2017年12月26日火曜日

主の降誕(日中のミサ)12月25日(月)

日付が変わり、改めまして、主のご降誕おめでとうございます。
この日は平日にもかかわらず300名ほどの方がお祝いに訪れました。
また、ミサの中でもうすぐ1歳になる(27日)アンジェリーナちゃんの洗礼式が行われました。おめでとうございます!


それからクリスマスプレゼントでしょうか、今のキタラコンサートホールの専属オルガニスト、マルタン・グレゴリウス氏(ポーランド)がミサに与り、そのあとで即興的にクリスマスの音楽をひいてくれました。7月に当教会でのカテドラルコンサートが決まっています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主の御降誕おめでとうございます。また、初めて教会にお出で下さった皆さま。主の御降誕おめでとうございます。ようこそお出でくださいました。
 例年、この日は外部からミサ時間の問い合わせが多くなりますが、今年はいつになく多いと思っています。今年はそんな中、珍しい質問がありました。「クリスマスとはどんなことですか?」簡単な説明であれば、電話でもすぐに出来るのですが、十分に説明するとなると時間が必要です。是非、教会にお出でくださいと、お声かけしました。

 全世界のキリスト者と教会が祝うクリスマスについて、皆さまといっしょに少し考えてみたいと思います。主の降誕を記念する一日を私たちは「クリスマス」と呼んでいると思います。そのクリスマスは、昨日24日の日没から今日の日没までをお祝いする教会の行事として「クリスマス」とか「主の降誕」という言葉を使ってお祝いをします。教会の典礼という、祈りの季節を表す言葉がありますが、典礼としては主の公現を祝う日まで、その喜びの中に置かれます。教会のクリスマスは、街の中で行われる華やかなクリスマスとは違います。その本来の意味が教会では考えられるからです。
 キリスト教という宗教に深く結ばれた主の降誕をお祝いする祭日、お祝い。直接にはイエス・キリストの誕生日というわけではありません。イエス・キリストが何時産まれたというのは、古代から教会内部でも様々な説があるようです。例えば3世紀の初め頃、アレキサンドリアのクレメンスという教会の聖人は5月20日頃と推測した資料が残っているようです。実際に私たちは聖書でキリストの誕生をみていますが、新約聖書にも誕生日を特定するような記述は一切ありません。降誕祭とは別に西方教会では1月の6日にキリストの公現を祝う公現祭を持っています。公現祭は公にキリストがこの世に現れた、お祭りとして古くから祝われていたようです。実際に、誕生を祝うようになったのは、キリストが亡くなってから約300年が経過してから、初めて降誕を祝うようなことが起きています。遅くとも345年には西方教会で主の降誕を祝う資料が出てきてます。救いをもたらす神の子イエス、誕生し私たちのもとにきた。私たちを救うために十字架に架かり亡くなられた。その方の誕生を祝うことはとても大事なことです。今で言うキリストの誕生のお祝いがどんどん広まっていった。キリストが規模の光を届けるように、当時の祭りに結ばれて12月に祝われるようにもなったようです。12月25日を産まれた日として今日のクリスマスに繋がったようです。ですから24日は産まれた日としてではなく、2000年前の生誕を祝う日として24日、25日が定着したとのことです。冬至との関係があったようです。

  私たちは先ほど聖書の言葉を聴きました。聖書の言葉が3つ朗読されました。
 最初に読まれたのは、旧約聖書のイザヤ書でした。その内容は紀元前6世紀のイスラエルの歴史が語られました。イエス・キリストが誕生したエルサレムの町に平和が告げられていました。驚きを感じました。
 そして、第二の朗読では、この世界を創造された神が人類の歴史に深い関わりをもって、古い時代から新しい時代に移り変わる。そこにキリストが関わることを物語ります。キリストが誕生して始まる世界は新約時代という言い方をしますし、聖書では新約聖書というふうに使われます。
 3つ目の朗読は、ヨハネによる福音が朗読されました。創造主である神が言葉とともにあった。言葉は神であった。この言葉は旧約聖書に出て来る創世記の一番最初の内容と深く結ばれているお話しです。暗い時間より、光の時間が長くなる冬至にも関連するように、光となって人間の世界に降りてくるという、救い主イエス・キリストの誕生を告げる話しが、今日の最後に読まれたヨハネによる福音の内容になっています。

  光となって私たちの救いのために神の子であるイエス・キリストがこの世に誕生する。それがまさにクリスマスの意味です。一般の暦では新しい一日は深夜のの0時から始まります。0時を過ぎると新しい一日が始まると普通に理解していますが、キリスト教の世界では、ユダヤ教の教会暦が繋がってきました。ユダヤ教では日没から一日が始まり、日没で終わります。ですから12月24日の日没からクリスマスが始まって25日の日没で終わると言うことです。ですからクリスマス・イヴ(=24日日没)という言葉もここからきているようです。
 昨夜のミサではローソクに火を灯しながらお祝いしました。その時もイザヤ書が読まれましたが、「大いなる光が輝く」という唄で儀式が始まりました。イエスの降誕の光の輝きが私たち皆に輝き、ともに喜び祝うもの。まさに預言者イザヤの言葉は、いかに真実で理に適っていると驚きを感じます。紀元前の預言がまさに現実になった。さらに2000年経って、私たちは毎年祝ってます。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになりましたとイザヤは告げています。私たちもこのような喜び、楽しみを待ち続けてきました。この時期、プレゼントを贈る習慣があるようですが、私たちは「愛」のプレゼントを贈りたいと思います。

 さて、英語のクリスマスが一般的になっていますが、クリスマスはキリストのミサということでクリス・マスと言われています。日本語では「主の降誕(祭)」です。私たちはこのクリスマスの日をが心から喜び、主を心に 迎えて素晴らしい一年に向かうことが出来れば、私たちの世界は少しずつ変わっていくと思います。
 素敵な詩をを皆さんにお聞かせします。
「生まれる前は 母に待たれ  死ぬ前は 神を待つ
  この世に生きること それは  待って 待たれることばかり
  たとえ 誤解されたり、裏切られたり
   迷い、不安、孤独に苛まれても苛まれても
      身を委ねて 待つ
 ……そんなにあなたこそ待たれている  もっと大きな存在に
    (カトリック生活 2017年12月号 P7 おむらまりこ)
神さまに私たちは最終的に待たれているということ。

 このクリスマス、いっけん華やかなイメージが最初に浮かびますが、実際はそうではありませんでした。昨日の(夜半ミサの)司教様の説教でそうしたことが触れられました。人々を救う神の子のスタートは私たちの人間の常識では考えられない、煌びやかな神殿でスタートしたのではありません。この幼子の環境、スタートは貧しく冷たい飼葉桶の中から始まっています。驚きを感じます。世において、神にできない事はないというしるしがここにも感じます。

 今日の喜びの愛の灯を私たちの心に燃やし続けて行きたいと思います。私たちの心の中に光をもっともっと大切にして、自分だけでなく周りの人にもその光が照らされるように、祈りたいと思います。このことを家族にとっても私たちにとっても大いなる光であります。』

2017年12月24日日曜日

主の降誕(夜半のミサ)

メリークリスマス!
主の御降誕おめでとうございます!



午後7時から、主の降誕の夜半ミサが、勝谷司教様の主司式で行われました。
会衆が手に持ったローソクの火が灯る中、司祭が抱いた幼子イエス様が入堂し、救い主の到来を祝福するミサが行われました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日は初めて教会に来られた方、お見かけしない方がたくさんいらっしゃいます。本当にようこそいらっしゃいました。少し難しいお話しになりますが、ご容赦ください。

 先月、25年間続いていますが、毎年開催されている日韓司教交流会が、約25名が鹿児島でありました。毎回、その時々のテーマが掲げられますが、今年は両方の国で問題となっている「少子高齢化」でした。どんな取組をしているか話し会いました。その中でこんなエピソードがありました。韓国の司教はおよそ20名くらいお出でになっていました。韓国側のプレゼンテーションはある大学のシスターでした。現代の韓国の老人の貧困率の話しでした。何と5割を超えているのです。韓国の年金制度は充実していないので、韓国を支えた時代の人々の年金は僅かなものです。段ボールなどを集めてお金に換え、それで生活しているとの報告でした。そこで韓国側の何人かの司教は、その報告に異議をとなえたのでした。それはどこの話しか。教会をみているとそんなに貧困な老人は見あたらない。偽りのデータではないのか。これは国際的な機関の公表しているデータで、それをネットで調べたものだとコメント。そして、それに付け加えて言われたのは、司教様がたは教会の内側だけにしかおられない。実際に教会の外、社会に出て行かれていないから現実が分かっていないのではないですか、と。司教様は反論出来ず、ただ沈黙でした。

  これは韓国のことという捉え方でいられないのは、日本の現状だと思います。日本の社会はどうでしょうか。子供の7人に一人は貧困状態にあるといわれています。シングルマザーの世帯では50%以上が貧困状態にある。先日、バチカンの福音宣教省のフィローニ長官が日本に来ました。宣教国を統括する省の長官ですから、訪問する国の事情は事前に調べてお出でになります。日本の現状も良くご存知でした。そして、日本の国の信者の数が増えないことに関して、こう言いました。「皆さんはどこに向かって宣教しているのですか。皆さんが手を差し伸べるのを待っている人はいないのですか。」そのときに例にあげられたのは、『若者の引きこもり』でした。引きこもりは国際語になっています。あるいは自死の多さ。孤独に苦しむ独居老人や今述べた支援を必要としているシングルマザーのことにも触れられました。教会の周りにはそのような人はいないのですかと強く訴えられていました。

  しかし、私はもっと深刻な問題を感じています。フィローニ枢機卿が指摘されていたような人は教会の周りにではなく、教会の中にもいるのです。多くの場合、彼らが支援を求めるのは教会共同体ではなく、教会の外です。枢機卿の指摘はほんの一部です。そのほかにも将来に希望を持てない青年たち。メンタルの病をもち居場所を見つけられない人たち。障害を持つ子どもたちの将来を憂う親たち。日本の政策で制度の狭間に陥って慣れない外国生活を送る苦しい技能実習生たちがいます。実際に不当解雇を受けた技能実習生がおり、その支援が行われています。

 このように、様々なかたちで社会の片隅に追いやられて、小さくなっている人たちがたくさんいます。このような人たちは私たちのすぐ隣にいるのです。キリスト教の宣教とは聖書や教理を教えることだけではありません。第一には、このような人たちと関わりを持っていくことから始まります。必要なことは知識ではなく、共感する心と出向いていく意志。現在、カトリック教会では排除ゼロキャンペーンというものを行っています。教皇フランシスコはこう訴えています。「現在世界中では2億5千万人以上いる移住者と、そのうちの2千250万人の難民がいます。彼らの多くは平和を見出すために命を賭ける覚悟で旅に出ます。その旅は多くの場合、長く険しいものです。そして彼らは苦しみと疲れに見まわれ、目的地から彼らを遠ざけるために建てられた鉄条網や壁に直面します。戦争と饑餓から逃れて来たすべての人々。差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を離れざるを得ないすべての人々を慈しみの精神を持って抱きしめましょう。」
  先ほど読まれた福音書の中で、臨月を迎えたマリアとその夫ヨセフが宿を求めてさまよい、どこからも拒否されて家畜小屋で出産するエピソードが書かれていました。これが排除ゼロキャンぺーンに繋がるものです。排除ゼロキャンペーンは、現代におけるあらゆる排除されている人々、社会的弱者に目を向け、具体的支援をしようとするものです。特に先ほど述べた 難民を強く意識しています。旅の途中で臨月を迎えたマリアとヨセフ。頼る者もなく無情に断り続けられた彼らはまさに闇の中でさまよい苦しむ貧しい人々、難民の象徴です。
 では彼らを断った宿屋の主人は、意地悪で悪人だったのでしょうか。そうとは思いません。当たり前の普段通りの生活をしているからです。彼らにとってヨセフとマリアは特別なカップルではなく、宿泊先を求めても断られ、野宿を余儀なくされたその他多くの旅人の中に数えられる、顔も名前も知らない二人にすぎませんでした。まさに世界中に溢れている難民の中に「聖家族」がいるのです。何をしても二人の心を動かされないのは、彼らを調べ彼らは自分の世界とは関わりのない大勢の中の一人。つまり私たちがマスコミを通して世界を見るのと同じです。2千250万人という統計上の数字の中の一人に過ぎなくなっているのです。悲惨な現実に心が痛むと言っても、そのために何かをしようと自分を突き動かす力になりません。

  そうです。宿屋の主人たちは善良に生きて当たり前の生活をしている私たちです。こうして私たちは、知らぬまに私たちのドアをノックする救い主の家族を闇の外に追い出しているのです。社会の中で声を発することも出来ずにいる人々に寄り添い、その声を代弁することが教会の使命です。私たちは自分を決して傷つくことのない立場において、机上に集められる情報をもって世界を分析する単なる評論家になってはいけません。出向いて行って実際にその人たちと関わる必要があります。そうして初めて魂を揺さぶられる体験をするのです。テレビ等の情報は確かに共感を引き起こしてくれます。またすぐにチャンネルを切り換えることもできるのです。物知りな傍観者にはなり得ますが、なかなか自分自身を突き動かすものにはなりません。「貧しい人々のための世界祈願日のメッセージ」の中で、教皇様は次のように述べられています。「私たちは貧しい人々に手を差し伸べ、彼らに会って目を見つめ、抱きしめるよう招かれています。」つまり口先にではなく、具体的な行動が求められているのです。

 互いに愛し合いなさいと私たちは何度も聞かされています。しかし、知らない人を愛せません。出会わなければ知り合えません。自分から外に出向いて行かないと出会うことはありません。愛することは理屈ではなく、出向いて行って出会い知り合うことから始まるということを、私たちはしっかりと心に留めておきましょう。』


待降節第4主日

今年の待降節第4主日は、同じ日の夜に「降誕祭」を迎える日となります。
この日のルカ福音書は、主から遣わされた天使カブリエルがマリアの前に現れ、懐妊を告げる場面が語られました。


後藤神父様のお説教はただ今準備中です。

2017年12月17日日曜日

12月17日(日)待降節第3主日

今日の福音では洗礼者ヨハネが救い主キリストの到来を告げます。
1週間後はいよいよ降誕祭です。
洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、謙虚な心で主の降誕を待ちましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『「待降節は愛と喜びに包まれた待望の時である」と言われるように、神の子の来臨・主の降誕が近づいてきます。
今日の待降節第3主日は、昔から「喜びの主日」と呼ばれ、かつては司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を着ました。本日の入祭唱はその趣旨をよく示しており、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられます。
先週のマルコの福音では、イザヤ書に書かれている「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という言葉どおりに、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える場面が語られました。
今日のヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネが光として現れるメシアの証し人としてユダヤ人が遣わした祭司やレビ人の質問に答えています。ヨハネは荒れ野という光の届かない暗い世界から沈黙を破って「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と叫んでいますが、これは私たちの心に神を導くためでした。道を整えなければ、ヨハネがいくら主を案内したくても来られないということです。「道を整えよ」というのは心の中にふさわしく迎える準備ができたのかということと、へりくだった思いを持って、主を迎える祈りをしなさい、ということです。
今日のヨハネの姿に現れているのは、へりくだりの模範の姿です。ヨハネこそキリストだと信じていた人が大勢いたにも関わらず、人々が「キリストではないか?」と思われたとき「そうではない」と答え、人の誤りを自分の誉れとして用いる方ではありませんでした。
ヨハネは自らの試練の場である荒れ野に身を置いて、神だけにしか頼ることしか出来ない環境の中で、人間的虚飾を剥ぎ取りながら、神と純粋に交わり、神の中に身を委ねて生きたのです。見過ごすことの出来ない言葉として、私たちの心の中に響くヨハネの声は、真剣なる神の愛と思いの中でその神秘を生きたヨハネだからこそ、私たちの心に感動を与えるということではないでしょうか。私たちもヨハネの信仰と謙虚な心を見習う必要があるようです。待降節はそのような心の準備も大事にしなければと思います。

