2016年1月31日日曜日

年間第4主日 「カトリック児童福祉の日・献金」

福音で語られるイエスの宣教の出来事にもう一度目を向けて、神に従い仕える心を忘れることなく、信仰によって成長できるよう祈りましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『1月の最後の日曜日を迎えています。
今日は「カトリック児童福祉の日・献金」の日ですので、最初にそのことに少し触れたいと思います。毎年、1月の最後の日曜日は「カトリック児童福祉の日」になっています。児童福祉、これは日本だけのことではなくて、全世界に向けられた献金でもあります。皆さんの祈りや協力、理解のもと、温かいご支援を毎年いただいています。子供たちが置かれている今の世界の環境は、決して安心できるものではないと言えます。代表的なこととしては深刻化する難民問題が挙げられます。様々な国の代表者が話し合いを続けていますが、厳しい状況に置かれています。難民やその子供たちは、不適切な環境で暮らし、屋外で眠り、肉体だけではなく精神的にも健康的な危機にさらされているといえます。栄養失調からくる感染症が流行っており、十分な食事もとれず、寒い中で眠り、健康を害している子供たちが大勢います。教皇様は一人でも多くの子供たちの命を救うために、全世界の教会に、心からの祈りと献金を委ねています。これは難民の問題が起きたからではなく、毎年続けられていることでもあります。どの国でも子供たちが少なくなったといわれる時代、未来を託された大切な子供たちが、今もなお厳しい状況に置かれているということを、私たちはもう一度意識して心に留めたいと思います。今日の児童福祉の日の献金は、ミサ中に集められたそのすべてが司教館をとおして、教皇庁に送られます。そして全世界から集められた献金は、世界中の様々な国の子供たちの支援のために使われようとしています。子供たちの問題は、遠くで起こっている問題ではありません。いつくしみ深い神もきっと心を痛めている問題だと思います。今日のミサの中で、皆さんの祈りと献金を、その子供たちのためにお願いしたいと思います。

