2018年11月25日日曜日

王であるキリスト

B年の典礼の一年がまもなく終わろうとしています。
毎年この一年の最後の日曜日に「王であるキリスト」を私たちは祝います。
来週の日曜日からは、いよいよ待降節にはいります。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『イスラエルにとって「王」とは、どんな人物がふさわしいと考えていたのでしょうか。今日の福音では、イエスは本当に「王」なのかどうか問われる内容となっています。
その疑問は、誰が考えてもおかしくはないことで私も感じています。当時、イエスの時代にもし生きていたとしたら、私もきっとイエスの話を聞きながら、特別な人だとは思うでしょうが、イエスが王なのかどうかということを考えたに違いありません。
ピラトは私たちに代わって、直接イエスに尋ねています。「あなたは、本当にユダヤ人の王なのか?」と。それに対してイエスは傍にいる人たちがまったく想像もつかない答えを言われました。「わたしの国は、この世に属していない。」
イエスのこのような答えを誰が想像したでしょうか。そして、そのイエスの答えはどのような意味を持っているのだろうか?と誰もが戸惑ったのではないでしょうか。
王の概念、国の概念、それぞれ人によって考えがあると思いますが、国や王という存在を超えて、「この世に属していない」という答えは、きっと当時の人々にとっても戸惑うばかりの答えではなかったかと想像します。

旧約のイスラエルの歴史をみると、ダビデによって国家が統一され、王が誕生することになりました。「王」とは、神に任ぜられたものであり、主との契約によって、油を注がれたもの、そしてその権能を受けるという、この世の支配を表すものでした。このような考えを持つ人たちに対して、イエスの答えは「わたしの国は、この世に属していない」、当時の人々にとっては理解できないイエスの言葉であったと思います。
今日の福音のピラトとの問答の最後に、「わたしは真理についてあかしをするために生まれ、またそのためにこの世にきたのである」と、イエスは堂々とピラトの前で宣言しています。真理のために命をかけたイエス。真理にそって常に生きたのがイエス。私たちは聖書をとおして、イエスの生き様を見ています。確かにイエスは妥協することなく真理のために常に歩んでいました。そして真理のために命を捧げました。
真理のために私たちも生きようとしています。でも真理のために命をかけるとは実に難しいことであります。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理を求めていながらも、現実は真理から離れてしまうことも多いということ。
考えてもみてください。皆さんは真実を生きていますか?今何を一番大切にしておられますか?大抵の場合、真理ではなく別なものになっているような気がします。その別なものとは何でしょうか?
ある人は自分の欲望であり、自分の野心である。ある人はお金であり、また快楽であるかもしれません。いずれにせよ、自分を満足させてくれるものに心が向かうことがあまりに多いのが私たちの現実ではないでしょうか?
真理を生きる。口で言うほど簡単ではないのが誰もがわかっています。そのようにして考えてみると、ローマ皇帝の命令に従って、ユダヤに赴任し、その地方を統治するピラトという人もまた、私たち同じように真理とはほど遠い世界に生きているといえるかもしれません。ですからピラトだけが責められるものではなくて、ピラトももしかすると、私たちと変わらない、一人の人間であったかもしれません。
イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長や長老、律法学者たち。彼らもまた真理から離れてイエスを突き出しました。彼らが命をかけて守ろうとするのは、自分たちの権威を揺るがない確かなものとすることであって、それはまた自分の出世や繁栄であったかもしれません。
自分の権威を守るためであれば、偽りも平気なのかもしれません。自分の望む目的を実現するために手段を選ばなかった彼ら。彼らの心の中にはイエスを亡き者にしてもかまわないと、そういう気持ちさえ現れ出でています。恥ずべき行為も厭わず実行してしまう、考えてみれば恐ろしい状況にまで追いやっていたのが彼らの欲望でもあった。それはまさに真理からは程遠い自分がそこにあったということ。私たちの社会で起こっている犯罪はそういう人間の心から起こっていることが多いのではないでしょうか。

