松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ 松村神父】
「今日、大阪駅前の阪神百貨店で、北海道フェアーしてるらしく、松村神父さんを思い出したから、買いに行ってくるわ。」という一本の電話が来た。「神父さんの分まで買ってきたるわ」「は?おれいらんし、こっちで食べるわ」っていう意味ない会話も楽しめる、こんな気さくな大阪のおばちゃんと、今でもつながっている。この話には落ちがありまして、伝言ミス、カレンダーの見間違えで一日早く終わっていたとのこと。残念な話である。そのあと愚痴を言われたのは言うまでもない事である。
ところでふと思ったことだが、ここに今日の聖書を考えるうえで参考になるのではないかと感じた。
先の話には目の前にない物を、ある情報を基に信じるという行為が発生している。北海道フェアーと聞くだけで、いくつかのメニューを思い出し、喜び、イメージが膨らみ、「買い物に行こう!」と体に沸き起こる衝動。見ずとも語られる言葉を信じ、そのために動こうとする心の動きは、ある意味今日の、「見ないのに信じる人は幸い」かもしれない。聖書の言葉を実行しようとすると、難しいのだが、日常生活では簡単にやりのける私たちがいる。そして、それだけ北海道フェアーに魅力を感じ、日常生活で少しでもホッコリとしてくれるのなら、道民にとって喜ばしい限りであるし、誇りにもなるのでしょう。
ところが復活の出来事を考えると、途端にそこには高い敷居が存在してくる。それは復活という出来事が単純な人体の蘇生ではなく、高い次元での“いのち”、「体の復活と永遠のいのち」であるということ。そしてこれらは、見る事、見ない事のどちらからも信じることができるという不思議な体験を弟子たちが味わったということである。大切な師匠イエスが取り去られ、宣教活動に大きな穴が開いた弟子たちは、迫害を受けることを恐れ、大黒柱が倒され、悲嘆にくれていた。まだまだ先導を切って、“この世改革”を期待していた弟子たちにとっては、迷子となってしまったのである。一方女性たちは、癒され慰められた経験を持つマグダラのマリアを筆頭に、心の支柱であったイエスの言葉に強いつながりを持っていた。イエスが取り去られた具体的な事実の寂しさはあるが、心に刺さった言葉はなくならない。イエスと再会する両者は、それぞれ亡くなったイエスに対する心情は微妙に違ったのではないだろうか。そこで、言葉で気づいたマリアと対象的に確証を得ようとするトマスの存在が浮き彫りとなる。
今日の聖書ではこれらを理解するためには事前の予兆、すなわち“しるし”を通して、現場や現状から信じるのではなく、思い起こして信じるという出来事であるという事が強調されているのではないだろうか。イエスの出来事のほとんどは、この“しるし”が重要と言われている。私たちに与えられているしるしは、既に弟子たちにイエスが示している。その言葉を思い起こすことこそ、見ないで信じる大切なヒントとなるのだろう。
そして今日の聖書では「布が置かれた空の墓」がしるしとなる。そこに「三日で神殿を建て直す」「三日目に復活する」という言葉が重なる。
このしるしと言葉が重なったときに、自分の中に確信が芽生えてくる。救いのために信じる行為は信仰となり、しるしの無い北海道フェアーは自分を満たすための単なる信じた行為となる。同じ信じる行為でもこのように違いがあるという事でしょう。
しるしを“見る”とは、既に示されたものから救いを見出すこと。目の前の物を“見る”こととは違うことが今日示されているので、既にイエスから与えられた“種”を見出していきましょう。
【聖書朗読箇所】
あわれみ深い神よ、
あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、
水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。
年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、
信仰に生きることができますように。
集会祈願より
第1朗読 使徒言行録 5章12~16節
使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。
一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、
ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。
しかし、民衆は彼らを称賛していた。
そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。
ペトロが通りかかるとき、
せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
また、エルサレム付近の町からも、
群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、
一人残らずいやしてもらった。
第2朗読 ヨハネの黙示録 1章9~11a、12~13、17~19節
わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、
その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。
わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、
後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。
その声はこう言った。
「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、
ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」
わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見え、
燭台の中央には、人の子のような方がおり、
足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。
すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、
また生きている者である。
一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、
彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、
それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、
あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
また、信じてイエスの名により命を受けるためである。