さて、今日の福音は、故郷に帰られたイエスの姿を私たちに示します。そして故郷でイエスを迎い入れた人々の態度、行動も私たちに示されました。マタイの福音やマルコの福音では、ガリラヤの説教はイエスの宣教の終わりになっています。しかし今日、私たちに語られたルカの福音だけが、宣教の初めに故郷で話されているイエスを私たちに告げているものです。聖書学者はイエスのナザレの訪問が2度あったと伝えています。今年はルカの福音が読まれる典礼になっています。そして先週はルカの福音の第一章の最初が読まれました。そこで私たちが耳にしたこと、イエスの言葉は「あなた方が耳にした言葉は今日実現した」という、ナザレの会堂で語られたイエスの言葉でした。イエスは故郷の人たち、そして私たちにもメシアであるご自分に対する信仰を求められたとも言えます。
イエスが故郷に帰ってきて、人々は直接イエスから話をうかがい、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。イエスが語ったことによる故郷の人たちの体験は、驚きのなかに拒絶の心もあったということが、今日の聖書のお話です。人々の驚きは信仰から出る驚きではありませんでした。イエスを褒め、驚きながらも人々の心は、「この人はヨゼフの子ではないか?」という軽蔑が含まれた言い方をしていました。
キリスト、救い主を信じるとは、どういうことでしょうか。キリストの全てを信じて、受け入れることであるはず、十字架上で悶え苦しんで亡くなられるキリストを受け入れること、それが私たちの信仰であり、キリストを信じるということだと思います。
故郷に帰ってきたイエスの語られた言葉、でもその言葉は人々に驚きを与えましたが、歓迎されることではなかったようです。拒絶されたイエスではありましたが、イエスの道はただ一つです。父なる神の使命を生きる道であり、たとえ人々に軽蔑され拒絶されたとしても、苦しみがあっても、十字架の道であるものとして前に進んで行く、それがイエスの道でした。そして宣教を示唆するように、救いの福音は祖国の人々だけに与えられるものではなく、異邦人を含む全ての人に向けられていたということを告げています。
それにしても、このルカの福音では、故郷での宣教が拒絶されるというイエスの活動の始まりは、非常に象徴したような形で私たちに語り続けています。この故郷の人たちに受け入れられないことは、すでに予言されていることでもありました。イエスは様々な反対を受けながらも旧約の預言者のように、受難に向かって突き進んでいく人でした。このような背景で、イエスはナザレの人々の不信に対して、旧約聖書にある二つの例を引き合いに出しています。この二つは、いずれも異邦人に対するお話になっていました。異邦人がイスラエルの預言者から主の恵みを受けたという内容です。今の異邦人とは同じ宗教を持つ人々とは違う人を指していますが、当時のユダヤ教の人々にとっては、敵対するかのような人々と考えられていました。ですから、異邦人に神から恵みがもたらされるということは、とても理解できないような出来事だったのです。でも旧約の時代にも異邦人に向けられた神の恵みの出来事だったということを私たちにも告げています。
一つは、飢饉のときエリヤがシドン地方のサレプタの未亡人のところに遣わされた。もう一つは、エリシャがシリア人のナアマンにだけ病気を癒す奇跡を行った出来事でした。
神の民である私たちを差し置いて、神の恵みは神を信じない人々の上に下ったということは、故郷の人々にとっては、驚きとともに神の恵みを少し疑うような内容でした。信仰が十分に熟していないイスラエル人であったということでしょうか。異邦人が主の恵みに与るということを不愉快に思ったようです。
私たちには、そのような心がないでしょうか?私たちの心の隅の何処かに持ち合わせているものではないでしょうか?
ルカは、イエスの教えと恵みはイスラエルの民の不信仰により、異邦人の世界に向けられていることを語りました。それはまた、旧約の時代にもあった出来事として重なるものでした。預言者は何度もそのような体験を繰り返しながらイスラエルの民を導いていました。でも、イスラエルの民は預言者の言葉を受け入れずに拒絶し、自分たちの偏った信仰を生きていたということでもあったと思います。イエスは故郷の人々を退けるとき、単純に拒否したのではなくて、聖書の証言に基づき話されています。イエスにとって何よりも尊いことは、神の民と距離的に近いということではなく、神の召命、神の導きに従うということが大事だということを語ります。神の指し示される道を愛によってひたすら歩むことがイエスの使命であり、目的でもありました。そして神の民の目的・使命もイエスに繋がることであったはずです。私たちの信仰も、改めてよく考えてみなければならないようです。
私たちの信仰は、信仰を持たない人よりも、よい人生を歩むためにあるのでしょうか?
信仰を生きることは、自分の栄光の道だから信仰を歩んでいるのでしょうか?
信仰においてさえもえてして、私たちは自分中心になっていることがあるような気がします。ひたすら自己主張をしていることに、気が付くことがあるような気がします。仕える心よりも、自分のことの方が先に考えられていることがあります。仕える心の方を大事にしなけれならないのは、私たちの信仰だと思います。神の道に従うことが栄光の道であるならば、その道を歩めばよいでしょう。もしそれが苦難の道であって、それが自分に与えられた道だとすれば、それを喜んで選び取っていくところに、私たちの信仰もあると思います。決して楽をするために、ただ単に恵みをいただくための信仰ではないはずです。
故郷のナザレで、イエスは町の外に追い出され、崖から突き落とされそうになりました。でもイエスは人々の間を通り抜け立ち去られました。それが今日の福音の最後に語られていることです。拒絶にあっても殺されそうになっても、イエスはただひたすらそこを通り抜けて、自分に与えられた使命のために十字架に向かって歩んで行こうとしています。イエスが人々から受けたその姿をとおして、またその行動をとおして、私たちは今どのように考えるべきでしょうか?
福音で語られるイエスの宣教の出来事にもう一度目を向けて、神に従い仕える心を忘れることなく今日のみ言葉に耳を傾け、信仰によって成長することができるように祈っていきたいと思います。』