私たちはこの地上的な幸せの虜になり、目先の富に目がくらまされることがあるのではないでしょうか。自分の幸せや健康は大切なことです。しかしそれにのみに心を惹かれてしまうと、人を思いやる心や奉仕する心さえもだんだんと小さなものになっていくような気がします。便利な環境に囲まれ快適な生活に恵まれれば恵まれるほど、利己的な欲望に支配されてしまうことがよくあります。そうすると私たちは神を見失い、荒れ野の試煉と危険が迫ってくるのかもしれません。

ヨハネの呼びかけ、その声は、神の姿を見失いかけている私たちに向かって、もう一度恵みの世界へと呼び戻すことを真剣に呼びかけている声なのかもしれません。

来週の日曜日はもうクリスマスになります。
今日のみ言葉の中にもありました「はきものの紐を解く値打ちもありません」とヨハネは公言し謙虚な姿を私たちに示しています。その洗礼者ヨハネに倣って私たちも心を清めて待降節に向かいたいと思います。
「傷ついた心の闇に光を照らしてください」と、罪があるならば赦しを願いながら、謙虚に主の訪れを希望のうちに祈っていく一週間でありたいと思います。』

2017年12月10日日曜日

待降節第2主日 上杉神父様による「黙想会」

上杉昌弘神父様をお迎えし、主日ミサと黙想会「アドヴェントゥスにこそ“マラナタを”」が行われました。
降誕祭を迎える私たちにとって、心を見つめるよいひと時となりました。


上杉神父様のお説教をご紹介します。

『北一条教会には年に2~3回、聖香油ミサや金祝・銀祝のお祝い、叙階式などでお邪魔し、司教ミサに与っています。しかし、今日、プリンチパーレスと言うのですが、主司式司祭として祭壇に上ると不思議にいろいろな思い出や感慨が蘇ってきました。思えば、北一条教会でミサを捧げさせていただくのは、26年ぶりかもしれません。朝早く9時のミサは久しぶりです。北26条教会は(午前)10時半ですから、ゆっくりしていられるのです。もちろん、二ヶ月に1回花川教会に行くときは9時、手稲教会は9時半など…どうでもよいことですね…。

 私たちは間違いなく、今日、神さまに呼ばれてきました。教会と訳されるギリシャ語「エクレシア」は神さまによって呼び集められた人々、その集会を指します。神さまが本当にいらして、「わたしのもとに来なさい」と。一週間、神なしのこの日本の社会にあって、あなたたちは傷つき倒れているかもしれない、あるいは何を目的に何を望み、自分の生涯を何のために捧げて一日一日を生きるのか、それを見失っているかもしれない。世に染まってはいけない。神に祈らず、神に感謝せず、神を愛さずとも幸せそうに生きている人々を見習ってはならない、と。神は千人に三人といない私達信徒の信仰と祈りを通して、ひよっとしたら滅んだかもしれない地上の生活とこの国、私達の生業(なりわい)を支え、忍耐し待っておられるのでしょう。主の呼びかけに応えて私たちは応えます、「はい。主よ、わたしはここにいます」と。皆さんはこの日本に本当に千人の三人といない中から選ばれ、呼びかけられ、その招きに対し「アーメン(そうなりますように)」そう答えて、今日お集まりになられました。

  ミサは、典礼すなわちレイトゥルギア の翻訳ですが、公務、公の勤めとも訳すことのできる言葉です。わたしたちは神の国の公務員かもしれません。今日ミサの初めで、わたしの思い、言葉、行い、怠りによって度々犯した罪をお許しくださいと祈りました。主語は「わたし」でした。しかし、続く集会祈願の時には(この集会=カハルというのが教会と訳される)、主語が「わたしたち」に変わりました。私ではなく、私たち兄弟姉妹が痛み、病み、心の中の愛の灯が消えそうになる罪の喘ぎを告白しました。それを主がお聞きになって呼んでくださり、今日また神のもとに集まることが出来ました。わたしたち一人ひとりが抱えている重荷によって背が曲がり、その重みに耐えかねている時(重荷で背が曲がる、これが聖書でいう貧しい者=アナヴィ-ムの語源)、その時に主の声を聴く。頭をあげなさいと。あなたの前にわたしがいる。あなたに何が必要で、あなたが何を待ち望んでいるのか。自由か、解放か、慰めか。あなた達一人ひとりに必要なものをわたしは知っている。最愛の子キリストをあなたたちに今日も与えよう。あなたたちがこのミサの中で祝っているのは、我が子イエスがあなたたち一人ひとりをわたしに立ち返らせ、暖め、生きる者になるために、今日も愛によって自分を捨てること。わたしがあなたのために自分の命を捧げるよりも、最愛の一人息子の命がとられることのほうが、どれほど痛いことか。しかし、一人も滅びないこと(これが神のみ旨)、一人も滅びないで生きて感謝するようになる、笑顔であなた方が互いを赦し合い愛し合える心となるようにと、今日もミサの中で我が子は自分を惜しむことなく与える、と。

  第一朗読で慰めよ、我が民を慰めよとイザヤが呼びかけます。この2千4、5百年前の預言は、キリストにおいて今日実現しています。カトリック教会で行われているこの儀式は、単なる儀式に留まらず、主キリストがここにいて、わたしたちに手を差し伸べて、暖かい心で言葉をかけ助け起こしてくださると信じる時に、司祭の身体を通してキリストがわたしたちのもとにおられ、み言葉は実現していると。そう信じています。「慰めよ」と聞いた古(いにしえ)のみ言葉は、今日わたしたちのうちに実現します。わたしたちが心を閉ざされた自分の狭い殻から解放されて、広い心に移され、主イエス・キリストの心をいただくなら、今日いただく恵みと平和、慰めは、人々へのため。わたしたちがいかに愛するか、その道を知らない時でも、この一週間に閉じた心を開き、今日いただく恵みを分かち合わせてくださる。そう信じて、この素晴らしい秘跡に与りましょう。秘跡として訳されている言葉はミュステリオンすなわち神秘です。わたしたちが信仰の目を持って臨むならその秘められた大きな宝、恵み、道が見えるようになる。それがこの一週間、わたしたちが気付くまいと、ともにいらしたイエスが私たちにしてくださったみ業とみ言葉です。この秘跡に与っていきましょう。
  愛する人たち、このことだけは忘れてほしくない。ペトロは第二朗読でそう呼びかけます。
一人も滅びないこと。これが父である神の御心であると。しかし、この言葉を無視するならば永遠の滅びがこの地上に入りこみます。この私、愛する家族、群れすべて滅びないように。主よ、わたしたちに必要な糧をお与えください。

  福音書はマルコの第一章第一節から始まりました。マルコ福音書のイエス像は「神の子」これに尽きるそうです。ですから、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と断言します。この神の子イエスは、第一朗読で語られた小羊であることでしょう。「羊飼いが群れを養い、御腕をもって集めた小羊を懐に抱き、その母を導いていかれる。」父である神にとって小羊のようなイエスをわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは最後の信仰告白のときに、キリストのからだとなった聖体を示されこう応えます。「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い。・・・主よ、あなたは神の子キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう。」
  子羊キリストとは、あの出エジプト記の時モーセに率いられてその夜、エジプトを脱出する時に急いで屠られた小羊。その血はイスラエルの家の鴨居に塗られ、そこには災いが過ぎ越して行った。その古事に由来します。災いが過ぎ去りわたしたちを滅ぼさないために、キリストは小羊のように死に渡されました。わたしたちは知っています。災いではなく、神の子の命に生きる幸いをもたらすために、今日キリストはご自分を捧げてくださった。

 円山教会にいたころ、ある中学生が「神父様。あなたをおいてだれのところに行きましょうといつも言っているのですが、だれのところに行くのですか?」わたしは大声で笑いました。「あなたの素朴な質問は本当に正しい。神父さんはじめひょっとしたら大人の人も、ミサが終わったら神様を忘れて誰かのところに行っているかもしれないよね。一週間いっしょに家庭で祈ることも、神さまを忘れて祈らない日もあるでしょう。わたしたちはいつもイエス様に従っていかなければたった一人でこの地上を旅することはできない。その目的地をイエス様はご存知なのです。だからご聖体をいただいて、今日も旅をするためイエス様に従っていくんだよ。」と、お話しすることがありました。

  さあ、もう言葉はよいでしょう。沈黙のうちに、静けさのうちに、わたしたちの心と霊に
近づいてくださる主をお迎えしましょう。あなたこそ私の神。あなたを通していただいた洗礼の恵みによって、わたしたちも父の子、神の子となる。』


御ミサの後、黙想会が行われました。


『どうか皆さん、イエズス様と向かい合うひと時にしましょう。
この一週間、迷ったり、困惑したり、ため息を付くような日々だったのかもしれません。私たちがへりくだって「主よ教えてください」と待ち望んでいるならば、必ず立ち上がらせ元気に笑顔に戻してくださる神の言葉が与えられる、今日それをともに心に蓄え、キリストに一緒に聞いていきましょう。』

典礼聖歌集から、上杉神父様がお選びになった
「あなたの息吹を受けて私は新しくなる」
「主はわれらの牧者」
「主を仰ぎ見て」
を唱え、神父様のご指導により黙想を行いました。

黙想会が終わり、場所を移し茶話会の中で神父様とお話をしました。




2017年12月3日日曜日

待降節第1主日

待降節を迎えアドベントクランツのローソクに火が灯されました。
ミサのあとには馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行いました。
心を清めてクリスマスを迎える準備をしましょう。


今夜からイルミネーションが点灯します。


今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『教会はいち早く、新しい一年の始まりとなる教会の典礼暦「待降節」を迎えました。新しい歩みの一年を「こころの目を開いてください」と神の御心に従って歩めるようにミサの初めにも祈りました。
今日のマルコの福音のことばの中でもイエスが弟子たちに話されていますが、そこでも「目を覚ましていなさい」と三度繰り返されています。
現代の私たちが眠りから「目覚めなければならない」こととはどんなことでしょうか?
隣人愛を忘れた自己中心主義、利己的な生き方なのかもしれません。キリストへの信仰と愛、そして希望をもって祈ることが新しい一年の始まりの決意にしたいと思います。
今年の「待降節」は、今日から三週間で「主の降誕」となります。幼子イエスの誕生を喜び祝い、愛とやさしさのもたらされた救いが、今や地の果てまで全世界に広がっています。その主の降誕を一人でも多くの人々とともに祝うことができるように。
今日から、一人一人の心にローソクの火を灯すように待ち続けて、周りの人にもその光を分かち、照らしながら信仰の道を歩みましょう。』

2017年11月26日日曜日

王であるキリスト

今週で今年の典礼暦は終わり、来週からは新しい暦とともに待降節が始まります。

待降節第1主日の12月3日は、クリスマスを迎える準備として、馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行います。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日のミサには、フィリッピンの巡礼団が多数参加しています。これらの方にも主の豊かな祝福があるよう共に祈りましょう。
  今日のミサで一年の締めくくりである「王であるキリスト」の祭日を迎えたことになります。来週からは、新しい典礼歴(B年)に入ろうとしています。待降節がやってきます。先週の説教の時にひとこと触れましたが、聖書週間は今日で終わります。皆さんはこの一週間の中で、み言葉に触れ、祈ることが出来たでしょうか。聖書を開く機会があったでしょうか。聖書に触れる、み言葉に触れることはこれからも大切なことになります。
 
 さて、イエスの最後の説教といわれる「最後の審判」のことが私たちに語られています。一年の最後の主日を迎える中で私たちは、毎日曜日にイエスと弟子たちの宣教の姿をイメージしながらみ言葉に耳を傾けてきました。そういう意味では、今日の福音はイエスの弟子たちに向けた総決算の言葉とも言えるでしょう。
  第一朗読のエゼキエルの預言で、神である牧者は羊の群れを養い、導くように尋ね求め、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものを滅ぼして裁きのためにくる。牧者はそういう方である、と話しています。 
 神の裁きについては、良くご存知のように新約聖書の一番最後「ヨハネの黙示」で語られています。キリストが万物の王であるといわれているように、最後の日には栄光の座に着かれる王といわれるように、もっとも権威ある審判者として現れています。その方は人の子であり、王であることを今日のマタイ福音書は告げています。歴史の終わり、終末にはキリストがはっきり自らを現される。そして、万物は神の前に膝をかがめる。このとき裁きが行われ、その裁きはもっとも小さい人々に対する愛の行いで裁かれるということも話されています。

  小さな人々。先週、教皇様のメッセージをお話しをしましたが、教皇様も貧しい人のために、世界中で祈って欲しいとメッセージを流され、日曜日はその日に当たっていました。教皇様も聖書からくる貧しい人、小さな人、弱い立場にある人を大切にしましょう。私たちはもっとそういう人たちに向き合っていきましょう。その人たちと共に歩ける、そういう世界つくりあげていきましょう。そういう呼びかけをしています。
 そういうメッセージを心に留めながら、今日のみ言葉を黙想するときに、私たちは一人ひとりの生きざま、行動がどうであったか問われるような気がいたします。キリストを信じ、キリストに従って生きているはずの私たち信者一人ひとりもまた、み言葉が示している裁きの前に立たされ、私は右側に招かれるのだろうか、左側に置かれるのだろうか。私たちは福音をとおして考えざるを得ないと思います。
 主イエスが羊の世話をする牧者としての王であって、御父に全支配を返す僕として私たちは今日のみ言葉を黙想します。そのような中、愛徳について何よりも大切と考えている私たちの行い、行動、日々の生活はどうなっていたでしょうか。王の右側に立つか、左側に置かれるか。真剣に考えると震えがくるような気がします。もう一度、私たちは神の前に、キリストの前に相応しい生き方を考えるようにと、今日の福音は語りかけていると思います。
  十分に理解しているはずの私たちの信仰者としての生き方。何度も聖書の話しを聴き、その内容を理解し、その場面に立たされるような思いを持って、いつもみ言葉に繋がっています。でも、私たちの愛は、私たちの奉納は、考え方は必ずしも神さまの御旨に適う生き方から外れることも度々あります。自己満足や自己の欲望を満たすほうに日々歩む私たちでもあります。   
 王であるキリスト。私たちは王のイメージをどのように捉えているでしょうか。私が子供時代は本や映画やいろんなところで王様の存在が身近だったような気がします。今はピンとこない感覚が私の中にあります。特に日本人はイメージが乏しいような気がします。安倍総理は王とは思えないし、天皇も王様とは見えてきません。一方、外国の国といっても十分理解出来ませんが、王様というイメージは見えてくるような気がします。王様はそれぞれの国、それぞれの民族の中にあったとしても、神さまの御旨を生きる王様はほとんどいないような気がします。テレビで時々、素晴らしいニュースが流れてきます。素晴らしい人の生き方、考え方、行動。そういうものに触れていくと感動sます。よほど私たち神を信ずるものよりも、立派な生きかたをしている。社会のために、隣人のために自分を中心にしてではなく、奉仕する生き方をしている。つい最近のニュースで皆さんも聞いているかもしれません。アフリカのジンバウエで独立以来40年近くにわたって国の実権を握り続けた、英雄として讃えられていた(ムガベ前大統領)が40年経って93歳、世界最高齢の独裁者。その高齢でどこまで仕事が出来るのか。自分の限界を知って52歳の若い妻に権力を与えようと表明したそうです。かつては英雄と讃えられた人が、今の時代では独裁者としか呼ばれない。こんな中、自分の妻に権力を譲ろうとした。国際的な非難も受けていました。そして、自分の地位を降りることを表明しました。国民は大喜びとのニュースが流れてきました。その国の王様のような存在であったといえるでしょう。国民の誰からも信頼できなくなってしまった。今日の福音もいろいろ考えさせられます。

