昨年12月から今年の4月にかけて受洗された80数名の方々が一人一人紹介されました。
レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会日本管区長)の講演「福者ユスト高山右近の霊性に学ぶ」が行われました。
この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。
しかしながら、私たちの取組のスピードをはるかに超えた速さで現実も動いております。道北地区や北見地区、そして帯広地区では司祭が一人しかいません。函館地区でも多くの教会や施設、修道会を抱えながら、高齢の司祭を含む二人の司祭しか司牧に携わっていません。今までは考えられなかったことですが、道内各地の観想黙想会=トラピスチヌ修道会やカルメル修道会=でもミサが出来なくなっているのです。
一方、札幌地区でいえば、司祭の減少は深刻な問題ですが、司祭の休暇や出張を除けば、地区内教会ではほとんどの信者が、毎週、主日のミサに与ることが出来る現状です。つまり、札幌地区内では、主日の司祭の数が足りているのです。確かに各教会に一人以上の司祭がいた時代と比べると大変な現象です。十分な司牧活動は昔のようには出来なくなっています。ミサに与ることが出来ると言っても、司祭が兼務している複数教会で、交互に主日ミサを行っているところが多くなっています。それでも現状を他の地区と比べると、大変恵まれていると言わざるを得ません。札幌地区の皆さんには、このことを理解していただき、今後近い将来、他地区との格差をなくすために、司祭の再配置を考える時に、協力してくださるようお願いいたします。
また、青少年活動についていえば、昨年の報告では、新しい流れとしてミッションスクールを通しての活動がありました。夏冬2回行われているフィリピンボランティアとエクスポージャは相変わらずの人気ですが、参加者のほとんどがミッションスクールの生徒です。しかし、函館では、このミッションスクールの生徒を通して「地区高校生会」が作られ、小教区で活動をしています。旭川地区や北見地区でもこの函館地区の取組に習って、「函館モデル」としてミッションスクールと小教区教会との連携の取組を始めようとしています。
札幌地区にはどこよりも多くの、そして規模の大きいミッションスクールがあります。青少年委員会の企画に多くの参加者がいても、その活動が小教区の活性化に繋がっていない現状を見るならば、ミッションスクールと地区教会との連携の可能性を是非模索していただきたいと切に願います。
小教区を通しての青少年活動はかなり深刻です。先ほども加藤(神父)札幌地区長の話しにもありましたように、わたしの記憶するかぎりでは初めてのことだと思います。今年の高校生の夏季キャンプの申込みが一人もいなかったために企画が中止になりました。このままだと細々と続いている「春の錬成会」も開催できるかどうか危惧されます。
とはいえ、明るい兆しもあります。今月16日から支笏湖で、全国の青年が集まる「ネットワーク・ミーティング」が開かれます。年に2回、全国か100名以上の青年が集まるイベントです。今回は札幌の青年たちが準備し開催します。この青年たちは、地区の小教区を基盤として動いていないので、教会内では目にぬきにくいのですが、熱心に活動をしています。この全国から集まる「ネットワーク・ミーティング」の運動体自体、教会の組織的な繋がりではなく、ネットワーク的な繋がりで集まるグループ、全国の若者たちです。彼らの中には、先日行われた「アジアユースディ」、「ワールド・ユースディに参加して、世界的な繋がりを持ち、この集まりを通してそれを共有しあっています。このような活動をどのようにして応援出来るのか、していけるのか。そして、それを教会の活性化にどう繋げるのか、私たちの意識しだいだと思っています。
バチカンで行われる次回の世界代表司教会議(シノドス)のテーマは「若者・信仰・召命の識別」です。私が代表として参加することになっていますが、青年を育てることなくして、未来の教会はないという、この世界共通の危機感、これに真剣に対応していこうと今、世界の教会全体が取組を始めています。今までの常識と視点を転換して、求められる青少年支援の在り方も、是非、私たちは考えていかなければならないと思います。今日の午後、青年活動の報告もありますので、彼らと共に考えていただきたいと思います。
今現在、私たちが思い描くことの出来る未来図は、悲観的な材料ばかりであることは確かです。今日の福音書のペトロの言葉のように「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、言いたくなるような現状です。これに対してキリストは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱咤されます。人間のことを考え、私たちが変わろうとする努力を放棄して、現状を嘆いているところからは何も生まれません。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)これは空腹の5千人を前にして打つ手をなくした弟子たちに対して、キリストが発した命令です。人のことを思うとき、不可能に思えることも、神のことを思って働くとき私たちの無力さを通して、神が働かれることを私たちは確信しています。
そのために必要なことは、出来ないと思える心にこそ呼びかけられている主の招きに信頼して、私たちを賭けることです。まず、私たち一人ひとりが変わる必要があるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」そういう今日の言葉をよく考えてください。私たちは十字架の意味を、私たちの意図とは関係なく負わされる苦難や重荷として、受け身に捉え理解しがちです。しかしキリストは、「十字架を負わされる」とは言っていません。「自分で負え」と、言っておられるのです。自分で選び取って、自分の意志で負えと言うのです。
キリストが担った十字架は、私たちへの愛のために、ご自分の命を捧げることを自ら敢えて選び取ったものです。「自分の十字架を負え」と言う意味は、あなたを愛する誰かのために、あるいは大切な何かのために、自分を捨て自分を捧げるという意味と解釈することができます。 望ましくない現状を嘆くのではなく、そこに示される希望の光を輝かさせるために、私たちを変えていくことが求められています。
第二朗読のパウロの言葉です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるかを、わきまえるようになりなさい。」』