生涯をかけて実現しようとされた「神のいつくしみ」を表すこと、すなわちそれは、罪人との出会いであり、罪人を取り戻すことでもありました。今聞いたみ言葉の中に、私たち一人一人の身を置いてみたいと思います。皆さんは十字架の前に立つでしょうか?会衆の中に自分を置くでしょうか?イエス様の十字架に自分を置くかもしれません。このように自分を聖書のみ言葉の中に置いて、この状況を黙想したいと思います。
聖書のお話は、罪人の一人が死を前にして自分の罪を悔い、死の報いは当然であると受け止めます。そして「王としてあなたが来られる時、どうかわたしを思い出してください」と言います。思い出すに相応しい自分ではないかもしれません、でも今わたしは自分の罪を認め、神の憐み、神のいつくしみを願います、どうかわたしを思い出してください、救ってください、憐れんでください。そういう心境の中で一人の罪人がイエスに声をかけているようです。この状況の中では、裁判に関わった者も、兵士たちも、また群衆もイエスの十字架の前に進んできました。でも誰もが、イエスをののしり、あざ笑い、馬鹿にすることばを投げかけ続けるばかりです。ただ一人、自分の罪を認めた十字架に架けられた犯罪人だけが、憐れんでくださいとイエスに声をかけているのです。そのイエスの十字架の頭の上には「捨て札」がありました。捨て札には「ユダヤ人の王」と書かれています。それは様々な意味を持って、掛けられた捨て札でした。でもその捨て札の王は沈黙しています。
「ユダヤ人の王」。いつの時代にも「イエスは本当に王なのだろうか?」と疑問を抱く人は大勢いました。聖書に見る王とは、どういう人だったでしょうか?旧約時代、聖書の中にはたくさんの王が登場しますが、王とは本来どのような人を言うのでしょうか?また、2000年前のイエスの時代の王を、皆さんはどのように考えていたでしょうか?時代によって王という捉え方は少しづつ違っていたようです。
旧約時代、ヘブル語で「メレク」という言葉があるそうです。「メレク」とは、王を意味して、王である、王となる、支配するという意味を持っていたようです。そして旧約時代のイスラエルの人々は、「王」について三つ意味を考えていたようです。一つは「国民(民族)の指導者」、二つ目は「最高裁判官、軍事的指導者」、そして「祭司として祭儀の司式者」という王の職務には宗教的意義と役割もあったようです。そのようにして考えると、王は神のような存在、力も権力もあり、そして宗教的な指導者でもあったということだそうです。
イスラエルにおいては、神が本来、王であり、支配者であるという考えが根底にあります。イスラエルの信仰者には、地上の王権は神の権威に由来しているという考えがあります。ですから、王に就く人は、神の王権の代行者であるという考え方も当然あったようです。そのために、王になる人には、油を注がれる儀式あって王とされました。本来は神の僕に過ぎないけれども、この「油を注ぐ儀式」によって王の力を持つことになります。
新約時代に入ると、ギリシャ語の「キリスト」とは、ヘブル語で「メシア」、「油注がれた者」と同じ意味を持っています。このメシアは神が世を救うために遣わした救世主を意味し、イエス・キリストは唯一の救い主であるとの信仰をあらわすために、この名称をイエス・キリストに限って用いたのです。そして「イエスはキリストである」という信仰を表明する表現となりました。
このような時代背景を見ながら、私たちは今日のみ言葉をさらに黙想しなければなりません。
十字架の犯罪人が見たイエスは「罪人と共に生きるメシア」でした。十字架から降りられないのではなくて、むしろ降りないことによって、この罪人はイエスのことをメシアだと考えます。メシアは、罪がないのに我々のために、我々に代わって死んだメシアなのです。
「王であるキリスト」を祝う今日の典礼ですが、十字架上のイエスは王の服装ではなく、着ていたものまで剥ぎ取られて、裸同然の姿を晒しているのが私たちの言う王です。十字架に磔にされた体は痛々しく傷つき、輝く王冠を付けているはずの王のイメージからほど遠く、いばらの冠を付けられて額からは血が流れているそういう王です。人々が罵り、侮辱の声がイエスの耳にも届いていましたが、だんだんと遠くなっていきます。苦しみ、うずくような痛みの中においてもメシアであり神の子であるイエスは降りようとはされません。王である、救い主である、神の子であると呼ばれたイエスの姿はまさに十字架の中にありました。
本当にこの人は王なのか?神の子なのか?救い主なのか?と誰もが考え込んでしまう瞬間がありそうです。
メシアであり王であるイエスの愛といつくしみは、十字架の死の苦しみの中にあっても自分を無にし、犠牲にし、人々の平和を願い、一人一人を救うという王としての素晴らしさがそこに表されているのです。私たちが信じるイエスはそのようなお方でした。
神のいつくしみの特別聖年のメッセージの中で、そのことを私たちは、心の中で強く感じながら、自分たちの信仰を見つめる一年を歩んできました。教皇様はメッセージの中で、そのいつくしみを自分たちの心の中に留めておくだけでなく、そのいつくしみを私たちの周りの人々にも示すような、そういう生き方をして欲しいと伝えていました。
人生の闇の中に生き続けていた一人の犯罪人は、十字架の傍らでそのイエスから光と希望の恵みをいただき、回心し、自分自身を深く反省し新しい旅立ちへと向かって行こうとしています。イエスの言葉さえも薄れゆく意識の中で、心の中にははっきりとイエスの声が響いてきます。「きょう、わたしとともに楽園にいる」と。
イエスが過去の罪を許し、罪の責任を背負ってくださったのです。回心した罪人には、神の国への旅立ちがそこから始まっていきます。
私たちもまた、日々の生活の中で神の恵み、神のいつくしみやあわれみを感じながら、回心へと招かれている一人一人であることを心に留めましょう。

