2022年4月27日水曜日

5月1日 復活節第3主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。




【福音メッセージ】

5月1日、2022年

復活節第3主日 ヨハネによる福音書21章1-19

最初に知っておいて欲しいのは、弟子たちが一晩中漁をしても何もとれなかったということが重要だということです。彼らは不漁でがっかりしていたでしょうし、もう漁をする気もなかったことでしょう。ですがイエスはシモンに漁をするよう言われ、シモンはそのようにしました。その結果は、もう引き上げられないくらい沢山の魚が網にかかっていたのです。

ここで見逃してはならない象徴的な意味のひとつは、イエスがシモンに水の中に深く網を打つよう言われたことです。これは何を意味するのでしょうか。

この部分では魚を捕るという具体的な奇跡のことだけではなく、それ以上に福音を説き神からの使命を果たす派遣について述べられています。水中深くという象徴的意味は、そうせよと招かれ、神の言葉を福音宣教する為に、私たち全てが参加し完全にそのことに係わるべきだということです。

神の意志に徹底的に深く関わりながら、神の言葉を聞き行動するとき、神は魂へのゆたかな捕獲をお与えになります。この「捕獲」は思いもよらない時、方法でもたらされ、それは明らかに神の御わざなのです。

しかしもし、シモンがイエスに「申し訳ありません、今日はもう漁は終わりで、多分明日にします」と笑いながら言ったとしたらどうなったか考えてみて下さい。もしシモンがこのようにしたなら、豊かな漁で祝福されることは決してなかったことでしょう。同じことが私たちにも言えます。人生において神の声に耳を傾けないなら、神の根本的な命令に心を留めないならば、神が望まれる方法で私たちをお使いにならないでしょう。

救世主の声にこたえ、喜んで行動することについて、今日は黙想しましょう。全てにおいて「はい」と主に喜んで言えますか?主の指し示すことに喜んでしっかりと従えますか?もしそうなら、主があなたの人生になされることにきっと感嘆することでしょう。



【聖書朗読箇所】


恵み深い神よ、

  あなたは愛するひとり子を世の救いのために与えてくださいました。

  あなたの愛に生きる喜びでわたしたちを満たし、

  ともにいてくださるキリストに従う者としてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 5章27b~32、40b~41節


彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。


「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。

それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、

あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」


ペトロとほかの使徒たちは答えた。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。


わたしたちの先祖の神は、

あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。

神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、

この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。


わたしたちはこの事実の証人であり、また、

神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、

このことを証ししておられます。」


使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、

イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。


それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、

最高法院から出て行[った。]




第2朗読 ヨハネの黙示録 5章11~14節


また、わたしは見た。

そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。

その数は万の数万倍、千の数千倍であった。


天使たちは大声でこう言った。

「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、

そして賛美を受けるにふさわしい方です。」


また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、

そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。

「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、

そして権力が、世々限りなくありますように。」


四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。




福音朗読 ヨハネによる福音書 21章1~19節


その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。

その次第はこうである。


シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、

ガリラヤのカナ出身のナタナエル、

ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。


シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、

彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。

彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。

しかし、その夜は何もとれなかった。


既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。

だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。


イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、

彼らは、「ありません」と答えた。


イエスは言われた。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、

もはや網を引き上げることができなかった。


イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。

シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、

裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。


ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。

陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。


さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。

その上に魚がのせてあり、パンもあった。


イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。


シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、

百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。

それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。


イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。

主であることを知っていたからである。


イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。

魚も同じようにされた。


イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。


食事が終わると、 イエスはシモン・ペトロに、

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。

ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、

あなたがご存じです」と言うと、

イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。


二度目にイエスは言われた。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、

あなたがご存じです」と言うと、

イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。


三度目にイエスは言われた。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、

悲しくなった。そして言った。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。

わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。


はっきり言っておく。

あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。

しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、

行きたくないところへ連れて行かれる。」


ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、

イエスはこう言われたのである。

このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。

この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、

「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。


2022年4月23日土曜日

4月24日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】


「今日、大阪駅前の阪神百貨店で、北海道フェアーしてるらしく、松村神父さんを思い出したから、買いに行ってくるわ。」という一本の電話が来た。「神父さんの分まで買ってきたるわ」「は?おれいらんし、こっちで食べるわ」っていう意味ない会話も楽しめる、こんな気さくな大阪のおばちゃんと、今でもつながっている。この話には落ちがありまして、伝言ミス、カレンダーの見間違えで一日早く終わっていたとのこと。残念な話である。そのあと愚痴を言われたのは言うまでもない事である。

