この日は勝谷司教様の司式によるミサでした。
ザアカイに向けられたイエス様の無償の愛をとおして、罪とは、回心とは何かということを考えてみましょう。
勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。
『先日、高校時代の同窓会があり出席したのですが、思い出の女性と再会することになりました。実は、その女性に大失恋したことがきっかけで教会に行くことになったのです(会衆・司教様 笑い)。
私の高校生活は、勉強も振るわず、失恋もあり、自暴自棄になり、私にとっては価値観が崩壊していた時期でした。
その時に、教会に行き、そこで同年代の高校生達と出会うことによって、また再び自分自身を再構築できたのです。
私の通っていた高校はその地域では一番の進学校であったのですが、私も含め周囲は模擬試験の成績等で自分の位置や価値を測るというような雰囲気でした。しかし、教会に集まっていた高校生達は、そのような価値観とは全く無縁であり、私は彼らとの分かち合いの中で劇的に転換することになりました。
その分かち合いでは、恰好の良い自分ではなく、成績も最低で、失恋し、友達からも無視されてという自分の姿を話す雰囲気になってしまったのです。そしてそのような自分を話したことで初めて受け入れられたと感じたました。私の話を聞いて涙を流してくれた人もいました。自分の人生の中でそのような人に出会った経験はなかったのです。
そして、その時から、自分の価値はどこにあるのか、優れているからということではなく、こんな情けない自分でも、愛されている、受け入れられている、と感じたときにはじめて、自分には価値があるんだと感じた体験でした。それが、その後の私の人生の方向を決定付けてくれたと思います。
そのような意味では、成績とか、大学のレベルとか、会社の大きさとか、社会的地位とか、そういうもので自分の価値を測ろうとしている人は、逆に言うならば、自己価値の意識が非常に低い人たちと言えるのかもしれません。ありのままの自分でいいのだと意識している人は強いと思います。
今日の福音に出てくるザアカイという人は、まさに支配者であるローマに納める税金を徴収し私腹を肥やしていると、同胞から軽蔑され蔑まれる人でした。
そんな中で、お金の力で人々を見返してやろうと考えていたはずですが、そのような境遇を決して満足していたわけではないはずです。このザアカイが回心していった理由は何処にあるのでしょう。まさに、そんな自分であっても無償で愛されているということをキリストに出会うことで体験したこと、キリストに出会うことによって、神のいつくしみを直感し、その時にはじめて自分の罪深さを知ることができたわけです。
ここで私たちが、間違ってはならないのは、「私たちが価値があるのは愛されていること、でも愛されるためには、善き人でなければならない、正しい人間でなければならない」と、考えてしまうことです。でもそうではありません。このザアカイの話からは、ザアカイは回心しようとしてイエス様に近づいたわけではありません。ザアカイが桑の木に登ってイエス様を見ようとしたのは単なる好奇心にすぎませんでした。でもそのようなザアカイに対して、イエス様の方から「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言ったのです。このイエス様の行動は、人々にとってとても考えられないことでした。ザアカイの家でイエス様とどのようなやり取りがあったのかということはもはや解説不要であり、イエス様の方から客になって、ザアカイの家に泊まったということ自体が、ザアカイに対してイエス様がありのままのザアカイを受け入れ、ザアカイの家ではイエス様はいつくしみに満ちた愛の眼差しで、あなたも神の目から見て大切な人間なんだと感じさせるような話をしたに違いありません。そしてザアカイは回心していきます。
私たちはどうしても、神の御前に出る際は、清い自分でなければならないという気持ちが強くなってしまいます。それはそれで間違いではありませんが、その気持ちが強すぎると、そう出来ない自分は神から拒否される、排除されるのではないか、という強迫観念を持ってしまいかねません。むしろ私たちは弱く罪深さを持っているが故に、イエス様の溢れるばかりの愛に身を委ねることによって癒され回心するということに意味があるわけです。
ただ、私たちには愛されているという実感がどうしても沸かないということがあります。それは、自分が愛されているということに気付いていないだけということが多々あります。私たちは愛されているということに気付いた時にはじめて、良い意味で自分の行いの罪深さに気付くわけです。自分に向けられた愛に対して出来る影が罪として認識されることなのです。逆に言うならば、罪を意識するということは、自分にどれだけの愛が向けられているかということに気付き、その愛に立ち返っていく、それに応えていく決心をすること、これが本来のゆるしの秘跡の意味です。ゆるしの秘跡は過去の罪を赦すというだけの意味ではありません。未来に向かって自分に向けられている愛に応えていくことでもあります。』