王であるキリストを祝いながら、主の再臨を待ち望み、ミサの中での祈りをとおして、キリストによってキリストと共にキリストのうちに賛美し、私たちの心をもう一度見つめましょう。そして新しい一年の典礼に向っていきたいと思います。』

2016年11月13日日曜日

年間第33主日 「いつくしみの特別聖年閉幕式」

昨年の12月8日から始まった「いつくしみの特別聖年」が11月20日に閉幕します。
それに先立って地方教会では年間第33主日の11月13日に特別聖年の閉幕式が行われました。
札幌司教区のカテドラルである北一条教会では、この日、勝谷太治司教様の司式により閉幕式が行われ、聖年の間に神様が与えてくださった霊的たまもののために感謝の祈りを捧げました。

「いつくしみの特別聖年」の公式賛歌”いつくしみ深く 御父のように!(Misericordes sicut Pater!)
”が謳われるなか、主日ミサが始まり、そして感謝のうちに閉幕しました。

【今日の共同体のための共同祈願】
今日、わたしたちは「いつくしみの特別聖年」の閉幕式を迎えました。
Misericordes(ミゼリコルデス)とは、神様の愛、ゆるし、あわれみ、いつくしみを表している言葉です。この特別聖年の間、それぞれが祈りや黙想、また、さまざまなところで御父の豊かな恵みを、導きを体験させていただきながら過ごさせていただきました。あわれみ深く、いつくしみ溢れる御父への信頼を忘れず、過ごすことができますように。






勝谷司教様のお説教ご紹介します。


『来週で「王であるキリスト」、すなわち1年の暦が締めくくられます。いつもこの時期は終末期を迎えることの聖書が読まれるわけですが 、今年はそれに併せて「いつくしみも特別聖年」の閉幕も宣言されます。来週をもって聖年が終わるわけですが、それぞれの地方の教会はその前の週、すなわち今日、聖年の扉を閉める式を行うように通達が出ています。全世界の教会は今日をもってこの聖年の扉が閉じられるわけです。

