2016年1月31日日曜日

年間第4主日 「カトリック児童福祉の日・献金」

福音で語られるイエスの宣教の出来事にもう一度目を向けて、神に従い仕える心を忘れることなく、信仰によって成長できるよう祈りましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『1月の最後の日曜日を迎えています。
今日は「カトリック児童福祉の日・献金」の日ですので、最初にそのことに少し触れたいと思います。毎年、1月の最後の日曜日は「カトリック児童福祉の日」になっています。児童福祉、これは日本だけのことではなくて、全世界に向けられた献金でもあります。皆さんの祈りや協力、理解のもと、温かいご支援を毎年いただいています。子供たちが置かれている今の世界の環境は、決して安心できるものではないと言えます。代表的なこととしては深刻化する難民問題が挙げられます。様々な国の代表者が話し合いを続けていますが、厳しい状況に置かれています。難民やその子供たちは、不適切な環境で暮らし、屋外で眠り、肉体だけではなく精神的にも健康的な危機にさらされているといえます。栄養失調からくる感染症が流行っており、十分な食事もとれず、寒い中で眠り、健康を害している子供たちが大勢います。教皇様は一人でも多くの子供たちの命を救うために、全世界の教会に、心からの祈りと献金を委ねています。これは難民の問題が起きたからではなく、毎年続けられていることでもあります。どの国でも子供たちが少なくなったといわれる時代、未来を託された大切な子供たちが、今もなお厳しい状況に置かれているということを、私たちはもう一度意識して心に留めたいと思います。今日の児童福祉の日の献金は、ミサ中に集められたそのすべてが司教館をとおして、教皇庁に送られます。そして全世界から集められた献金は、世界中の様々な国の子供たちの支援のために使われようとしています。子供たちの問題は、遠くで起こっている問題ではありません。いつくしみ深い神もきっと心を痛めている問題だと思います。今日のミサの中で、皆さんの祈りと献金を、その子供たちのためにお願いしたいと思います。

さて、今日の福音は、故郷に帰られたイエスの姿を私たちに示します。そして故郷でイエスを迎い入れた人々の態度、行動も私たちに示されました。マタイの福音やマルコの福音では、ガリラヤの説教はイエスの宣教の終わりになっています。しかし今日、私たちに語られたルカの福音だけが、宣教の初めに故郷で話されているイエスを私たちに告げているものです。聖書学者はイエスのナザレの訪問が2度あったと伝えています。今年はルカの福音が読まれる典礼になっています。そして先週はルカの福音の第一章の最初が読まれました。そこで私たちが耳にしたこと、イエスの言葉は「あなた方が耳にした言葉は今日実現した」という、ナザレの会堂で語られたイエスの言葉でした。イエスは故郷の人たち、そして私たちにもメシアであるご自分に対する信仰を求められたとも言えます。
イエスが故郷に帰ってきて、人々は直接イエスから話をうかがい、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。イエスが語ったことによる故郷の人たちの体験は、驚きのなかに拒絶の心もあったということが、今日の聖書のお話です。人々の驚きは信仰から出る驚きではありませんでした。イエスを褒め、驚きながらも人々の心は、「この人はヨゼフの子ではないか?」という軽蔑が含まれた言い方をしていました。
キリスト、救い主を信じるとは、どういうことでしょうか。キリストの全てを信じて、受け入れることであるはず、十字架上で悶え苦しんで亡くなられるキリストを受け入れること、それが私たちの信仰であり、キリストを信じるということだと思います。
故郷に帰ってきたイエスの語られた言葉、でもその言葉は人々に驚きを与えましたが、歓迎されることではなかったようです。拒絶されたイエスではありましたが、イエスの道はただ一つです。父なる神の使命を生きる道であり、たとえ人々に軽蔑され拒絶されたとしても、苦しみがあっても、十字架の道であるものとして前に進んで行く、それがイエスの道でした。そして宣教を示唆するように、救いの福音は祖国の人々だけに与えられるものではなく、異邦人を含む全ての人に向けられていたということを告げています。