 私たち一人ひとりはどうなんだ。私たちの周りの隣人にどうであったか。人様の非難をしているときではない。政治的な権限を持って国を治める時には、小さい人、弱い立場にある人を軽んずることがないよう努力をしていると思います。すべてにそれを奉仕することは難しいことは誰もが知っています。今日のみ言葉と比較しながら、私たち一人ひとりの生き方をもう一度見つめましょう。私たちの周りから小さき人々の悲しみの涙が少なくなりますように。イエスが話されている「もっとも小さい者の一人にしなかったことは、私にしてくれなかったことである。」ということで、裁かれることのないように。

 主の再臨と最後の審判。そこにだけ目を向けると、恐ろしいことばかりが私たちの心の中を支配してしまいがちですが、恐れの対象としてこの話しを聴くのではなく、隣人愛と弱い立場にある人を大切に生きるように、そして喜びと希望のうちに生きることが出来るように、あなたがたも心をもう一度見つめ直しなさい、そういう聖書のお話しとして聞くことが出来る。
 待降節を間近にしています。新しい1年、貧しい人とともに歩める、私たち一人ひとりに成長することが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で祈りたいと思います。』

2017年11月19日日曜日

年間第33主日 「貧しい人のための世界祈願日」

教皇フランシスコの意向により、年間第33主日は「貧しい人のための世界祈願日」として、ミサの中で共同祈願が捧げられました。

『ご自分を小さい者や貧しい者と等しい者とみなされたキリストに倣い、わたしたちも、貧しい人、弱い立場にある人に寄り添い、奉仕するよう求められています。
 不平等や不正義のない世界の実現に向けて、具体的なわざを通して神のいつくしみのあかし人となれるよう、祈り求めていかなければなりません。』
(「貧しい人のための世界祈願日」とは? カトリック中央協議会HPより抜粋)

この日の後藤神父様のお説教では、教皇様のメッセージを中心にお話されました。



御ミサの後、
 この日(「貧しい人のための世界祈願日」)の理解を深めようと、ホームレスへの炊き出し支援団体「みなずき会」の活動に参加している、当教会のメンバーから活動の内容、ホームレスの現状などについてお話しをしていただきました。
 
 死者の月の勉強会第2弾「小田神父様DVD視聴会」をミサ後に開催し約40~50名ほどの方が約2時間、研鑚しました。テーマは①通夜と葬儀でカトリック教会が大切にしていること。②家族葬(密葬)、直葬とは。



2017年11月12日日曜日

年間第32主日 「秋の大掃除」

典礼は、今日から「終末主日」と呼ばれる期間に入ります。


今日は「秋の大掃除」の日でした。
主日ミサの後、聖堂とカテドラルホールの大掃除が行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今朝、駐車場の欅(ケヤキ)を眺めていました。かなりの枯葉が落ちています。再臨の時が分からないように、枯葉がいつすべてが落ちるのかなと、今日の聖書のお話しを少し思い出しながら考えていました。
  み言葉の世界に心を向けます。ちょっと大きな行事があると、私たち、教会では誰もが係りの人と相談しながら準備に入ります。準備を考えると行事に合わせ、ていろいろなことを考えます。こうしたらいいなあと思いがあるも、なかなか思うようにならないのが現実です。そう思うと、今日のたとえ話を考えても、いつも準備に一喜一憂する私たちにとって、とても身近なたとえ話になると考えます。
 相応しい準備はこの世のことばかりではなくて、いつの日か死を迎えて旅立ちをする日の 世の終わり、そして主の再臨の時まで考えされられる、今日のたとえ話しになります。その再臨の時に、「私はあなたがたを知らない。」と、天の国の門が閉ざされて入れなくなるという悲しみを、誰もが味わいたくありません。その準備を後回しにするのではなくて、常に良い準備をしておかなければならない。そのようなたとえ話が、今日私たちに語られます。

 天国についての3つの教えのひとつが、今日の花婿を迎える婚宴にたとえられて語られます。10人の乙女たちは、ユダヤの婚礼の習慣にしたがって、それぞれ準備をしていたことでしょう。でも、それぞれの結果が大違いになってしまいました。ほんの小さな考えの違いから、時には最終的に取り返しのつかない、悲劇的な結果があるということだと思います。愚かな乙女たちのような状況では、誰もがもうだめだと、そんなふうに考えて寝込んでしまうのではないでしょうか。取り返しのつかない結果を受け入れなければならないと考えるならば、悲しくもあり、また恐ろしくもあります。チャンとしないからと人ごとのように考えてはならないと自分にも言い聞かせます。
  イエスの再臨の時を考えるならば、私たちもイエスを迎える時に必ずやってくる。良い準備というのはイエスに信頼して、心を開いて日々を過ごす予備の油の準備。夜、灯りを灯すことが出来る油の準備を意味していると思います。そういう準備をしてイエスとの再会を待たなければならないのが私たちの現実。良い準備も出来ず、良い準備もしないで、そのとき委せではきっと誰もが後悔することになるのではないでしょうか。良く考え良い準備をし続けることを大切にしたいと思います。たとえその結果、が失敗に終わったとしても、自分なりに精一杯準備をした。その結果としたら、後悔は少ないのではないのでしょうか。良い準備もしないで、そのとき委せで悲惨な結果を受けたとすれば、誰もがああすれば良かった、こうすれば良かったと、後悔が先になるような気がします。
  良い準備。良いと言うことはまさに良いことである、そういう意味です。良い準備はたっぷり十分に時間をかけて、そのために準備をする、考えるということだと思います。良い準備をしてイエスに出会うことになる。良い準備が出来てこそ、またイエスに出会うことが出来る。でも私たちは、時に良い準備をしたとしても、したつもりでも思いがけないことに出会うことが良くあります。この世の中で、出来事はそういうことの連続かもしれません。でも、イエスに信頼して、良い準備をしているならば、神はけっして私たちを悲しませることはないでしょう。たとえ、良い準備の結果が自分の思い通りの結果でないにしても、私たち一人ひとりを愛してくださる。慈しんでくださる。私たちを導いてくださる神は、私たちを前を向いて歩けるように力を与えてくれるはずです。

 聖書ではユダヤの古い時代の状況を取り入れて、今日のたとえ話しが語られています。ユダヤの習慣ではいつも花婿を迎えるために、婚宴の準備をして迎えたようです。今日のお話しの中で、花婿の遅れたことへの非難はひとつも語られていません。花婿が遅れていなければ、こんなことにはならなかったと思っている人もいるのではないでしょうか。そのことについては触れられていません。
  聖書ではしばしばキリストが花婿として表現されます。そして、信徒の共同体である教会が、花嫁としてその関係を表します。花婿を迎える乙女たちとは、キリストを信じ、キリストを待つ私たち信者、共同体をも表しています。
 そして、聖書でいう賢い人、愚かな人というのはどういうことか少し考えます。賢い人…旧約聖書では神の教えや掟を認め、生涯忠実にそれに生きる人のことを賢い人というようです。律法学者やファリサイ派の人たちのことを思いおこすかもしれません。福音でも、神のみ言葉を聴きこれを実行する人。先週の律法学者にイエスが言われましたけれども、言うだけで実行しない人のように、口先だけで終わる人ではないことははっきりしていると。愛の掟の実践者を示してこそ、賢い人と福音では言われている。教えを良く理解して、それを生きる人が賢い人。教えは知っているけれど、それに反する行いをしたり、それを無視したり実行しない人は愚かな人になるようです。私たちはどうでしょうか。公教要理を学び、聖書の勉強をし、そして説教を聞きながら聖書の世界に触れていますが、私たちは理解したこと、学んだこと、それを実践出来ているでしょうか。私たちも愚かな五人の一人になっていることのほうが多いかもしれません。

 今日のお話しの背景には、弟子たちや群衆に話しているたとえ話しですが、先週のみ言葉で話されていたように、対立して襲いかかる律法学者やファリサイ派の人たちへの容赦ない痛烈な言葉として、また語られていると私は考えます。弟子たちに話していますが イエス自らが日々、今体験している律法学者たちの攻めに対して、何が大切かということを弟子たち、そして群衆に教え導いている、このたとえ話しです。良い準備をしなさい。目覚めていなさい。
 イエスを信じ  イエスとの出会いを待つ私たちです。でも、その時になって、知らないと言われることがないように、目を覚ましていなさいと諭しています。
  私たちの心、私たちの祈りは、ただみ言葉を大切にするということだけでなくて、そのみ言葉を生きる者となることが出来るように、今日も私たちは心に留めながら、このミサに与りたいと思います。』

2017年11月5日日曜日

年間第31主日

イエスは、名誉や権威を守ることに腐心する偽善的な行いや高慢な態度を厳しく戒め、仕える者になるように教えます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『「諸聖人」そして「死者の日」から11月が始まりました。皆さんはこのミサに入る前に回心の祈りを唱えましたが、この一週間を振り返りながら、皆さんはどんな回心の祈り、心を改める祈りをされたでしょうか?私は、そのようなことを今朝少し思い巡らしてみました。先週の日曜日の聖書のことばは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」まずそれが私たち信仰を生きるものにとって何よりも大切なことである。それに加えて、隣人を愛するというお話でした。私たちの信仰生活を振り返った時に、この一週間のうちにそれが活かされていたでしょうか?そんなことを考えると、私たちはたくさんの悔い改めの出来事を日々の生活の中で思い起こします。こうした思いを神様に清めていただいて今日のミサを捧げることはとても大切なことです。

今日の福音は、イエスと律法学者たちとの論争に続く場面が語られています。
律法学者やファリサイ派の人たちは、自分たちの名誉や権威を守ることを目的として「モーセの座」に立って教えています。そのような彼らの態度は、イエスの目には「偽善者」として映ります。今日読まれた聖書に続く箇所には「偽善者よ、あなたがたはわざわいである」というイエスのことばが続きます。
「モーセの座にすわっている」という言葉は、律法学者とファリサイ派の人々が教義を説き、律法を解釈し、執行する立場に置かれていたことを意味しています。律法学者とはモーセの律法を研究する法律家であり、ファリサイ派は宗教の教師でした。彼らは教義を教える時や聖なる時間を過ごす際には、特別な装束を身に着けていたようです。その一つには、聖句箱とよばれる聖書の中でも大切な言葉が書かれた経札が入れられた小箱を額に着けていました。それは、主と一つであるという姿勢や、心が常に神の律法に向けられていることを表すためのものでした。これらを身に着けて「モーセの座」に立って教えている時には批判を受けることはありませんでした。しかし、イエスは彼らに向って、本当に神に心を向けているのか?と厳しく咎めたのです。経札を偽善的に使用したり、注目されるために箱を大きくしたりと、そのような行いを決して見倣ってはならないと弟子たちや群衆に話しました。見かけは熱心に祈っていても、神様への畏敬や感謝の心がこもっていないなら何もしないのと同じことであると、彼らの行いの伴わない高慢な態度を批判しました。私たち司祭もイエスが批判した彼らと同じような仕事をしています。知らず知らずのうちに高慢な態度を行使しないとも限りませんので、皆さんのお祈りや支えもお願いしたいと思います。

人間の集まる世界には必ず、権威が現れ、指導者も必要になってくるようです。教会にとどまらず、学校にも、職場にも、また家庭にあっても父親や母親の権威と指導が子どもを育てる上では大切なことになります。
自分の思い通りに人を動かすことは精神的な快感ももたらします。権威を持つときには注意が必要です。
神に向う道であればなおのこと、傲慢な人ではなく謙虚な心を持って歩むことが求められるのです。
奉仕をするにしても指導をするにしても、個人的な自分の名誉のために行うことがないようにと、イエスは弟子たちをそして群衆を諭されています。そのうえで教師は一人、先生は一人、キリストの心を心として生きることこそ、私たちキリスト者の大切な心であると教えます。

私たち一人一人に与えられている神からの恵み、力、能力、そうしたものを人々への奉仕のために謙虚に用いることが出来るように、神への栄光に役立つものとなるように、今日改めて、私たち一人一人の思い・行動が、神のみ心に沿っているのかどうかを考えながら、今日のミサで祝福を祈りたいと思います。』

2017年10月29日日曜日

年間第30主日「神の愛、人への愛」

今日の福音では、イエスがファリサイ派の人々へ、神の愛、人への愛を教える場面が語られました。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『「ロザリオの月」と呼ばれる10月も最後の日曜日を迎えています。神のいつくしみの手の中でこの大自然の景色も秋の色に衣替えをしている真っ最中だと思います。厳しくなる寒さには身体がまだ慣れずに、外へ出るときは着るものにも気を遣っています。
毎朝、目覚めた時に眺めている教会の屋根の上には、この頃は毎日のように枯れ葉が固まって、風に飛ばされないようにしがみついているように見える場所もありますが、皆さんの住まいの周辺は、どんな秋に包まれているでしょうか?

