2016年10月16日日曜日

年間第29主日

今日のみ言葉は、やもめのたとえ話を通して、絶えず祈るということを教えてくれます。
今週の土曜日は黙想会が行われます。多くの方のご参加をお待ちしています。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『10月「ロザリオの月」も半月が過ぎています。
祈りをしている中でふと考えることがあります。私は心から神に感謝をしているのだろうか。そんな祈りができるのだろうか。そんなことを考えることがあります。「ロザリオ」の月を迎えている中で、きっとこの10月、神様のもとにはたくさんのお祈りが届いているのだと思います。一方的な願いや祈りで終わるのではなく、静かに心からの感謝の祈りを捧げられたらと、考えたりもします。
心から叫ばれた神に感謝のことばが思い出されます。それは今から6年前にチリで起こった鉱山の落盤事故で、33名が地下700メートルに取り残され69日後に全員が無事救出されたという出来事です。テレビの画像には、次々と地上へと救出される鉱夫の姿が映し出されていましたが、私が特に注目した場面は、深く暗い地下から地上に再び足を踏みしめて喜びを抑えることが出来ずに声をあげている人々の前で、跪いてじっと静かに祈る人の姿でした。きっとその人は、心の中で「神に感謝!」と叫んでいたのではないかと想像します。「神に感謝」と私自身も普段の生活の中で言っていますが、本当に心から「神に感謝」といえる祈りが出来たらいいなと思います。
今週届いたカトリック新聞の一面は、教皇様の記事で埋め尽くされていました。そのひとつは、イタリアで起きた地震の被災地を訪れた教皇様の記事でした。静かに祈り、慰めのことばを被災者にかけられている教皇様の姿が浮かんできます。そして記事の中でも触れられていました、教皇様は「ただひたすら、みなさんに心を合わせていることを伝えるために来ました」とそんな言い方をされたそうです。そして「それ以上の何ものでもありません。私は祈ります。皆さんのために祈ります」と話されたそうです。本当はすぐ被災者のために駆けつけたかったけれども、自分が来ることで却って混乱させてしまうことを恐れたとおっしゃられたそうです。最後に、「同じ歩くなら、一緒のほうがいいのです。一人ではどこにも行けません。皆さん前進しましょう」と勇気づけ、互いに助け合いましょうと励まされたそうです。
記事を読みながら、そして教皇様の姿を思い浮かべながら、教皇様のいつくしみと愛がいかに心から溢れてくるものなのかと感じます。
私たちは、ミサの中で必ず「教皇フランシスコ」と名前をあげて祈っています。ですが名前を口にするだけではなく、心から感謝の祈りとして教皇様に届けられるようでありたいと思いました。私たちが、どんな心で、どんな意向で祈りをするかということも大切なことだと思います。

今日のみ言葉は、絶えず祈るということを教えるイエスの姿を見つめています。そのことを教えるたとえ話は、一人の貧しく弱い立場にあるやもめが、人を人とも思わないという厳しい裁判官に執拗に取りなしを願うというものです。
か弱いやもめがしつこく、嫌われるほど願うというのですが、そのために裁判官は放っておくことができないと考え、彼女の願いを聞き入れたということのようです。
ましてや、私たちが愛し信頼する神は、私たちの願いを聞いてくださらないはずはない、こうイエスはたとえを通して私たちに話されたのです。ですから私たちは神様に向って願いを捧げなさい、祈りをしなさい、必要なことがあれば求めなさい、こうイエスは話されたようです。
私たちは生活の中で、喜びや感動があります。それが当たり前のことのように過ぎ去っていきます。時には神への感謝の心が薄れてしまって、祈りの心も祈っているはずなのに神様に届いているのか届いていないのか、そんなことも考えずにただ祈っていることもあるような気がします。私たちの信仰、祈りが口先ばかりになってしまっては申し訳ない気がします。もしそうであるとすれば、私たちの心におごりがあるのかもしれません。

日々祈りを捧げる私たちですが、主の祭壇を囲む私たちの信仰、祈りをもう一度よく見つめながら、神に向う心をさらに大切にしていきましょう。
聖堂献堂から100年の記念を終えた私たち、今新しい教会共同体として歩みを続けていかなければならないと思います。
今週の土曜日には、献堂100周年の行事として黙想会が行われます。そのテーマは、「なぜわたしたちは主日に集まるのか」です。土曜日ですけれど、一人でも多くの方が参加して新しい一歩を踏み出したいものです。
若い人たちの信仰について、子供たちの信仰について悩み苦しむご両親もたくさんおられると思いますが、私たち一人一人が信仰の喜びを実感し、「神に感謝」と心からの祈りで、模範を示すことができますように。ロザリオの月ですので、マリア様をとおして、そうした意向を捧げることも大切かと思います。』