それにしても、このルカの福音では、故郷での宣教が拒絶されるというイエスの活動の始まりは、非常に象徴したような形で私たちに語り続けています。この故郷の人たちに受け入れられないことは、すでに予言されていることでもありました。イエスは様々な反対を受けながらも旧約の預言者のように、受難に向かって突き進んでいく人でした。このような背景で、イエスはナザレの人々の不信に対して、旧約聖書にある二つの例を引き合いに出しています。この二つは、いずれも異邦人に対するお話になっていました。異邦人がイスラエルの預言者から主の恵みを受けたという内容です。今の異邦人とは同じ宗教を持つ人々とは違う人を指していますが、当時のユダヤ教の人々にとっては、敵対するかのような人々と考えられていました。ですから、異邦人に神から恵みがもたらされるということは、とても理解できないような出来事だったのです。でも旧約の時代にも異邦人に向けられた神の恵みの出来事だったということを私たちにも告げています。
一つは、飢饉のときエリヤがシドン地方のサレプタの未亡人のところに遣わされた。もう一つは、エリシャがシリア人のナアマンにだけ病気を癒す奇跡を行った出来事でした。
神の民である私たちを差し置いて、神の恵みは神を信じない人々の上に下ったということは、故郷の人々にとっては、驚きとともに神の恵みを少し疑うような内容でした。信仰が十分に熟していないイスラエル人であったということでしょうか。異邦人が主の恵みに与るということを不愉快に思ったようです。
私たちには、そのような心がないでしょうか?私たちの心の隅の何処かに持ち合わせているものではないでしょうか?
ルカは、イエスの教えと恵みはイスラエルの民の不信仰により、異邦人の世界に向けられていることを語りました。それはまた、旧約の時代にもあった出来事として重なるものでした。預言者は何度もそのような体験を繰り返しながらイスラエルの民を導いていました。でも、イスラエルの民は預言者の言葉を受け入れずに拒絶し、自分たちの偏った信仰を生きていたということでもあったと思います。イエスは故郷の人々を退けるとき、単純に拒否したのではなくて、聖書の証言に基づき話されています。イエスにとって何よりも尊いことは、神の民と距離的に近いということではなく、神の召命、神の導きに従うということが大事だということを語ります。神の指し示される道を愛によってひたすら歩むことがイエスの使命であり、目的でもありました。そして神の民の目的・使命もイエスに繋がることであったはずです。私たちの信仰も、改めてよく考えてみなければならないようです。
私たちの信仰は、信仰を持たない人よりも、よい人生を歩むためにあるのでしょうか?
信仰を生きることは、自分の栄光の道だから信仰を歩んでいるのでしょうか?
信仰においてさえもえてして、私たちは自分中心になっていることがあるような気がします。ひたすら自己主張をしていることに、気が付くことがあるような気がします。仕える心よりも、自分のことの方が先に考えられていることがあります。仕える心の方を大事にしなけれならないのは、私たちの信仰だと思います。神の道に従うことが栄光の道であるならば、その道を歩めばよいでしょう。もしそれが苦難の道であって、それが自分に与えられた道だとすれば、それを喜んで選び取っていくところに、私たちの信仰もあると思います。決して楽をするために、ただ単に恵みをいただくための信仰ではないはずです。
故郷のナザレで、イエスは町の外に追い出され、崖から突き落とされそうになりました。でもイエスは人々の間を通り抜け立ち去られました。それが今日の福音の最後に語られていることです。拒絶にあっても殺されそうになっても、イエスはただひたすらそこを通り抜けて、自分に与えられた使命のために十字架に向かって歩んで行こうとしています。イエスが人々から受けたその姿をとおして、またその行動をとおして、私たちは今どのように考えるべきでしょうか?
福音で語られるイエスの宣教の出来事にもう一度目を向けて、神に従い仕える心を忘れることなく今日のみ言葉に耳を傾け、信仰によって成長することができるように祈っていきたいと思います。』