さて、今週の福音は、先週に引き続く箇所が朗読されましたが、皆さんは覚えていますか?「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお話がありました。イエスの回答でサドカイ派の人々が納税問題の質問で失敗したかのようなお話になっています。今度はファリサイ派の人々も一緒に集まって、またイエスに質問するという、そのような内容の福音でした。
今日の福音の中では、聖書で最も大切な掟は何なのか?という質問がされています。「主を愛しなさい」という愛の掟。私たちはどのように聞いたでしょうか?まさに、そうでなければならないと心に留めたことと思いますが、先週からイエスに対立するグループの名前が次から次に出てきています。思い起こしてみますと、”納税問題””復活について””掟について”と聖書は日曜日ごとに語ってきますけれど、そのような質問をする人々は、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、律法学者たち、と様々なグループが登場してきます。そもそも同じユダヤの信仰を持つグループではありますけれど、相容れない主張を持ってるグループのようです。しかし、それぞれ主張を異にしていても、イエスを罠にかけ、陥れるためならば、自分たちの派閥を超えて協力をするというのは、つい先日行われた総選挙の政治の世界と同じようなことが、2000年前の宗教の世界でも行われていたように私は考えてしまいます。
「愛の掟」に関する質問に対してイエスは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えました。これはユダヤ教の熱心な信仰を生きている人々にとっては、誰もがしっかりと心に留めている聖書のことば、神の教えでもありました。ですから反論の余地のない答えをイエスは話されたということで、誰もがそれは何よりも大切なことと思っていることを聖書からしっかりと根拠を示して語られています。
その答えは、旧約聖書の申命記の中に書かれてあることでした。ユダヤ人なら誰でも知っていた、ましてやファリサイ派の人々ならばなおのこと、細かな掟の管理をしっかりと指導する人々ですから、当然彼らは十分その答えを心に留めていました。ですから、イエスの答えは完璧であり、反論の余地もなかった。当時言われていることは、ユダヤの人々はいつもこの神の言葉を心に留めて、祈りの中に繰り返していたそうです。朝夕2回、信仰告白とともに必ず唱えていた神の言葉でもあったそうです。この神の言葉は、ユダヤ人にとって先祖の民の救いの体験として、エジプトから解放され導かれたことを示す神の言葉でもありました。神はイスラエルの民と約束したことをいつも守り導く、そのような中で神の恵みが自分たちの元にあった。自分たちはその神を大切にしなければならない。神から言われるから守るのではなくて、先祖が神から救っていただいて今自分たちは神の恵みのうちに生きているのだ。今生きているのもその恵みが及んでいるからだ。だから神を愛することは当然です。神の教えは守らなければならない。このような信仰を生きていたのがイスラエルの民、ユダヤの民であったということです。生かされ、導かれているという神への感謝そのものは、愛することという形で彼らの生活があったということだと思います。
「神を愛しなさい。それが第一の掟である」付け加えるならば「隣人をも愛しなさい」それはイエスが、弟子たちをとおして示されるそういう愛でもあり、隣人愛でもあったと思います。神への愛と隣人への愛は別々の掟として捉えられていたと言われますが、イエス・キリストはそれを一つの掟として取り扱って、弟子たちとともに歩まれた方です。ですからイエスは最終的にはこのような言葉で弟子たちに愛について教えています。「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」自分を愛するように隣人を愛するのも大事なことだけれども、自分を中心として愛するよりも、私が愛したように、私が模範として示したように、あなた方も愛し合いなさい。これが最終的なイエスからのメッセージになっていました。イエス自らが示した愛を見つめること、それが私たちの愛の掟ではないでしょうか。

イエスを見つめ、イエスに触れて過ごした弟子たちにとって、自分の上に注がれている神の愛の自覚、イエスの愛の実感こそ自分たちの愛の実践を担う力となっていたはずです。ですから、私たちも神から愛されているという実感を大切にしなければならないと思います。神から愛されている実感がなければ、自分だけの愛、形だけの愛に留まってしまうことになると思います。自分が愛された、救われた、力をもらった、そのような実感があって、私たちは周りの人にも隣人にもその愛を活かすことが出来るような気がします。
愛は大切であると信じる私たちにとって、私が示す愛、自分が示す愛は、本当に友人や隣人のためになっているのかどうか、少し考えてみなけらばならない時があるようです。時々やり過ぎてしまう、いき過ぎてしまう、愛を押し付けてしまうことも有り得るような気がします。自分はこうした、こうしてあげた、こうすべきだと思ってやっていることが、もしかすると余計なお世話になってしまうこともないわけではない、と思います。ですから、愛は素晴らしいけれども、本当に隣人に受け留めていただき感謝されるためには、自分だけの思いで自分の愛を生きるということには、少し慎重になることも必要かもしれません。時々私たちの人間関係の中で、「親切にして下さるけれどもちょっと負担になる」という人の声も聞くことがあります。大事にされるのはうれしいこと、とても素晴らしいし有り難いことだけれど、ちょっと放っておいて欲しい、そっとしておいて欲しい、という心境のときも人それぞれにあります。よくよく考えながら愛を実践するということはとても大切なことのような気がします。

今私たちが持っている愛の原動力はどこから来ているのでしょうか?皆さんの愛はどこから来ているでしょうか?そのようなことも考えながら、今日私たちが聞いたみことばを黙想しながら、「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」というイエスのことばをよく心に留めて、また新しい出発にしたいと思います。』

2017年10月22日日曜日

年間第29主日 「ブラジル・マリンガ教区ご一行が来教」

今朝、ブラジル・マリンガ教区のアヌアル・バチスチ大司教をはじめ、二人の日系人神父様、十数名の信徒の皆様ご一行が教会を訪問され、一緒に主日ミサを捧げました。

マリンガ教区と札幌教区は、2001年に帰天された田中亮 師はじめ数名の教区司祭が宣教師として布教されるなど、深いつながりがあります。
今回の来札は、田中師のご親族との対面、当地で田中師らが尽力したザビエル学園建設に対する感謝の意を伝えるための表敬訪問とのことです。

勝谷司教様、後藤神父様、そして、バチスチ大司教、二人の日系人神父様との共同司式により主日ミサが捧げられました。




この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日の福音書を理解するためには、その前提となる背景を少し説明する必要があります。 何度も聴いて承知の方もあられると思いますが、簡単に解説します。 
 イエス様のところに行って、税金を納めるべきか、あるいは納めてはならないのかという 論争。どこからきているかというと、ユダヤ人にとって唯一の王は、「神のみ」という考え方をしていました。ですから、神がこの世を治めておられる。税金を納めるのも神のもの。ですから彼らは重い税であっても、神殿に対して税を納めることはいといませんでした。しかし、ローマ皇帝に税を納めるということは、当時のローマ皇帝は神格化されていました。そして、その銀貨に刻まれた肖像は神として(のもの。)ですから、皇帝に税金を納めるということは偶像崇拝にも等しいことである。律法で神学的な対策をしていたのは、ファリサイ派の人々です。一方、ヘロデ派の人々は、ローマによって打ち立てられた「かいらい政権」を指示する 人たちです。当然彼らはローマ帝国に税金を納めることを奨励していました。ですから、本来はヘロデ派の人たちとファリサイ派の人たちは、まったくあわない人たちなのです。ところが、イエス様を陥れようとする策略のために、このときは協力し合っていたのです。そして、慇懃(いんぎん)無礼なイエス様を讃えるようなことを言って、これは中途半端な答えは赦さないぞと、「税金を納めるべきか、納めるべきではないか」と問い詰めるのです。
  どちらの答えをしてもイエス様は窮地に追い込められるという巧妙な質問です。税金を納めよと言えば、これは神に反する、律法に触れることとしてファリサイ派の人たちから攻撃されます。納めなくても良いと言えば、ヘロデ派の人たちから、ローマに対する反逆者として、また糾弾されるわけです。どちらの答えをとったとしてもこれはまずい答えになるわけです。
 これに対してイエス様の答えは、デナリオン銀貨に刻まれている肖像を見せながら、「この肖像と銘は誰の者か。」と聞くわけです。「皇帝のものです」。実はファリサイ派の人たちは、神学的には納めてはならないと主張しながらも、実際は納めざるを得なかったわけです。皇帝の銀貨も流通し、本来は神殿の中では使われてはならないはずの銀貨も流通していたところは、これは彼らが建前を主張しても、現実にはそうではないということを物語っています。彼らの中に既に多くの矛盾を抱えていたんですが、イエス様は彼らの矛盾を良く承知した上で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」。
  これはどういう意味か、短い言葉でいろいろ解釈されています。一般的に多く解釈されているのは、いわゆる宗教と政治は分離して考えるべきだという「政教分離」の考え方。イエス様こういうふうに解釈していたという方が多かった。しかし、実際この時代は「政教分離」という概念さえもありません。この地上におけるすべてのことは、神と政治が結びついたものです。分けることは出来ないと言う考え方です。たしかにイエス様は、政治的に関わった発言はなさっていませんが、結果的に十字架にかけられた罪状は、政治犯としての罪状だったのです。この政教分離という考え方は、実は近世になってからの考え方で、特に教会というものが非常に世俗的な権力を強く持つようになって、その反省から宗教と政治は分離されるべきだと考えられるようになりました。しかし、ここで大きな誤解が起こりました。つまり、宗教的に生きる者、信仰を持って生きる者はいっさい政治にかかわってはならないということでした。しかし、本来の「政教分離」という意味は、特に第二バチカン公会議以降のいろいろな文書の中で、むしろ政治に関わることは信徒の義務だと、現代世界憲章に宣言されています。
 政教分離は何を意味するかというと、ある特定の宗教団体が権力と結びついて、国家的な権力を行使するものになってはならない。あるいは、特定の権力から利益を受けて、そういう権益を得、利益を得るようなものになってははなならいということです。そしてむしろ、信徒はその信仰の信念にしたがってこの世の政治に関与することは、宗教の義務であると唄われています。そして、教会に対しては政治に対して福音的な観点から、それに反するものに対しては、むしろそれに対してはっきりとした意見を述べる義務があると言われています。そう言った意味で、私たちが「政教分離」といった意味を考えたときに、そこをきちんと分けて考えなければなりません。

  話しが少し横道にそれましたが、奇しくも今日は総選挙の日です。わたしたちが政治的に関わるチャンスの時、特に大切な日です。天候がどうなるか分かりませんが、それぞれの信念で国民としての権利を行使する、放棄することのないように。選挙に行って欲しい。
 さてまた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」にもどりますが、皇帝のものとは世俗の象徴ですね。そして実際ファリサイ派の人は、建前上は納めないと言うけれど、権威の中で妥協しながら生きている、生きざるを得ないのがこの世の現実なのです。つまり、私たちもこの世俗の中にあって、たしかにお金なしでは生きて生けませんし、様々な世俗的なものに囲まれて、それに頼っていかなければならないのが現状です。それを排除して生きるとすれば観想修道会に行かなければならないと思うのです。それは世俗の者は、世俗の中で生きなければならない現実を認めながらも、「神のものは神に」。いったいこれは何を意味しているのか。世俗の中に生きながらも、譲ってはならない大切な場所。 
 神のために生きることは、それはとりもなおさず愛に生きるということですが、わたしたちが本当にお金や権力、地位など世俗のものに惑わされて、神のものをないがしろにすることにないように。むしろ場合によっては神のものを大切にするために、この世俗のものを捨てるような、あるいは優先させる世俗のものよりも神のものを優先させるという、それが求められている。
 今、私たち一人ひとりにとって、このここで問われている「神のものは神に返せ」。いったい、これは何を言われているのか、本当に神のものを大切にする生き方を選ぼうとしているのか。私たち一人ひとりに具体的な生き方。世俗の中で生きている私たちに問われている、大きな問いだということが言えると思います。』


御ミサのあとカテドラルホールで、先日、黙想会講師で来教された小田武彦神父様のDVD「キリスト教の死生観と病者の塗油の秘跡」を視聴し、死者の月を控えての勉強会が行われました。


2017年10月15日日曜日

年間第28主日 「婚宴のたとえ」

神は全ての人を招いておられますが、その招きに応えられるかどうかは私たち次第です。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週のミサ後に朗読の研修会を行いました。私が想像していたよりも大勢の方が参加して学びの時間を持ちました。そのせいではないと思いますが、今日の朗読を聞いていて、とても落ち着いて聞きやすい朗読でした。聞いている皆さんも心の中にまで届くようなみ言葉に耳を傾けられたのではないでしょうか。

先週は久し振りに、教区の神学生養成担当者として神学校の会議で東京に出かけました。神学校までは吉祥寺駅から歩いて40分ほどの距離で昔はよく歩いて行ったものですが、今は無理なので駅からバスで向かいました。そのバスの中でとてもよい”招き”の体験をしましたのでお話します。私はバスに乗って吊革に捕まって立っていたのですが、目の前に制服を着た小学生の女の子が読書をしながら座っていました。ふと目を上げたその女の子は立っている私に気付くとすっと立ち上がって「お座りになりませんか?」と声をかけてくれたのです。人の善意に出会え、私にとっては爽やかな気持ちのよい一日になりました。
今日の聖書のお話ではないですけれど、神様から贈り物をいただいたようなそんな気分の一日となりました。ふと、気付いたのですが、もしかしたら私にとって初めて席を譲られる体験だったのではないのかなと思いました(会衆笑い)。最近、私は高齢者のお話をよくしますが、私自身が高齢者になった証のような体験でもあり、このような親切に出会えそれを素直に受け取れたということは、年を重ねることもいいことなのかなとも思えるようなことでした。

さて、今日はぶどう園を舞台にした話の続きでした。3週間続いたぶどう園の話は今日が最後になります。最初は「二人の息子」の話でした。そして先週は「悪い農夫たち」です。そして今日は三部作の最後のような例え話で「婚宴」のお話でした。
これまで、律法学者や祭司長、長老たちにイエスが話しているように「ことばでは賞賛し、口先では立派なことを言っているが、彼らは神への信頼に欠け、その教えを受け入れようとしない人たちである」という、イエスを拒絶し排除しようとし、自分のことだけを考えているという彼らへの批判があり、厳しい対立が見られるなか、選ばれた神の民の特権が取り上げられ、「神の国は異邦人や罪人を含む新しい民に与えられる」というメッセージがあります。
このたとえ話をとおして、神の民であるユダヤ人の罪と罰が語られます。「天の国」は「婚宴の場」と例えられ、王様は神、王子はイエス・キリストを表す形で、このたとえ話をみることができます。披露宴は天の国であり、神の国です。その神の国に招待されているのが神の民であるユダヤ人でした。
神はそのユダヤ人たちを婚宴に招きます。「食事の用意が出来ました」と、自分の持っている最も善いものを準備して王は招きます。神がそういう食事を用意してくださったのは「主の食卓」、すなわちミサとも重ね合わせることができます。私たちの信仰と救いのうえでミサは大切なものであります。でも私たちはいつもこの救いの場となるミサを最も大切にできているでしょうか?そのような問い掛けも聞こえてくるような気がします。ほとんどの人は主日のミサを大切にして教会に足を運び、ご聖体をいただいて新しい一週間に向っていきます。でも時々そのミサに与れない与らない人たちもいるような気がします。それは自分を優先する場合にそうなってしまうことがあるでしょう。天のことよりも地上のこと、私たちが生きている世界のことを優先せざるを得ない、そのような事情がある人もたくさんいるというのは私たちの現実だと思います。しかし、時にそのことを承知のうえで怠けて、神の招きに応えないという心で足を運ばないこともあるかもしれません。もしそういうことであれば、聖書にあるように、やがて裁きとなって下るということが語られます。
聖書のこの婚宴の話のなかでは、神の民であるはずのユダヤ人が招かれたけれど拒絶したため、神の招きは新しい民へと変わっていきそうです。そして新しい民というのは、信仰を持つ者だけではない、信仰を持っていない人にも招きがある、それは異邦人であるかもしれません。さらに良い人・悪い人に関係なく招かれるというのも聖書で語られます。神の招きは全ての人へ普遍的に拡がっているということが語られています。資格のある・なし、私たちは時々、洗礼を受けていますか?ということを強調して話してしまいますが、洗礼を受けていても受けていなくても神の招きはいつも一人一人に注がれているということを大切にしなければならないと思います。
私たち一人一人は本当にその招きに応えようとしているでしょうか?この地上の生活が優先してしまう時に、自分の思い、自分を捨てることの難しさを誰もが感じていると思います。神様に応えたいけれども残念ながら今日はその時は応えられない、そのような事情も持ち合わせているということもよくあるのではないでしょうか。そうは言っても、時にどんな事情があるにせよ、家族の一人がもし怪我をしたり亡くなったりしたら、そっちに向うことが出来ているはずです。そのような選択は誰でもがするはずなのに残念ながら、教会のミサに対しては、そのような決断が出来ないというのが現実でしょう。神の教えや神からの呼びかけよりも、もしかすると、人から憎まれたり悪口を言われたりすることの方を恐れて、そのような選択をすることもあるかのような気がします。
しかし、自分の立場を優先ばかりしていては、神の招待さえも拒否し続けることになってしまいそうです。「いのちに至る道は狭い」と聖書言われていますが、捨てるべきものを捨てなければ、神の国に入ることは難しいのだということを心に留めておきたいと思います。