聖書をよく読んで黙想していくなかで、ローマ総督のピラトは、ユダヤ人の宗教や信仰上のもめ事には関心がありませんでした。政治には関心があっても、宗教上の問題には関心がありません。国を持つということは「王である」とピラトは考えます。それは体制に反対する政治的な活動家に繋がっていく。そしてピラトにとっても政治的な野心を持つ人であれば、自分の利益に敵対する存在にもなってくるイエスでもあったということ。
自分が不利になれば黙ってしまう。妥協するピラトも真理から目を逸らしていました。真理に従えばユダヤ人の暴動が起こり、自分の地位や権力も危うくなると、自分の良心の声に耳を塞いでしまったピラトの姿が想像されます。
ピラトにしても律法学者たちにしても真理とは程遠い生き方をしてしまったということです。
イエスはそのようななかで、今までの状況を全く変えようとする「真理の王」であったということが見えてきます。真理をあかしするために来たイエス。イエスが見つめているのは神の世界です。そしてそこに命の全てを賭けています。
「王であるイエス」は、この世の王でないことは確かであり、イエスの使命はただ「真理」をこの世にあかしすることでした。
イエスは私たちをこのように招きました。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。イエスに従おうとする私たち信仰者。私たちはまた、一人一人は「神の民」であるということも自覚しています。そういうなかで真理の神に遣わされたイエスに私たちは本当に従おうとしているのかどうか。私たちは真理から遠いものに心を向けて生きているといえるのかもしれません。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」という言葉を、私たちの心の中にいつも持ち合わせているでしょうか。

イスラエルの人々にとって、ダビデの王から始まるこの世の王には失望しながらも、主こそ「真の王である」という信念は根強く生き続けていたようです。理想のメシアの到来を待ち望む人は多かった。そういうイスラエルの歴史を見つめながら、私たちは今、待降節に向かっています。新しい典礼の一年を迎えて、幼子の到来である待降節をまもなく迎えます。
今日「王であるキリスト」の祝日を迎えて、改めて、王であるキリストを讃えて、神の計画の実現のために祈り、そして歩む決心をしていきたいと思います。』

2018年11月20日火曜日

年間第33主日 ー 貧しい人のための世界祈願日 ー

春が来て夏が近づくように、その時こそ"人の子"が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音は、これまでの福音の内容と違って、随分驚くような話に皆さんは今、耳を傾けていたと思います。マルコによる福音第13章が読まれましたが、この第13章はイエスが終末について語られている場所で「小黙示録」とも呼ばれます。黙示録と言うと聖書の一番最後にあるものです。イエスは弟子たちに人の子による大いなる栄光である「再来臨」を告げます。来臨と言うと皆さんはどんなことをイメージするでしょうか。主の来臨。私は主の降誕、クリスマスを迎える時に二つの来臨があることを話したことがあります。ひとつは幼子の誕生、主がこの世に生まれる来臨がひとつ。もうひとつの来臨は、その時のことではないのですが、次に来る来臨、再来臨。終末にむけての主の来臨と言えるかもしれません。どうしてイエス様はこのような話をされたのでしょうか。未来について、そして私たちが計り知ることが出来ない遠い未来についてお話をされました。
 太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。この言葉を聞くとちょっと不安のような気持ちになるのではないでしょうか。どういうことなんだろうか。不思議でしようがなくなります。今の私たちにしてみても、こういう表現があるとちょっと、それはどういう意味ですかとなると思います。当時の人々はこの言葉をどんな風に感じたでしょうか。そのことを想像してみてください。当時の人々はその話を直接イエス様から聞かされた。
 実際は聖書を書いたマルコが記述しているとのことですが。マルコがこの福音を書いていた時代、相当深く関係しています。今は上映が終わりましたが「パウロ」という映画がありました。この「パウロ」の映画の内容もまさに迫害の時代。悲惨な時代でした。ですからパウロが生きていた時代、ルカが福音を書く時代、映画を見られた方は実感が出来たと思います。迫害時代の中においてパウロの信仰をルカは伝えようとして、牢獄につながれているパウロを訪ねました。そういうシーンが何度も繰り返される映画でしたが、どんな時代であったか。歴史上の重大な事件が次々と起きていた時代であることに間違いはないようです。聖書が書かれていた時代はそういう時代。イエス様が亡くなってしばらく経過していましたが、そういう時代に聖書が書かれていた。
 ひとつはエルサレムが滅亡する紀元の70年代の時代。ユダヤの人々、信仰の民はちりぢりばらばらになってしまい、迫害も起こっている時代になっている。そしてこの時代、この地を治めているローマの皇帝はネオ皇帝。迫害が起こりペテロもパウロも殉教する時代でした。まさにキリスト者にとっては苦悩と困難の時代を迎えている。イエス様とともにその教えを聞いて感動した民は信仰に目覚めるようになったようですが、そういう苦しみに生きている中で、どんなふうに今後なっていくのか。これからの時代はどうなるのか。そんな心境の中で このマルコは聖書を書いています。ですからイエスのこの言葉は そういう時代の信者の心の内も表しているような内容です。
  ですからある特定の人たちは終末が早く来れば良い。そして新しい時代が始まった時にイエス様が言われる「神の国」が早く来ると良い。そんな思いをきっと強く持っていた人たちが大勢いたような気がします。逆に失望した人たちがいたかもしれません。聖書を書くマルコはそういう社会、時代を背景に、信徒の信仰の状態も考えながら終末の問題として、「その日その時は誰も知らない。」そういう終末の内容を聖書に盛り込みました。
  現代に生きる私たち信仰者にとっても、信仰の目標の中に復活の時が来るという思いが
誰にもあると思います。私たちは復活の信仰を生きています。主の再来臨はまさにそういう終末、復活の時がくる。12月、主の降誕が近づいてきますが、幼子の誕生のお祝いの中にもうひとつの再来臨があることもこれまでお話していることでした。