2016年1月24日日曜日

年間第3主日 ルカ福音書

先週語られた「カナの婚礼」の後、イエスの宣教活動が始まります。今日から読まれるルカ福音書には、多くのイエスの宣教活動が記されています。

全国的に真冬の厳しい寒さが訪れていますが、
札幌は今日、束の間の好天に恵まれた一日でした。


後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『先週の福音では、イエスが「カナの婚礼」で水をぶどう酒に変えた奇跡が語られました。
聖書を読んでいくと、この奇跡の直後からイエスの宣教活動を物語る話がいろいろと出てきます。今日のルカの福音もその一つです。
今日読まれたルカ福音書の最初の序文は、聖書をどういう理由で書くのかということを私たちにも伝えています。イエスを中心にした活動、福音宣教の一部始終を伝えること、そしてその教えが事実に基づくものであることをルカは伝えたいそう思って、これまで自分が聞いて来た、そしてすでに書物で残されているものをいろいろと調べ上げながら、それを整理して書くということでした。この聖書を書いたルカは、ギリシャ語のよく理解できる教養のある人だと言われています。また医者であったとも伝えられています。さらに、異教徒でもあったルカは、パウロと出会うことによって、改宗者として信仰を得た人です。パウロと一緒にマケドニアやギリシャや小アジアを弟子として宣教旅行へも同伴したということも聖書で語られています。自分が聞いたこと、そして伝えられた事実を確認しながら、キリストの教えや出来事を書いた、それが私たちが手にするルカの福音書であるということです。それ故、他の福音書と比べるとイエスの活動のエピソードも一番多く記していると言われています。私たちが聞くみ言葉はそういう意味で、単なるお話しではなく事実として伝えられているということです。私たちもそれを理解したうえで聖書に触れ、読むということが大切なことです。
イエスの宣教はガリラヤから始まります。ガリラヤは当時のエルサレムから約65キロほど離れている小さな町でした。私たちの身近な場所で例えるなら、札幌から苫小牧までの距離に相当します。カナの婚礼が行われた町は、ガリラヤのナザレとは3キロ程のごく近い距離にあります。恐らくイエスはカナの婚礼が終わった後、歩いてナザレまで帰ったことでしょう。しかし、その帰路の道はぶどう酒を飲んで、ほろ酔い気分で歩まれた道でなかったと思います。イエスの歩むべき道は、父なる神について語り、神の国を告げ知らせ、そして神のみ心を人々に告げ知らせることでした。先週もお話ししましたが、水をぶどう酒に変えたその目的は、神の業を知らせることでした。単に奇跡を行ったということではなく、その奇跡を知らしめることが神の業を伝えるという目的であったわけです。もうすでに貧しい大工の息子としてのイエスではなく、洗礼を受けて聖霊に満たされた歩き始めた救い主イエスであります。そして預言者でもあります。
イザヤの書に書かれていたように、主の霊が私の上におられ、聖霊の力によって今イエスは主の恵みを告げる活発な宣教活動を開始しようとしています。今日のみ言葉は、そのような意味で私たちにとって、「いつくしみの特別聖年」のスタートをもう一度考えさせるような内容になっているようにも私は感じます。
イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けたとありますが、いつもイエスは会堂で聖書を開いて皆に語り、そして教えを宣べられました。少し私は思い起こしますが、かつて教会で勉強会をしていたときに、「イエスが会堂に入って読んだ聖書は新約聖書ですか、旧約聖書ですか」と、まだ教会に入られて間もない人が質問しました。皆さんはその質問がどんな意味を持っているのか分かりましたか?新約聖書はまだその時代にはなかったのでイエスが語ったのは旧約聖書であったわけです。ユダヤ人はその旧約聖書、律法の書を大切にして自分たちの先祖伝来の信仰を守っていたのですが、熱心な人々にとっては私たちも何度も聞いている聖書の言葉「イスラエルよ聞け、主は我々の神、唯一のものである。あなたの神である主を心をつくし魂をつくし全力をつくして愛しなさい。私が今日、命じる言葉がいつまでも心にあるように、それらをあなたの子らに教え込み、家にいるときも道を歩むときも、横たわっているときも、立っているときも、それらを語り伝えよ。そして門も框に書き記せ。」このような旧約聖書の言葉をいつも心に留めながら、いつも触れながらユダヤの人々は自分たちの先祖から伝えられた信仰を大切にし生きていたということでした。
イエスの時代、会堂では信仰宣言のあと聖書朗読を行ったといわれています。ですからイエスが聖書を読む前にはおそらく信仰宣言も行われていたことだと思います。そしてイエスが手に取ったその聖書の箇所がイザヤ書であったとルカも記しています。
イエスは聖書を朗読した後、み言葉が未来への希望としてよりも、今人々の前で見事に実現した、という宣言をしました。今私たちが聞いているその聖書の言葉は、今日実現したと。そのイエスの言葉、宣言に人々は驚いたでしょう。でも人々の心の中には福音の光が差し込む瞬間でもあったでしょう。戸惑う人、驚く人がいてたでしょうが、一方ではこの新しいイエスのみ言葉の宣言に信仰の新しい道が開かれようとしていました。
私たちにとっても常にみ言葉をとおして、イエスは私たちの信仰に迫ってきます。そして私たちに大切なことは、イエスの神秘に少しでも迫っていくということだと思います。私たちもまた真剣勝負で、イエスのみ言葉に接して、イエスに近づいていくことが求められるような気がします。よい教えを私たち一人一人が生きられるように、私たちの周りの人にもすばらしいみ言葉が伝えられるように、それが私たちに求められる福音宣教であると思います。
ルカの書いた福音書には「尊敬するテオフィロさま宛に」と記されました。このテオフィロさまという名前は「神を愛するもの」という意味を持っています。そして書き記そうとしたその内容は、仕える人たち、神に仕える、み言葉に仕える人についてのことを書き記しますと述べられています。それはすなわちイエスが選んだ使徒たち、弟子たちの働きについて私は書き記します、それがルカの福音書になっているということです。そしてあなた方が聞いた聖書の言葉は今日実現したと明言されました。』

2016年1月22日金曜日

年間第2主日 カナの婚礼

今日の福音では、カナの婚礼でイエスが水をぶどう酒に変えるという最初のしるしが語られました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