ところでふと思ったことだが、ここに今日の聖書を考えるうえで参考になるのではないかと感じた。

先の話には目の前にない物を、ある情報を基に信じるという行為が発生している。北海道フェアーと聞くだけで、いくつかのメニューを思い出し、喜び、イメージが膨らみ、「買い物に行こう!」と体に沸き起こる衝動。見ずとも語られる言葉を信じ、そのために動こうとする心の動きは、ある意味今日の、「見ないのに信じる人は幸い」かもしれない。聖書の言葉を実行しようとすると、難しいのだが、日常生活では簡単にやりのける私たちがいる。そして、それだけ北海道フェアーに魅力を感じ、日常生活で少しでもホッコリとしてくれるのなら、道民にとって喜ばしい限りであるし、誇りにもなるのでしょう。

ところが復活の出来事を考えると、途端にそこには高い敷居が存在してくる。それは復活という出来事が単純な人体の蘇生ではなく、高い次元での“いのち”、「体の復活と永遠のいのち」であるということ。そしてこれらは、見る事、見ない事のどちらからも信じることができるという不思議な体験を弟子たちが味わったということである。大切な師匠イエスが取り去られ、宣教活動に大きな穴が開いた弟子たちは、迫害を受けることを恐れ、大黒柱が倒され、悲嘆にくれていた。まだまだ先導を切って、“この世改革”を期待していた弟子たちにとっては、迷子となってしまったのである。一方女性たちは、癒され慰められた経験を持つマグダラのマリアを筆頭に、心の支柱であったイエスの言葉に強いつながりを持っていた。イエスが取り去られた具体的な事実の寂しさはあるが、心に刺さった言葉はなくならない。イエスと再会する両者は、それぞれ亡くなったイエスに対する心情は微妙に違ったのではないだろうか。そこで、言葉で気づいたマリアと対象的に確証を得ようとするトマスの存在が浮き彫りとなる。

今日の聖書ではこれらを理解するためには事前の予兆、すなわち“しるし”を通して、現場や現状から信じるのではなく、思い起こして信じるという出来事であるという事が強調されているのではないだろうか。イエスの出来事のほとんどは、この“しるし”が重要と言われている。私たちに与えられているしるしは、既に弟子たちにイエスが示している。その言葉を思い起こすことこそ、見ないで信じる大切なヒントとなるのだろう。

そして今日の聖書では「布が置かれた空の墓」がしるしとなる。そこに「三日で神殿を建て直す」「三日目に復活する」という言葉が重なる。

このしるしと言葉が重なったときに、自分の中に確信が芽生えてくる。救いのために信じる行為は信仰となり、しるしの無い北海道フェアーは自分を満たすための単なる信じた行為となる。同じ信じる行為でもこのように違いがあるという事でしょう。

しるしを“見る”とは、既に示されたものから救いを見出すこと。目の前の物を“見る”こととは違うことが今日示されているので、既にイエスから与えられた“種”を見出していきましょう。



