後藤神父様のお説教をご紹介します。
今日の聖書のお話し、皆さんはどんな場面、どんな言葉がが心に響いているでしょうか。
お酒は嗜まないという人はたくさんいますけれど 、もし、イエスが水をぶどう酒に変えたという、そのぶどう酒が目の前にあったら少しは味わってみたいと、誰もが思うのではないでしょうか。イエスが造られたぶどう酒、どんな味がしたのでしょうか。それを考えると酒を嗜まない人であっても、そのぶどう酒をひと口味わってみたいと思うような気がします。かつて、ぶどう酒は私たち日本人にとって高級のようなイメージがあったような気がします。私が小さいときから見てきたぶどう酒は酒に比べ手に入らないものであったし、高級であったと感じます。でも、今の私たちにとっては、健康にも良いと言われているぶどう酒になっています。値段も手頃な値段で変えるような時代です。ぶどう酒を嗜むのは男性に限らず女性も多くなっているような気がします。
ワインにまつわる面白いワイン談義があります。(ここで、神父様は年に何回か開催される司祭会議の夕食で、ドイツやフランスなどの外国人神父の自国のワインのおいしさを自慢し合う熱の入ったやりとりのエピソードを語ります。)最初にお話ししましたが、イエス様が水をぶどう酒に変えられた、その味はどんなものかやはり気になります。
今日はそのカナンの婚宴の奇跡のことが告げられています。このイエス様の奇跡は最初の奇跡であると聖書は記しています。その目的も聖書ははっきりと告げられています。「イエスは、この最初の奇跡をガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」(ヨハネ福音書2章11節)いつも奇跡を行うのは神様の栄光を表すためと聖書は語っておられます。病気の人を治したとしても、それは神様の栄光を表すためにと、人々に示されたようです。今、私たちの典礼の季節は「年間」の典礼の季節に入りました。イエス様の栄光の業も季節に合わせて、私たちに示されています。イエスの栄光を表すこのしるしは、はっきりとご自分の栄光を表すことによって弟子達を探り信じさせたと聖書は告げています。今日のみ言葉の最後の一節は「イエスは栄光を表された。弟子達は信じた。」 イエスを信じ、近づいた弟子達。
今日、聖書によって神から語られたこの言葉は、一番最初は「そのとき」という言葉が添えられて始まっています。「そのとき」…どんなときのことを表していたでしょうか。聖書で読んでいくとき「そのとき」という聖書の言葉は使われていませんが、私たちは毎日曜日にい前の聖書の箇所に繋がれてきますので、「そのとき」という表願が使われいるのです。先週はヨハネの福音ではなかったのですが「主の洗礼」のお話でした。主の洗礼を意識して「そのとき」を読んでいくとその流れが見えてきます。
「そのとき」はガリラヤのカナで婚礼があったと読み始めることになります。「あるとき」から3日がたって行われたのがカナの婚宴の奇跡である。では3日前にには何があったのか、ということになりますが、それは先週、私たちが祝った主の洗礼の出来後であるということになります。イエスの洗礼があってから三日後にこの婚礼があったことが私たちに告げられます。主の洗礼の翌日には何があったでしょうか。聖書では、最初の弟子がイエスに従う様子が語られています。そして、洗礼を授けたヨハネがイエスを見て「神の小羊だ」と話しています。アンデレとペトロが主に従う姿が翌日に起こりました。さらにその翌日、フィリッポに会った時、イエスは「私に従いなさい。」と招いておられます。そして、その翌日、三日目、カナの婚宴の日を迎えたと、主の洗礼から一日一日続いてきていることが今日の福音で語られています。
「三日目」という表現もシンボリックな表現になります。皆さんは「三日目」というと、どんなことを思い浮かべますか。三日目にキリストが復活するということを思い浮かべる方もおられるでしょう。この「三日目」というシンボリックな表現も、聖書には度々でてきて、ゆっくり読むと気づかされます。
さて、この物語になっている婚礼。旧約聖書の話しの中で、神と民との一致を「婚礼」を表す表現で使われています。また、新約聖書でもキリストと教会の関係を、夫と妻の関係をもって示すように、密接に教会とイエス・キリスト。私たちにとっても、キリストの肢体となってイエスに繋がっていることも暗示している、この奇跡の話しになっていると思います。召し出しを受けた弟子達はイエスに従って一致して、神の国を証しする旅に出かけ始めたのですが、カナの婚宴で奇跡を見て、さらにイエスに繋がっていく、弟子達の信仰がさらに成長していく、そういうふうに繋がっていきます。
しるしと使われるこのぶどう酒は、旧約の時代には神が救われる人に与える宝としてのシンボルを表していました。そして、イエスにおいて考えると、十字架で流された御血のカタログとしてぶどう酒を表してもいるわけです。ぶどう酒を喜びの源として、聖霊をとおして人々に豊に与えてくれる、それが私たちがいつも記念する主の食卓の上で、キリストの御血として 変えられるという形でミサがあります。ただ、カナの婚宴として奇跡をみるだけでなく、そこに深い信仰的な聖書的な背景が描かれていることを、黙想のうちに学び、聖書をとおして深く信仰の喜び、イエスと繋がっている私たちの信仰を表すということも味わいたいと思います。
この婚礼の席には母マリアも出席しています。マリアとのやりとりも少し不思議な経過をもたらしています。「ぶどう酒がありません。」とイエスに言われたマリアですが、何となく聖書の記述だけでみると、表面的にみるとマリアを突き放すようにして「私のときはまだきていません。」と答えているイエス。そう答えられたイエスに対してマリアは一歩も引くどころか、イエスに信頼を寄せていますから、「何でもこの人の言うとおりにしてください。」と逆にイエスに信頼を表すような話しをしています。ヨハネが書かれたこの意味深いカナの婚礼の出来事、そのみ言葉を黙想することによって、私たちはこの婚礼の祝宴のひとときが、私たちのミサ、聖体にも深く繋がっているようなことのように見えてくるような気がします。
新しい契約は、このミサで表される聖体祭儀をとおして、私たちに関わります。そのことを心にとめながら今日の聖書の言葉、ミサをすすめていきたいと思います。そして私たちにとって聖母マリアの存在もまた、心にとめておきたいと思います。マリアはいつもイエスとともにイエスに信頼を寄せてそこにおられた。宣教ということが私たちの役割、使命として語られる時代に入っていますが、私たちの宣教がイエスとともにあるように、マリアが示された信頼とともに、私たちの宣教の働きが出来るように、み言葉をとおしてもう一度イエスとともに、マリアとともに 新しい旅立ちをしていきたいと思います。