2016年10月23日日曜日

年間第30主日 - 記念黙想会 -

献堂100周年の記念行事として、10月22日(土)から23日の2日間、当教会聖堂にて、
フランシスコ会の南雲正晴神父様を講師にお招きして記念黙想会行われました。



南雲神父様は、1981年から5年間、ローマ教皇庁で典礼学を学ばれ、日本カトリック典礼委員会委員を務められています。

講話は3部構成で行われました。

第1部 「ミサにおける沈黙の意味」
ミサ中の沈黙には、「専念、専有、思索、敬神」という四つの意味がある。式次第の場面、場面で、沈黙の持つ意味を理解して臨むことは非常に大切なことです。

第2部 「ミサへの行動的参加」
私たちが与っている今のミサ典礼の形式になるまでの歴史的な背景と経緯。第二バチカン公会議で承認された典礼憲章で明確に示された「典礼の刷新」についてのお話がありました。

第3部 「なぜ、主日に集うのか」
旧約の時代から続いている神に感謝し賛美する「過越し祭」、「安息日」と、イエス様の「最後の晩餐」と十字架の死と復活との関連について解説されました。
ミサは御父への感謝を捧げるもの。主日のミサに与る最大の目的は、聖体をいただくこと。聖体はイエス様の「最後の晩餐」を記念し、祭壇上で割かれたパンは十字架上の栄光を象徴するもの。割かれたパンをいただいた私たちは、キリストによって一つになる。

ミサ典礼の儀式・所作の一つ一つにはそれぞれ重要な意味があって、大切に守らなければならない、ということについて、時折ユーモアも交えながら解説くださいました。

毎週ミサに与り、お祈りや所作が半ば習慣化してしまっている私たちにとって、典礼の儀式に込められている一つ一つの深い意味について顧みる大変よい機会となりました。

南雲神父様、大変有難うございました。


この日の主日ミサは、南雲神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。
南雲神父様のお説教をご紹介します。


『(南雲神父様が白い手袋をはきミサをしていることから、前段にご自身の肌の疾患についてお話がありました。)
9:10
 ミサ前にも触れましたが、年間もそろそろ終わりが近づいています。11月に入ると「死者の月」として過ごします。教会の1年のカレンダーはもう流れの瀬戸際、終わりにきています。
  そういう時にたとえば、今、ごいっしょに耳を傾け聴いた聖書のメッセージは、祈るということの大切さです。今日の最初のシラ書の中でも「私の祈る心からほとばしり出る叫びは、神よあなたに向かって宛てられています。声が枯れるまであなたに向かって叫び続けます。」 シラ書はそういう内容のことです。
 (お手元の聖書と典礼はお持ちになって帰り、一週間 何回でも目を通して見てください。日によって昨日理解したことと違う何かが見える。これが聖書の言葉の凄いことですね。)

 第2朗読は、多分お気づきになったと思いますが、自分の宣教活動を陰ながらに、あるいはともに同行して支えてくれたテモテ、信頼のおける兄弟に書簡を宛てたものです。完璧に今までと違うのは、パウロはそれこそ泣きごとを言うかのように、自分は今まで多くの兄弟からも見放され、敵視され牢にまで入れられ、それだけでなく船の災害で遭難したり、何回もひどい体験をします。でも、彼はだからといって、主がご自分に与えた使命をしっかりと見定めている、目線をそらさない、だからいつもそこに向かっていく。彼が向かっているところはどこかと言うと、書簡にあります。「私は走るべき道を競争者のように、主から与えられたその道をまっしぐらに進んで走っている。もう私にトップの栄冠を受ける時が近づいている。その冠は主ご自身が準備されているものだ。」と、何をとまどうことなくはっきりと断言しています。それは何のことをいっているか。ローマでの殉教、首をはねられた。ペトロがそうであるように、彼もローマで殉教の恵みを受けました。このことを言っています。日本の教会にも26聖人殉教者をはじめ数え切れないほどの殉教者がいます。彼らはみんなそういう思いで走り尽くした。その結果、殉教という栄冠を、つまり主ご自身から善しとされたわけです。

  祈り続ける。正しい祈りですね。今日の福音のイエスのたとえの中に、ファリサイ派的なものが良いとか、そんなことを思っている人は誰もいないと思います、でも、気づかないうちに私たちは自分があの人のようでなくて良かった。うっかり思ったり思いがちです。テレビでニュースとかご覧になるとき、いろんな事故、災害が報道されます。そのとき、自分の家は助かって何も害を受けなかった、助かった救われたと思う人が必ずいますよね。だって、ニュースの発表がそうです。日本人が亡くなったという報告は大使舘にも入っていません。日本人は大丈夫でしたと。あー良かったと思うでしょう。変です。 同じひとつの境遇の中に両親を通して与えられた尊い命。ある者は亡くなり、ある者はそのまま。現実を続けることは一度壊れてしまった日常では大変なのですが、でも生き延びることができた、そういうことはだれでも体験します。そういう時に皆さんはどういう風に現実をとらえるか。今も鳥取を中心に余震が頻繁に起こっている。夜もゆっくり休めない大変な思いです。
  先日のNHKニュースで、こうした自然災害を受け、無事に助かった子ども達が学校に行きます。多くの子ども達がこれまで習慣のなかった車やバスでの送迎です。そのために歩く歩数が少なくなった。だから肥満児がたくさん増えているそうです。食べるものも特別な環境の中で配給される食事をとりますので、やはりインスタントものが多いでしょう。お母さんが作るような健康のバランスを考えたものは難しい。だから子ども達も、一見元気に遊んでいるように見えるけれども、運動が不足がちになり日に日に肥満化していくと、大きな問題として報道していました。小さい子ども達もさいなまれていると知った時、ショックでした。皆さんもそういう意味で心を痛めていると思います。忘れてはなりませんね。

 今日登場するイエスに善しとされなかった彼も祈るために礼拝場にきた。祈るために主のみ前に立って祈ったわけです。ところが、その祈りを主がご覧になってこれは祈りではない。もう一人のものは、言葉がもう出ないくらい、身をかがめて胸をうちながら、目を上げることも出来ず、涙ながらに「主よ罪深い私を慈しんでください。お赦しください。」と。日本人がこうやって胸を打つというのは威張ること。女はしません。ファリサイ派の人は自分の胸を打ちながら「あいつのようではない。こうやっています。」と言っている場面。かたや、聖なるものを仰ぎ見ることもできない自分を「私のようなものをお赦しください。憐れんでください。」と胸を打って。

  どちらが主の御心に適うかは明らかです。このことを今週は改めてテーマにして、私の祈りはどうなっているだろうか、検索してみることが必要です。人に聞くまでもなく、自分自身に尋ねてみる。そういう1週間にしたいと思います。』