 聖書の中で、そういう時代を生きている人々に対してイエス様は励ましています。希望の火を消すことのないように、いつも暖かく見守り、導きます。こういう言葉を残します。惑わされないように注意しなさい。気をつけて目覚めていなさい。神の前に正しく歩みなさい。どんな困難な状況に遭っても、迫害の中にあって信仰の火が消えそうになっても神の前に正しく歩みなさい。これが目覚めていなさいという言葉でも表されました。マルコが、そのイエスの再来臨の時を旧約の預言者の言葉を借りて語ります。
 今日の聖書の最初の言葉はまさにイザヤの預言の言葉を使ってのお話になります。太陽は暗くなる、月は光を放たず、イザヤの預言の言葉はこのようなかたちで旧約について語っています。こうした預言者の言葉、そしてイエスと出会って新しい目覚めを感じた人々は、ひとつの古い時代は終わってキリストによる新しい時代が到来する。その新しい訪れがまもなくやって来るに違いない。そういう思いでイエスに心を向けていました。
                               
 今日の聖書の中で、特別な記述があります。ヨハネの福音ではキリストの死の目的は国民のためばかりではなく、散らばっている神の子たちをひとつに集めるという表現が、ヨハネの福音の中にあります。マルコも同じような表現をとって、今日の聖書の言葉の中で選ばれた人たちを四方から呼び集める表現で終末を表しています。選ばれた人たちを四方から呼び集める。幸いにもイエス様は再び来られる。選ばれた人たちが四方から呼び集められる。そういう再来臨の時が来るのだ。そのためにも目覚めていなさい。どんな苦しい状況にあっても神の前に正しく生きなさい。正しく生きる人たちが散らばっていたとしても呼び集められる。そういう範疇に入る人たちがあることが、マルコの福音書の中に表されています。
 そして、いちじくの木の話が後半に入ってきます。どんな教訓が見られるでしょうか。いちじくの木の話を通してどんなふうに私たちは考えていますか。今朝も早くから教会に来られて枯れ葉を集めてくださっている人々の姿がありました。教会の庭のケヤキの葉は
毎日ものすごい量で落ち続けています。クリスマスの頃まで毎日落ち続けると思います。地面に舞い降りて広がっている色づいた枯れ葉を見て、美しい秋の自然を感じる人もいるかと思います。そして枯れ葉が落ち、枝だけになった木は枯れた木に見えるかもしれません。作業する人の姿を先に考えてしまいますと、雨で濡れた枯れ葉が地面にへばり付いて、何度も何度もほうきで枯れ葉を集める人の苦労の方が私は見えてきます。枯れ葉が落ちて木が枯れたように見えたとしても、春を迎え夏が近づく頃にはまた新しい葉が至るところで見られるようになります。聖書の教訓は、そのようなことを私たちに伝えているのだと思います。枯れ葉が落ちて枯れ木のようになるいちじくの木を見て学びなさい。枯れ木のように見えていたいちじくの木は   やがて枝が伸び始めるとやわらくなって芽が出、葉が出るようになる。春が来て夏が近づくように、その時こそ人の子が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。死んだ者でもない、枯れた者でもない。また新しい命の息吹があるのだと。そのことを信仰者として私たちは受けとめなければなららないと思います。
 エルサレムの滅亡を体験し、ユダヤの民がちりぢりばらばらになってしまったその時代を生きている当時の人々にとって、この預言の言葉もまた新しい神の国の到来を告げるそういうみ言葉です。神の国の到来は大きな希望をもたらすものでした。イエスははっきりと話されます。この時代はけっして滅びることはない。私の言葉はけっして滅びない。力強く宣言しています。まさに、キリストの言葉は過ぎ去ることなく、必ず実現するものであることを私たちに伝えます。
 皆さんは、来週「王であるキリスト」の祝日をもって一年の典礼の終わりを迎えます。年間の季節の終わりは来週になります。そして翌週から「待降節」という新しい一年のスタートを迎えることになります。イエスの言葉はけっして消えることも過ぎ去ることもない。その力強い言葉に励まされて、私たちの信仰をもう一度歩み直す決心をしたいものです。

