2018年11月20日火曜日

年間第33主日 ー 貧しい人のための世界祈願日 ー

春が来て夏が近づくように、その時こそ"人の子"が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音は、これまでの福音の内容と違って、随分驚くような話に皆さんは今、耳を傾けていたと思います。マルコによる福音第13章が読まれましたが、この第13章はイエスが終末について語られている場所で「小黙示録」とも呼ばれます。黙示録と言うと聖書の一番最後にあるものです。イエスは弟子たちに人の子による大いなる栄光である「再来臨」を告げます。来臨と言うと皆さんはどんなことをイメージするでしょうか。主の来臨。私は主の降誕、クリスマスを迎える時に二つの来臨があることを話したことがあります。ひとつは幼子の誕生、主がこの世に生まれる来臨がひとつ。もうひとつの来臨は、その時のことではないのですが、次に来る来臨、再来臨。終末にむけての主の来臨と言えるかもしれません。どうしてイエス様はこのような話をされたのでしょうか。未来について、そして私たちが計り知ることが出来ない遠い未来についてお話をされました。
 太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。この言葉を聞くとちょっと不安のような気持ちになるのではないでしょうか。どういうことなんだろうか。不思議でしようがなくなります。今の私たちにしてみても、こういう表現があるとちょっと、それはどういう意味ですかとなると思います。当時の人々はこの言葉をどんな風に感じたでしょうか。そのことを想像してみてください。当時の人々はその話を直接イエス様から聞かされた。
 実際は聖書を書いたマルコが記述しているとのことですが。マルコがこの福音を書いていた時代、相当深く関係しています。今は上映が終わりましたが「パウロ」という映画がありました。この「パウロ」の映画の内容もまさに迫害の時代。悲惨な時代でした。ですからパウロが生きていた時代、ルカが福音を書く時代、映画を見られた方は実感が出来たと思います。迫害時代の中においてパウロの信仰をルカは伝えようとして、牢獄につながれているパウロを訪ねました。そういうシーンが何度も繰り返される映画でしたが、どんな時代であったか。歴史上の重大な事件が次々と起きていた時代であることに間違いはないようです。聖書が書かれていた時代はそういう時代。イエス様が亡くなってしばらく経過していましたが、そういう時代に聖書が書かれていた。
 ひとつはエルサレムが滅亡する紀元の70年代の時代。ユダヤの人々、信仰の民はちりぢりばらばらになってしまい、迫害も起こっている時代になっている。そしてこの時代、この地を治めているローマの皇帝はネオ皇帝。迫害が起こりペテロもパウロも殉教する時代でした。まさにキリスト者にとっては苦悩と困難の時代を迎えている。イエス様とともにその教えを聞いて感動した民は信仰に目覚めるようになったようですが、そういう苦しみに生きている中で、どんなふうに今後なっていくのか。これからの時代はどうなるのか。そんな心境の中で このマルコは聖書を書いています。ですからイエスのこの言葉は そういう時代の信者の心の内も表しているような内容です。
  ですからある特定の人たちは終末が早く来れば良い。そして新しい時代が始まった時にイエス様が言われる「神の国」が早く来ると良い。そんな思いをきっと強く持っていた人たちが大勢いたような気がします。逆に失望した人たちがいたかもしれません。聖書を書くマルコはそういう社会、時代を背景に、信徒の信仰の状態も考えながら終末の問題として、「その日その時は誰も知らない。」そういう終末の内容を聖書に盛り込みました。
  現代に生きる私たち信仰者にとっても、信仰の目標の中に復活の時が来るという思いが
誰にもあると思います。私たちは復活の信仰を生きています。主の再来臨はまさにそういう終末、復活の時がくる。12月、主の降誕が近づいてきますが、幼子の誕生のお祝いの中にもうひとつの再来臨があることもこれまでお話していることでした。

 聖書の中で、そういう時代を生きている人々に対してイエス様は励ましています。希望の火を消すことのないように、いつも暖かく見守り、導きます。こういう言葉を残します。惑わされないように注意しなさい。気をつけて目覚めていなさい。神の前に正しく歩みなさい。どんな困難な状況に遭っても、迫害の中にあって信仰の火が消えそうになっても神の前に正しく歩みなさい。これが目覚めていなさいという言葉でも表されました。マルコが、そのイエスの再来臨の時を旧約の預言者の言葉を借りて語ります。
 今日の聖書の最初の言葉はまさにイザヤの預言の言葉を使ってのお話になります。太陽は暗くなる、月は光を放たず、イザヤの預言の言葉はこのようなかたちで旧約について語っています。こうした預言者の言葉、そしてイエスと出会って新しい目覚めを感じた人々は、ひとつの古い時代は終わってキリストによる新しい時代が到来する。その新しい訪れがまもなくやって来るに違いない。そういう思いでイエスに心を向けていました。
                               
