2022年4月20日水曜日

4月17日 復活の主日 松村神父様のお説教をご紹介します

 2022年 復活の主日 松村神父説教



 復活の出来事はキリスト教の信仰の原点です。私たちの教会の教えは覚えきれないくらいたくさんあります。でもこの「復活」の出来事に結びつけて考えていかなければ、私たちの信仰を語ることは出来ないのです。すべての教えは「復活」に繋がっています。もし、復活の出来事を信じない信仰があるならば、それはある意味ユダヤ教の信仰になってしまいます。復活を信じない信仰、それでいてキリスト教になるならば、私たちのしていることは無駄になることを心に留めなければなりません。復活を信じない信仰は教会の信仰ではなく、個人的な信仰になってしまいます。そのあたりを気にしながら、教会の教えを紐解いていかなければならないことを心に留めておかなければなりません。ただ、そう言いながらも「復活」は非常に難しいというのが現実です。簡単に語ることができない、伝えることが出来ない、理解することも出来ない。そういったなかでも、私たちはもがいているのが事実かなと思います。

  少しこの復活の出来事について紐解いていきたいと思いますが、ユダヤ教の時代、つまりイエス様が生きていた時代はどうだったかというと、イエス様の到来によって、ユダヤ教の教えの中に、復活信仰はイエス様の時代からありました。「私は3日で神殿を建て直してみせる。」と、復活することをイエス様は語られていました。その信仰は少しずつ理解されながらも、弟子たちはまだまだ無理解のままでした。その後、イエス様が亡くなった後、一気に復活信仰が花開いていきます。ユダヤ教にとってユダヤ教キリスト派という新興宗教ができあがった。あくまでもユダヤ教の一派なのでした。でもなんかおかしなことを言っているぞと、キリスト派は少し眉唾物として捉えられていきました。

 しかし、残された弟子たちの活動をみていくと、例えば使徒言行録以降のいろいろな書物を見ていくと、どうだったかと言うと、紀元70年には大迫害が起こります。迫害されるほどの勢力だったということです。非常に力強い団体であった。その勢いを止めることはなかなか出来なかった。 非常に驚異として捉えられていきました。

  彼らは迫害があっても信仰を守り続けました。強い信念がありました。どうしてかといわれると、それまで律法主義で多くの人たちが律法の傘の中に入らなければ救われない。そういう考え方のもとイエスが立ちあがって、いやそうではない。中心に置くべき者は  何かと言うと、病気を患った人、かつては病気は罪の結果だと言って、法に従い裁かれていました。でもイエス様は病気の人を中心に置きましょう。そして、職業差別を受けている人たち、つまり罪人と言われていた人たち、羊飼いであったり、皮なめし人であったり、医者であったり、徴税人であったり、神殿にお参り出来ない人、そういう排除されていた世界からイエス様は取り戻そうとした。つまり、神のもとに引っ張ってこようとした。そのほかに、当時は男尊女卑という厳しい時代でしたから、無能力というきつい言葉で言われていたのが女性と子供たちでした。

  イエス様の聖書の物語を見ていくと女性が中心でした。子供たちを私のところに来させなさいと言われました。イエス様の目指す社会とは、律法の外にいる人たちを中心に置く。

そこから眺めていく、そういう社会を築きあげていきたかったのです。弱い者が集まると互いに慰め合い、そこに喜びが生まれる。今まで苦しい思いをしていたのに私たちはここに存在して良いのだ。社会の中心にいて良いのだ。当たり前のように生きて良いのだ。このような喜びを味わう、神の国の実現に近づくひとつの在り方でしょう。

 イエスが亡くなった後、イエスはある歴史上のひとりの改革者として存在していたわけではなかった。もし、単なる社会的制度を変えた者、その時の政治経済を動かした者、そういった偉人であれば、亡くなればその制度は次の権力者にによって変えられていく。でも、イエス様が亡くなった後も国が行政が律法学者たちが、誰もイエス様の歩みを止めることが出来なかった。先ほど話したように、迫害はしたがそれはまったく無駄に終わってしまった。

 そこには何があったかというと、イエス様は単なる社会制度を変えたのではなくて、今まで行われていたあり方を根本的に変えることを行いました。それは何かというと継続性であったり、連続性であったり、普遍性であったり、永遠性であったり、つまり何かに縛られるものでないものが人間の生きている根幹にある。それを示すために表されたというのが「復活」という出来事です。 

 この復活という出来事は  私たちに死を超えた先にある出来事、それから聖木曜日に言われたように「これを行いなさい。」と言ってサ聖祭が制定された。2000年経ってもその力は弱まっていない 根本的な解決をしたのではなく私たちにその連続性の中に永遠性を持てること、それがイエス様の大きな力、与えられた力です。

 そこには迫害されていた、または律法から外されていた人たちが中心に置かれることで、神の国の喜びを、そして隣人愛をそこで行う。それは制度を超えたもの、制度で縛られるものでないもの、新しい発想が実はそこに与えられた。それを示すのが復活の出来事だったということです。

 何よりも隣人愛を行う権利と義務、それまでは律法がすべてを支配してきた。それを隣人愛の支配を委ねた。これがもっとも新しい契約、イエス様の契約、自ら自己犠牲によって生まれた契約。そしてその後イエス様は、肉体を離れ永遠のいのちとなって、主はいつも私たちと共におられる、今もなおいる。この出来事。これはどう考えても人間の能力で把握することは限界があること。不思議な出来事です。でも現実にあるということ。神は愛を、イエス様が永遠のいのちを示してくださった。そのことがこの復活の出来事のひとつかと思います。