 今日の福音の中にも出てきていますが、この世の終わりの時に訪れる様々な恐ろしい現象、
これは実は世の終わりのことを指していると言うよりも、福音書が書かれた当時、常にこのような出来事が起こり、そして激しい迫害の中にあったわけです。その少し前のページ、「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙」の中で、働かないで生活している人がいる、ちょっと理解出来ないかもしれません。この「働きたくないものは食べてはならない」。最近は聴かなくなりました日本語のことわざのように「働かざるもの、食うべからず。」これは日本のことわざでではなくて、この聖書のこの言葉が案外知られていない。
 何故このようなことを言っているかと言うと、キリストはすぐ来ると思われていて、世の終わりもすぐやって来る。だから、もう働く必要はない。そういうような意味で、何もせずにただ世の終わりを待つ人たちが結構いたようです。それに対して使徒パウロは、他の手紙でも言ってますが、日常のありのままの自分の生活をそのまま続けなさいと言っています。 そして、世の終わり、再臨の時を待ちなさい、特別なことをするのではなくて、今与えられている努めをただ誠実に果たしていきなさい。ただし、そのかいから離れ自堕落な生活をしている人は 厳しい警告の言葉も向けられているのです。いつの時代にも、このような出来事が起こるとき不安になった人は何かに縋ろうとします。自分たちを変えてくれる、あるいは頼りになる、この世の力というものに縋りたくなる。多くの場合は新興宗教のような形で、これさえ信じていれば御利益を得られるということを主張するものが、最近の世界の流れを見るならば、政治的な力が、だれも予想しなかったことが表しているのは、人々が理性的な判断よりも感情に訴えかける、自分たちの利益を優先して考えてくれる人をリーダーとしてたててしまおうとする。ヨーロッパにおいてもそうですし、世界的にそのような流れが進んでいるときに、私たちはどのようにしてこの世界を見据え、自分なりの生き方をしっかり選びとっていくべきか、今、難しい時に私たちは立たされていえるかもしれません。

 明日から日韓司教交流会が行われ、一週間韓国に行ってきますが、移動できるのかが心配です。教皇様来られたときは(デモではなかったが)30万人と言われましたが、非公式には5~60万人も集まったと言われましたが、それに匹敵するような人々がソウルの広場を埋め尽くしてデモを行っています。この混乱中で、韓国社会を今、世界に対して日本を含める東アジアに対して、カルトの脅威に対して警告を発しています。(この後、司教様はカルト教団についてのカトリック新聞の記事を引用し注意を促しました。)

 私たちは信仰を固く持ってそこに留まる。聖書の中では忍耐していなさいという言葉がありますが、このような混乱した社会情勢や宗教状況の中で、私たちがしっかりよってたつべきところを持つことはとても大切なことです。それがけっして排他主義的な自分さえ良ければよいというようなところへ私たちを導くのではなくて、むしろ平和で共存する豊かな社会を目指すようなものへと私たちを導いてくれるもの、それをしっかり識別して私たちは生活していく必要があると思います。
                                                                           
 同じカトリック新聞の中で、教皇様は関心の問題のひとつは移民の問題です。アメリカでは移民政策を厳しい形で排除しようと、政策を転換するというニュースが今日も報じられていました。しかし教皇様はそうではなくて、必要なのは壁を作ることではなくて、橋をつくることだと強調しておられました。
 そして、現代に生きるキリスト者にとっての新しい幸い 、六つの幸いを示しておられます。山上の垂訓では八つの幸いですが、現代に生きるキリスト者にとっての六つの幸い。
 ①他者から受けた害悪を信仰によって耐え忍び、相手を心からゆるす人は幸い
 ②見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸い
 ③あらゆる人に神を見いだし、他の人たちも同じように主を見いだすことができるように力  を尽くす人は幸い
 ④ともに暮らす家を守り、大切にする人は幸い
 ⑤自分だけの安楽を他の人のために捨てる人は幸い
 ⑥キリスト信者の間の完全な一致のために祈り、働く人は幸い

 特に見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸いという言葉は、単に観念的に社会の隅に追いやられた、小さくされた人たちに寄り添うという観念的なことを言っているのではなく、その人たちの目を見つめるという表現は、理屈ではなくて実際に行動を通して出会う、触れあう具体的に関わりを持つこと、そういうことの大切さをこの一言で表現しておられると、私は感銘を受けています。見捨てられ、脇に追いやられた人の目を見つめ、その人たちに寄り添う人は幸い。

