2016年1月2日土曜日

1月1日 神の母聖マリア

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
新しい年が、いつくしみに満ちた恵み多い年でありますよう。

1月1日の元旦ミサには、多くの方々がミサに与りました。
旅行で初めてこの教会を訪れた方や、帰省で久しぶりにこの教会のミサに与った方々が多かったようです。



この日のミサを司式された勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日は「神の母聖マリア」の祭日であるとともに、「世界平和の日」でもあります。
この「世界平和の日」にあたって、教皇様はメッセージを出されています。
その抜粋を今日のお説教の中でご紹介したいと思います。
今日の福音書によれば、マリア様は「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」とあります。
マリア様は、神様から特別な恵みを与えられていたとはいえ、人間の能力を超えたこの世の出来事に関する力が与えられていたわけではありません。私たちと同じように身の周りで起こっている出来事の中にどういう意味があるのか、それを探し求めながら、今はまだその意味について理解できないことは心に納め思いめぐらし、私たちと同じようにこの世の出来事に翻弄されながらも、その中にあって自分の生きている意味、必ずそこには何らかの神から与えられた使命、すなわち意味があるのだといこうことを信じ続けていた方であると言えるでしょう。
では、現代の社会において、私たちは身の周りで起きる出来事の中に、神のみ旨を見出していくということはどういうことなのか。ともすると私たちは非常に個人的な身の周りの出来事に関してのみ、そのような関心を持ってしまいがちですが、今日の「世界平和の日」にあたっての教皇メッセージは、非常に多岐にわたる問題を提起していながら、その根本は一つであるといえます。それは去年から始まっているこの「いつくしみの特別聖年」に集約されているように、神のいつくしみを世に示していく、全ての事柄に対して、神はいつくしみを示しておられる、そのことを証するものとして私たちが世に派遣されているのだということを思い起こさせてくれています。
教皇様はまず、昨年起こったテロや様々な事件について、「散発的な第3次世界大戦」と呼べる状態に世界は入ってしまったと述べられています。そしてまた、このような正義と平和というものは、単に戦争が無い状態のことをいうのではなく、差別、人権、そして環境に及ぶものとして語られています。そのような多岐にわたる問題に直面したならば、私たちは祈りをささげ活動するように呼びかけられています。そのための最も妨げとなっているものが、無関心であるということを何度もこのメッセージの中で述べておられます。
まず教皇様は、私たちは尊厳を持って互いに関わり合うことによって、神の似姿となるような望まれる人間になると強調されます。私たちは一人で存在しているのではなくて、全ての兄弟姉妹との関わりの中で存在し、そしてそれは取りも直さず、互いに対して責任を負い、連体し行動するよう招かれているのです。それに対して無関心は、この人類家族を脅かすものとなると警告しておられます。このような個人主義的なものを超えた社会的な無関心が世界をこのような悲惨な状況にしているのであると、無関心のグローバル化という言葉を用い警告しておられます。その無関心については、まず神に対する無関心、すなわち人間が神にとって代わろうとする態度、自分自身が万物の支配者である、そしてまた、自分以外の誰に対しても義務を負わないと主張するような自分の権利のみが関心事となるような方向へ人間を推し進めてしまいます。さらにそれは隣人に対する無関心となり、私たちは情報社会の中で様々な情報に接し、人類に起きている悲劇を漠然とは知っているが、それに自分が関わっていると感じたり共感したりすることがない状態に陥ってしまう。これも無関心の恐ろしい側面である。そしてさらに、そのような情報に対してすら、耳を傾けなくなってしまう、自分の安穏で快適な生活を送っている限り、自分の周りにどんなに悲惨な状況に放り込まれている人がいても、全く関心を示さずに心を配ることもしなくなる無関心。このような無関心は、根本的なところでいえば、神への無関心から生じるものであると、教皇様は述べられています。そしてその無関心の連鎖が、自然破壊や社会的格差を引き起こし、それが紛争の引き金となり、暴力と貧困をもたらしている。
教皇様は、聖書の言葉を用いて、神がこれら全ての問題に対して、この世界を愛するがゆえに、いつくしみの眼差しをもっておられる、そしてそれを実現していくためには、私たち一人一人が連帯していくしかないのだ、私たち一人ひとりの関心や力には限界があります。ですからこれから世界を変えていくのは、個人の回心によりもたらされる倫理的な徳であると同時に社会的な姿勢、そしてまたそれらは教育によって養成されていくものであると述べられています。
大切なことは、最初の方で言ったマリア様の心です。このような世界中にある様々な問題に直面しながら、では主体的に自分はどうしたらよいのか、それが見えてこない。でもその疑問は常に持ち続け、自分の心の中で思い巡らせ続けるうちに、ある時にその道が示される。ある人にとっては、環境問題に対するシンポジウムや募金などの活動に積極的に関わるきっかけかもしれないし、別な人にとっては社会の中で小さくされている人たちに対する関わりの糸口を、普段の生活のある出会いによって見出されることがあるかもしれません。これらは私たちの人生において、ときどき神がなさるやり方です。特に若者が自分の生きる道を見出そうとするとき、自分がどう生きたらよいか分からないというときに、その思いを巡らせているときに、ある時に「ああ、これだ」と気づく、まさに召命として神が道を示してくださいます。司祭や修道者を目指すきっかけも同じようなことです。
私たちの人生において決定的に、その後の方向性を決めていく出会いやきっかけは、普段私たちが多くの関心を持って、常に真剣に取り組んでいこうとする姿勢があって初めて示されるものです。
そのように同じような個人的な観点を超えて、今、教皇様は、このキリストの教会が、世界に対して、常に関心を持ち続け、世界に対して声を上げるように呼び掛けておられます。世界の隅々にある私たちのような小教区においても、何ができるのかということを、意図的に考え、思い巡らせ続けることをしなければ、社会的な問題に関わることのない、無関心な共同体になってしまう危険性があります。
私たちは個人の思惑を超えて、共同体として連帯して、今何に取り組むように召されているのか、今何処に向かっていけばよいのか分からないにしても、その問いを持ち続けて、ある時「これだ」というものを見つけたときに、そこに力を注いでいくということが大切なことだと思います。』