今日の聖書のお話し、皆さんはどんな場面、どんな言葉がが心に響いているでしょうか。
  お酒は嗜まないという人はたくさんいますけれど 、もし、イエスが水をぶどう酒に変えたという、そのぶどう酒が目の前にあったら少しは味わってみたいと、誰もが思うのではないでしょうか。イエスが造られたぶどう酒、どんな味がしたのでしょうか。それを考えると酒を嗜まない人であっても、そのぶどう酒をひと口味わってみたいと思うような気がします。かつて、ぶどう酒は私たち日本人にとって高級のようなイメージがあったような気がします。私が小さいときから見てきたぶどう酒は酒に比べ手に入らないものであったし、高級であったと感じます。でも、今の私たちにとっては、健康にも良いと言われているぶどう酒になっています。値段も手頃な値段で変えるような時代です。ぶどう酒を嗜むのは男性に限らず女性も多くなっているような気がします。
  ワインにまつわる面白いワイン談義があります。(ここで、神父様は年に何回か開催される司祭会議の夕食で、ドイツやフランスなどの外国人神父の自国のワインのおいしさを自慢し合う熱の入ったやりとりのエピソードを語ります。)最初にお話ししましたが、イエス様が水をぶどう酒に変えられた、その味はどんなものかやはり気になります。
 今日はそのカナンの婚宴の奇跡のことが告げられています。このイエス様の奇跡は最初の奇跡であると聖書は記しています。その目的も聖書ははっきりと告げられています。「イエスは、この最初の奇跡をガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」(ヨハネ福音書2章11節)いつも奇跡を行うのは神様の栄光を表すためと聖書は語っておられます。病気の人を治したとしても、それは神様の栄光を表すためにと、人々に示されたようです。今、私たちの典礼の季節は「年間」の典礼の季節に入りました。イエス様の栄光の業も季節に合わせて、私たちに示されています。イエスの栄光を表すこのしるしは、はっきりとご自分の栄光を表すことによって弟子達を探り信じさせたと聖書は告げています。今日のみ言葉の最後の一節は「イエスは栄光を表された。弟子達は信じた。」 イエスを信じ、近づいた弟子達。
 今日、聖書によって神から語られたこの言葉は、一番最初は「そのとき」という言葉が添えられて始まっています。「そのとき」…どんなときのことを表していたでしょうか。聖書で読んでいくとき「そのとき」という聖書の言葉は使われていませんが、私たちは毎日曜日にい前の聖書の箇所に繋がれてきますので、「そのとき」という表願が使われいるのです。先週はヨハネの福音ではなかったのですが「主の洗礼」のお話でした。主の洗礼を意識して「そのとき」を読んでいくとその流れが見えてきます。
  「そのとき」はガリラヤのカナで婚礼があったと読み始めることになります。「あるとき」から3日がたって行われたのがカナの婚宴の奇跡である。では3日前にには何があったのか、ということになりますが、それは先週、私たちが祝った主の洗礼の出来後であるということになります。イエスの洗礼があってから三日後にこの婚礼があったことが私たちに告げられます。主の洗礼の翌日には何があったでしょうか。聖書では、最初の弟子がイエスに従う様子が語られています。そして、洗礼を授けたヨハネがイエスを見て「神の小羊だ」と話しています。アンデレとペトロが主に従う姿が翌日に起こりました。さらにその翌日、フィリッポに会った時、イエスは「私に従いなさい。」と招いておられます。そして、その翌日、三日目、カナの婚宴の日を迎えたと、主の洗礼から一日一日続いてきていることが今日の福音で語られています。
「三日目」という表現もシンボリックな表現になります。皆さんは「三日目」というと、どんなことを思い浮かべますか。三日目にキリストが復活するということを思い浮かべる方もおられるでしょう。この「三日目」というシンボリックな表現も、聖書には度々でてきて、ゆっくり読むと気づかされます。
 さて、この物語になっている婚礼。旧約聖書の話しの中で、神と民との一致を「婚礼」を表す表現で使われています。また、新約聖書でもキリストと教会の関係を、夫と妻の関係をもって示すように、密接に教会とイエス・キリスト。私たちにとっても、キリストの肢体となってイエスに繋がっていることも暗示している、この奇跡の話しになっていると思います。召し出しを受けた弟子達はイエスに従って一致して、神の国を証しする旅に出かけ始めたのですが、カナの婚宴で奇跡を見て、さらにイエスに繋がっていく、弟子達の信仰がさらに成長していく、そういうふうに繋がっていきます。
 しるしと使われるこのぶどう酒は、旧約の時代には神が救われる人に与える宝としてのシンボルを表していました。そして、イエスにおいて考えると、十字架で流された御血のカタログとしてぶどう酒を表してもいるわけです。ぶどう酒を喜びの源として、聖霊をとおして人々に豊に与えてくれる、それが私たちがいつも記念する主の食卓の上で、キリストの御血として 変えられるという形でミサがあります。ただ、カナの婚宴として奇跡をみるだけでなく、そこに深い信仰的な聖書的な背景が描かれていることを、黙想のうちに学び、聖書をとおして深く信仰の喜び、イエスと繋がっている私たちの信仰を表すということも味わいたいと思います。
 この婚礼の席には母マリアも出席しています。マリアとのやりとりも少し不思議な経過をもたらしています。「ぶどう酒がありません。」とイエスに言われたマリアですが、何となく聖書の記述だけでみると、表面的にみるとマリアを突き放すようにして「私のときはまだきていません。」と答えているイエス。そう答えられたイエスに対してマリアは一歩も引くどころか、イエスに信頼を寄せていますから、「何でもこの人の言うとおりにしてください。」と逆にイエスに信頼を表すような話しをしています。ヨハネが書かれたこの意味深いカナの婚礼の出来事、そのみ言葉を黙想することによって、私たちはこの婚礼の祝宴のひとときが、私たちのミサ、聖体にも深く繋がっているようなことのように見えてくるような気がします。