 さて、今日はまた教皇様が呼びかけて始まった二回目の「貧しい人のための世界祈願日」となっています。聖書と典礼にも載っています。聖書週間の言葉も入っています。私たちは今日もまたそのことを意識いたしましょう。教皇様は貧しい人たちのために呼びかける。私たちの祈りもまたミサの中で捧げられます。共同祈願の中にも入っていますが、私たち一人一人「貧しい人」の意味を深く探りながら祈りを捧げらればと思います。
 貧しさと言えば、先週、貧しさの中で献金を捧げるやもめの話がありました。その貧しきやもめの姿を通して、私たちは感動さえ覚えたと思います。何故でしょうか。貧しさの中で感動を呼ぶものがあるとすれば、それはどこから来るのか。見えるものでない心の中にある輝きが、やもめの姿をとおして私たちは感じられたと思います。神への信頼と謙虚なやもめの姿をとおして私たちの心の中に響いていたと思います。救いの道は謙虚な心で神に信頼して生きる中に現れてくる。そんなことを感じます。自分の弱さも醜い欠点もありのままに神の前にさらけ出して、神に信頼して生きるということが、貧しい人の中に入り輝きでもあったとも思われます。そして、いと小さき者が滅びることも天の父は望まれない。そのみ言葉に信頼するあのやもめの信仰も、そこに見えてきたのだと思います。イエスの心は神の心に導かれることでもあります。ですから、私たち一人一人が更に神の心に導かれるためにはどうしたら良いのでしょうか。
  そのことのためにもう一つ伝えておきたいと思います。聖書の言葉は神の心に私たちを導いてくれるものだと思います。聖書の言葉は私たち一人一人の心に訴えかけてくるものがあります。そのためにも聖書、み言葉に親しみ出会うことが大事になります。今日から聖書週間が始まります。皆さんの心に刻んでほしいと思います。25日まで続きます。良く言われることですが、信仰生活において食べることと、寝ることと同じように、み言葉に養われることが大切であることも私たちは忘れてはならないと思います。現実の生活の中では食べること、寝ることに煩わされてなかなか聖書の方に心が向かないというのが現実かもしれません。み言葉に養われることも大切にしたいものだと思います。聖書の親しむ、み言葉に親しむ。そういうことでは残念なことをまた繰り返しますが「聖書と典礼」がいつもミサが終わったら置かれて帰ってしまわれています。今週、私たちに伝えたみ言葉は聖書と典礼をとおして、日々繰り返し見つめ学び直すことができます。聖書週間をとおして、さらにみ言葉に親しんで参りましょう。』

2018年11月11日日曜日

年間第32主日

今日の福音をとおして、私たち一人一人が大切な隣人として神に愛されているということを心に留めましょう。

今日は「秋の大掃除」の日でした。
聖堂床のワックスがけとカテドラルホールの大掃除を行いました。


外国人信徒の方も参加しました。終わった後の昼食です。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の第一朗読、福音と共通して出てくるのは「やもめ」。それも日々の生活に困窮し、明日の保障もない苦しい生活をしている「やもめ」のお話になります。
どんなに苦しくても辛くても命あるものは神を誉め讃えなさいと、今日の答唱詩編で私たちは歌っていますが、私たちにどこまでそれができているでしょうか?

