2016年10月10日月曜日

年間第28主日

真の信仰の喜び。それは、苦しい時、死の陰の谷を渡るとき、どんなときも恐れることなく、神がともにいると確信できる信仰を生きること。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『昨日は、献堂100周年を記念するミサ、そしてミサの中で15人の方が堅信の秘跡を受けられました。祈りの内に盛況に行われました。この日を前に長い期間をかけて研創され留意されてきた役員の方々、そしてご協力を賜った皆さんに心から感謝いたします。そして、ご苦労様でした、お疲れ様でしたとお声をかけたいと思っています。17名の司教様はじめ司祭団もいっじょに喜びをともにしてくださいました。司祭団も感謝と賛美の祈りをミサの中で捧げてくださいました。
 考えてみますと教区司祭の皆さんはこの教会で叙階の恵みをいただいて司祭の道を歩み始めている人たちです。ですから、私たち司祭の一人ひとりは、この教会と切っても切れないご縁を持っています。「カテドラル」という教会でもあるため、司祭はみんなこの教会を大切に考えてくださいます。そのこと自体もありがたいことだと思います。地主司教様も祝賀会の中でいろいろと挨拶をしていましたが、(私も以前聞いた記憶があるのですが)司教様もこの教会で洗礼を受け、その後、円山教会に移動移されたんだとおっしゃっていました。ですから、司教様もこの教会は自分の小さい頃の思い出に繋がる教会だと、そんなお話しをされていました。  本当に昨日の100周年の記念ミサは皆さんとともに捧げる事が出来た。そのことを改めて感謝したいと思います。そういうことを考えながら今朝、思いおこしていましたが、この教会で何人の方々が洗礼の恵みをいただいたんだろうか、この教会で誕生したんだろうかと考えていました。また、何人の方々がこの教会から天の国へ召されたんだろうか、そんなことも考えていました。いずれにせよ、私たちこの教会に属する信者は皆、誕生とそして天国への旅路をこの教会でともにしているのだと思います。そういうことも含めて私たちはさらに若い世代に繋ぐということで、さらに深く考えていかなければと思います。  
昨日、運営委員長の挨拶にもありましたが、 新しい世紀に向かって若い世代に私たちが何を伝えようとしているのか、繋ごうとしているの。そういうことを考えながら一人ひとり行動する教会共同体となることが課題である。櫻谷運営委員長もそう挨拶されていました。
  でも、100周年記念はまだ終わっていません。引き続き22日(~23日)の黙想会も控えています。私たちのミサ、祝賀会は昨日終わりましたが、今度は私たちの心の準備として、
さらに新しく歩み出すことが出来るように、黙想会で信仰の実りをまた祈りたいと思います。多国籍の信徒も集う教会として、意見も交えながらより良い新しい教会に生まれ変わることを希望し、神への信頼持ち歩み出したいと願います。

 では、今日のみ言葉にも心を留めいっしょに考えていきたいと思います。まず最初に、今日の福音の背景を少し考えてみます。第一朗読と福音は非常に似たようなお話が語られました。旧約の時代にはイスラエルの国は南北に分かれたことがありました。四つに分かれたこともありましたが、北王国、南王国と表現された時代もあります。北王国はユダの国として、首都であったサマリアという町がそこにあります。サマリアはわたしたちが良く聞く地名、町の名前です。善きサマリア人という話しもその町で起こった出来事として聖書で伝えられます。ユダの北王国の首都であったそのサマリアの町は攻撃を受け陥落し滅亡し、アッシリアの属国、植民地となったことがありました。そうしたことによって、サマリアはもともとは旧約のイスラエルの民の信仰を受け継いでいた人々でしたが、陥落、滅亡することによって、また属国になったことで異民族が流れ込んで、伝統あるエルサレムの信仰と距離をおいた新しい神殿も建てられることになりました。新しい神殿で北王国の人々はかつて同じ信仰をもっていましたが、どんどんと変わっていきます。ユダヤ人との亀裂はそういう意味でもますます大きくなりました。やがてサマリアの人々は異邦人という表現で呼ばれるようになって、伝統を生きるユダヤ人からは宗教的にも敵対心を持つ関係になってしまいました。そうした歴史と社会的な背景から、当時の物語をみていくともっと理解が深められるような期がします。