 新しい契約は、このミサで表される聖体祭儀をとおして、私たちに関わります。そのことを心にとめながら今日の聖書の言葉、ミサをすすめていきたいと思います。そして私たちにとって聖母マリアの存在もまた、心にとめておきたいと思います。マリアはいつもイエスとともにイエスに信頼を寄せてそこにおられた。宣教ということが私たちの役割、使命として語られる時代に入っていますが、私たちの宣教がイエスとともにあるように、マリアが示された信頼とともに、私たちの宣教の働きが出来るように、み言葉をとおしてもう一度イエスとともに、マリアとともに  新しい旅立ちをしていきたいと思います。


2016年1月10日日曜日

主の洗礼

幼子イエスの誕生で喜びに包まれていた降誕節は、今日の「主の洗礼」の祝日を
もって終わることになります。明日からは新しい典礼の季節に入ります。

明日の「成人の日」を前に、新成人を迎えられる方に記念品が贈られました。
おめでとうございます!


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


幼子イエスの誕生で喜びに包まれていた降誕節は、今日の「主の洗礼」の祝日を
もって終わることになります。明日からは新しい典礼の季節に入っていくことになり
ます。洗礼によって新しい歩みが始まるように、明日からの教会歴は年間の「季節」
という月日を進みます。

 今日、私たちがいただいた御言葉は、イエスの洗礼のときの状況を告げ知らせてい
ます。イエスが洗礼を受けたように、ここに集う私たち一人ひとりもまた洗礼の恵み
を受け、神の子となっています。初代教会の指導者であったパウロは手紙の中で洗礼
について語ります。そこには「神の救いの恵みは聖霊によって私たちを新しく生まれ
させ、新たに造りかえる洗いとしての洗礼がある。それはキリストの恵みによってで
ある。この洗礼によって、永遠の命を受け継ぐ者とされる。」(使徒パウロのテトス
への手紙3:4-7)パウロはこのように洗礼について話しています。洗礼によって
永遠の命を受け継ぐ者とされる。洗礼についていろいろな言葉を加えることができま
す。古い時代は悔い改めの洗礼という言葉が良く使われていたようですが、時代が変
わってくるに従って、恵みの洗礼という表現も良く一般的に使われるようです。そし
て、私たち教会の中で、またわたしたち一人ひとり、いろんな表現で洗礼を表してい
ます。新しい出発の洗礼、清めの洗礼、いろんな表現が出来ると思います。皆さん一
人ひとりは、自分が受けたその恵みの洗礼を、自分はどのように受けとめ、どのよう
に表現しているでしょうか。

 洗礼は教会の七つの秘跡の中のひとつです。七つの秘跡を皆さん思い起こせます
ね。洗礼もまた信仰を前提としています。信仰なくしての洗礼は考えられないからで
す。洗礼によって父である神の子となり、三位一体の神の交わりに導き入れられるこ
とになります。そして、洗礼によって一人の新しいクリスチャンの誕生となります。
イエスがヨルダン川で洗礼を受けたように、教会の洗礼の秘跡の執行には必ず水が使
われます。水が印(しるし)となっています。水には大切な意味があります。水は私
たち人間の日常生活に欠かすことの出来ない命を保つ、また、水は身体の汚れを清め
るために必要なもの。そのように考えると、洗礼は命と清めに結びついているとも言
えるとも思います。そして、命と清め以上に豊かな神の恵みをもたらす秘跡でもあり
ます。言葉では表せない大きな恵みが洗礼によって私たちにもたらせます。また、洗
礼はキリストの死と復活という、過ぎ越しの神秘に与ることにより、死から命へと移
されるということも意味していると思います。

 幼児洗礼の人は記憶が全くないと思いますが、 成人洗礼の人は自分が額に水をか
けられたこと、そのことをきっと記憶していると思います。洗礼という言語の言葉か
ら考えると、「沈める」とか「浸す」とか、そう言う意味が元々あるといわれていま
す。洗礼は水に沈め、水に浸して、そこから立ち上がる、生まれ変わるという大きな
意味がそこにもたらされて、私たちの意識が作られています。それはまた古い人が水
の中に沈められて新しい人になることを意味しています。洗礼の時に受洗者の額に水
を3回、司祭は注ぎます。洗礼志願者を3度水に沈めて引き上げるという動作の慣習
の中に、現在の洗礼式は額に水を3度注ぐという簡易なかたちで進められます。です
から、イエス様はきっとヨルダン川で身体全体を川の中に沈められて、そこから3度
立ち上がったかたちで洗礼を受けられたかもしれません。洗礼を受けた人は。  その
水から上がって清められて新しい人となって、神の恵みに与るものとされます。キリ
ストのからだの一部となって、深くキリストに繋がれ結ばれることになります。