 今日の聖書の中で、特別な記述があります。ヨハネの福音ではキリストの死の目的は国民のためばかりではなく、散らばっている神の子たちをひとつに集めるという表現が、ヨハネの福音の中にあります。マルコも同じような表現をとって、今日の聖書の言葉の中で選ばれた人たちを四方から呼び集める表現で終末を表しています。選ばれた人たちを四方から呼び集める。幸いにもイエス様は再び来られる。選ばれた人たちが四方から呼び集められる。そういう再来臨の時が来るのだ。そのためにも目覚めていなさい。どんな苦しい状況にあっても神の前に正しく生きなさい。正しく生きる人たちが散らばっていたとしても呼び集められる。そういう範疇に入る人たちがあることが、マルコの福音書の中に表されています。
 そして、いちじくの木の話が後半に入ってきます。どんな教訓が見られるでしょうか。いちじくの木の話を通してどんなふうに私たちは考えていますか。今朝も早くから教会に来られて枯れ葉を集めてくださっている人々の姿がありました。教会の庭のケヤキの葉は
毎日ものすごい量で落ち続けています。クリスマスの頃まで毎日落ち続けると思います。地面に舞い降りて広がっている色づいた枯れ葉を見て、美しい秋の自然を感じる人もいるかと思います。そして枯れ葉が落ち、枝だけになった木は枯れた木に見えるかもしれません。作業する人の姿を先に考えてしまいますと、雨で濡れた枯れ葉が地面にへばり付いて、何度も何度もほうきで枯れ葉を集める人の苦労の方が私は見えてきます。枯れ葉が落ちて木が枯れたように見えたとしても、春を迎え夏が近づく頃にはまた新しい葉が至るところで見られるようになります。聖書の教訓は、そのようなことを私たちに伝えているのだと思います。枯れ葉が落ちて枯れ木のようになるいちじくの木を見て学びなさい。枯れ木のように見えていたいちじくの木は   やがて枝が伸び始めるとやわらくなって芽が出、葉が出るようになる。春が来て夏が近づくように、その時こそ人の子が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。死んだ者でもない、枯れた者でもない。また新しい命の息吹があるのだと。そのことを信仰者として私たちは受けとめなければなららないと思います。
 エルサレムの滅亡を体験し、ユダヤの民がちりぢりばらばらになってしまったその時代を生きている当時の人々にとって、この預言の言葉もまた新しい神の国の到来を告げるそういうみ言葉です。神の国の到来は大きな希望をもたらすものでした。イエスははっきりと話されます。この時代はけっして滅びることはない。私の言葉はけっして滅びない。力強く宣言しています。まさに、キリストの言葉は過ぎ去ることなく、必ず実現するものであることを私たちに伝えます。
 皆さんは、来週「王であるキリスト」の祝日をもって一年の典礼の終わりを迎えます。年間の季節の終わりは来週になります。そして翌週から「待降節」という新しい一年のスタートを迎えることになります。イエスの言葉はけっして消えることも過ぎ去ることもない。その力強い言葉に励まされて、私たちの信仰をもう一度歩み直す決心をしたいものです。

 さて、今日はまた教皇様が呼びかけて始まった二回目の「貧しい人のための世界祈願日」となっています。聖書と典礼にも載っています。聖書週間の言葉も入っています。私たちは今日もまたそのことを意識いたしましょう。教皇様は貧しい人たちのために呼びかける。私たちの祈りもまたミサの中で捧げられます。共同祈願の中にも入っていますが、私たち一人一人「貧しい人」の意味を深く探りながら祈りを捧げらればと思います。
 貧しさと言えば、先週、貧しさの中で献金を捧げるやもめの話がありました。その貧しきやもめの姿を通して、私たちは感動さえ覚えたと思います。何故でしょうか。貧しさの中で感動を呼ぶものがあるとすれば、それはどこから来るのか。見えるものでない心の中にある輝きが、やもめの姿をとおして私たちは感じられたと思います。神への信頼と謙虚なやもめの姿をとおして私たちの心の中に響いていたと思います。救いの道は謙虚な心で神に信頼して生きる中に現れてくる。そんなことを感じます。自分の弱さも醜い欠点もありのままに神の前にさらけ出して、神に信頼して生きるということが、貧しい人の中に入り輝きでもあったとも思われます。そして、いと小さき者が滅びることも天の父は望まれない。そのみ言葉に信頼するあのやもめの信仰も、そこに見えてきたのだと思います。イエスの心は神の心に導かれることでもあります。ですから、私たち一人一人が更に神の心に導かれるためにはどうしたら良いのでしょうか。
  そのことのためにもう一つ伝えておきたいと思います。聖書の言葉は神の心に私たちを導いてくれるものだと思います。聖書の言葉は私たち一人一人の心に訴えかけてくるものがあります。そのためにも聖書、み言葉に親しみ出会うことが大事になります。今日から聖書週間が始まります。皆さんの心に刻んでほしいと思います。25日まで続きます。良く言われることですが、信仰生活において食べることと、寝ることと同じように、み言葉に養われることが大切であることも私たちは忘れてはならないと思います。現実の生活の中では食べること、寝ることに煩わされてなかなか聖書の方に心が向かないというのが現実かもしれません。み言葉に養われることも大切にしたいものだと思います。聖書の親しむ、み言葉に親しむ。そういうことでは残念なことをまた繰り返しますが「聖書と典礼」がいつもミサが終わったら置かれて帰ってしまわれています。今週、私たちに伝えたみ言葉は聖書と典礼をとおして、日々繰り返し見つめ学び直すことができます。聖書週間をとおして、さらにみ言葉に親しんで参りましょう。』