「立法学者の偽善」と「やもめの献金」という二つの異なるエピソードが告げられる今日の福音ですが、私たちは心の底から純粋に神に信頼して祈る時、そのひたむきな心を捧げるときには、今日のやもめのような純粋な姿を見せるのではないか、そんなふうにも考えます。
切羽詰まっても、どんなに苦しい状況にあっても心から神に信頼するその瞬間は、「全てを捧げます」と言える、そういう信仰で神に向かえるような気がします。
ただ、常にそのような心を持ち合わせることが出来ないというのが現実の自分でもあるようです。自分の持っている財布の中身を見て、計算をして思い巡らして、どのくらいの金額までなら捧げられるだろうかと考えてしまいます。その時の心の状態は神様のことよりも困っている人のことよりも、自分のことが先になっているということだと思います。きっと誰もが同じような経験をしているのではないかと思います。

イエスに対する律法学者やファリサイ派の人々の態度は、非常に厳しいものがありました。イエスはそのような彼らの偽善的な態度や行動と、それに比べて貧しい”やもめ”の献金の姿を今日示します。どちらの生き方が神に好されるでしょうか?もちろん答えは分かっていることです。
結論は言うまでもないことですが、もう少し当時の社会や生活がどんなものであったかを考えてみると、”やもめ”の信仰もはっきりと私たちの心に見えてくるような気がします。”やもめ”の姿が、いかに神への信頼に満ちたものであったのか、神の愛に応える生き方であったのかどうか、そんなことが黙想すればするほど、よく見えてくるような気がします。
自分が持っている全てがレプトン銅貨2枚であったという”やもめ”。当時のレプトン銅貨というのは、ユダヤの国が発行したお金の中でも最も小さな銅貨でした。
聖書では時々「デナリ」というコインの名前も出てきますが、それはローマが発行したローマ皇帝の肖像がデザインされている硬貨でした。どちらも当時の社会で使われているもので、労働者の一日の賃金の目安となっているものでした。その100分の1にも満たないお金が1レプトンでした。当時のお金にしてわずか2レプトンしか持っていなかったそういう貧しい”やもめ”であったということです。それを神殿に全て捧げる”やもめ”の姿が浮き彫りにされているわけです。

権威をひけらかす律法学者やファリサイ派の人々に対し、神殿の賽銭箱に持ち合わせた全てを入れたこの”やもめ”。どちらが神に対する真実な生き方をしているのかどうか、そのようなことを今日聖書は私たちに語りかけます。律法学者やファリサイ派の人々がどのうような暮らしぶりであったかは想像するしかありませんが、イエスは常々弟子たちに、彼らには気を付けるように語っています。律法学者たちは、話すことは立派であるけれど、その行動を真似してはいけないというのがイエスから弟子達への忠告でした。
当時、”やもめ”と言われる人たちは、財産を共有して助け合い、協力しながら貧しく生きていたといわれています。そして神殿のために一生懸命奉仕したのが”やもめ”でした。それにも関わらず、律法学者やファリサイ派の人々は、そのような貧しい彼女たちの善意を悪用して私腹を肥やしていたと言われています。このような対比をイエスは弟子たちに話したのです。
大金持ちのたくさんの献金に対し、”やもめ”の献金は人々の目を引くようなことはない、いわば隠れた小さな出来事に過ぎません。しかし、たとえ僅かな額であったとしても生活費の全てに当たる金額を献金した”やもめ”の姿は、イエスにとって最も目立つ献金であり、心からの献金であることにイエスはほめられたのです。
そこに私たちは、”やもめ”が示す神への信頼とゆるがない信仰の姿に驚きさえ感じてしまいます。

私たちは誰もが元気で長く健康に生きたいと願っても、それを決める知恵を持っていません。神は、将来がどんなに暗くても、希望を見失いそうになったとしても、変わらない温かなまなざしを持って、私たちを見つめ励ましてくださる存在です。
神こそ私たちが願う「永遠のいのち」をもたらす方であるという信仰をこの貧しい”やもめ”は持ち合わせていたのです。
貧しさの中で冷たい視線を浴びたことのある貧しい”やもめ”は、金持ちの知らない神を知っていたということではないでしょうか。