 頭でっかちにこの世の状況を判断し、評論家のようにそれを論評するのではなくて、具体的に私たちは行動を持ってこの世界の苦しんでいる人や私たちと連帯すべき人たちと具体的に関わっていく。これは特別聖年の幕は閉じられますが、教皇様が示されようとした「神のいつくしみ」。これは私たちに対するいつくしみでもありますが、教会が世界に対して神のいつくしみを示すことになるようにという強い望みが聖年に託されたわけですから、今閉じるということは、それで終わるのではなくて、今これからこれを具体的に取り組んでいく、その始まりの時に私たちは立たされているということを、私たちはしっかりと受けとめていきたいと思います。』

2016年11月6日日曜日

年間第32主日

今日の福音で、イエスはサドカイ派からの悪意ある問い掛けを退けます。

ミサの中で、今年7月に誕生した赤ちゃんの洗礼式が行われました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『イエスの時代のユダヤ教の中でも熱心な教派を挙げるとその代表なグループは、ファリサイ派とサドカイ派です。その一つのサドカイ派の人たちがイエスを問い詰めるというのが今日の話となっています。
両者はことあるごとにイエスの言葉尻を捉えて、罠にかけようとしていたのですが、今日の話の直前に聖書では共観福音書に共通する内容でファリサイ派が「皇帝への税金」で腹黒い質問をして、律法に叶っているか?否か?を問いただすのですが、見事イエスに敗北することになってしまったのです。ファリサイ派の敗北に喜んだのはサドカイ派の人たちでした。つまり、二つの派閥がそれぞれイエスに質問を仕掛けていたという背景があるのです。
そこで、今度は自分たちの方からイエスに勝負を挑もうと進み出たのがサドカイ派で、彼らはこれまで自分たちの主張を固く守り、ファリサイ派と昔から議論し続けている「復活」についての論争があり、復活を拒否する立場であったことから、この議論でイエスとの勝負に出たのでした。
当時の人たちにとっての復活は単純な考え方で、復活とは眠りから目覚めることであり、前と同じ状態で目覚めることが前提でした。だから、復活した日とは、当然食べたり、飲んだり、眠ったり、亡くなる前の行動が伴うという考えでした。そのため、「男が子どもを持つことなく死んで、その男の兄弟が子孫を作るために、その未亡人と結婚しなければならない」(申命記25.5~)という聖書にある具体例を引っ張り出してサドカイ派はイエスに質問しているのです。イエスは「聖書と神の力をあなた方は知らない」と、そのような考え方を否定し「復活した日とは、前と同じ人間であるが状態が変わってくる。その状態は天にいる天使のようであって、めとりも嫁ぎもしない」と言っています。
そして、サドカイ派の誰もが認めている律法「トーラー」の言葉をもって、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死者の神ではなく、生きている者の神である」と宣言します。この宣言は、彼らが唯一、偉大なる予言者として認めていたモーセの宣言でもあり、この律法の言葉は、あなた方も信仰において宣言しているように、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのであれば、この偉大なる先祖の三人は、すでにモーセの時代に亡くなっているけれど、死んだアブラハムではなく生きているアブラハムであり、イサク、ヤコブを指しているのあって、今現在、生きている者として語っているのではないか? つまり神は私たちに復活を示唆しているのであり「生きている者の神」ではないかと指摘するのです。

イエスの説明と主張はそのとおりであり、真っ向から身体の復活を否定していたサドカイ派の人々にしてみれば、復活の非合理性を指摘して七人の兄弟が死んでその妻となった女性の話を持ち出して、「一体、誰の妻なのか」と、イエスを当惑させようとした質問は、そのまま自分たちに返ってきて、言葉を失ったのです。
私たちにとっても復活の世界は、色々想像することとなりますがなかなか難しいものです。イエスの話では、復活や来世はこの地上世界とは全く異なるものであること、従って、復活の世界を現世的、経験的次元で捉えてはならないことを指摘したのです。