さて聖書の話では婚宴が始まって王が入ってきます。するとその王は一人の人に目を向けて「礼服を着けないでここに入ってきたのか?」と言いました。この一言を私たちはどう理解したでしょうか?きっと皆さんはこの言葉はどういう意味なんだろう?私たちはどんな礼服を着けて御ミサに来なければならないか、というところに繋がっていくのではないでしょうか。
私たちは、ふさわしい礼服を着けて、いま、主の食卓に与ろうとしているのでしょうか?聖書の中に「イエス・キリストを着なさい」ということばがあり、洗礼の時には「あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました」ということばが伝わっています。洗礼の時は「白衣を受ける」ということばが使われていますが、私たちにとって礼服とはどんなものでしょうか?少し思い巡らしてみてください。
少し安心してもらうために、聖書の旧約時代にあった話をします。旧約時代に遡るとこんな習慣があったそうです。祝宴があるときは、王宮で王から与えられる歓迎の着物があったそうです。ですから今日の福音に照らし合わせてそのことを考えてみますと、突然道端で招きを受けたのですから、婚宴にふさわしい服など持っている人はほとんどおらず、礼服を着ることなど当然難しかったはずです。でも昔の習慣では、招かれた人は王宮に入っていく時に衣服が与えられたので、その衣服を着て入ることができるとすれば、それほど心配せずに突然の招待も受けられたはずです。ところが一人だけ礼服を身に着けていない人がいたというのが今日の聖書のお話です。少し理解できたと思います。
それでは、今の私たちにとって考えなければならない礼服とは?
パウロの表現によりますと、「キリストを着ること」ということで礼服について話をされていることがあります。それは「新しい人を着る」ということでもあるというのです。
「礼服」とは、「キリストを信じることであり、神を信頼し信じる心を持つこと」それが神から与えられた礼服を着るということです。これは、信じることなく、救いに与ろうとするものではない、ということを言っていると思います。神を信じることから救いが始まるということです。
ですから、ふさわしい礼服とは、真実の信仰を求め、それを生きようとする心構えといえると思います。神の恵みの席に今連なっている私たちですが、それが形だけではなく、神との真実な交わり出会いとあるよう願い祈ることが求められています。
地上の現実にすべてを奪われている人の心には、神の呼びかけやイエスの呼びかけも響かないと思います。神が今、私たちを招いて下さる。その答えは、私たちの信仰の問題になってくるということ。今日の婚宴のたとえをとおして、私たちが着ける礼服はどうなっているのか、ということをメッセージとして受け止めたいと思います。
そして、私たちが本当に神の国に繋がって、私たちの道が歩めるように今日もまた主の祭壇の前で一致して祈りたいと思います。』

2017年10月9日月曜日

年間第27主日 「ぶどう園と農夫」のたとえ

香部屋の蔦も色付きはじめ、秋を感じるようになりました。


この日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、主人からゆだねられ管理をまかされたものを、感謝することなく当然のように感じ、自分の所有物だと思い込む。現代に生きる私たちにもつながる教えです。
やがては、神のみことばを聞いてもそれを行わない者からは、神の国は取り上げられてしまいます。

この日の後藤神父様のお説教は、ブログの最後に掲載しています。


主日ミサの後、聖堂で典礼部主催による「聖書朗読のための勉強会」が行われました。


参加者からは、朗読に際しての細かい所作などについて、たくさんの質問がありました。
奉仕に当たっての心配事が解消され、朗読に専念できる助けになったのではないでしょうか。
ただ読むのではなく「神のみことばを宣べ伝える」ために心がけなければならないことを学びました。それはそれでとても大切なことですが、身構える余り緊張しすぎないようにも気を付けましょう。

後藤神父様のお説教

『今日、皆さんは福音のみ言葉をどのように聴いていたでしょうか。そして、どのように受けとめているでしょうか。もう一つの話しを聞きなさいと呼びかけて今日の福音は始まっています。すでに皆さんはもう一つの話しを聞いたということを前提に、今日の話しは語られています。もう一つの話しは先週聞いているお話になります。先週のお話しを思いおこさなければ、今日のお話しは少し難しいかもしれません。
 今日のみ言葉では、第一朗読のユダヤの預言を彷彿とさせるものがあります。ユダヤの預言もぶどう園のお話しです。もう三周間も日曜日の話しは、ぶどう園の話しが舞台になっています。一生懸命働いても地主、主人だけが良いおもいをしていることに腹をたてている小作人たち。主人の財産を自分たちのものにしようとした、ぶどう園で働く悪い小作人の話しが今日の舞台で語られてています。先週のたとえと違って、今日のお話しはどの福音にも語られているものです。マルコ福音書でも、ルカ福音書でも同じような話しが語られているのです。でも、まったく同じではありません。内容のほとんど同じですが、細かい点でちがった物語になっています。ですから、比較すると興味深い点にぶちあたります。いずれも先週と同じように、イエスが祭司長や民の長老たちに向けて呼びかけ、もう一つの話しを聞きなさいと始まるわけです。もう一つの話しを皆さんは思い出していると思います。二人の息子のお話がありました。仕事を頼まれたお兄さんは「いや。」と答えたのです。同じように仕事を頼まれた弟は「はい。」と答えました。ところが、それぞれ後の行動は返事とは違った行動になっています。どちらが正しいと思うのかが先週のお話しでした。仕事を頼まれたとき「はい。」と答えたが、それをあやふやにして果たさなかった人。「いや。」と答えたが、よくよく考えると申し訳ないと考え、その仕事に忠実に果たそうと努力した人。これが先週の話しでした。
 今日の話しでも、ぶどう園の主人は父である神様を指しています。そして最後に送った主人の息子は、もしかするとイエスを表していると思います。私たちが聖書を通して学んでいる、理解している、父が送ったイエスが十字架に架かって亡くなったという話しに繋がってくる、このぶどう園の話しになります。ぶどうの実りを小作人に要求する権利を持っているのは主人、地主です。その当然の権利を働く人にお願いしているけれども、時代も時代、今の時代もそういう思いを持つ人はたくさんいると思いますが、時代を良く考えながらこの物語を味わう必要があります。
  今日の第一朗読のイザヤの預言は、イスラエルの不信仰を恐れるために物語っているが、話しはぶどうの収穫を拒む農夫たち、その悪意がいっそう強調されて話されています。先ほどほかの福音書でも同じ内容があると話しました。主人から派遣される僕の人数やその回数もそれぞれの福音で少し違ってきます。そういう点では比較すると面白いと思います。マタイ福音書では農夫たちの反抗の凄まじさ、悪意がはっきりと描かれました。最後に主人は自分の息子をぶどう園に送っていますが、ここでもマルコ福音書では、まだ一人の息子を持っていた。彼の最愛の息子である。こういう表現をとっています。それがイエス自身であることを強調した表現がとられた。マタイ福音書の方では表現が違います。彼は自分の子を遣わしたと、こういう表現だけです。最愛の息子を送るということ、自分の息子を遣わすということ。こういうところも違った表現があります。
  いずれにせよ、イエスはこのたとえ話しの結論を人々に質問しています。先週も弟と兄の返事に対して正しいのはどちらかと言う形で最後イエスは質問して、それぞれ考えさせる、そういう教えを展開していた。今日の話しも同じようです。結果的にあなたがたはどう考えるのかということを問いかけます。ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするだろうか。人々がそれに答えて、その答えをイエスは認めます。答えは正しいのですが、先週と同じように口では立派な答えが出来て居るはずなのに、実行が伴わないことがある。それがきっと私たち一人ひとりが、はっきりとしっかりと考えていかなければならないテーマになっています。口では正しいことを話していても、それをしっかりと行動に移すことが出来ているかどうか、そのことも問われているのだということ。
 特に今日のお話しの背景には、当時の指導者である長老や祭司長たち。彼らは律法にも聖書にも通じていて信仰の指導者です。正しいことを人々に教え、神の教えを大切にしようと指導的な立場からいつも話されている人たちです。でも、話し方、教えは素晴らしいけれども、彼ら自身はどうであったのか。そんなことが私たちに語られます。イエスのこうしたたとえ話を当然、祭司長や長老たちは聞いています。そして、一言でも間違った言い方をしたならば、イエスを何とか窮地に立たせたいと願っているのが祭司長や長老たち。一言でさえもイエスの言葉を聞き逃すまいと構えています。イザヤの預言で言われたように、イスラエルの不信仰があったように、宗教の教えをある意味導いている祭司長や民の長老たちも、神の国は取り上げられてしまう、そういうおこない生き方をしている。
 私たちはどうですか?神の国を願い、私たちも祈りを一生懸命捧げます。私たちの信仰、祈りと行動は一つになっているでしょうか。パウロの第2朗読の言葉も、大切な言葉が私たちに告げられています。共同体の中にある私たちの目指す心が触れられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事に付け感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。それは慈しみ深い、憐れみ深い心があるなら、心をあわせて心を一つにして祈りなさい。自分のことだけではなくて、共同体の一人ひとりを思いやって、互いにこころがけて歩みなさい。そういうことだと思います。

  私たちは今日の聖書のみ言葉から、もう一度どんなことを心に留めるべきでしょうか。イエスは最後に言われます。私から学んだこと受けたこと、私について聞いたこと見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方とともにおられる。み言葉である神は、耳を傾ける私たちにも祈りが実を結び、その実りを大切にしなさいということを教えます。
 今日もう一度、聖書のみ言葉を味わい、わたしたちが理解したことを、わたしたちの生活、行動の中でそれが実りを結ぶことが出来るように。そのことを願いながら、今日のミサに入りたいと思います。』

2017年10月4日水曜日

10月2日(月)「守護の天使」の記念ミサ

この日は、カトリック北1条教会の聖堂名となっている「守護の天使」の記念日でした。
午後6時30分から記念ミサが行われました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は守護の天使の記念日。私たちの信仰の中心、私たち共同体の祈りの中心となるこの教会を守り導く保護者として、私たちの教会は「守護の天使」に奉献されました。この守護の天使に奉献されたこの教会は、もうすでに100年を超える教会になっていますが、今日このミサをとおして、私はこの教会の創立にあたった先人たち、そしてこの教会を守り築いてくださった先人たちのためにも祈りを捧げたいと思います。
  私たちは普段どのように守護の天使のことを考えているでしょうか、思い巡らしているでしょうか。それほど守護の天使に心を向けることはないかもしれませんが、今日は特に守護の天使に心を向けて祈りを捧げていきたいと思います。天使は私たちにとって身近な存在であると云えます。しかし、天使は霊的な存在であり、誰もが簡単に見ることができない存在として、私たちのもとに送られています。見えない霊的な存在であるけれども、天使が存在するという根拠は聖書にあります。聖書には創世記の最初から黙示録の最後まで、天使と悪魔に至様々な物語が述べられます。そして今日、私たちは先ほど聴いたマタイの福音のみ言葉の最後にも、小さき者を守り導く天使が天の父のみ顔をいつも仰いでいる。だから、小さき者を軽んじることのないようにと述べています。
 守護の天使を記念するのは私たちの教会ばかりではありません。10月2日は全世界の教会において、典礼の中でこの守護の天使を記念し祝っています。守護の天使を記念すること、それは人間には天から遣わされた守護の天使が、一人ひとり遣わされているのだ。また、いつくしみ深い神が天使を誓わして、私たちが神の国に入れるように守ってくださる。そのことを私たちは思いおこす記念日として、今日の守護の天使の祝日が定めらています。守護の天使の記念は16世紀にすでに教会で祝われていたことが分かっていますが、実際はそれよりずっと以前から様々な教会の中で天使を祝っています。教会の典礼には16世紀過ぎてから組み込まれていますが、現実的には初代教会から天使についての強い信心があったことを物語っています。聖書の中でも触れられます。聖書では使徒言行録の12章で、ヘロデ王がペトロを牢獄に閉じ込め、二本の鎖でつなガがれていだことが語られています。でも、牢獄につながれたペトロは天使によって奇跡的に助けられ、信者たちが集まっていた家に帰って来たと、そういうことが使徒言行録に語られています。

  霊的な存在である天使は私たちの目には見えませんが、天使は常に私たちを見て守っています。私たちの行動、善悪についてさえ常に目撃している。そして、天使は神の前でも証人であると教会は説明します。だとすれば私たちは常に天使と共に守られ、自分の人生を歩んでいる、生きていることだと思います。天使に付き添われ守られていると考えるなら、厳粛な思いも湧き上がってきます。マリア様も天使の表れによってお告げを聞き、御子の懐胎を知り天使の導きによって、常に御子を支え続けた信仰を生き抜かれた。そして、マリア様はこの世の最後には天使と共に天に昇られたと教会は宣言します。私たちの教会において、私たちの信仰において天使は常に身近な存在であることを今日、改めて心に深く留めておきたいと思います。

 先週9月29日は神の栄光を歌うガブリエル、ミカエル、ラファエルという三大天使を祝っていますが、守護の天使はさらに別の役割を担って、私たち自身の心から常に囁いています。私たちの良心の声をとおして守ろうとしています。私たちは導き、天使の囁き、良心の声にいつも従うことができるように、改めて心に誓いたいと思います。
  今日、ミサの始めの集会祈願の祈りを心に留めます。「あなたは天使を遣わして、私たちを守ってくださいます。私たちがいつも天使に守られ、永遠の喜びに入ることができますように。…」ミサの始めに私たちはこの集会祈願の中で祈りました。「守護の天使に向かう祈り」を、以前、説教の中でも触れたことがあります。その祈りの中にある言葉は慰めや力を私たちに注いでいます。文語体の祈りですが、その一節を紹介します。
「わが守護の天使、…
  苦しみに会うとも落胆することなく、
  幸運においても思いあがることなく、
  世俗とその精神に流さるることなく、
  貧しき人をないがしろにすることなく、
  主の御慈しみにより、御身にゆだねられたるわが一生が、
  すべて御身の喜びとなるよう、われを導き、
 われを励まし、われを強め給え。
 われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、
  清き御手(おんて)もてわれを支え、われを守り給え。」
とても素晴らしい祈りの言葉が連なっている「守護の天使に向かう祈り」です。あまりこの祈りに接してないかもしれませんが、この祈りも大切にし黙想しながら私たちの信仰を大切にしたいと思います。』