先週のみ言葉に大切な掟が二つ示されました。神を愛することと、隣人を愛することでした。この貧しい”やもめ”の隣人になってくださったのは神であったということも言えるかと思います。
今日のみ言葉は、この貧しき”やもめ”をとおして、「変わらない愛をもって、いつもあなたを愛している」と私たち一人一人の隣人になっている神が私たちの傍におられ、私たちの信じる神は、そのような方であるということを示すものだと思います。
神を愛し、隣人を愛する。それよりも先に、神から私たち一人一人が大切な隣人として愛されているということも、私たちはもう一度心に留めたいと思います。』

2018年11月7日水曜日

年間第31主日

イエスは律法学者の問いに対し、申命記(6・5)とレビ記(19・18)を引用して最も重要な掟について話されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『モーセはトーラー(モーセ五書)をヤコブ共同体の相続財産として我々に命令した。申命記の中で聖書は述べています。ユダヤの民は律法学者によってその信仰を厳しく指導されています。その信仰を守っています。でも、そのユダヤ伝来の信仰は掟が少しずつイエスの時代に変化していきます。熱心なユダヤ教のグループのある人々は、古代からの伝統が少しずつイエスによって崩されていく、壊れていくようなそんな思いがあったようです。特に律法学者たちの間で。それはどういうことなのか。ひとつ例をあげると、イエスはたくさんの人々を癒やし、慰め、励ましています。時に神の業をしるしとして人々の前で現します。奇跡がそこで行われました。でも、安息日に行われるそういう行為は、イザヤの掟に背くものであると考える人々がいます。安息日は聖なるものである。そして、安息日は仕事は出来ないということが、当時の人々の考えでもありました。安息日、主の日に3百数十種類の仕事の内容が記されていて、それ以外は許されないとか、そういう細かい規定があったそうです。今で言うと、1日800メートル以上歩いてしまうと仕事にもってなると、そういう掟があるという中味が伝えられています。ですから本当に安息日に縛られてしまう、そのような人々の生活もあったということです。
  そういう背景の中で考えると、イエス様が神殿で人々を見て憐れみ、奇跡を行ったとき律法学者たちはまさに、仕事をしている  掟を破ったという見方になりました。考えのようです。でもイエスはその時に安息日は国民のためにつくられた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。安息日が私たちの上にあるのではなく、人が安息日のためにあるのだ。厳格に守ってきた掟が覆されたように考える人々はイエスに対する反発をだんだんと増幅させてしまいます。病人を癒やす行為にさえ、そこにあまりにも恵みや権威に満ちていることを知って、妬む心が大きくなってしまいます。
聖書の中で何度も律法学者ファリサイ派、サドカイ派の人々が現れてはイエスに意地悪な質問をする。そういう物語がたくさん現れます。そのくらい、イエスの行いがだんだんと特定なグループの人たちから反感を買うようになった、そういう時代のお話が今日もまた出てきます。
 タルムード(口伝律法)の戒律は613の掟があるそうです。インターネットで調べるとそれが全部出てくるのですが、小さなことから様々な掟が見ることが出来ます。その掟の中に消極的な掟と積極的な掟があるといわれています。インターネットで見たところ、消極的な掟は365、積極的な掟、命令が 248、合わせて 613あるようです。もちろん、ユダヤ教の信仰の中にに入ってくる様々な掟や規律ですが、その十戒の内容もその掟の中に入っています。

