2021年7月31日土曜日

8月1日 年間第18主日

レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




 【福音メッセージ】

黙想の練習のために霊的な欲求を自然の欲求に置き換えてみましょう。一般的に言うと、私たちは規則的に空腹になったりのどが渇いたりします。飲食しても数時間後には又お腹が空き、のどが渇きます。これは避けることのできない周期です。私たちの体は常に食べるもの、飲むものが欲しいのです。

精神についても同じです。一度祈っただけで霊的な欲求を永遠に満足させることはできません。イエスをただ信じてそれで永遠に満足することは不可能です。なぜならイエスへの祈りと一致はあなたの一日を通して毎日行われなければならないことだからです。

このキリスト信者としての欲求を満たすため、あなたは毎日何をしますか?おそらく毎日ミサに与ることはできなくても、信者としてキリストへの思いをいつも満たすようにしていますか?命のパンであるイエスを毎日求めますか?いつもイエスへの渇きを充分に満たそうとしますか?.

イエスを愛し従うというのは日々だけではなく、一日を通して更新しなければならないという決心です。お腹が減ったり、のどが渇いたりする度に更新しましょう。

今日はこのことを黙想します。食物や飲物への自然な欲求があったときには、絶えずキリストへのもっと深い精神的な渇望を思い起こしましょう。イエスに祈り、耳をそばだて、魂の中に受け入れることは何ものにも勝る食物です。イエスはまことの命の糧であり命の飲み物です。あなたが形作られるためのものです。イエスに人生の最も深い欲求を満たしていただきましょう.



【聖書朗読箇所】


わたしたちの飢えも渇きもご存じである神よ、

救いを求めて祈るわたしたちの集いを祝福してください。

いのちのことば、いのちのパンであるキリストに出会い、

一人ひとりのうちに生きる力が満ちあふれますように。

   B年用・試用 集会祈願より


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第1朗読 出エジプト記 16章2~4節、12~15節


  荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体は

  モーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。


 イスラエルの人々は彼らに言った。

 「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。

 あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、

 パンを腹いっぱい食べられたのに。

 あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、

 この全会衆を飢え死にさせようとしている。」


 主はモーセに言われた。

 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。

 民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。

 わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。


 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。

 彼らに伝えるがよい。

 『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。

 あなたたちはこうして、

 わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」


 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、

 朝には宿営の周りに露が降りた。

 

 この降りた露が蒸発すると、

 見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが

 大地の霜のように薄く残っていた。


 イスラエルの人々はそれを見て、

 これは一体何だろうと、口々に言った。

 彼らはそれが何であるか知らなかったからである。

 モーセは彼らに言った。

 「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章17節、20~24節


 そこで、わたしは主によって強く勧めます。

 もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。

 彼らは愚かな考えに従って歩 [んでいます。]

 

 しかし、あなたがたは、

 キリストをこのように学んだのではありません。


 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、

 真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。


 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、

 滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、

 心の底から新たにされて、

 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、

 真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。



福音朗読 ヨハネによる福音書 6章24~35節


 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、

 自分たちもそれらの小舟に乗り、

 イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。


 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、

 「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。


 イエスは答えて言われた。

 「はっきり言っておく。

 あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、

 パンを食べて満腹したからだ。


 朽ちる食べ物のためではなく、

 いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。

 これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。

 父である神が、人の子を認証されたからである。」


 そこで彼らが、

 「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、

 イエスは答えて言われた。

 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」


 そこで、彼らは言った。

 「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、

 どんなしるしを行ってくださいますか。

 どのようなことをしてくださいますか。


 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。

 『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」


 すると、イエスは言われた。

 「はっきり言っておく。

 モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、

 わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。

 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」


 そこで、彼らが、

 「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

 イエスは言われた。

 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、

 わたしを信じる者は決して渇くことがない。


2021年7月23日金曜日

7月25日 年間第17主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

私たちは時折自分たちの能力を超えた難しい状況に陥ることがあります。問題とそれに対応する間の隔たりが大きすぎるのです。問題に取り組むためのエネルギーを使い果たすような無力さを感じ、それに立ち向かうには問題が大きすぎると思ってしまいます。この福音ではこのような明らかな無力さの例が語られています。

イエスと弟子たちは町から離れた場所で、多くの空腹な群衆を前にしていました。彼らに食事を与える必要がありましたが、そこにはそのようなものは見当たりません。どうしようもない気持ちがイエスの弟子の言葉から聞かれます。フィリポが言います。「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」アンデレは大麦のパン5つと魚2匹を持った少年を見て、「こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」とむしろ絶望的に問いかけます。イエスは弟子たちと同じく、ことの難しさと食べ物が足りないことに気づいていました。しかしイエスは弟子たちと同じようには思っていませんでした。少年の持っていた5つの大麦パンと2匹の魚が大勢の群衆を満たす鍵であるとわかっておられたのです。

