今日のみことばで、イエスは私たちに赦しについて教えます。
ミサの中で、「敬老の日」を迎える先輩の方々へ祈りを捧げ、後藤神父様から祝福がありました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のみ言葉は、罪と赦しがテーマとして語られます。
第一朗読(シラ書)では、「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。」と、罪と赦しについては、旧約時代から信仰に生きるものにとっては、大きなテーマということになると思います。
今日、イエスのみ言葉で「七の七十倍までも赦しなさい」と語られます。いかに赦すことが大切なのかということが、この数字からも理解できるかと思います。赦しの根源には、「憐れに思う」心があります。赦す心は、憐みの心に深く結びついています。聖書の中で説明されるその意味は、人間のはらわたから、内臓に由来して溢れてくる憐み、同情である赦しでなければならない、ということです。ですから口先だけ、言葉だけの赦しでは足りないということです。私たちも本当に心の底から人を思い、心を動かされて赦すという心にまで至らなければ、本当に赦すことにはならないのだと聖書では語られます。それは広い心を持って人を赦すという「七の七十倍」というとてつもない数字に深く結びついているということでもあると思います。頭や言葉では、私たちは十分にそのことを理解しているつもりですけれど、人の過ちを赦すどころか、時には非難し続けている自分がいます。復讐心を燃やし続けるような心が続いてしまうこともよくあるような気がします。聖書の中では、度々イエスの赦しの場面が語られますし、イエスの人を大切にするという教えの中でも赦しがあるということが語られています。
「敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい。」「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。」たとえ敵であっても復讐してはいけませんと教えられます。まさに今、北朝鮮の問題は世界中で考えなければならないことです。世界中の人たちが忍耐を強いられています。
信仰から考える赦しと、今の時代の直面する問題とどう繋がっていかなければならないかということも、私たちにとって大きなテーマになるような気がします。
神様は、善人にはもちろん、悪人でさえも受け入れ愛してくださる方。そのことを私たちはとてもうれしく思いますし、そこに慰めを見出します。そして、そこに救いもあるような気がします。神様がそうあるように、私たちも自分に害を与えた悪人にさえも慈しみの心を持って、「七の七十倍」まで広い心で赦し、そして受入れなさい。まさに私たちが主の祈りで唱える「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人を赦します。」という言葉を実践できるようにならないといけないと思います。
私たちは今日もまたミサの前で、回心の祈り、悔い改めの祈りを唱えてミサに入っています。その悔い改めの祈りの中には、「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を 犯しました。」と祈ります。皆さんはこの祈りを唱えたとき、どんな思いを持って、罪を赦してください、と祈りましたか?どんな言葉で罪を犯し、「どうか主よ赦してください。私はこのミサの中で御子であるイエス・キリストのからだをいただこうとしています。どうかふさわしい心でいただくことが出来ますように。どうか私の言葉による過ちを赦してください。」と、ふさわしく準備する祈りを捧げたでしょうか。どんな「行い」や「怠り」があって悔い改めようとしたでしょうか。そのようなことを具体的に考えると、きっと一日だけでも沢山の過ち、反省が起こってくるような気がします。
隣人や罪に対して、寛大な心で人と接しているだろうか、そんなことを考えなければと思います。
「七の七十倍」という数字に、私は驚いて今日の日を迎えました。私自身の個人的なことになりますが、「七の七十倍」という数字が、私に言われているような気がしています。9月7日に、私は誕生日を迎え古希で70歳を迎えました。偶然ですが、「7日に70歳を迎えた」ということに驚いています。今日の聖書のみ言葉は、私に語られていたのではないかと。私も7の70倍をゆうに超すほどの過ちを繰り返しながら70歳を迎え、赦しを願いながら歩み続ける人生が先に見えています。
今日の聖書のみ言葉(マタイ18章21~「1万タラントンの赦し」)では、莫大な借金を王の憐みによってゆるされた家来が、自分にわずかな借金のある仲間をゆるさなかったという内容でした。このたとえ話の家来は、どこか私たちに似ているのかもしれません。自分の罪には寛大でも、人の小さな罪に対しては、なかなか赦すことも、自分の心から消し去ることができない。それが私たちなのかもしれません。それだけに「赦す」ということをもう一度、心に留めなければと思います。
過去を水に流すこと、負債を帳消しにすること、赦しは愛の行為であり、憐みであり、そして恵みでもあるということ。赦しは、相手が何をしたかに関わらず、相手に対してされたことを心に留めないという決意が求められるということ。私たちの信仰生活の中で、愛と赦しは大切なテーマです。
さて、今日はもう一つ皆さんにお願いし、一緒に祈らなければならない日が来ました。明日は国民の祝日でもある「敬老の日」ですが、今日教会ではこのミサの中で、この敬老の日を迎えた先輩である人々と共に、祈りを捧げたいと思います。
生きると言うことは老いていくということでもありますが、老いるということをマイナスのイメージで考えてしまいがちです。神の恵みとして長寿を感謝し、いっそう元気に生きられることを願い、家族や子供達のために祈りを捧げることを喜んで受入れられたらと思います。教会を支え、私たちのために労苦を惜しんで働かれた長寿を迎えている人々を敬い、感謝して祈りましょう。』