2017年10月1日日曜日

年間第26主日

今日のみことばは、先週に引き続き「ぶどう園」のお話でした。
神のみ旨・神の慈しみを実行することの大切さが語られます。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日は10月1日、「ロザリオの月」に入りました。
昼の長さはすでに11時間54分と12時間を切っており、秋から冬へと一歩一歩近づいています。つい先日、利尻富士にも雪が降ったそうですが、今朝のニュースでは大雪連峰の黒岳、旭岳でも初冠雪を記録したということが流れていました。

さて、今日のみ言葉は、よく私たちの日常にも起こっていることではないかと思います。返事はさっと「はい」と応えているけれど、それがうまくできないことが私たちの日常ではよくあることです。そのような内容が今日のお話でした。
先週から引き続いて、「ぶどう園」の話が続いています。先週の話を思い起こしてみてください。一日中、朝早くから働いた人、半日働いた人、遅れてきて一時間働いた人も、皆同じ報酬であった。そのような話を聞いたら、私たちは誰もが不公平ではないかと感じながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。しかし、聖書のメッセージはどういう視点で語っているのかということに気付かされると、すなわち、神様はどんな人にも愛と恵みを不公平なく注がれる方なのだと、そのような視点でみ言葉を黙想し味わうと、神のメッセージは如何に、私たち人間の心の中には自分中心の欲や妬みというものが潜んでいるかということを思い知らされる、そんな内容が先週のお話でした。神の思いよりも自分中心、人間の思いが先になってしまう私たち。私たちの心の狭さや妬みと、それに対して、神の愛の深さ大きさを表しているお話でした。
今日も同じ「ぶどう園」の話ですが、その内容は、神の国に入るためには神に立ち返る事、それはつまり悔い改め・回心が大切だということを教えています。今日のこのお話の背景には、イエスを何とかしてやり込めてやろうと思っている律法学者やファリサイ派の人たちがいることを考えなければなりません。そしてその人たちは、信仰にも聖書にも通じており社会的にも認められ尊敬されている人たちでした。イエスのこのお話は、そうした律法学者やファリサイ派の人たちへ向けても話されている内容です。
ファリサイ派の人たちから非難の的となっていた伝統を守らない人々が、回心をし洗礼を受けて、キリストと共に生きるようになった人々を長男に似せて話しています。また、掟を忠実に守っていたけれども肝心な時にはキリストを拒絶したり、神のみ旨を実行しない口先だけの人を次男に例えています。

キリストがたとえ話で強調するのは、神のみ旨、神の慈しみを実行することの大切さです。私たちも律法学者やファリサイ派の人たちのように、神の教え、神のみ旨を知っているということだけでなく、それだけで済ますものではなくて、いつも神のみ旨に心を向けて、反省し、回心し、悔い改めながら、さらに成長していくということを大切にするように、というのが今日のみ言葉です。
思い悩むことの多い私たちの日常生活、時には神に応えることがすぐに出来ずに戸惑ってしまう私たち。しかし、落ち着いて考える時が訪れたときには、神が示された道が見えてくるものだと思います。ですから慌てずにゆっくりと神に心を向けて、平和な心を取り戻して、新たな道に向って歩むことが求められます。
正しい道から、そして愛の心から離れたときには、神様に心の目を向けて、回心の恵みが求められます。私たちの信仰生活の中で、そのようなことがどのくらい大切にされているでしょうか。そのことに気付いているでしょうか。そのことを私たちはもう一度思い起こして今日のみ言葉を黙想したいと思います。

今日10月1日は、「幼きイエスのテレジア」の聖人記念日です。皆さんの中にもテレジアの洗礼名をいただいている方々がおられると思います。
テレジアは自分の使命を「わたしは神様の愛となりましょう」と宣言されたと伝えられています。15歳くらいの若さにおいて信仰の小さな道を歩んだといわれます。私たちもテレジアのように、自分に示された信仰の道、それは小さな道であるかもしれませんが、謙虚な心を持って、熱心な愛を持って、歩み続けたいと思います。』

2017年9月25日月曜日

年間第25主日 「ぶどう園の労働者」のたとえ

この日の主日ミサでは、マタイ福音書 第20章「ぶどう園の労働者」のたとえが朗読されました。

御ミサの後、7月に行われた「小田神父講演会の第一講話」のDVD視聴会が行われました。午後1時からは、札幌地区合同墓参が行われました。
先日の発生したメキシコ地震の緊急募金の呼びかけがありました。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『(説教の冒頭に後藤神父様は、先週開催された教区司祭黙想会の様子についてお話しされました。)
 それでは、今日、私たちに与えられた聖書のみ言葉を深めて参りましょう。
 ぶどう園で働く人たちの姿が思い描かれるみ言葉をさきほど聴きました。熱い日照りの中であれば、熱さに耐え、汗にまみれての労働はあたり前の時代だったと思います。そして、労働には相応しい報酬が当然あってしかるべきと私たちは考えています。ましてや朝から晩まで、自分に課せられた仕事をやり遂げて、その責任を果たしたとしたら、その報いを期待するのはだれもが当然考えることでしょう。でも、今日の聖書の話しは、そういう私たちの思い考えから少し違った展開をしています。聖書では夜明けから始まって働く人、そして修道院の日課にもあったように9時、12時、15時とそれぞれ3時間ごと区切られて語られています。そう計算すると最初の人は朝の6時から夕方6時まで12時間働いたことになる。そうすると夕方5時に来て働いた人は1時間しか働かなかったことが明らかになってます。12時間働いた人と、1時間しか働かなかった人の報酬が同じである。そこに気がつくと、私たちでも何となく、納得出来ない、エーッそれは許されるんですか、と私たちは現代的考えで思ってしまいます。不公平です。そんなふうに考えてしまいます。
 私たちの現代の社会でも正規雇用の職員とパート職員の働きと賃金の問題が良く新聞にも出て来ます。同じような仕事をしたときに、どうして大きな賃金の違いがあるのですか、と良く問題になっています。仕事の内容が違ったりすれば、ある意味で受け入れざるを得ないのでしょうが。仕事をやると言うことは いかにやり遂げ、その実行と責任が問われることですが、時には能力も判断されるひとつにあるような気がします。どんなにしても私たちは聖書の神の恵みの世界と、私たち人間的考え方とは随分違うことがはっきりと見いだせる、今日の聖書のたとえ話です。
  どこかで何となく不公平感がどうしても自分の心から消えない人について話をしてみます。私たちは永遠の救いを願って信仰も大切に生きています。教会のために、苦労して犠牲を捧げてがんばっておられる方はたくさんいます。しかし、人生の最後の最後に回心して洗礼を受けて亡くなられる話しを聞くときに、良かったですねと喜ばれる方もおられます。が、そんなことも許されるのですかという思いで話される方も少なくありません。○○泥棒と良く言います。それは最後の最後、洗礼の恵みを受けて亡くなられる方のことをいう言葉ですが、私たちの思いを代表している言葉のように思います。そんなことを考えると、若いときから洗礼の恵みを受けて一生懸命教会のために働いて来た人と、最後の最後、洗礼を受けて亡くなった方の神の恵みを考えると、今日の聖書の話しに少し繋がってくるような気がします。

 人生の長きにわたり信仰生活を送り、喜びや苦しみも主とともにあった。幼児洗礼の人はその恵みの特権にずっと与ってきたことを忘れてしまって、不平不満を言ってしまうようなことがあるような気がするのです。小さいときから信仰の恵みをいただいて、主と共にたくさんの恵みをいただいてきた人生がある。信仰の道があった。でも1時間しか働かない人に同じような神さまの恵みが注がれているとすれば、自分と比較して何となく不公平だなという思いがよぎってしまう。神の恵みは誰にもあると、そういうふうに考えると素晴らしいと思いながら、素直に喜べない瞬間が心の中に生じてしまう。神様の恵みは私たちが思う恵みとは違うということを私たちはもう一度、認識しておく必要があるのです。神様の恵みは遅れて来た人にも同じように与えられるんだ。神様の恵みはどんな人にも救いの恵みとして、常に招かれているものなんだ。私たちはやはりそのことを、ずっと心の奥に留めておかなければならないと思います。そのことを忘れてしまうと、遅れて来た人はそれに相応しい恵みで良いのではないかとか、もう少し私よりも少なくて良いはずですとか、そんな思いが心の中に芽生えてくるということではないでしょうか。
  神の憐れみに触れ一致する喜びを見て不公平を感じたり、その人たちに対する妬みの心も 今日の聖書の最後で触れらています。たとえ話の深い意味がここにあったようです。神様の憐れみと恵みは、私たちが主張する権利や利益中心の思いとは違うところにあるということ。妬む心はもしかすると「放蕩息子」のたとえ(ルカ福音書15章11~30節)にあったあのお兄さんの心に近いものが考えられないでしょうか。放蕩息子の話しを思い浮かべてください。放蕩息子と比べるとお兄さんは正義感も強くて、真面目で終日はずっとお父さんに仕えて働いていた人です。自分はこんなに長く真面目に働いていたのに一頭の小羊さえ貰えなかった。だけれども、遊びぼうけて財産を使い果たして、惨めな姿で帰ってきた弟のために、お父さんは喜んで迎え入れて子牛を準備した。そして、盛大な宴会までした。お兄さんは自分がそういう報いを受けたことがないという思いになって弟を妬みました。その宴会にも出席することを拒みました。私たちの難しい状態をパウロも今日の第二朗読で話しています。「恵みの世界と肉に留まるこの世の世界で板挟みになってしまう。」パウロは告白しています。わたしたちも神の恵みの大きさに感謝しているのですが、この世に捕らわれたときには、どうも妬みの心が起こってしまう。それが不平、不満につながってしまう。第一朗読のイザヤ書の言葉です。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり」と、神の思いを伝えています。

 慈しみ深い神はすべての人を例外なく限りなく救いの喜びに招き続けてくださっている方だということ。考えてみてください。わたしたちも度々失敗を犯しています。わたしたち自身もつまずき遅れてしまうことが何度も何度もあります。でも神様は遅れてきた私たちであっても。最初の人と同じように愛してくださっている神であるということに、私たちはもっともっと気付かなければなりません。どんな人をも救いに招かれる神。不公平のない神。その神を私たちが信じている神であること。そのことが私たちの大きな喜びのはずです。そのことを今日、改めて福音をとおして、気づかさせてくださったと思います。
 国際ディ、そして世界難民移住移動者の日、さらに今日は市内の合同墓参の日です。たくさんの意向が今日のミサの中に入っていきます。神の愛に感謝しながら、私たちの心を主の祭壇に捧げる事にいたしましょう。』

2017年9月18日月曜日

年間第24主日 「敬老の日の祈りと祝福」

今日のみことばで、イエスは私たちに赦しについて教えます。

ミサの中で、「敬老の日」を迎える先輩の方々へ祈りを捧げ、後藤神父様から祝福がありました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日のみ言葉は、罪と赦しがテーマとして語られます。
第一朗読(シラ書)では、「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。」と、罪と赦しについては、旧約時代から信仰に生きるものにとっては、大きなテーマということになると思います。
今日、イエスのみ言葉で「七の七十倍までも赦しなさい」と語られます。いかに赦すことが大切なのかということが、この数字からも理解できるかと思います。赦しの根源には、「憐れに思う」心があります。赦す心は、憐みの心に深く結びついています。聖書の中で説明されるその意味は、人間のはらわたから、内臓に由来して溢れてくる憐み、同情である赦しでなければならない、ということです。ですから口先だけ、言葉だけの赦しでは足りないということです。私たちも本当に心の底から人を思い、心を動かされて赦すという心にまで至らなければ、本当に赦すことにはならないのだと聖書では語られます。それは広い心を持って人を赦すという「七の七十倍」というとてつもない数字に深く結びついているということでもあると思います。頭や言葉では、私たちは十分にそのことを理解しているつもりですけれど、人の過ちを赦すどころか、時には非難し続けている自分がいます。復讐心を燃やし続けるような心が続いてしまうこともよくあるような気がします。聖書の中では、度々イエスの赦しの場面が語られますし、イエスの人を大切にするという教えの中でも赦しがあるということが語られています。

「敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい。」「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。」たとえ敵であっても復讐してはいけませんと教えられます。まさに今、北朝鮮の問題は世界中で考えなければならないことです。世界中の人たちが忍耐を強いられています。
信仰から考える赦しと、今の時代の直面する問題とどう繋がっていかなければならないかということも、私たちにとって大きなテーマになるような気がします。
神様は、善人にはもちろん、悪人でさえも受け入れ愛してくださる方。そのことを私たちはとてもうれしく思いますし、そこに慰めを見出します。そして、そこに救いもあるような気がします。神様がそうあるように、私たちも自分に害を与えた悪人にさえも慈しみの心を持って、「七の七十倍」まで広い心で赦し、そして受入れなさい。まさに私たちが主の祈りで唱える「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人を赦します。」という言葉を実践できるようにならないといけないと思います。
私たちは今日もまたミサの前で、回心の祈り、悔い改めの祈りを唱えてミサに入っています。その悔い改めの祈りの中には、「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を 犯しました。」と祈ります。皆さんはこの祈りを唱えたとき、どんな思いを持って、罪を赦してください、と祈りましたか?どんな言葉で罪を犯し、「どうか主よ赦してください。私はこのミサの中で御子であるイエス・キリストのからだをいただこうとしています。どうかふさわしい心でいただくことが出来ますように。どうか私の言葉による過ちを赦してください。」と、ふさわしく準備する祈りを捧げたでしょうか。どんな「行い」や「怠り」があって悔い改めようとしたでしょうか。そのようなことを具体的に考えると、きっと一日だけでも沢山の過ち、反省が起こってくるような気がします。
隣人や罪に対して、寛大な心で人と接しているだろうか、そんなことを考えなければと思います。
「七の七十倍」という数字に、私は驚いて今日の日を迎えました。私自身の個人的なことになりますが、「七の七十倍」という数字が、私に言われているような気がしています。9月7日に、私は誕生日を迎え古希で70歳を迎えました。偶然ですが、「7日に70歳を迎えた」ということに驚いています。今日の聖書のみ言葉は、私に語られていたのではないかと。私も7の70倍をゆうに超すほどの過ちを繰り返しながら70歳を迎え、赦しを願いながら歩み続ける人生が先に見えています。

今日の聖書のみ言葉(マタイ18章21~「1万タラントンの赦し」)では、莫大な借金を王の憐みによってゆるされた家来が、自分にわずかな借金のある仲間をゆるさなかったという内容でした。このたとえ話の家来は、どこか私たちに似ているのかもしれません。自分の罪には寛大でも、人の小さな罪に対しては、なかなか赦すことも、自分の心から消し去ることができない。それが私たちなのかもしれません。それだけに「赦す」ということをもう一度、心に留めなければと思います。