その少年の存在と彼のわずかな食べ物がなければ、群衆は満たされることがなかったでしょう。主が今日の群衆の様々な飢えを満たすことを続けようとされるには、私たちは、それが基本的な食物不足であれ、避難所、家庭、友情、共同体、受容、そして神への精神的な深い飢えであれ、私たちが今持っているものに物惜しみをしないことが必要であると主は教えます。

この福音では、最も小さな努力でさえ過少評価してはならない、自分が自由に使えるものについては金銭、時間、技能など、何でも物惜しみしないようにと教えます。

四人の福音記者たちは皆、その日野外で起こったこと、最後の晩餐で起こったこと、そして毎回御聖体に起こることの繋がりを理解していました。少年の簡素な5つの大麦パンと2匹の魚の提供を何千人分もの人々の食事に変えたように、主はパンと葡萄酒の簡素な捧げものを全ての人への霊的な食事、命のパンと救いの盃に聖変化されます。御聖体を通して主が働く様は私たちの生涯に渡りなされるものです。主は私たちの捧げる僅かなものを受け取られ、それをもって、聖パウロの言葉を借りるならば、私たちが求め想像するより更に豊かに成し遂げられるのです。


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  飢え渇くすべての人に、

  あなたはいつくしみの目を注いでくださいます。

  きょう一つに集まり、救いのことばに耳を傾けるわたしたちが、

  あなたのいのちに満たされる喜びを深く味わうことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 列王記下 4章42~44節


一人の男がバアル・シャリシャから

初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて

神の人のもとに持って来た。


神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、

召し使いは、

「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。


エリシャは再び命じた。

「人々に与えて食べさせなさい。

主は言われる。

『彼らは食べきれずに残す。』」


召し使いがそれを配ったところ、

主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~6節


主に結ばれて囚人となっているわたしは

あなたがたに勧めます。


神から招かれたのですから、

その招きにふさわしく歩み、

いっさい高ぶることなく、

柔和で、寛容の心を持ちなさい。


愛をもって互いに忍耐し、

和のきずなで結ばれて、

霊による一致を保つように努めなさい。


体は一つ、霊は一つです。

それは、あなたがたが、

一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。


主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、

すべてのものの父である神は唯一であって、

すべてのものの上にあり、

べてのものを通して働き、

すべてのものの内におられます。



福音朗読 ヨハネによる福音書 6章1~15節


イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。

大勢の群衆が後を追った。

イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。

イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。


ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに、

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」

と言われたが、こういったのはフィリポを試みるためであって、

ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。


フィリポは、

「めいめいが少しずつ食べるためにも、

二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」

と答えた。


弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。

けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」


イエスは、

「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。

男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。


さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、

欲しいだけ分け与えられた。

人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、

「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。

集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、

なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、

「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。


イエスは、人々が来て、

自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、

ひとりでまた山に退かれた。


2021年7月17日土曜日

7月18日 年間第16主日

 湯澤神父様の「福音への一言」を、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音への一言 湯澤神父】

2021年7月18日 年間第16主日(マルコ、6章30~34節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、弟子たちの福音宣教からイエス様が人々をパンで養う出来事へ移行する橋渡の箇所になっています。宣教から帰ってきた弟子たちもイエス様も疲れていたのでしょう。群衆から離れて休もうとします。これは、単なる休みというよりは神様と過ごす霊的な時で、祈りの時と言えます。しかし、群衆はそうしたイエス様の意図を知ってか知らずか、イエス様たちを追って集まってきます。その群衆を見た時、イエス様には彼らが飼い主のいない羊の群れのように見え、憐れに思って教え始めます。

  ここでは、よく知られた「見て、憐れに思う」という言い回しが使われています。たとえば『善きサマリア人のたとえ』では、瀕死の怪我人を「見て、憐れに思い」(ルカ、10.30-)、サマリア人は彼を助けます。『マタイ福音書』では、どうにも一万タラントの借金を返せない家来を「見て憐れみ」(マタイ、18.27)、王様は借金を免じます。また『放蕩息子』のたとえ話でも、二進も三進もいかなくなり、打ちのめされて帰ってきた息子の姿を「見て、憐れに思い」(ルカ、15.20)、父親は再び息子として受け入れます。この憐みの心は、単なる同情、憐憫の情を表しているのではありません。何者かの呼びかけを感じ、心の奥底から行動へと突き動かされることを意味しています。