【聖書朗読箇所】

あわれみ深い神よ、

  あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、

  水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。

  年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、

  信仰に生きることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 5章12~16節


使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。

一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、


ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。

しかし、民衆は彼らを称賛していた。


そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。


人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。

ペトロが通りかかるとき、

せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。


また、エルサレム付近の町からも、

群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、

一人残らずいやしてもらった。




第2朗読 ヨハネの黙示録 1章9~11a、12~13、17~19節


わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、

その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。

わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。


ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、

後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。


その声はこう言った。

「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、

ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」


わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。

振り向くと、七つの金の燭台が見え、


燭台の中央には、人の子のような方がおり、

足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。


わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。

すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。

「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、


また生きている者である。

一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。


さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。




福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節


その日、すなわち週の初めの日の夕方、

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われた。


そう言って、手とわき腹とをお見せになった。

弟子たちは、主を見て喜んだ。


イエスは重ねて言われた。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、

わたしもあなたがたを遣わす。」


そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

「聖霊を受けなさい。

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、

彼らと一緒にいなかった。


そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、

トマスは言った。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、

わたしは決して信じない。」


さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われた。


それから、トマスに言われた。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」


トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。


イエスはトマスに言われた。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、

それはこの書物に書かれていない。


これらのことが書かれたのは、

あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、

また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

2022年4月20日水曜日

4月17日 復活の主日 松村神父様のお説教をご紹介します

 2022年 復活の主日 松村神父説教



 復活の出来事はキリスト教の信仰の原点です。私たちの教会の教えは覚えきれないくらいたくさんあります。でもこの「復活」の出来事に結びつけて考えていかなければ、私たちの信仰を語ることは出来ないのです。すべての教えは「復活」に繋がっています。もし、復活の出来事を信じない信仰があるならば、それはある意味ユダヤ教の信仰になってしまいます。復活を信じない信仰、それでいてキリスト教になるならば、私たちのしていることは無駄になることを心に留めなければなりません。復活を信じない信仰は教会の信仰ではなく、個人的な信仰になってしまいます。そのあたりを気にしながら、教会の教えを紐解いていかなければならないことを心に留めておかなければなりません。ただ、そう言いながらも「復活」は非常に難しいというのが現実です。簡単に語ることができない、伝えることが出来ない、理解することも出来ない。そういったなかでも、私たちはもがいているのが事実かなと思います。

  少しこの復活の出来事について紐解いていきたいと思いますが、ユダヤ教の時代、つまりイエス様が生きていた時代はどうだったかというと、イエス様の到来によって、ユダヤ教の教えの中に、復活信仰はイエス様の時代からありました。「私は3日で神殿を建て直してみせる。」と、復活することをイエス様は語られていました。その信仰は少しずつ理解されながらも、弟子たちはまだまだ無理解のままでした。その後、イエス様が亡くなった後、一気に復活信仰が花開いていきます。ユダヤ教にとってユダヤ教キリスト派という新興宗教ができあがった。あくまでもユダヤ教の一派なのでした。でもなんかおかしなことを言っているぞと、キリスト派は少し眉唾物として捉えられていきました。

 しかし、残された弟子たちの活動をみていくと、例えば使徒言行録以降のいろいろな書物を見ていくと、どうだったかと言うと、紀元70年には大迫害が起こります。迫害されるほどの勢力だったということです。非常に力強い団体であった。その勢いを止めることはなかなか出来なかった。 非常に驚異として捉えられていきました。

  彼らは迫害があっても信仰を守り続けました。強い信念がありました。どうしてかといわれると、それまで律法主義で多くの人たちが律法の傘の中に入らなければ救われない。そういう考え方のもとイエスが立ちあがって、いやそうではない。中心に置くべき者は  何かと言うと、病気を患った人、かつては病気は罪の結果だと言って、法に従い裁かれていました。でもイエス様は病気の人を中心に置きましょう。そして、職業差別を受けている人たち、つまり罪人と言われていた人たち、羊飼いであったり、皮なめし人であったり、医者であったり、徴税人であったり、神殿にお参り出来ない人、そういう排除されていた世界からイエス様は取り戻そうとした。つまり、神のもとに引っ張ってこようとした。そのほかに、当時は男尊女卑という厳しい時代でしたから、無能力というきつい言葉で言われていたのが女性と子供たちでした。

  イエス様の聖書の物語を見ていくと女性が中心でした。子供たちを私のところに来させなさいと言われました。イエス様の目指す社会とは、律法の外にいる人たちを中心に置く。

そこから眺めていく、そういう社会を築きあげていきたかったのです。弱い者が集まると互いに慰め合い、そこに喜びが生まれる。今まで苦しい思いをしていたのに私たちはここに存在して良いのだ。社会の中心にいて良いのだ。当たり前のように生きて良いのだ。このような喜びを味わう、神の国の実現に近づくひとつの在り方でしょう。