天使と人間が異なるように復活した人間は、復活した神の子をなるので、肉体的にも、精神的にもこの世の人間とは異なった状態に置かれるというのです。
復活の姿は、誰にも関心があって、私たちの人間の都合で考えがちですが、そうであってはならないと言うことでしょう。
間もなく終わりを告げる「いつくしみの特別聖年」の恵みに励まされて、今日の詩編の言葉にあったように「わたしはあなたの後を歩み、あなたの道を離れない」と祈った詩編作者の言葉をそのまま、復活信仰に生きようとする私たち自身の祈りとして、神に信頼して祈りましょう。

この後、7月に誕生した赤ちゃんの洗礼式があります。神の子となる祐(ユウ)君とその家族とともに喜び、神の祝福を祈りましょう。』

2016年11月3日木曜日

「死者の日」記念ミサ -すべての死者のために祈りました-

死者の日にあたり記念ミサが午後6時30分から行われ、約100人の方が参加しお祈りしました。ミサでは、宗教にこだわらず、信徒が祈りを希望した方々の帰天者名簿が、この夏に亡くなられた信徒の遺族から奉納されました。
また、主任司祭からは特に人々の思いから忘れてしまった方々の霊魂にも祈りをお願いしたいとお話がありました。





後藤神父様のお説教をご紹介します。
『こんばんは。先日(10月23日)、札幌地区では死者の月を前に、白石・里塚墓地におもむき墓前で祈りを捧げていますま。死者の月の11月を迎えての今日(11月2日)は死者の日の記念日になっています。私たちの教会では亡くなった方々の(帰天者)名簿を準備して奉納しましょうという呼びかけをしましたので、それに名前を書かれた方々は早くから亡くなった方々との交流をされていたのかなと思っています。亡くなった方々の名前を思いおこしながら、きっと祈りを捧げる日々が今日まで続いたかと思います。なかには家族の方々にに思いをよせたり、亡くなった子供さんであったり、とても親しい友人の方々であったり、そうした自分にとってかけがいのない、亡くなられた方々に心をよせる日々であったかと思います。

 人はだれでも死ななければなりません。何故なら死は原罪の結果であるといわれます。聖書のローマの信徒への手紙の中ではこう述べている箇所があります。「〔そこで、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12 )アダムによる神への不従順は成聖の恩恵、神から受けた命、神的生命、そしてさらに神との友情さえも失わせることになりました。それが創世記のアダムとエヴァの物語の中から生まれてきています。死は盗人のように訪れることとなる。誰にも予測することが出来ない。だから新約聖書の中でマルコ福音書はこういうメッセージを伝えていました。「目覚めていなさい。私はあなたがたに言うことをすべての人に言う。目覚めていなさい。警戒しなさい。」(マルコ13:32関連)死はいつ訪れるか分からないが、目覚めていなければならない。その時がいつ来るか分からないということで「警戒しなさい。目覚めていなさい」という教えが弟子たちに話されました。

 神の最初の計画では、人は来世において悩みも苦しみもなく生活するようにお定めになっていました。でも罪によって人は自分から堕落に身を委ねました。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23前節) という表現も聖書では語られます。でも聖書では「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23後節)という表現もとられます。神に背いた罪を償うために、キリストは私たちの元に、この世にお出でになられました。そしてイエス・キリストは死に打ち勝たれました。私たちが死に直面して、希望のない者のように悲しんではならないというのが教会の教えです。聖書をとおして語られていることです。神への信頼と私たちの揺るぎない信仰がそれを可能とします。私たちは実際、 そういう信仰を大切にしてきているでしょうか。
 揺るぎない信仰。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る希望を私たちに与えてくださっています。ですから私たちは死によってすべてが終わりを告げることでないことを知っています。むしろ死から新しい旅立ちがある。そのためにも大切なことが聖書に書かれます。新しい命を生きるために、そして永遠の命に招かれるために、自分を欺くことなく、神のみ言葉を生きて「たゆまず善を行いましょう。」(ガラテヤ6:9)聖書はこのように私たちに告げます。終わりまで神に忠実な善後にとっては、死は恐ろしいものではないんだ。何故なら神のみ言葉を生きて善を行い続けるならば、神様は私たちを永遠の命に招いてくださると約束するからです。