  見て憐れに思ったイエス様がしたことは、教えることでした。これは、続く個所からも分かるように、モーセを介して神に甘え、依存するだけの群衆が自立して神の民になるまでを描く『出エジプト記』と『民数記』が背景になっています。そして、モーセに甘えっぱなしだった群れは、『民数記』の後半から、民として自立していきます。もちろん神様も、その時以来もはや彼らを子ども扱いせず、自立した大人として責任を取らせます。エジプトを出たイスラエル民族は、こうして約束の土地へ入っていくのです。

  大切な時を中断してまで、根底から突き動かされる力によって、イエス様が教えようとしたことは、このことだったのではないかと思います。宣教のために集まり、散っていく新しい集い、新しい神の民を形作るために教え始められた。この箇所は、一見何気ない橋渡しの出来事のように見えますが、このようにして見ると、イエス様を通して実現させようとした神様の思いも感じ取ることができるのではないでしょうか。神様は、単なる依存的な群れから、使命に生きる集いへ、教会共同体へ育ってほしいというご自分の思いを、旧約聖書を背景にしながら知ってほしかったのではないでしょうか。

  私たちはこうしたイエス様の姿から、何を感じるでしょうか。神様とイエス様の熱い思いを感じ取ることができたでしょうか。イエス様の、そして神様のこの熱い思いを味わいたいと思います。                           湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


いつくしみに満ちた神よ、

  あなたは牧者キリストを遣わし

、   すべての人を呼び集めてくださいます。

  ここに集うわたしたちが、いつも主のことばに耳を傾け、

  その教えに従う者となりますように。

   集会祈願より


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第1朗読 エレミヤ書 23章1~6節


「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを

滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。

それゆえ、イスラエルの神、

主はわたしの民を牧する牧者たちについて、

こう言われる。


「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、

追い払うばかりで、顧みることをしなかった。

わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」

と主は言われる。


「このわたしが、群れの残った羊を、

追いやったあらゆる国々から集め、

もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。

彼らを牧する牧者をわたしは立てる。

群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、

また迷い出ることもない」と主は言われる。


見よ、このような日が来る、と主は言われる。

わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。

王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。

彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。

彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 2章13~18節


あなたがたは、以前は遠く離れていたが、

今や、キリスト・イエスにおいて、

キリストの血によって近い者となったのです。


実に、キリストはわたしたちの平和であります。

二つのものを一つにし、

御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。


こうしてキリストは、

双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて

平和を実現し、十字架を通して、

両者を一つの体として神と和解させ、

十字架によって敵意を滅ぼされました。


キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、

また、近くにいる人々にも、

平和の福音を告げ知らせられました。


それで、

このキリストによってわたしたち両方の者が

一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。



福音朗読 マルコによる福音書 6章30~34節


さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、

自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。


イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、

しばらく休むがよい」と言われた。

出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。


そこで、一同は舟に乗って、

自分たちだけで人里離れた所へ行った。

ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、

それと気づき、 すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、

彼らより先に着いた。


イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、

飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、

いろいろと教え始められた。


2021年7月11日日曜日

7月11日 年間第15主日

松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】

二人一組で遣わされることとは何であろうか。教会の法律によると大人1人の「証人がその証言に一致する共同証人を有するか、又は他の証拠によって確認できるか~(教会法1572・4)」と、一人の証言の信ぴょう性について不完全性を指摘している。また創世記で「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう。(創世記2:18)」と人類の連帯性も、もともと神の意志から来ているものであることも語る。キリストの弟子、神の力が与えられている者であっても人の弱さや至らなさは共同体で守られなければならないということであろう。同時に他の助けは、宣教に赴いたところで神の働きにより随時受けることができるともされているので、重ね着である下着2枚は必要ないし、不必要な持ち物は排除され「日ごとの糧を今日お与えください(主の祈り)」という神への全幅の信頼と神への委ねに身を任せることで、恩恵を受けることができると信じている。そして逆に宣教される宣教地の人々は試されている。このように派遣されたものもその地では人々の信仰により支えられることに信頼を置くようにイエスは弟子たちに語られた。この双方は信仰による絆によって固く結ばれる。そのメインの教えは悔い改めで、その教えに耳を貸さない者は恩恵を受けられず、信仰が無いと判断されその結果によりすぐさまその場から立ち去ることも指示される。それほどイエスを頂点として、救いの計画の実行には、万物の救いという恵みの開かれた姿勢と、そこに与り本当に救われる人が限られていく姿を示された。