 イエスが亡くなった後、イエスはある歴史上のひとりの改革者として存在していたわけではなかった。もし、単なる社会的制度を変えた者、その時の政治経済を動かした者、そういった偉人であれば、亡くなればその制度は次の権力者にによって変えられていく。でも、イエス様が亡くなった後も国が行政が律法学者たちが、誰もイエス様の歩みを止めることが出来なかった。先ほど話したように、迫害はしたがそれはまったく無駄に終わってしまった。

 そこには何があったかというと、イエス様は単なる社会制度を変えたのではなくて、今まで行われていたあり方を根本的に変えることを行いました。それは何かというと継続性であったり、連続性であったり、普遍性であったり、永遠性であったり、つまり何かに縛られるものでないものが人間の生きている根幹にある。それを示すために表されたというのが「復活」という出来事です。 

 この復活という出来事は  私たちに死を超えた先にある出来事、それから聖木曜日に言われたように「これを行いなさい。」と言ってサ聖祭が制定された。2000年経ってもその力は弱まっていない 根本的な解決をしたのではなく私たちにその連続性の中に永遠性を持てること、それがイエス様の大きな力、与えられた力です。

 そこには迫害されていた、または律法から外されていた人たちが中心に置かれることで、神の国の喜びを、そして隣人愛をそこで行う。それは制度を超えたもの、制度で縛られるものでないもの、新しい発想が実はそこに与えられた。それを示すのが復活の出来事だったということです。

 何よりも隣人愛を行う権利と義務、それまでは律法がすべてを支配してきた。それを隣人愛の支配を委ねた。これがもっとも新しい契約、イエス様の契約、自ら自己犠牲によって生まれた契約。そしてその後イエス様は、肉体を離れ永遠のいのちとなって、主はいつも私たちと共におられる、今もなおいる。この出来事。これはどう考えても人間の能力で把握することは限界があること。不思議な出来事です。でも現実にあるということ。神は愛を、イエス様が永遠のいのちを示してくださった。そのことがこの復活の出来事のひとつかと思います。

 さて、今日、読まれた聖書の中に少しだけ、その部分を紐解いていきたいと思います。主が墓から取り去られました。墓から取り去られるのは現実的、事実なことです。墓から取り去られたことは復活を示すものではありません。ところがもうひとつ後半のほうにいくと、彼は亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは離れたところに置いてあった。つまり、遺体を包んでいたものがはずされてあった。

 このことを読むとある聖書の言葉を思い出します。それは何かというと、今日登場したマグダラのマリアの兄弟のことです。マグダラのマリアはマルタと姉妹で、お兄さんがいてラザロといいます。イエス様はラザロを復活されました。復活の時にどのような形で出てきたか。身体に亜麻布をまいた状態で出てきたのです。ラザロは人間ですからイエス様によって復活されたけれども、また寿命によって死に入っていきます。つまり布を包まれたままにまた死に戻っていく。亜麻布の存在は死と繋げる存在である。ところが今日の聖書では、イエス様は亜麻布から解放されていることが見えてきます。イエス様は、身体に巻き付いたままどこかにいなくなったわけではない。単純に死体を包む、死体という概念を超えて解き放たれた。人間の死から外された存在である。この表現ひとつとっても、

死から解放される、この世から解放される。復活の出来事はこのように縛り付けるものではなく、もっと自由にもっと解放されて、豊かに生きることだったのです。 

 私たち限られた時間の中で、私たちは必ず死が訪れる。人間の死亡率は100%です。生き続ける人は誰もいません。イエス様は自ら死から解放されて永遠のいのちを得る。今まで人が出来なかったことを、イエス様は自己犠牲によってそれを実現された。そして復活、永遠のいのち、死に縛られていた私たちがイエス様の復活を信じることによって、永遠性を取り戻す。復活の出来事として私たちに語られました。死は終わりではなく門である。その先に「神のみ国」の中に組み込まれていく。私たちは神の国の喜びをそこで味わうことが出来る。それを復活を通して示されました。

 神の国と言うと天国をイメージされる方も多いかもしれませんが、神の国というのはある場所を指す言葉ではない。いろいろなたとえ話を見ていくと、神の国は喜びの瞬間なんだ、喜びで包まれる状態。簡単にいうと友だちでも家族でもいいのですが、いっしょに過ごしていると、みんなが幸せな喜びの瞬間があるのです    