 神は人間を父の慈しみと  厳しさをもって裁かれる方ですけれども。でも私たちは知っています。裁判官であるとともに神は私たちの父でもあります。私たちはその父なる神の子供であることを知っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神が御子を世におくられたのは世を裁くためではなく、御子によって世を救うためである。裁きの方であるとの一面を持ちながら、裁きよりも神の慈しみが示されて、私たち一人ひとりを御子によって救いへと招いてくださる。イエス・キリストはその使命を受けて私たちのもとに来られる。十字架の死を通して私たちを贖い、永遠の命へ一人も見失うことなく私たちを招こうとしておられる方。そうは言っても、私たちはこの世における人生の終わりに心が固くなります。悲しみも大きくいたします。土から出た肉体が死によってまた土に帰らなければならない、その現実を目の当たりにするとき、私たちはただひたすら無力感、むなしさを感じるばかりです。聖書に書かれている私たちへの励まし慰めの言葉を私たちは忘れてはならないと思います。聖書にはいたるところに、神の掟を守り神がお定めになった人の道を正しく歩む人は、煉獄で清められてから限りも終わりのない幸せな国、天国で神とともに永遠に生きることを約束されていることが度々語られます。神に対する愛の報いが天国に繋がっていることだと思います。私たちに求められるのは、諦めることではなくただ終わりまで耐え忍ぶこと、そのことにかかってくるようです。
  そのことを聖書はまた告げています。マタイの福音では「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)とあります。ヘブライ人の手紙にも「わたしたちは最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(ヘブライ3:14) 私たちが時々、心を乱してその神様の信頼を欠けるような状況にしてしまうことがあるかと思います。でもそういう状況にしてしまうならば救いはさらに遠くなってしまう。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、諦めるのではなくて神に信頼をおいて、そこからまた立ち上がりなさい。そうすれば神は私たちを皆、救いの道へと招かれているということが私たちに約束されていることです。私たちはそのことを決して忘れてはならないと思います。

  今日、私たちは死者を記念して祈るために集まりました。皆さんが捧げる祈りには、両親があり子供があり兄弟姉妹がおられるかと思います。また先祖に対して友人や知人に対して、教会の先人に向けても、さらに宣教師や司祭、修道女の方の姿も思い浮かべておられると思います。さらに、遠く外国で亡くなられた方に対して、災害や事件や事故で亡くなった人も思い浮かべている方があろうかと思います。
 私はいつもお願いしています。今日は皆さんがご存知の方、大切な方だけでなく、誰からも今は思い出されることのない霊魂に対しても、心を向けて欲しいと思います。今は家族もこの世にいない亡くなった方もたくさんおられると思います。そういう人たちは誰から思い出されるでしょうか。私たちは今、すべての死者に心を向けることができます。
 そして、すべての死者に対して免償をお渡しすることもできます。いつくしみの特別聖年の間、特別の条件を持って祈りをすることによって、亡くなった人々への免償を授けることが出来るということもうたわれています。どうぞ、残されたいつくしみの特別聖年の期間は一ヶ月を切っていますが、名も無き死者のために、私たちの祈りを捧げることを大切にして欲しいと思います。
 神はすべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そして、今日のヨハネの福音にもあります。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり…」(ヨハネ6:40)。イエスのこの御心、イエスの意志に私たちは固く結ばれて、多くの亡き人々のための魂に祈ることが出来ると思います。生命の与え主である神に信頼して、御心を行うために遣わされたイエスを信じて、今日も心をひとつにして祈りたいと思います。神の永遠の生命に生きる聖人たちや故人のとり次ぎによっても、今、祭壇の前に集う私たちの上に主の恵みが豊かにありますように。
(※聖書からの引用文は、新共同訳聖書に編集しております。(文責S・I))』