 七つの秘跡の内のもう一つは堅信の秘跡というものがあります。聖香油が額に塗ら
れます。油注がれたもの、キリスト者となって、洗礼の時には火のついたローソクを
渡されます。また、キリストの光をもたらすものとして表しているのです。私たちは
洗礼によって、それまでの自分とは違ったかたちで大きくつくりかえられるものと
なっています。でも現実には、 私たちは洗礼をいただいていますが 、その深い意味
を忘れてしまっているかもしれません。今日は洗礼のことをもう少し黙想しながら、
新しい典礼の季節に入る、私たち一人ひとりもまた、洗礼の恵みを新しい自分とし
て、明日から新しい歩みを始めようと私は今考えます。

 信徒の福音宣教がいつも叫ばれる時代です。それは、この洗礼によって結ばれ、そ
こから私たち一人ひとりの使命もまた生じています。キリストの肢体、からだに繋が
れ、キリストの光をもたらすものとして、新しい旅立ち、出発をした洗礼を受けた私
たち一人ひとりは、キリストの祭司職にも繋がっているということです。幼児洗礼の
人は、堅信の秘跡によって一人ひとりの信徒の自覚と責任を確認することにもなって
います。成人洗礼を受けた人たちは、すでに洗礼の恵みをいただいたときから、その
使命、責任をもって 歩む人となっているはずです。 宣教の使命を持っている私たち
一人ひとり、もう一度その使命を実際に生きているのかどうか、そのことも含めてク
リスチャンとは何なのか、洗礼を受けたとはどういうことなのか、そういう大きな意
味も考えながら、信仰の成長に繋げていきたいものと考えています。

 幼児洗礼を受けた人たちにとっては特に、堅信の秘跡の節目をもって、新しい責任
と使命を歩むものとなりますが 、今、私たち日本人としての自覚と使命というもの
は「成人式」という中で特に、その責任、人生を考えさせる機会となっていると思い
ます。明日の成人式を前にして、私たちの教会のメンバーの中に二人の方が成人式を
迎えることになっています。お一人は「フランシスコ・ザベリオ葛西史崇(ふみた
か)」さん、もうお一人は「パドアのアントニオ藤倉有留斗(あると)」さんです。
お二人にとってもクリスチャンとして、また日本人の成人を迎えるものとしての新し
い責任、自覚というものが、きっと意識されているものと思います。そして成人式を
迎えることによって、家族とともに大きな喜びから新しい 旅立ちが始まろうとして
います。教会の中でこの成人式を迎えるお二人のためにも、私たちは神の祝福を祈り
たいと思います。

   今日の私たちに告げられたみ言葉を黙想するとき、そこにイエスの祈りの姿が見
られます。イエスはいつも何か重大なことが始めるときに、祈りをまず最初にして行
動を始めたと聖書は記しています。洗礼の場面での祈りはその後のそれぞれの出発点
ともなる祈りのひとときでもあったようです。主の洗礼を祝う今日の私たちもまた、
祈りをもって新しい出発にかえたいと願います。すでに救いの恵みをいただいて洗礼
を受けた、信仰の道を歩んでいる私たち、信仰の中心にいつも祈りがある、祈りが忘
れられることのないように、そういう1年にしたいと思います。
  新しい1年はスタートしたばかりですが、この新しい1年の歩みは、北一条教会聖
堂100年を記念する歩みの1年にもなります。札幌教区においては、教区100年
を記念する1年でもあります。全世界でみれば「いつくしみの特別聖年」を歩み始め
た1年でもあります。洗礼から出発して、すべての人々を神に出会わせる道を私たち
一人ひとりが歩みだすことが出来るように。祈りをもって私たちの道の中にも、宣教
の実りがありますように祈りましょう。そして、わたしたちの出会いを通して多くの
人々に恵みが注がれるように、このミサの中でひとつとなって祈りたいと思います。



2016年1月4日月曜日

1月3日(日)  主の公現

主の光が博士たちを導いた様に、私たちの道、私たちに平和をもたらす愛と希望の光が、常に私たちに留まり、全ての人が平和に導かれますように。


今日のミサの中で「この1年、自分に掲げたテーマをより具体的に心にとめて歩むように」と話された後藤神父様の説教が、とてつもなく重くのしかかってきました。昨年、勝谷司教様の年頭司牧書簡を読み「信徒が宣教司牧の中心を担うために敢えて隘路を進む」事を決めましたが、1年が経っても殆どなにも出来ていません。今年はアンケートで頂いた共同体の皆さんのご意見を参考にし、櫻谷委員長を筆頭に役員一致協力して進めなければなりません。