 今日のお話は律法学者から出される質問です。律法学者たちは掟を研究している人たちですから、モーセの掟もその中に入っていることも知っているし、特にその掟は大事にさればならないことを当然知っている質問です。一番の掟は何ですか。一番良く知っている学者さんがそういう質問をするとはどういうことでしょうか。いろいろ想像してしまいますが、イエスに質問します。もちろんイエスは彼らの質問の意図をよく知って答えます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが一番の掟です。日本語で話されていますから説明は必要ないと思いますが、次から次へと神に向かう心が出てきます。すべてをあげて全身全霊を込めて神を愛しなさいということに尽きると思います。
 イエスはさらに加えました。隣人を自分のように愛しなさい。切り離すことではなくて、最初に唯一の主である神を愛することと隣人を愛すること、セットになるように答えていました。律法を研究している律法学者にとって、イエスのこの答えは否定する余地はまったくありません。イエスのこの最初答えは、申命記6章にある聖書の言葉そのものです。二つ目の隣人を自分のように愛しなさいというのも、レビ記にある聖書そのものです。ですから律法学者は否定することはもちろん出来ません。そのとおりと認めざるを得ません。何よりも大切なすぐれた教えそのものであると認めます。掟の数が数多くあると人々は迷ったり、どちらの教えが正しいのか、そういう迷いも当時あったそうです。あまりにも細かく規定がありすぎて、この掟を守れば、こちらの掟は守れそうもない。それくらい規定がいっぱいあったそうです。ひとつ例をあげると、供え物を捧げよという掟もあったそうです。当然、父母を敬えという掟もありました。当時の社会では供え物を理由に両親の扶養の義務を怠ったり、放棄する風潮があったともいわれます。現代でもそのことがあるような気がします。お金をどのように使うか。財産をどのように使うか。両親のために使うか、自分たち若い家族のために使うか。そんなことで両親を投げやりにしたり、粗末にあつかったり、扶養を怠ったり。そういうことは、今の私たちにも考えられることです。当時の社会も同じような風潮があったそうです。神殿に犠牲を捧げるために物を使った。それを用意したから、両親の世話を十分することが出来ませんでしたという理由もたくさんあったのではないでしょうか。
  でも、よくよく考えなければならない。イエスの教え、神の教えはそういうことだったでしょうか。掟はそういうことではなかったはずということが指摘されることです。犠牲や燔祭は罪ある人間が自分を全部神に捧げるしるしに犠牲を捧げる。時に小鳥や鳩であったり、少し余裕のある人は仔牛を捧げたり、そういう風にして犠牲にはお金がかかることであったのかもしれません。生活の一部を捧げざるを得ない。罪の償いがあったかのように当時の社会を想像することが出来ます。でも、その犠牲を捧げるために生活の一部をそれに当てたとすれば、両親をどこかで十分に養うことができないという人がどんどん出ていったとすれば、掟を守る中で間違ったことをしているというふうに考えられます。

  神を愛することと人を愛することは切り離すことではない。愛するときに神はその人とともにいる。愛に欠ける行為がだんだん当時の社会の中に現れてしまう。イエスはそういうことを含めてきっと律法学者に神を愛することと人を愛することがなにより大切である
と答えたのではないでしょうか。神を愛する。実際に具体的にどのようなものでしょうかと考えてしまうかもしれません。
 神を愛するということは具体的にはイエスのみ言葉を聴くほかはないと言えるかもしれません。イエスのみ言葉に心から従い神を思うとき、私たちの心は自分の周りの人々に向かっていくのではないでしょうか。時々とても熱心な人が一生懸命教会で祈りを捧げます。祈りに多くの時間をかけて本当に熱心な姿をそこに見てしまいます。時々、そういう人の中に教会、共同体の皆さんとの関わりよりも、神に祈るその時間の方が大切であるという人がなんとなく見えてくる場合があります。神を愛する。祈りを大切にする。もちろんそれも大切なこと。でも、人との関わりを避けて、その時間を割いてただ祈りだけをするのであれば、神を愛する人を愛することに少し問題が出てくるのかもしれません。バランスは難しいと思いますが、ただ熱心に神に祈るだけではなく、神と人とを介することの大切さを私たちはもっともっと考えなければならないような気がします。
  神の言葉に、そしてその教えに耳を傾け黙想するとき、当然私たちは自分の周りにいる人々、助けを必要とする人々、苦しんでいる人、悩んでいる人、そういう人にも心が向かうはずです。そういう思いこそ必要としている人の隣人になることが出来るのではないでしょか。それはマリア様がイエスのみ言葉に耳を傾けていたその態度にも表れているような気がします。
 イエスは後に弟子たちに話します。私があなたがたを愛したように、あなた方も愛し合いなさい。自分のようにだけでは足りないのかもしれません。イエスが愛したように、私たちはそれを一番の模範としなければならないようです。ですから、イエスの言葉を心に留めて思い巡らし黙想していかなければ、イエスがどのように私たちを愛してくださったかを知ることは出来ないはずです。

  自分ほど神の国から遠い人間であると誰もが思えてしまいます。自分に欠けているものがあるから、そのようにどうしても考えます。洗礼の恵みをいただいた私たち。キリストの教えをただ学ぶだけでなくて、本当に全身全霊をもって神の国に相応しい人にならなければなりません。愛を生きる人こそ神の国から遠くないと呼ばれるはずです。今日、私たちは共同祈願でもたくさんの祈りを捧げます。私たちの祈りで、私の祈りとしてその一つ一つの祈りを捧げるようにしたいものです。』