  喜びの瞬間。もっとここにいたい。あなたとここにもっと居続けていたい。実はそれが神の国の一番小さな種かなと思うのです。イエス様はそういう状態を全世界に、全人類に広めたかった。神の国はすでにある。でもまだ来てはいないという聖書の箇所もあります。つまり私たちには隣人愛によって、または愛するものとともに生きることによって、神の国を体験している。しかし、それが全人類に広まったかどうかというと、私たちは喜んでいるけれども、ある国ではつらく、悲しい現状がある。うちの家族は良いけれど、隣の家族は悲惨な状態になっている。まだまだ神の国の到来は遠い。イエス様は自分の喜びをどう広めていくのか、これを社会の中でみんなと共にどう歩んでいくのか。これが広がってこそ神の国が実現する。

  みんなが同時に喜んでいる瞬間、もしそれが味わえるならどんなにうれしいことか。

「天の国でも行われるように。地にも行われますように。」主の祈りでも唱えられます。私たちの目指すものは、イエス様のたとえ話に出てくるような天の国の状況を、どんなふううにこの地上の中に実現していくのか。そのためには、一人ひとりが隣人愛という愛を、喜びという瞬間を作り上げていかなければならない。

 誰かがくれるのではなく、自分から与えていかなければならない。人が喜ぶことを私も喜んでいけるようにする。こういう世界が私たちにとって非常に重要。でもなかなか社会はそうさせてくれない。そんな中で私たちキリスト者はどのように歩んでいったら良いのか、イエス様に学んでいきながら歩むことが求められていると思います。

 でも、「すでにあるという希望」は決して忘れてはいけない。イエス様が与えてくれたのは、信仰、希望、愛。三っの徳目のうちに希望という言葉が隠されています。私たちが希望を諦めてしまった時に、もう神の国の実現は来ない。キリストの信仰はのめなくなる。愛することが不可能になる。でも私たちがどんな困難にあっても、苦しみがあっても希望を忘れず、イエス様が目指したこの世の喜びの世界を、私たちも実現するように希望を捨てずに生きること。時には暗闇の中を歩むかもしれない。けれども必ず光が訪れる。私たちの信仰は前向きで、少し楽観的なのかもしれない。でも必ずイエス様が私たちを導いてくださることが可能であることを信じて歩む。その力こそ私たちは迫害を受けても、生き残った弟子のように、私たちも今の時代を歩むことが出来るのだろうと思います。

 この復活の喜びをちょっと簡単に一言では言えないけれども、私たち一人ひとりが、この後キリスト教が続くその種を、私たちが受け継いでいく。次に繋げていけば幸いだと思います。今日の復活の主日、復活の喜びを私たちの希望に変えて、多くの人たちに少しでも分かち合うことが出来るように、その力をこの御ミサの中でいただいていきましょう。

2022年4月17日日曜日

2022聖週間のアルバム

今年の聖週間の写真をご紹介します。


4月10日(日)受難の主日(枝の主日) 司式:勝谷司教、松村神父

主のエルサレム入城の記念


お説教 勝谷司教




4月15日(金)聖金曜日(主の受難) 司式:勝谷司教、松村神父、新海神父

十字架の顕示


十字架の礼拝


お説教:新海神父



4月16日(土)復活の聖なる徹夜祭 司式:勝谷司教、松村神父


お説教:勝谷司教


洗礼式・堅信式が行われました。受洗8名、堅信10名(うち2名改宗)

2022年4月16日土曜日

4月17日 復活の主日

主のご復活おめでとうございます。

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

復活祭 4月17日 “驚くことはない。あの方は復活なさった”  ウルバン神父

 朝早く、まだ暗いうちに、数人の婦人達は墓へ向かって歩いていました。黙って、何も言わないで歩いていた。遠くにある山の向こうに朝日が昇るように見えたが、心の中に光はなかった。手に重い荷物、布、油、薬と沢山の水を持って、朝の暗闇の中、一歩また一歩、歩いていたが、心の中にもっと耐えられない重みがあった、愛するイエスが死んだ悲しみと痛ましい別れ。自分の人生の太陽が沈んだ。もう一回主の顔を見たい、体を触れたいと思っていた。その後、水と涙で傷を洗って、体に油と香水を塗って、布に包んで葬ることでした。墓に投じた後どうすれば良いか知りませんでした。光が消えた。

