2016年11月3日木曜日

「死者の日」記念ミサ -すべての死者のために祈りました-

死者の日にあたり記念ミサが午後6時30分から行われ、約100人の方が参加しお祈りしました。ミサでは、宗教にこだわらず、信徒が祈りを希望した方々の帰天者名簿が、この夏に亡くなられた信徒の遺族から奉納されました。
また、主任司祭からは特に人々の思いから忘れてしまった方々の霊魂にも祈りをお願いしたいとお話がありました。





後藤神父様のお説教をご紹介します。
『こんばんは。先日(10月23日)、札幌地区では死者の月を前に、白石・里塚墓地におもむき墓前で祈りを捧げていますま。死者の月の11月を迎えての今日(11月2日)は死者の日の記念日になっています。私たちの教会では亡くなった方々の(帰天者)名簿を準備して奉納しましょうという呼びかけをしましたので、それに名前を書かれた方々は早くから亡くなった方々との交流をされていたのかなと思っています。亡くなった方々の名前を思いおこしながら、きっと祈りを捧げる日々が今日まで続いたかと思います。なかには家族の方々にに思いをよせたり、亡くなった子供さんであったり、とても親しい友人の方々であったり、そうした自分にとってかけがいのない、亡くなられた方々に心をよせる日々であったかと思います。

 人はだれでも死ななければなりません。何故なら死は原罪の結果であるといわれます。聖書のローマの信徒への手紙の中ではこう述べている箇所があります。「〔そこで、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12 )アダムによる神への不従順は成聖の恩恵、神から受けた命、神的生命、そしてさらに神との友情さえも失わせることになりました。それが創世記のアダムとエヴァの物語の中から生まれてきています。死は盗人のように訪れることとなる。誰にも予測することが出来ない。だから新約聖書の中でマルコ福音書はこういうメッセージを伝えていました。「目覚めていなさい。私はあなたがたに言うことをすべての人に言う。目覚めていなさい。警戒しなさい。」(マルコ13:32関連)死はいつ訪れるか分からないが、目覚めていなければならない。その時がいつ来るか分からないということで「警戒しなさい。目覚めていなさい」という教えが弟子たちに話されました。

 神の最初の計画では、人は来世において悩みも苦しみもなく生活するようにお定めになっていました。でも罪によって人は自分から堕落に身を委ねました。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23前節) という表現も聖書では語られます。でも聖書では「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23後節)という表現もとられます。神に背いた罪を償うために、キリストは私たちの元に、この世にお出でになられました。そしてイエス・キリストは死に打ち勝たれました。私たちが死に直面して、希望のない者のように悲しんではならないというのが教会の教えです。聖書をとおして語られていることです。神への信頼と私たちの揺るぎない信仰がそれを可能とします。私たちは実際、 そういう信仰を大切にしてきているでしょうか。
 揺るぎない信仰。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る希望を私たちに与えてくださっています。ですから私たちは死によってすべてが終わりを告げることでないことを知っています。むしろ死から新しい旅立ちがある。そのためにも大切なことが聖書に書かれます。新しい命を生きるために、そして永遠の命に招かれるために、自分を欺くことなく、神のみ言葉を生きて「たゆまず善を行いましょう。」(ガラテヤ6:9)聖書はこのように私たちに告げます。終わりまで神に忠実な善後にとっては、死は恐ろしいものではないんだ。何故なら神のみ言葉を生きて善を行い続けるならば、神様は私たちを永遠の命に招いてくださると約束するからです。

 神は人間を父の慈しみと  厳しさをもって裁かれる方ですけれども。でも私たちは知っています。裁判官であるとともに神は私たちの父でもあります。私たちはその父なる神の子供であることを知っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神が御子を世におくられたのは世を裁くためではなく、御子によって世を救うためである。裁きの方であるとの一面を持ちながら、裁きよりも神の慈しみが示されて、私たち一人ひとりを御子によって救いへと招いてくださる。イエス・キリストはその使命を受けて私たちのもとに来られる。十字架の死を通して私たちを贖い、永遠の命へ一人も見失うことなく私たちを招こうとしておられる方。そうは言っても、私たちはこの世における人生の終わりに心が固くなります。悲しみも大きくいたします。土から出た肉体が死によってまた土に帰らなければならない、その現実を目の当たりにするとき、私たちはただひたすら無力感、むなしさを感じるばかりです。聖書に書かれている私たちへの励まし慰めの言葉を私たちは忘れてはならないと思います。聖書にはいたるところに、神の掟を守り神がお定めになった人の道を正しく歩む人は、煉獄で清められてから限りも終わりのない幸せな国、天国で神とともに永遠に生きることを約束されていることが度々語られます。神に対する愛の報いが天国に繋がっていることだと思います。私たちに求められるのは、諦めることではなくただ終わりまで耐え忍ぶこと、そのことにかかってくるようです。
  そのことを聖書はまた告げています。マタイの福音では「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)とあります。ヘブライ人の手紙にも「わたしたちは最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(ヘブライ3:14) 私たちが時々、心を乱してその神様の信頼を欠けるような状況にしてしまうことがあるかと思います。でもそういう状況にしてしまうならば救いはさらに遠くなってしまう。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、諦めるのではなくて神に信頼をおいて、そこからまた立ち上がりなさい。そうすれば神は私たちを皆、救いの道へと招かれているということが私たちに約束されていることです。私たちはそのことを決して忘れてはならないと思います。

  今日、私たちは死者を記念して祈るために集まりました。皆さんが捧げる祈りには、両親があり子供があり兄弟姉妹がおられるかと思います。また先祖に対して友人や知人に対して、教会の先人に向けても、さらに宣教師や司祭、修道女の方の姿も思い浮かべておられると思います。さらに、遠く外国で亡くなられた方に対して、災害や事件や事故で亡くなった人も思い浮かべている方があろうかと思います。
 私はいつもお願いしています。今日は皆さんがご存知の方、大切な方だけでなく、誰からも今は思い出されることのない霊魂に対しても、心を向けて欲しいと思います。今は家族もこの世にいない亡くなった方もたくさんおられると思います。そういう人たちは誰から思い出されるでしょうか。私たちは今、すべての死者に心を向けることができます。
 そして、すべての死者に対して免償をお渡しすることもできます。いつくしみの特別聖年の間、特別の条件を持って祈りをすることによって、亡くなった人々への免償を授けることが出来るということもうたわれています。どうぞ、残されたいつくしみの特別聖年の期間は一ヶ月を切っていますが、名も無き死者のために、私たちの祈りを捧げることを大切にして欲しいと思います。
 神はすべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そして、今日のヨハネの福音にもあります。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり…」(ヨハネ6:40)。イエスのこの御心、イエスの意志に私たちは固く結ばれて、多くの亡き人々のための魂に祈ることが出来ると思います。生命の与え主である神に信頼して、御心を行うために遣わされたイエスを信じて、今日も心をひとつにして祈りたいと思います。神の永遠の生命に生きる聖人たちや故人のとり次ぎによっても、今、祭壇の前に集う私たちの上に主の恵みが豊かにありますように。
(※聖書からの引用文は、新共同訳聖書に編集しております。(文責S・I))』