<後藤神父様のお説教概要です>
あけましておめでとうございます。新しい年を皆さんと共に迎えています。
私たちはいつくしみの特別聖年を歩み始め、今日は主の公現を迎えました。
皆さんはミサに与る時、どんな捧げものを持って教会に来られましたか?
どんな供え物を主の祭壇に奉げようとされましたか?
これまで、一枚のホスチアを私たちの捧げものとして、願いや祈りを一枚のホスチアに託せばどれほど素晴らしいか、と言う話をしてきました。
異邦人であった3人の博士は、高価な捧げものを持ちイエスに会うために、命がけで旅をしました。その事を考えると私達も常にイエスに出会うために教会に来る時、どんな祈り、どんな捧げものを持って教会に来られるのかと言う事を考えてしまいます。何の意向も持たずにミサに与るのではなく、自分なりにこんな祈りを奉げる、神に託したいとの思いを持ってミサに参加するなら、私たちの祈りもまた豊かになります。
今年は、特別聖年を歩み、札幌教区100周年、献堂100年の大きな記念行事を迎える年です。特に私たちの教会は「若い世代に繋ぐ」と言うモットーを掲げていますが、「何を繋ぐのか」、そんな事をお思い起こしながら供え物と祈りを奉げて下さい。皆さんはどんな思いで3人の博士たちと同じような旅をしてこの教会に辿り着いたのか、そんな事を考えていました。
主の公現言を祝う集会祈願の祈りの言葉「信仰の光が、星の導きによって御ひとり後を諸国の民に示されました」が私たちを黙想に導いて下さいます。それはまた、遠い地から命がけで旅をしてきた3人の博士の姿を示す祈りの言葉です。博士たちの心の思い、それに重ねて私たちの教会でも、イエスに会うため時間を割き、救い主の顔を仰ぎ見るため、体調が少し悪くても頑張って教会にこられた方も居られると思います。
今日の第1朗読では主の栄誉が述べ伝えられ、答唱詩篇では来たるべき救い主の訪れを賛美する歌がうたわれ、第2朗読では神の決められた計画が啓示され、すべてのキリスト者と一緒に異邦人でさえもその約束に預かるものとされています。
全ての人が神のいつくしみを受け継ぎその約束にあずかるものであると言う事を、私たちは特別聖年のメッセージの中からも受け止めることができます。今日の主の公現のメッセージを黙想していくと、教皇様の意向にも深く繋がる黙想ができます。主の現れを示す博士たちの姿、メシアを探し求める苦労を重ねて旅をし、命を掛けてでも救い主をみたい、マタイの福音記者は、優れた博士たちを強調し、主の現れはこうした博士たちによってよりいっそう世に知られるようになりました。博士たちもこの出来事によって救いの拡がり、全ての人々に及ぶ救いの豊かさが、教会を通して告げ知らされることになっています。
福音宣教も、こうしたイメージで考えることができます。いつくしみの特別聖年を歩み始めた私たち、教皇様の意向と共に私たち一人ひとりの信仰の旅を続けて行きたいと思います。
今年は私たち北一条の信徒にとって特別な1年になります。若い人達に私たちの信仰をどう告げ知らせることができるか、私たちが語り継がねばならない事は沢山あげられます。この1年、其々自分に掲げたテーマをより具体的に心に留めて歩むことができれば、私たちの教会は色々な形で変わって行くことができると思います。いつくしみの特別聖年と合せて考える時、私たちに大切な事は、イエス様が私たちに託した掟に戻ることです。イエスの掟は、心を尽くし、精神を尽くして、神を愛しなさい、そして隣人を自分の様に愛しなさい、です。
愛する事、赦す事の難しさは私たち一人ひとりが経験しています。この1年の歩みの中で、何時も神と共に留まるためには、目に見えない兄弟や隣人を大切にして行くことが私たちに求められます。その信仰の姿を持ち続けることができるならば、私たちは若い世代に信仰の素晴らしさを示す事ができると思います。具体的な祈りは、皆さんが自分の意思で考えて実践していくことです。
主の光が博士たちを導いた様に、私たちの道、私たちに平和をもたらす愛と希望の光が、常に私たちに留まり、全ての人が平和に導かれますように、1年の最初の主日を迎え、主の公現を祝いながら私たちは一人ひとりの信仰の使命を心に刻んで歩んで行きたいと思います。

2016年1月2日土曜日

1月1日 神の母聖マリア

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
新しい年が、いつくしみに満ちた恵み多い年でありますよう。