神の意志が天地創造の前からあり、すべてのものが生まれる前から決められた神の計画は、わたしたちに愛により、恵みを注ぎ救いに導こうとするイエスの実現によって完成されるのが神の意志。キリストが神の意志を実現しているように、私たちもキリストを唯一としてそこから派遣されたものもイエスの意志そのものであり、そこに付き従う姿勢が問われている。改めて目の前にいる人の頭が誰であるのかを認識しようとするのが今日の朗読個所なのだろう。

イエスが派遣した宣教者により福音を授けられる私たちは、最大限のもてなしをもって、その言動を受け入れる。しかしその派遣される人は、必ずしも立派な人ばかりではない。子供に読み聞かせる『靴屋のマルチン』の絵本では、それは時には子供であったり、老人であったり、病気の人や貧しい人である。「これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。(詩編118:23)」によって、私たちの発想の外からいついかなる時に派遣されて来るかわからない。身を引き締めて対応できるには、悔い改めている心と、聞く耳を供えていなければ、「足の裏の埃を払い落と」されて置き去りにされ、救いに与れなくなる。私たちはキリストの言葉に従う決意だけではなく、その受け入れ準備を日々していかなければならない。それほどイエスの到来は私たちにとって大きな喜びだからである。



【聖書朗読箇所】


すべての人を招いておられる神よ、

  あなたはいつの代も、神の国のために働く人々を求めておられます。

  主日の集いをともに祝うわたしたちが、神の声に静かに耳を傾け、

  その呼びかけを新たに受けとめることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 アモス書 7章12~15節


アマツヤはアモスに言った。

「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。

そこで預言するがよい。

だが、ベテルでは二度と預言するな。

ここは王の聖所、王国の神殿だから。」


アモスは答えてアマツヤに言った。

「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。

わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。


主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、

『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~14節


わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、

ほめたたえられますように。


神は、わたしたちをキリストにおいて、

天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。


天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、

御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、

キリストにおいてお選びになりました。

イエス・キリストによって神の子にしようと、

御心のままに前もってお定めになったのです。

神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、

わたしたちがたたえるためです。


わたしたちはこの御子において、

その血によって贖われ、罪を赦されました。

これは、神の豊かな恵みによるものです。


神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、

すべての知恵と理解とを与えて、

秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。

これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。


こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、

あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。


キリストにおいてわたしたちは、

御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、

約束されたものの相続者とされました。

それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、

神の栄光をたたえるためです。


あなたがたもまた、キリストにおいて、

真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、

そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。


この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、

こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、

神の栄光をたたえることになるのです。



福音朗読 マルコによる福音書 6章7~13節


十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。

その際、汚れた霊に対する権能を授け、

旅には杖一本のほか何も持たず、

パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、

そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。


また、こうも言われた。

「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、

その家にとどまりなさい。

しかし、あなたがたを迎え入れず、

あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、

そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」


十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


2021年7月3日土曜日

7月4日 年間第14主日

 7月4日(日)年間第14主日 ウルバン神父様の福音メッセージと、この日の主日ミサを司式されたレイ神父様のお説教を聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

“イエスは自分の家に来たが、家の人々は彼を受け入れなかった”。       2021.7.4.

イエスは湖に畔に座って、朝の静けさを味わっていました。ところが人に気がつくと、すぐ人々が次々走って来て、また群衆に囲まれた。多くの人は主を触れようとして押し迫ってきた。町から町へ、村から村へ回って歩いたが、どこでも人は、飢える心を持って救いを待っていた。イエスは疲れ果てたが、歩きながら“いつかナザレへ帰ろう、愛する故郷へ帰ろう。母も村の皆も待っているでしょう”と思っていた。

ある日、朝早く、まだ暗いうちに人里離れた所で祈った時、弟子が探しに来て“皆があなたを探しています”と言った時、イエスは“はい、行こう。今日ナザレへ行こう“と喜びのある顔で答えた。

30kmほどの長い道でした。ナザレの村に近づいたら、人も、あちこちの場所も、なんでも懐かしくなって、いろいろな思い出が浮かんできた。“みて、子供の時ここで幼なじみ達と遊んでいた。あの墓のそばで私たちは皆、死んだ子供のことを泣いていた。あそこで泥々になって遊んでいた。はぁ、お懐かしい“。