過去を水に流すこと、負債を帳消しにすること、赦しは愛の行為であり、憐みであり、そして恵みでもあるということ。赦しは、相手が何をしたかに関わらず、相手に対してされたことを心に留めないという決意が求められるということ。私たちの信仰生活の中で、愛と赦しは大切なテーマです。

さて、今日はもう一つ皆さんにお願いし、一緒に祈らなければならない日が来ました。明日は国民の祝日でもある「敬老の日」ですが、今日教会ではこのミサの中で、この敬老の日を迎えた先輩である人々と共に、祈りを捧げたいと思います。
生きると言うことは老いていくということでもありますが、老いるということをマイナスのイメージで考えてしまいがちです。神の恵みとして長寿を感謝し、いっそう元気に生きられることを願い、家族や子供達のために祈りを捧げることを喜んで受入れられたらと思います。教会を支え、私たちのために労苦を惜しんで働かれた長寿を迎えている人々を敬い、感謝して祈りましょう。』

2017年9月10日日曜日

年間第23主日  ー チャリティバザー「かてどらる祭」ー

今日は、北一条教会のチャリティバザー「かてどらる祭」の日でした。
好天にも恵まれ、大勢の皆さんがご来場しました。


この日の主日ミサは10時から、英語ミサと合同で行われ、勝谷司教様が司式されました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『(司教様は、まず英語でお話しをされ、その後、時間的なこともあり要約のみ日本語で説教されました。)
 私たち日本人は、面と向かって人にアドバイスを与えることは苦手でないかと思います。特に相手が神父、司教であるとなおさらのことだと思います。どちらかというと、直接その人のことを何か言うよりも、陰でみんなで何かを言って、その人の耳に入るのは回り回って、「こんなことを言ってる人がいるよ。」というような噂で耳に入ることが多いのです。これがいつのまにか、私たちの共同体を支配する妖怪のようなものになってしまうことは多々あります。ただ、どうでも良い小さな欠点をあげへつらって、みんなでとりたててどうこう言うのも必要無いことですが、重要なことに関しては、私たちはきちっとそれに直面する必要があるわけです。

  今日の福音書や朗読聖書の流れを見ると、過ちを犯した人を正す義務があるというふうに受けとめてしまいがちですが、果たしてそうでしょうか。私たちはおうおうに、間違っている人を見ると、集団でその人をやり玉にあげて対処してしまう傾向があります。しかし、多くの場合、その人は私たちの教会共同体を去ってしまう結果をもたらしてしまいます。ただ単に、複数の人数でその人を追い詰めることが求められているのではありません。むしろ、私たちが過ちを正すというときに、その人の救いのために何が出来るのかという観点で考えなければなりません。そう言った意味で今日の箇所は、過ちを犯した人をただ直す、忠告せよという意味ではなくて、むしろその人が私たちの共同体にとってかけがえのないメンバーであり、私たちと同じく救われることが大切です。
 ですから私たちの救いのために、私たちの共同体のために、今キリストが何を望んでいるのか、ということを識別するために、祈る必要があります。そして、それは共同体の祈りです。二人三人が共に祈るとき、私はその中にいると言うのはそのような意味です。
 共同体的な識別のセンスを私たちが持って、私たちが一人ひとりの救い対して責任を負っているのだと。そういう観点から私たちは互いに愛を持って忠告し合おうと、今日の福音は求めているのだと思います。』

御ミサの後、11時からチャリティバザーが始まりました。
オープニングは聖堂玄関前で、聖園幼稚園の子供たちの合唱と、司教様のギター弾き語りが披露されました。



やわらかい秋の日差しがそそぐ中、談笑の輪が拡がっていました。




2017年9月3日日曜日

9月3日(日)年間第22主日 「札幌地区使徒職大会」

9月3日(日)午前9:30から、札幌地区使徒職大会が藤学園講堂で行われました。


昨年12月から今年の4月にかけて受洗された80数名の方々が一人一人紹介されました。

レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会日本管区長)の講演「福者ユスト高山右近の霊性に学ぶ」が行われました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『昨年、私たちは教区100周年の年を閉じる式典を行いました。多くの未来に向けた提言がなされ、それに基づいて様々な取組が各地区地でなされていることを嬉しく思っています。昨年の提言では、司祭が減少し信徒も含めて高齢化する中で、建物としても、そして共同体としても、いかに教会を維持・発展していくことができるか、そういうことについての新しい発想や提言がなされました。引き続き、各地区で様々な努力をなされていることを嬉しく思っております。
  しかしながら、私たちの取組のスピードをはるかに超えた速さで現実も動いております。道北地区や北見地区、そして帯広地区では司祭が一人しかいません。函館地区でも多くの教会や施設、修道会を抱えながら、高齢の司祭を含む二人の司祭しか司牧に携わっていません。今までは考えられなかったことですが、道内各地の観想黙想会=トラピスチヌ修道会やカルメル修道会=でもミサが出来なくなっているのです。
  一方、札幌地区でいえば、司祭の減少は深刻な問題ですが、司祭の休暇や出張を除けば、地区内教会ではほとんどの信者が、毎週、主日のミサに与ることが出来る現状です。つまり、札幌地区内では、主日の司祭の数が足りているのです。確かに各教会に一人以上の司祭がいた時代と比べると大変な現象です。十分な司牧活動は昔のようには出来なくなっています。ミサに与ることが出来ると言っても、司祭が兼務している複数教会で、交互に主日ミサを行っているところが多くなっています。それでも現状を他の地区と比べると、大変恵まれていると言わざるを得ません。札幌地区の皆さんには、このことを理解していただき、今後近い将来、他地区との格差をなくすために、司祭の再配置を考える時に、協力してくださるようお願いいたします。

   また、青少年活動についていえば、昨年の報告では、新しい流れとしてミッションスクールを通しての活動がありました。夏冬2回行われているフィリピンボランティアとエクスポージャは相変わらずの人気ですが、参加者のほとんどがミッションスクールの生徒です。しかし、函館では、このミッションスクールの生徒を通して「地区高校生会」が作られ、小教区で活動をしています。旭川地区や北見地区でもこの函館地区の取組に習って、「函館モデル」としてミッションスクールと小教区教会との連携の取組を始めようとしています。
 札幌地区にはどこよりも多くの、そして規模の大きいミッションスクールがあります。青少年委員会の企画に多くの参加者がいても、その活動が小教区の活性化に繋がっていない現状を見るならば、ミッションスクールと地区教会との連携の可能性を是非模索していただきたいと切に願います。
  小教区を通しての青少年活動はかなり深刻です。先ほども加藤(神父)札幌地区長の話しにもありましたように、わたしの記憶するかぎりでは初めてのことだと思います。今年の高校生の夏季キャンプの申込みが一人もいなかったために企画が中止になりました。このままだと細々と続いている「春の錬成会」も開催できるかどうか危惧されます。
  とはいえ、明るい兆しもあります。今月16日から支笏湖で、全国の青年が集まる「ネットワーク・ミーティング」が開かれます。年に2回、全国か100名以上の青年が集まるイベントです。今回は札幌の青年たちが準備し開催します。この青年たちは、地区の小教区を基盤として動いていないので、教会内では目にぬきにくいのですが、熱心に活動をしています。この全国から集まる「ネットワーク・ミーティング」の運動体自体、教会の組織的な繋がりではなく、ネットワーク的な繋がりで集まるグループ、全国の若者たちです。彼らの中には、先日行われた「アジアユースディ」、「ワールド・ユースディに参加して、世界的な繋がりを持ち、この集まりを通してそれを共有しあっています。このような活動をどのようにして応援出来るのか、していけるのか。そして、それを教会の活性化にどう繋げるのか、私たちの意識しだいだと思っています。
 バチカンで行われる次回の世界代表司教会議(シノドス)のテーマは「若者・信仰・召命の識別」です。私が代表として参加することになっていますが、青年を育てることなくして、未来の教会はないという、この世界共通の危機感、これに真剣に対応していこうと今、世界の教会全体が取組を始めています。今までの常識と視点を転換して、求められる青少年支援の在り方も、是非、私たちは考えていかなければならないと思います。今日の午後、青年活動の報告もありますので、彼らと共に考えていただきたいと思います。

  今現在、私たちが思い描くことの出来る未来図は、悲観的な材料ばかりであることは確かです。今日の福音書のペトロの言葉のように「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、言いたくなるような現状です。これに対してキリストは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱咤されます。人間のことを考え、私たちが変わろうとする努力を放棄して、現状を嘆いているところからは何も生まれません。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)これは空腹の5千人を前にして打つ手をなくした弟子たちに対して、キリストが発した命令です。人のことを思うとき、不可能に思えることも、神のことを思って働くとき私たちの無力さを通して、神が働かれることを私たちは確信しています。
 そのために必要なことは、出来ないと思える心にこそ呼びかけられている主の招きに信頼して、私たちを賭けることです。まず、私たち一人ひとりが変わる必要があるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」そういう今日の言葉をよく考えてください。私たちは十字架の意味を、私たちの意図とは関係なく負わされる苦難や重荷として、受け身に捉え理解しがちです。しかしキリストは、「十字架を負わされる」とは言っていません。「自分で負え」と、言っておられるのです。自分で選び取って、自分の意志で負えと言うのです。

 キリストが担った十字架は、私たちへの愛のために、ご自分の命を捧げることを自ら敢えて選び取ったものです。「自分の十字架を負え」と言う意味は、あなたを愛する誰かのために、あるいは大切な何かのために、自分を捨て自分を捧げるという意味と解釈することができます。 望ましくない現状を嘆くのではなく、そこに示される希望の光を輝かさせるために、私たちを変えていくことが求められています。
 第二朗読のパウロの言葉です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるかを、わきまえるようになりなさい。」』

第21回 カテドラルコンサートのご案内

第21回 カテドラルコンサート 「トランペットとオルガンの響き」

大事なお知らせ:開演時間が午後3時00分から、下記の時間に変更になりました。お間違えのないようご注意ください。

2017年10月14日(土) 午後4時30分開演(開場午後4時00分)
カトリック北一条教会 聖堂で行われます。

当教会オルガニスト 大野敦子さんと、札響のトランペット奏者 前川和弘さんのジョイントコンサートになります。秋にふさわしい しっとりとした演奏をお楽しみください。

2017年8月27日日曜日

年間第21主日

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」というイエスの問い掛けに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロに、イエスは「天の国の鍵」を授けました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今朝6時頃、聖堂に入ってみると、壁に架けられている「十字架の道行」第12留のイエスが十字架上で息をひきとられるレリーフに、ちょうど朝日の光が当たっていて、とても良い光景に巡り合うことができました。そして、8時くらいにまた聖堂に入ってみると、光は祭壇の方に移動していて、ステンドガラスからの赤い光も交じって、とても温かくてきれいな光景でした。朝早く教会に来るとそのような恵みにも与れるかと思います。

さて、今日のみ言葉の舞台は先週に続いて、異教の地にイエスと弟子たちが出かけていた時の話です。異教の地であってもイエスの評判は人々の関心を呼び起こしており、イエスのことをまだよく知らない人たちによって、いろいろな噂が起こっていたようです。
それは、会ったことのない人や一度も話を聞いたこともない人が、イエスのことを「洗礼者ヨハネが生き返った」、旧約聖書に出てくるエリヤだとか、立派な予言者の一人ではないのか、などの様々な噂でした。私が驚くのは、みな過去の偉大な人の名前をイエスに結び付けて考えていたということは、やはりイエスはただならぬ人、ちょっと不思議な魅力のある人というように伝えられていたのではないかと思います。
「この人は何者なのか」という問いは、私たちも信仰の道を歩み始めたとき、そのような質問を心の中で問い掛けながらイエスについて学んでいたのではないでしょうか。聖書の中では最初のうち、正気を失った人とか、悪霊に憑かれた人とか、そのように言われていたイエスです。しかし時の流れとともに、今日の聖書の時代に入ってくると、そのような見方をする人は誰もいなくなり、徐々にイエスの真の姿が理解されるようになってきたということです。
しかし、イエスは自分と共に過ごしてきた弟子たちが、自分の本当の姿を理解しているのかと問いかけます。弟子たちは噂話をしていた人々とは違って、いつも直接イエスを見て触れています。何度も何度もその話に耳を傾け、奇跡を目の当たりにしていた弟子たちです。噂話をする人たちと、今一緒に歩んでいる弟子たちの私に対する見方はどうなんだろうか、イエスはそのことを確認するかのように「あなたがたはわたしを何者だと思うのか」と問いかけます。
その中で、弟子を代表するかのようにペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしています。この「生ける神の子です」という箇所は、共感福音書の中でもマタイ福音書にだけ書かれています。イエスの真の姿を理解しなければ言えない言葉がペトロによって荘厳に告白されたのです。この時、イエスはすぐに「あなたは幸いである」とペトロを賞賛します。これも他の福音書では書かれていないことです。
当時の人々は、苦しい状況の中で、政治的に救いと解放を望んでいた面もありましたが、ペトロだけは、そのような人々が期待しているようなメシアではなく、人類を罪から解放し永遠のいのちに導く方として「生ける神の子」と告白したのです。
イエスこそ、全ての人を父である神に導く方、道であり真理であり命なのだ。ペトロの信仰告白には、そのような思いも含まれているようです。
ヨハネ福音書には聖書を書く目的が記されいます(20:31)。その内容は、「これらのことをあらわしたのは、イエスが神の子であることを信じさせるためである」とあり、まさにペトロの信仰告白もその目的を叶えたかのような内容になっています。
神の子となる洗礼を受けた私たち、そしてそこから信仰の道を歩み始めています。その出発点にはペトロの信仰告白、信仰宣言があるのです。

マタイの福音では、他の福音に記されていない3つのことが加えられました。
1.すでに信仰によって神の国の幸せに与っているのはあなたである。あなたは幸せである。と、ペトロはイエスから直接、そのような言葉をいただきました。
2.新しい使命のしるしとして、教会を建てる礎となる「ペトロ」という新しい名前を与えられ、さらには天国の鍵を与えられました。
3.イエスが名指しでペトロだけに権能を授与しています。霊的な共同体である教会の最高責任者であることを示唆しました。
このようにして、マタイの福音書だけに特徴のある記述がされているのが今日の福音です。天国の鍵、それは現代の教皇様に与えられているものとして継承されています。その教皇様は、忙しく世界平和のために働かれていることは皆さんもご存知のとおりです。私たちは教皇様のためにも、私たちはもっと深く信頼を持って祈らなければと思います。

このように、今日はペトロの信仰告白を中心にみ言葉を考えてきましたが、ペトロは完璧で模範的な使徒の一人になったということではありませんでした。すぐにはペトロはこの信仰告白をそのまま生きた人ではなかったのです。この信仰告白の直後にもペトロは何度もイエスに注意される出来事を起こしています。サタン呼ばわりされるペトロも聖書には書かれています。どんなに立派であったとしても完全な人にはなれなかったペトロです。