 すでに開いていた墓に入って、主の姿を見ようとした時、驚くほどの事があった。光り輝く二人の人を見て、声が聞こえた。「誰を捜しているのか。驚くことはない。あの方はもうここにはいない、復活なさった。行って、弟子に伝えなさい」と。婦人達は我を忘れ、恐れのあまりで逃げた時、道の途中でイエスに出会った。イエスの足を抱いた時、悲しみの涙は喜びの涙に変えられた。「シャローム、もう恐れることはない。私は生きている」と。もし孤独の中で望まなかったら、もし捜さなかったら、もし家の中に沈んだ心で残ったら、イエスに会わなかった。今は喜びで飛び上がって、弟子の集まった家に光った顔で入り込んだ時、暗い目で見つめられて、何と言っても、何も信じてくれなかった。「誰も信じなくても、私達は知っている。まことにイエスは生きておられる」と、婦人達は勝利的な喜びに溢れた。

 弟子達はゲッセマネの庭で主から逃げて、遠くからイエスの最後の叫び声を聞いた後、何をしたのでしょうか。最後にイエスと共にいた部屋に次々と集まって、震えながら隠れていた。寝る事も、食べる事もできず、互いを慰める事もできなかった。「イスラエルを開放してくださるこの方だと、私達はすべての望みをかけていた」と思って、今絶望に沈んだだけではなく、自分もイエスを裏切った悲しみに耐えられなかった。3年間共にいて親しい友と思われて、最後に必死に友を待っていた時、一人にしておいて逃げてしまった。「ごめん、許して、僕はもう友と呼ばれない、僕はクズだ」と、罪悪感と悲しみの深い穴に落ち込んでいた。牢屋のように暗闇に囲まれて、光はもうなかった。

 今日も数知れない多くの人は -あなたもそうかも知れません- 目に見えない壁の牢屋の中に住んでいます。鉄と石で作られた壁ではありませんが、刑務所の中の囚人のように暗闇に生きています。度々自分で作った牢屋です。怒り、不安、恐れ、許せない心、絶望、功徳、あらゆる悩みに縛られています。心を繋ぐ鎖をもう自分の力で解すことができない。暗闇に囲まれている時叫んでも、誰も聞こえない。自分を悲しみの墓から救える誰かがいるだろうか。

 どんなに深い穴にいても、私達に救いがある。十字架につけられて、墓から復活したイエスです。悲しんだ弟子はイエスの人言葉「シャローム」と耳にした時、心は生きてきた。光が見えて、太陽が上った。私達もイエスに手を伸ばして、心から呼びましょう。「主よ、あなたを待っています。私は沈みます。来てください」と。主はあなたの叫び声を待っている。答えがあります。「シャローム、心配するな。わが子よ、私は共にいる。」イエスは微笑みながら、あなたの手を取って光へ救い出したら、あなたも喜んで、大きな声で呼ぶ。「主はまことに復活しました。私はイエスに出会った。」



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、

  永遠のいのちの門を開いてくださいました。

  主イエスの復活を記念し、

  この神秘にあずかるわたしたちを、

  あなたの霊によって新たにし、

  永遠のいのちに復活させてください。

   集会祈願より



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第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節