洞窟らしい家のドアをノックして、“母ちゃん、シャロム”と呼んで入ると、二人の出会いはどうだったでしょうか。抱き合いながら、母親は孤独の痛みと涙をすべて忘れました。お連れの弟子達のためにお母さんは忙しかったでしょうが、後でお二人は共に日が沈むのを見ながら、心の中で深い平和と喜びが広まった。では明日は村の懐かしい皆様に会いましょう。 

安息日の朝になりました。イエスは会堂の中で昔と同じように皆の内で座っていた。礼拝の途中、会堂長が“誰に今日の朗読を読んでいただけるのか”と尋ねた時、だれも返事しませんでした。皆はイエスのほうを見ていた。イエスが立ち上がって、皆の前で立っていた。“わぁ、全然前と同じだ。偉い顔をひとつもしない”と互いに言い合った。イエスは懐かしい人々を見回しながら言われた。“主の霊は私の上にある”。会堂はとっても静かになって、皆の目はイエスに注がれていた。ところが教えの途中、次第に驚きと不平の声が大きくなった。”この人はこのようなことをどこから得たのか。皆は彼を知っているでしょう。主の霊は私の上にあるって?自分は何だと思うか。ただの大工で、一緒に汗をかいて働いたり、祝いの時共に踊ったりしたではないか。侮辱ではないか“。騒ぎが爆発して、皆はイエスを会堂の外に追い出して山の崖から落とそうとした。しかしイエスは皆の間を抜けて去ってしまった。

大きな期待と喜びをもってナザレへ上って行ったが、泣いている母を後に残して、人の不信仰に非常に驚き悲しみながら、また旅を続けた。それでも人々に心を閉じないで、いつか来ることを待っていた。2000年後の今でも、イエスは旅して人を探しています。私たちにも主の故郷の人々のように不安や疑いがあって、いろいろなことを分かりません。それでもイエスに近づこう。主は人の惨めさを見るのではなく、ただ使徒ペトロのような信頼の言葉を待っている。“主よ、私はだれの所へ行かれよう。あなた以外にもう行く所はない。あなただけは命の言葉を持っておられる“。その時あなたを見ている主の目の眼差しは美しい、そして主の手から生きる水が流れ出て、あなたの乾いた心を潤す。    ウルバン神父


【お説教 レイ神父】


今日の福音では、他人を裁き、傷つけられ侮辱され、拒むと、無意識に嫌悪や恨みを人のせいにするようになり、それに対して私たちは正面から立ち向かえと教えます。家族、仕事仲間、どこにおいても、パリサイ人やヘロデ党、イエスをすぐに拒絶した故郷の人々のようにならないよう、否定的なことを広げないように気をつける必要があります。偏見や自分好みの見方が現実を簡単に混乱させてしまいます。すべての話には別の面があり、誰の行いにもそれぞれの理由があると理解しましょう。

聖パウロと共に自分の'とげ’つまり自身の複雑さ、影、劣等感、神経症的な行いを認めましょう。なんと呼ぼうと、私たちにはそれがあります。本当に弟子になりたいのなら、自分の存在の中心を神の言葉の上に建て直す学びが必要です。現実との関係の、しっかりした意味ある土台を築くためです。これは精神性であり、心理学がしばしば私たちには必要と示すものです。どうか神の恵み、それが行く手を導くものであり、足場となるものであり、そして勇気を与えるものであると思いおこすことができますように。

聖パウロのように、この困難な経験は神の存在が私たちに開いているのだと気づかせます。取るにたらないとか、価値がないと見なすそのものこそが、私たちの命のうちに力強く働く隙間を生み出すのです。パウロが聞いた、昇天した主が語った中に逆説的な何かがあります。「私の力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。人生は戦いであると切に感じる時、神は度々私たちの命に力強く創造的に触れられます。


【聖書朗読箇所】

限りない愛に満ちておられる神よ、

  あなたはたえずわたしたちを、真理のことばで導いてくださいます。

  ここに集うわたしたちが、あなたのことばを深く受けとめ、

  心からあなたを賛美することができますように。

   集会祈願より

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第1朗読 エゼキエル書 2章2~5節


彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、

わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。

主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、

わたしに逆らった反逆の民に遣わす。

彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。

恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。

彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。

彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、

彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。



第2朗読 コリントの信徒への手紙二 12章7b~10節


思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。

それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、

サタンから送られた使いです。


この使いについて、離れ去らせてくださるように、

わたしは三度主に願いました。


すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、

むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。


それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、

そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。

なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。



福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節


イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。

安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。

多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。

「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。

この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

この人は、大工ではないか。

マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。

姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

このように、人々はイエスにつまずいた。


イエスは、「預言者が敬われないのは、

自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、

そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

そして、人々の不信仰に驚かれた。

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。