1月1日の元旦ミサには、多くの方々がミサに与りました。
旅行で初めてこの教会を訪れた方や、帰省で久しぶりにこの教会のミサに与った方々が多かったようです。



この日のミサを司式された勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日は「神の母聖マリア」の祭日であるとともに、「世界平和の日」でもあります。
この「世界平和の日」にあたって、教皇様はメッセージを出されています。
その抜粋を今日のお説教の中でご紹介したいと思います。
今日の福音書によれば、マリア様は「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」とあります。
マリア様は、神様から特別な恵みを与えられていたとはいえ、人間の能力を超えたこの世の出来事に関する力が与えられていたわけではありません。私たちと同じように身の周りで起こっている出来事の中にどういう意味があるのか、それを探し求めながら、今はまだその意味について理解できないことは心に納め思いめぐらし、私たちと同じようにこの世の出来事に翻弄されながらも、その中にあって自分の生きている意味、必ずそこには何らかの神から与えられた使命、すなわち意味があるのだといこうことを信じ続けていた方であると言えるでしょう。
では、現代の社会において、私たちは身の周りで起きる出来事の中に、神のみ旨を見出していくということはどういうことなのか。ともすると私たちは非常に個人的な身の周りの出来事に関してのみ、そのような関心を持ってしまいがちですが、今日の「世界平和の日」にあたっての教皇メッセージは、非常に多岐にわたる問題を提起していながら、その根本は一つであるといえます。それは去年から始まっているこの「いつくしみの特別聖年」に集約されているように、神のいつくしみを世に示していく、全ての事柄に対して、神はいつくしみを示しておられる、そのことを証するものとして私たちが世に派遣されているのだということを思い起こさせてくれています。
教皇様はまず、昨年起こったテロや様々な事件について、「散発的な第3次世界大戦」と呼べる状態に世界は入ってしまったと述べられています。そしてまた、このような正義と平和というものは、単に戦争が無い状態のことをいうのではなく、差別、人権、そして環境に及ぶものとして語られています。そのような多岐にわたる問題に直面したならば、私たちは祈りをささげ活動するように呼びかけられています。そのための最も妨げとなっているものが、無関心であるということを何度もこのメッセージの中で述べておられます。
まず教皇様は、私たちは尊厳を持って互いに関わり合うことによって、神の似姿となるような望まれる人間になると強調されます。私たちは一人で存在しているのではなくて、全ての兄弟姉妹との関わりの中で存在し、そしてそれは取りも直さず、互いに対して責任を負い、連体し行動するよう招かれているのです。それに対して無関心は、この人類家族を脅かすものとなると警告しておられます。このような個人主義的なものを超えた社会的な無関心が世界をこのような悲惨な状況にしているのであると、無関心のグローバル化という言葉を用い警告しておられます。その無関心については、まず神に対する無関心、すなわち人間が神にとって代わろうとする態度、自分自身が万物の支配者である、そしてまた、自分以外の誰に対しても義務を負わないと主張するような自分の権利のみが関心事となるような方向へ人間を推し進めてしまいます。さらにそれは隣人に対する無関心となり、私たちは情報社会の中で様々な情報に接し、人類に起きている悲劇を漠然とは知っているが、それに自分が関わっていると感じたり共感したりすることがない状態に陥ってしまう。これも無関心の恐ろしい側面である。そしてさらに、そのような情報に対してすら、耳を傾けなくなってしまう、自分の安穏で快適な生活を送っている限り、自分の周りにどんなに悲惨な状況に放り込まれている人がいても、全く関心を示さずに心を配ることもしなくなる無関心。このような無関心は、根本的なところでいえば、神への無関心から生じるものであると、教皇様は述べられています。そしてその無関心の連鎖が、自然破壊や社会的格差を引き起こし、それが紛争の引き金となり、暴力と貧困をもたらしている。
教皇様は、聖書の言葉を用いて、神がこれら全ての問題に対して、この世界を愛するがゆえに、いつくしみの眼差しをもっておられる、そしてそれを実現していくためには、私たち一人一人が連帯していくしかないのだ、私たち一人ひとりの関心や力には限界があります。ですからこれから世界を変えていくのは、個人の回心によりもたらされる倫理的な徳であると同時に社会的な姿勢、そしてまたそれらは教育によって養成されていくものであると述べられています。
大切なことは、最初の方で言ったマリア様の心です。このような世界中にある様々な問題に直面しながら、では主体的に自分はどうしたらよいのか、それが見えてこない。でもその疑問は常に持ち続け、自分の心の中で思い巡らせ続けるうちに、ある時にその道が示される。ある人にとっては、環境問題に対するシンポジウムや募金などの活動に積極的に関わるきっかけかもしれないし、別な人にとっては社会の中で小さくされている人たちに対する関わりの糸口を、普段の生活のある出会いによって見出されることがあるかもしれません。これらは私たちの人生において、ときどき神がなさるやり方です。特に若者が自分の生きる道を見出そうとするとき、自分がどう生きたらよいか分からないというときに、その思いを巡らせているときに、ある時に「ああ、これだ」と気づく、まさに召命として神が道を示してくださいます。司祭や修道者を目指すきっかけも同じようなことです。
私たちの人生において決定的に、その後の方向性を決めていく出会いやきっかけは、普段私たちが多くの関心を持って、常に真剣に取り組んでいこうとする姿勢があって初めて示されるものです。
そのように同じような個人的な観点を超えて、今、教皇様は、このキリストの教会が、世界に対して、常に関心を持ち続け、世界に対して声を上げるように呼び掛けておられます。世界の隅々にある私たちのような小教区においても、何ができるのかということを、意図的に考え、思い巡らせ続けることをしなければ、社会的な問題に関わることのない、無関心な共同体になってしまう危険性があります。
私たちは個人の思惑を超えて、共同体として連帯して、今何に取り組むように召されているのか、今何処に向かっていけばよいのか分からないにしても、その問いを持ち続けて、ある時「これだ」というものを見つけたときに、そこに力を注いでいくということが大切なことだと思います。』

12月31日 一年の感謝ミサ

12月31日 23時から、聖堂で「一年の感謝ミサ」が行われ20名ほどがミサに与りました。
後藤神父様と森田神父様が司式されました。
年が変わる0時に、後藤神父様が教会の鐘をならし、そのあとロザリオ〈木曜日光の神秘)を壱環唱えました。