 不治の病に罹り町の中から追い出され、 社会からも隔離された人々が重い病気を抱えていながらもイエスの姿を見ようとして近づいてきます。でもイエスの前に立つことはできませんでした。禁じられていました。重い病気の人は町の人と接することは禁じられていました。そのことを考えるとイエスと出会ったり、イエスとすれ違う人は多いのかも知れませんが、一般的にはそれは路上のほんの一瞬の出来事で終わってしまうのが普通なのかもしれません。でも今日の聖書を見る限り、主よ憐れんでくださいとイエスに対する  深い信頼を持って出会う人であるならば、たった一度の出会いであったとしても 、イエスの力や業を体験することになりました。
 自分は汚れている。弱い者である。罪深い者である。そして、貧しいだけでなくて自分はだめな人間です。そのように自分を見つめているのであれば、イエスとすれ違うだけで本当の出会いはなかなか出来ないのかもしれません。私たちはどんな気持ちでイエスと出会おうとしているのでしょうか。誰からも相手にされない、社会からも隔離された重い病気を抱えた孤独な病人、それぞれの病気の苦しみを背負いながら心から救いを願いました。憐れんでください、イエスの傍に行くことは出来なくても、心はもうすでにイエスの傍に立っています。そうした出会いを求めたところに癒しの力に触れる習慣がおこります。
 まさに奇跡がおこりました。聖書の話しはそれで終わっていません。病気を癒された人々は10人いましたけれども、一人は神をほめ讃え、賛美しながらイエスに感謝するために戻って来たというのです。10人の病気の人の中には、当然ユダヤ人もいたかと思います。はっきりと詳細には描かれていませんが、戻って来た一人はユダヤ人にとっては敵対する人、異邦人であるサマリア人であった、そういうふうに強調して物語は展開しています。ユダヤ人はイエスをもともと信頼する人ではなく、自分たちの信仰から遠く離れた人々、そうした人々の一人がイエスに感謝するために戻ってきました。イエスは信仰を持つ者、持たない者にかかわらず分け隔て無く、その人たちに接し癒しを与えられる方でした。本来ならば癒されたユダヤ人もまた、サマリア人も感謝して良いはずでした。でも感謝の一言を言おうとして戻って来たのは一人であった。他の人はどんな気持ちになっていたのだろうか、そんなことを考えさせる物語。

 私たちはどうでしょうか。たくさんの恵みを頂いている私たちです。 感謝の気持ちをどれだけ持っているのか、 感謝の気持ちをどれだけ神様に捧げているのでしょうか。私たちにとって大事なことは何でしょうか。病気を癒されることが大事なことでしょうか。病気は癒されたとえ治ったとしても永遠に生きるいのちをいただいたわけではないはずです。病気を癒されたとしても、やがてまた歳を重ねて死に向かうというのが私たちなのです。大事なことは病気が癒されることだけではないはず。神様から何かしてもらうだけではないはず。イエスがいつもともにいてくださるということを、もっともっと深く知ること、確信すること。大切なのはそのようなことと思います。私たちの信仰はそういう点で、御利益宗教とは違うということが言えると思います。心の中に多くの何か抱え込んでいる私たち。時には直面する悩み、時には人の為の心配事。また、言葉に出来ない自分の貧しさに苦しんでいる、そういうときもあるでしょう。そういう人もいるでしょう。苦しい時、死の陰の谷を渡るとき、どんなときも恐れることなく、神がともにいると確信できる信仰を生きることこそ、私たちの真の喜びとなるのではないでしょうか。私たちの真の信仰の喜び。私たちは今どこに心を向けているのでしょうか。向けようとしているでしょうか。
 献堂100年を祝った私たちです。そして次に世代に繋げる信仰として、新たな出発を昨日祈りました。今日もまた感謝のうちにその祈りを捧げます。私たち一人ひとりの神への深い信頼で、確信がよりいっそうもたらされ、新しい教会共同体としてともに歩み出すことが出来るように今日もまた祈り、また明日の一歩につなげたいと思います。』