そこで、ペトロは口を開きこう言った。

「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。


あなたがたはご存じでしょう。

ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、

ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。


つまり、ナザレのイエスのことです。

神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。

イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、

悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、

それは、神が御一緒だったからです。


わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、

特にエルサレムでなさったことすべての証人です。

人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、


神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。


しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、

つまり、イエスが死者の中から復活した後、

御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。


そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として

神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、

力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。


また預言者も皆、イエスについて、

この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、

と証ししています。」




第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節


さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、

上にあるものを求めなさい。

そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。


上にあるものに心を留め、

地上のものに心を引かれないようにしなさい。


あなたがたは死んだのであって、

あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。


あなたがたの命であるキリストが現れるとき、

あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。




福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節


週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、

マグダラのマリアは墓に行った。

そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。


そこで、シモン・ペトロのところへ、

また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。

どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」


そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。


二人は一緒に走ったが、

もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。


身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。

しかし、彼は中には入らなかった。

続いて、シモン・ペトロも着いた。

彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。


イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、

離れた所に丸めてあった。


それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。


イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、

二人はまだ理解していなかったのである。


2022年4月8日金曜日

4月10日 受難の主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 湯澤神父】

2022年4月10日 受難の主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日から聖なる一週間に入ります。その第一日は、イエス様のエルサレム入場を記念しますので、枝の主日と呼ばれ、最初に入場の箇所が朗読されます。そして、二つの神の言葉の朗読後、受難の箇所が朗読されます。エルサレム入場と受難、この二つは密接に結びついています。それは、ものの見方を根本から変えるものです。

  イエス様のエルサレム入場の箇所は、『列王記』のソロモンの即位の箇所へ私たちを導きます。ダビデは、ソロモンを最終的な後継者に選定し、ギホンで油を注ぎ(油注がれたもの=メシア)、自分のロバに載せて、エルサレムに入場するよう命じ、ソロモンはそれに従ってエルサレムに入場し、王座に就きます。入場の際、人々は、角笛を吹き、「ソロモン王、万歳」と叫びます。ルカは、ギホンから、『ゼカリアの預言』に従ってオリーブ山に移し、そこから入城することで、イエス様がメシアであることを示そうとしています。こうして、ルカは、ダビデのような王、メシア(キリスト)としてエルサレムに入場するという言い伝えを思い起こさせ、十字架の罪状書きでも王として十字架上で殺されていくことを示そうとしています。

  しかし、ユダヤ人たちにしてみれば、王であるメシアは、強力な権力によって世に打ち勝ち、世を支配し、エルサレムに君臨する王でした。この思いは、イエス様を嘲る議員たちや一緒に死刑になる犯罪人の言葉からわかります。しかし、もう一人の犯罪人は、そうではなく、十字架から降りてこない姿こそ、メシアの真の姿なのだと言い、そのイエス様を受け入れる信仰を宣言します。イエス様は、その信仰を受け入れます。

  ここに、大きな「逆説」があります。それこそ、イエス様の十字架の意味でした。世間では、王は、絶対的な力を持って支配する者です。その力を善いように使うか、悪い方に使うかは、関係がありません。支配者は、自らを絶対的に正しいものとし、他者を力をもって扱い、支配し、この世界に君臨します。しかし、イエス様は、神様の支配は、そうしたものではないことを示そうとしました。第一の者は、仕える者、他者の世話をする者です。もちろん、この在り方は、主の平和のように、この世が与えるものではありません。それは、神によって実現するものです。

  実はそれこそ、創造の目的であり、最終的な神の国の実現なのです。そうしてみると、『創世記』から、このキリストの光で、見直してみなければなりません。人間は、万物の霊長として世界に君臨し、支配する者ではなく、あらゆる被造物と共にいて、助け合う者であり、気に食わないアベルの面倒でさえも見るものなのです。キリストは、王として入城し、十字架にかかって死ぬことで、このことを示そうとしたのです。私たちは、このキリストを通して実現する神の支配(国)を待ち望みましょう。マラナタ。  湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

  あなたは人類にへりくだりを教えるために、

  救い主が人となり、

  十字架をになうようにお定めになりました。

  わたしたちが、

  主とともに苦しみを耐えることによって、

  復活の喜びをともにすることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 イザヤ書 50章4~7節


主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え

疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。


朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし

弟子として聞き従うようにしてくださる。

主なる神はわたしの耳を開かれた。

わたしは逆らわず、退かなかった。


打とうとする者には背中をまかせ

ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。


主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。

わたしは顔を硬い石のようにする。

わたしは知っているわたしが辱められることはない、と。




第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節


キリストは、神の身分でありながら、

神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

かえって自分を無にして、僕の身分になり、

人間と同じ者になられました。


人間の姿で現れ、

へりくだって、死に至るまで、

それも十字架の死に至るまで従順でした。


このため、神はキリストを高く上げ、

あらゆる名にまさる名をお与えになりました。


こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、

イエスの御名にひざまずき、

すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、

父である神をたたえるのです。




福音朗読 ルカによる福音書 22章14~23章56節


 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたし 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 そして外に出て、激しく泣いた。

さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。


 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。 そして、イエスをこう訴え始めた。

「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」

そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、

イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。

しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。

これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 (†底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。

しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。

このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。

ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。


 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。

「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 そのとき、人々は山に向かっては、

『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、

丘に向かっては、

『我々を覆ってくれ』と言い始める。

『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

〔そのとき、イエスは言われた。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

イエスは大声で叫ばれた。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。


 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

2022年4月2日土曜日

4月3日 四旬節第5主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ レイ神父】


四旬節第5主日 4月3日

イエスと姦通で捕らえられた女 ヨハネによる福音書8章1節―11節

この福音書の話では、姦通を犯した女がイエスの前にひきずられてきて石打の刑をどうするかと試されるのですが、その答えは見事で、最後にイエスの優しい憐れみに出会った女だけがその場に残ります。

しかし、軽く見逃されてしまう一行がこの話にあります。それは「・・・年長者からはじまって」と述べられているところです。ここで人間社会の興味深い動きがみられます。一般的に言って若者は年齢による知恵や経験が足りません。

若い人たちは認めたくないかもしれませんが、長い人生を歩んできた人たちには特別な幅の広い人生の見方があります。ことに緊迫した状況の時、年長者は決定や判断をするのにより慎重になるものです。

この話の中で、その女はきびしいとがめを受けてイエスの前に引き出されます。高ぶる感情で、女を石で打とうと構えていた人たちの理性はあきらかに曇っていました。イエスはこの理性のない人々の間に入り「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」と意味深い言葉を投げかけます。

おそらく最初、若い人や感情で高ぶっていた人たちにはイエスの言葉が入っていかず、手にした石をいつ投げ始めようかとそこで立っていたことでしょう。そして年長者たちが立ち去り始めました。これが生きてきた年月であり知恵が働くということなのです。その人たちはその場の感情にあまり左右されず、そして私たちの主から出た言葉の賢明さにすぐ気づいたのです。そして他の人々も従っていきました。

年齢とともに生じる知恵について考えてみましょう。もしあなたが年長者ならば若い世代にはっきり、しっかり、そして愛をもって助け導くあなたの責任を考えましょう。もしあなたが若者なら年長者の知恵を無視してはいけません。必ずしも年齢が知恵をもたらすと保証するわけではありませんが、思いのほか,

もっと大切なことかもしれません。年長者に心を開き、敬意を示し、彼らが人生から得た経験を学びましょう。




【聖書朗読箇所】


愛の源である神よ、

  あなたは罪人をゆるし、

  倒れた者を立ち上がらせて、

  新たに生きる力を与えてくださいます。

  はかりしれないゆるしの恵みを注がれたわたしたちが、

  心を合わせて神に感謝をささげることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 イザヤ書 43章16~21節


主はこう言われる。

海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方


戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し彼らを倒して再び立つことを許さず

灯心のように消え去らせた方。


初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。


見よ、新しいことをわたしは行う。

今や、それは芽生えている。

あなたたちはそれを悟らないのか。

わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。


野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。

荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせわたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。


わたしはこの民をわたしのために造った。

彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。




第2朗読 フィリピの信徒への手紙三3章8~14節


そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、

今では他の一切を損失とみています。

キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、

それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、


キリストの内にいる者と認められるためです。

わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、

キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。


わたしは、キリストとその復活の力とを知り、

その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、


何とかして死者の中からの復活に達したいのです。


わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。

何とかして捕らえようと努めているのです。

自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。


兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、


神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、

目標を目指してひたすら走ることです。




福音朗読 ヨハネによる福音書 8章1~11節


イエスはオリーブ山へ行かれた。


朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、 座って教え始められた。


そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、

姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

イエスに言った。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。


こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。

ところで、あなたはどうお考えになりますか。」


イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。


しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。


これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、

イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。


イエスは、身を起こして言われた。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」


女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。

行きなさい。

これからは、もう罪を犯してはならない。」