 さて、今日、読まれた聖書の中に少しだけ、その部分を紐解いていきたいと思います。主が墓から取り去られました。墓から取り去られるのは現実的、事実なことです。墓から取り去られたことは復活を示すものではありません。ところがもうひとつ後半のほうにいくと、彼は亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは離れたところに置いてあった。つまり、遺体を包んでいたものがはずされてあった。

 このことを読むとある聖書の言葉を思い出します。それは何かというと、今日登場したマグダラのマリアの兄弟のことです。マグダラのマリアはマルタと姉妹で、お兄さんがいてラザロといいます。イエス様はラザロを復活されました。復活の時にどのような形で出てきたか。身体に亜麻布をまいた状態で出てきたのです。ラザロは人間ですからイエス様によって復活されたけれども、また寿命によって死に入っていきます。つまり布を包まれたままにまた死に戻っていく。亜麻布の存在は死と繋げる存在である。ところが今日の聖書では、イエス様は亜麻布から解放されていることが見えてきます。イエス様は、身体に巻き付いたままどこかにいなくなったわけではない。単純に死体を包む、死体という概念を超えて解き放たれた。人間の死から外された存在である。この表現ひとつとっても、

死から解放される、この世から解放される。復活の出来事はこのように縛り付けるものではなく、もっと自由にもっと解放されて、豊かに生きることだったのです。 

 私たち限られた時間の中で、私たちは必ず死が訪れる。人間の死亡率は100%です。生き続ける人は誰もいません。イエス様は自ら死から解放されて永遠のいのちを得る。今まで人が出来なかったことを、イエス様は自己犠牲によってそれを実現された。そして復活、永遠のいのち、死に縛られていた私たちがイエス様の復活を信じることによって、永遠性を取り戻す。復活の出来事として私たちに語られました。死は終わりではなく門である。その先に「神のみ国」の中に組み込まれていく。私たちは神の国の喜びをそこで味わうことが出来る。それを復活を通して示されました。

 神の国と言うと天国をイメージされる方も多いかもしれませんが、神の国というのはある場所を指す言葉ではない。いろいろなたとえ話を見ていくと、神の国は喜びの瞬間なんだ、喜びで包まれる状態。簡単にいうと友だちでも家族でもいいのですが、いっしょに過ごしていると、みんなが幸せな喜びの瞬間があるのです    

  喜びの瞬間。もっとここにいたい。あなたとここにもっと居続けていたい。実はそれが神の国の一番小さな種かなと思うのです。イエス様はそういう状態を全世界に、全人類に広めたかった。神の国はすでにある。でもまだ来てはいないという聖書の箇所もあります。つまり私たちには隣人愛によって、または愛するものとともに生きることによって、神の国を体験している。しかし、それが全人類に広まったかどうかというと、私たちは喜んでいるけれども、ある国ではつらく、悲しい現状がある。うちの家族は良いけれど、隣の家族は悲惨な状態になっている。まだまだ神の国の到来は遠い。イエス様は自分の喜びをどう広めていくのか、これを社会の中でみんなと共にどう歩んでいくのか。これが広がってこそ神の国が実現する。

  みんなが同時に喜んでいる瞬間、もしそれが味わえるならどんなにうれしいことか。

「天の国でも行われるように。地にも行われますように。」主の祈りでも唱えられます。私たちの目指すものは、イエス様のたとえ話に出てくるような天の国の状況を、どんなふううにこの地上の中に実現していくのか。そのためには、一人ひとりが隣人愛という愛を、喜びという瞬間を作り上げていかなければならない。

 誰かがくれるのではなく、自分から与えていかなければならない。人が喜ぶことを私も喜んでいけるようにする。こういう世界が私たちにとって非常に重要。でもなかなか社会はそうさせてくれない。そんな中で私たちキリスト者はどのように歩んでいったら良いのか、イエス様に学んでいきながら歩むことが求められていると思います。

 でも、「すでにあるという希望」は決して忘れてはいけない。イエス様が与えてくれたのは、信仰、希望、愛。三っの徳目のうちに希望という言葉が隠されています。私たちが希望を諦めてしまった時に、もう神の国の実現は来ない。キリストの信仰はのめなくなる。愛することが不可能になる。でも私たちがどんな困難にあっても、苦しみがあっても希望を忘れず、イエス様が目指したこの世の喜びの世界を、私たちも実現するように希望を捨てずに生きること。時には暗闇の中を歩むかもしれない。けれども必ず光が訪れる。私たちの信仰は前向きで、少し楽観的なのかもしれない。でも必ずイエス様が私たちを導いてくださることが可能であることを信じて歩む。その力こそ私たちは迫害を受けても、生き残った弟子のように、私たちも今の時代を歩むことが出来るのだろうと思います。

 この復活の喜びをちょっと簡単に一言では言えないけれども、私たち一人ひとりが、この後キリスト教が続くその種を、私たちが受け継いでいく。次に繋げていけば幸いだと思います。今日の復活の主日、復活の喜びを私たちの希望に変えて、多くの人たちに少しでも分かち合うことが出来るように、その力をこの御ミサの中でいただいていきましょう。