十字架に向って歩むイエスの姿を思う時、私たちも戸惑いを感じながらイエスの姿を追いかけるのではないでしょうか。何故、神の子であり、救い主であり、そして奇跡を起こす力を持っているイエスが、こんなに辛い状況に置かれているのだろうか。こんなに残酷な酷い仕打ちを人々から受けているのだろうか。こんな人に私たちはついていっていいのだろうか。本当に神の子なんだろうか。様々な思い戸惑いが私たちの心の中でも湧き上がってくることはあるのではないでしょうか。
時には、イエスの教えを理解していると宣言しながら、平凡な現実の幸せを手放すことさえできない私たち。そのような弱さはきっとペトロにもあった人間の弱さではないでしょうか。ペトロもそのような弱さを持ちながら、失敗を繰り返しながら、強い信仰の人として宣教していきました。そのような信仰も恵みによって支えられているということではないでしょうか。
道であり、真理であり、命であるイエスの招かれる永遠の道を、私たちも見失うことなく信仰を歩みたいと思います。』

2017年8月20日日曜日

年間第20主日「カナンの女の信仰」

今日の福音朗読「カナンの女の信仰」から私たちは何を学ぶでしょう。


ミサの後、カテドラルホールで聖母被昇天のお祝い会がありました。

聖歌隊による讃美歌合唱

蓑島神学生から近況報告


手話を交えた聖歌合唱

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日の聖書の内容を理解するためには、当時の社会、時代の背景を少しでも理解しておくと、深まるのではと思います。今日のお話の中で特に、「子供もたちのパンを取って小犬にやってはいけない。」というところの話しですが、聖書と典礼の脚注にも説明が出ていますが、このことを少し理解しておくと、なるほどという理解になってくるような気がします。
 イエス様の時代。ユダヤ教の熱心な人々がたくさんいる時代です。    旧約の信仰をずっと受け継いで、その信仰を守るユダヤの人々。そういう中にイエス様は旧約の教えを完成するために、ユダヤの人々だけではなく、イスラエルの民ばかりではなく、すべての人が救われる。救うために私は来たと、新しい教えを展開して人々の注目を集めています。でもその時代、社会の熱心な人々はほかの異教徒の人と交わってはいけない。接してはいけない、言葉も交わすなというくらい、自分たちの信仰のみに熱心でした。そして、自分の信仰を第一に考える人が多い時代でしたから、異教の神、特に今日出てくるカナンの人々に対しても厳しい見方をしていたということです。だから、異教の人々がイエスの前に来て、何か願いごとをしたり、話しを聞いたり、そういう姿を見ているだけで、当時の人々は多分、弟子たちを含めて「何でこういう人たちが来たんだ?」とか、そういう思いで見ていたと思います。
  「この女を追い払ってください。」と言う弟子たちの声がここにも書かれていますが、そういう背景の中で、うさん臭い人たちも来た、そういう思いで話していたとも思います・

  そういうことを理解しながら、イエス様とカナンの女の人との関わりの話しが、今日の聖書の展開になります。愛する我が病気で苦しむ姿を見るのは、どの親にとってもそれは辛いことだと思います。子供が病気、悪霊にとりつかれている。そんなところでお母さんは、ひどく心を痛めています。何とかして、この子供の苦しみを救いたい、助けたい。そういう思いで「主よ助けてください。私を憐れんでください。」と叫び続けています。でもイエスはこのお母さんの願いを、その訴えを聞きながら、答えることなく沈黙したというのが、最初のお話しになっています。
 そして、イエスは「わたしは、イスラエルの家の迷える羊のところにしか遣われていない。」先ほどの内容がここに反映されていると思います。一見、私たちはこうしたイエスの言葉に目を留めると、「自分はあなたと関わりがない。」という冷たい答えに聞こえてきます。イエスの愛はいったいどこにいったのだろうか。愛を説かれていたイエスがこんな冷たい態度を異教の民の女性に対してとっているのは、ちょっと不思議に思いませんか。私たちの求めることや願いと、イエスがもたらそうとする世界は違っていたんだろうか。イエスがそんなに冷たい人とは思えない、私たちにとって何かイエスの意図がそこにあった。そういうふうに考えたくなります。

 私たちを新しい世界に、神の国が近づいたという世界に招きいれるために、イエスが遣わされていることを、私たちは忘れてはならない。そういう視点で私たちもまた、イエスの話しに耳を傾けなければならない。でも、落ち着いて考えるとそう思いますが、新しい世界に相応しい生活になかなか向かうことの出来ない、日常の生活をごく普通に送っているという、私たちではないでしょうか。
 イエスが説かれる世界、イエスが話される教えを守る世界、それよりも私たちが培ってきた伝統や習慣や虚栄心。私たちはイエスの教えよりも、自分たちの考えを優先して生活しているのが現実だと思っています。そこには私たちが大切にする昔からの言い伝えや習慣を守ること。そのことのほうが、イエスの教えよりも優先してしまうことがたくさんあるということだと思います。私は、時々、自分の中でも反芻することがあります。昔からこう言われている、こう守られてきたことだからそれを大事にして欲しい。私は親戚がたくさんいます。そういう中で、叔父さん叔母さんがたくさんいます。叔父さん叔母さんは大先輩にあたる年代の人ですから、叔父さん、叔母さんに言われると私もどこかで黙って聞いてしまうことになりますが、叔父さん叔母さんは昔の言い伝え、伝統、習慣というものをとても大切にする人が多いのです。昔からこうやっているんだよと言われると、そうなのかな、そうしなければいけないのかなと、無理やり納得して、それに従って私はずっと育ったような気もいたします。
 そのくらい私たちは昔の伝統とか、習慣とか、昔からそうなってるんだよと言われると抵抗できない。その正しさの根拠がはっきり分からないために、従ってしまうことがたくさんあるような気がします。それはいつから始まったのか。テレビのクイズの解説か何かに時代を遡って、いつごろかそういう習慣が始まったのか放送されることがあります。以外と、昔と言ってもそんな昔ではなくて、ついつい近代国家に入ってからの生まれた習慣がたくさんあることが気付かされます。日本の鎖国が解かれ、日本の国が近代化に向かう中、これまでの考え方や思想も国策、政策もまた大きく変化する日本が、新しく生まれ変わろうと発展していきます。そういう中で、生活の中でもいろいろな習慣が変化して変わっていく時代になりました。新しい生活習慣も生まれてきました。そうした時代の過去であっても、もっと古い時代からのことだと思って、そうしなければならないものだという思いになってしまう。根拠をしっかりと理解しない限りは、やはり大先輩の人から言われると、従うざるを得ないというのが若い者の宿命かもしれません。
 イエスの時代にもまた同じようなことがあったのではと私は考えます。イエスは旧約の律法から、 律法学者やファリサイ派の人たちが主張する掟を守ること、昔からの伝統、習慣が正しいわけではないと、神の教えと愛を説かれて、信仰を大切にする新しい世界に人々を解放するためにこの世に遣わされた。イエスはそのために教えを説かれて、人々の中に入っていかれた。でも、なかなか思うようにはいかなかった。イエスの前には、信仰宗教についてずっと学び続けてきた律法学者やファリサイ派の人々が、いつも目の前に立っています。彼らが伝える伝統、習慣や掟は、信仰を生きる上で守らなければならないこと。でも、みんながそれを守るならば、イエスが目指そうとするその目的とは、また違った生き方になってしまう。新しい教えを考えるよりも、やはり新しい教えを聞いても、掟が大事と言われてしまえば、みんなそっちの方がそうだろうなと理解してしまう。
  聖書の中にいくつかお話しがでてきます。食事の前に手を洗わなければ。そんな話しも、掟があって、食事の前には手を洗わなければならない。罪を犯すことになる習慣があります。宗教者はイエスに、何故あなたの弟子たちは手を洗わないで食事をするんですか。そんなことが許されて良いのですか。そんな話しをされている場面も語られています。戒めを守らない弟子たちを見て糾弾する律法学者たち。それはどういうことでしょうか。弟子たちは信仰を大切にしていたはずではないでしょうか。イエスの教えを聞いて、自分たちの信仰を見つめなおしていたはずでした。でも、律法学者たちの目から見ると、神を信じる信仰よりも、伝統や戒めが大事な彼らにとって、手を洗わない姿は罪を犯すことで糾弾になってしまう。

  そういう背景も少し心に留めながら、今日のイエスの、はじめに見せた姿。異邦人であるカナンの女性が心から神を信頼して助けを求めているのかを探っていたんだろうか。そんなふうにも私は最初考えています。「私を憐れんでください。」二度目には「主よどうかお助けください。」子供のために悩む苦しむ女性が必死に頼みます。
  今日の私たちが聴いた聖書の言葉を少しずつ見ていきますと、始めに「私を憐れんでください。」と、この女性はイエスに願っています。そして、その次には聖書では変わって「どうかお助けください。」憐れんでくださいとお助けくださいは、この場合似たような内容で話されているように感じます。でも、聖書で使うときには違いがあると言われています。どんな違いでしょうか。カナンの女がイエスの前に出て来て。女が出て来て話し始めています。「出て来る」と言う言葉にも私は注目しています。通常、遠くから来て必死になってお願いしなければならない女性は、イエスの前に立って頭を下げたでしょう。お願いを始めたでしょう。この時、聖書の言語学者の説明によると、「もし出来るなら私を憐れんでください」。そういうニュアンスでこの女性は最初にイエスに願っている、という説明があります。立ったままイエスの前でお願いします。「もし出来るならお願いします」「どうか憐れんでください」こういうニュアンスで最初話されたと記されています。
  ところが、次の言葉に注目していくと、その女性の態度が違っているのに少し気付くと思います。次にイエスの前に出て話した女性の言葉の最初に説明が出ています。女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よどうかお助けください。」。最初は来てすぐ立ったままで「できるならば、憐れんでください」と言った女の人は、イエスは沈黙して何も答えず、聞いてくれない状況をずっと見守りながら、今度はひれ伏してお願いしています。大きな違いがはっきりと見えてきます。最初はニュアンスとしては、出来るならばお願いしたいと言っていた女が、今度は地面にひれ伏して、きっと頭を地面につけてまでも、無我夢中でひたすらイエスに願ったのが見えてこないでしょうか。全面的な信頼、そしてへりくだる姿勢がこの女性を変えていきます。その心がイエスに届きます。屈辱的と思われるような地面にひれ伏す態度。私たちも聖書の情景ですが、そこまでしてイエスにお願いする母親の姿をみると、私たちも心がすごくそんな気になってしまいます。
  その後、小犬の話しが出てきて、イエスと言葉を交わす女性の姿があります。その小犬の話しは、先ほど背景として理解して欲しいことに繋がってきます。イスラエルの民は「子供たち」との表現は「自分たち」と考えていたと言われます。神の子供は自分たちイスラエルの民だけだ。祝福を受け契約を結んだのは、神の子として私たちが契約したイスラエルの民だけだ。だから救われるのはイスラエルの民だけだ。そういう思いが強い旧約の信仰をずっと受け継いで来ている人々です。イエスはそういう当時の社会背景を見て、神の民の加護を異邦人にあげてははいけない。こんな表現をとって聖書は語っています。今の時代の聖書の教え、神様の教えとは違ったかたちで表現されているわけです。
 でもこの女性は答えます。「小犬も主人の忠実な僕のようにして、食卓から落ちたパンをいただいております。」。今、私にとって主人はあなたしかいません。主であるあなたが私の主人なのです。ですからどうか助けてください。憐れんでください。私はあなた以外に頼るものはありません。こういう状況に入ってきています。イエスは厳しく冷たいかのように見えましたけれど、けっしてそうではなく、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」と、その女性を讃えます。そのイエスの言葉には、冷たさや厳しさではなく慈しみが溢れてきます。イエスは、魂の深みでしっかりと恵みを受けとめようと必死になっている、母親の信仰も見つめられました。厳しい態度をとりながらも、母親の真実な叫び、信仰の叫びを受けとめています。

 神の計画の中で、私たちには予想も出来ない試練を受けることが、人生の中で度々起こっています。良く私たちが思い浮かべるのは、大きな病気や苦しみ、悲しみがあります。何故、私はこんな大きな苦しみを負わなければいけないのでしょうか。何故こんな試練を私にだけ与えるんですか。そういう思いをすることは誰にもあると思います。何故ですか、神様? 厳しく問い詰めようとする祈りが生まれてきます。そのときはきっと、自分の苦しみから自分が救われることしか考えられなくなります。  
 でも信仰において考えて落ち着くと、それが神の目的であるならば、その試練が神のみ旨であるならば、私たちは神を信じる者として、受け取らなければならない。そういう気持ちも生まれてきます。きっと神様はこの苦しみを通して、その試練を通して良き計らいに私を導いてくれるでしょう。そうした希望に心を向けて、その苦しみに耐えようとします。この悲しみを受けとめようとします。けっして神を利用して、自分だけ、自分中心の楽しい生活を送るような信仰ではないはずです。神の目的がそこにあり、神のみ旨がそこにあるならば、それを受けとめなければならないというのが、私たちの信仰ではないでしょうか。
  聖書のお話しで二度目に、この女性は娘が悪霊にひどく苦しめられているとは言っていません。娘を助けてください、娘を治してください、癒してくださいという言い方は出てきていません。でも必ずしもそういう表現がないからと言って、この母親は自分だけの救いを考えたとは、私たちはきっと考えもしないと思います。どんな結果でも、あなたが与えてくださるなら、受け取る覚悟は出来ています。そういう思いで地面にひれ伏して、お願いしていると思います。立派な信仰だ。イエスが話されたのはそういう一人の女性の気持ちをしっかりと受けとめたからだと思います。

  私たちも自分の信仰をもう一度振り返ります。私はどうでしょう。私の信仰はどうなっていたでしょう。私の祈りは自分の目的のためにだけ、祈りをしていなかっただろうか。そんなことも考えながら今日のみ言葉を深く味わい、新しい1週間に向かいたいと思います。自分の思いがかなう祈りではなく、神のみ旨が私たちの間にゆきわたりますように。私たちは「主の祈り」を毎日のように唱えていると思います。その祈りの中には「神の御名が崇められますように」という祈りが出てきます。それはきっと、私たち一人ひとりのおごる心を乗り越えて、イエスの前に近づくことが出来るようにという信仰を表していると思います。告白していると思います。
 イエスとの信頼の心を揺るぎなくして、共に歩む私たちでありますように。今日もまた、主の祭壇の前に心を一つにして、イエスに近づいて行きましょう。』


2017年8月15日火曜日

聖母の被昇天 (終戦記念日)

午前10時から「聖母被昇天」の祭日を記念するミサが行われました。


引き続き、終戦記念日にあたり12時に鐘楼の鐘が鳴らされ、戦争犠牲者と平和のためにお祈りを捧げました。

この日の後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『今日の「聖母被昇天」の祭日にあたって改めて、マリアの存在と崇敬の意味を教会がどのように教えているのか振り返ってみたいと思います。
マリアは教会の数多くいる聖人の中でも特別な存在です。それは、神の母、すなわちキリストの母であり、贖い主の母として認められ、教会の母として讃えられているからです。
多くの人は「聖母被昇天」を迎えて、神様よりもマリア様に心を向けて祈っているように思うこともあるのですが、まず、神様があっての被昇天であることをしっかりと理解して祈ることは大事なことです。
アヴェマリアの祈りで「神の母、聖マリア、わたしたち罪人のために、いまも臨終の時も祈り給え」とあるように、マリア様の役割については、キリストの結びつきから切り離すことはできない救いのみ業につながっています。』