7月4日(日)年間第14主日 ウルバン神父様の福音メッセージと、この日の主日ミサを司式されたレイ神父様のお説教を聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ ウルバン神父】
“イエスは自分の家に来たが、家の人々は彼を受け入れなかった”。 2021.7.4.
イエスは湖に畔に座って、朝の静けさを味わっていました。ところが人に気がつくと、すぐ人々が次々走って来て、また群衆に囲まれた。多くの人は主を触れようとして押し迫ってきた。町から町へ、村から村へ回って歩いたが、どこでも人は、飢える心を持って救いを待っていた。イエスは疲れ果てたが、歩きながら“いつかナザレへ帰ろう、愛する故郷へ帰ろう。母も村の皆も待っているでしょう”と思っていた。
ある日、朝早く、まだ暗いうちに人里離れた所で祈った時、弟子が探しに来て“皆があなたを探しています”と言った時、イエスは“はい、行こう。今日ナザレへ行こう“と喜びのある顔で答えた。
30kmほどの長い道でした。ナザレの村に近づいたら、人も、あちこちの場所も、なんでも懐かしくなって、いろいろな思い出が浮かんできた。“みて、子供の時ここで幼なじみ達と遊んでいた。あの墓のそばで私たちは皆、死んだ子供のことを泣いていた。あそこで泥々になって遊んでいた。はぁ、お懐かしい“。
洞窟らしい家のドアをノックして、“母ちゃん、シャロム”と呼んで入ると、二人の出会いはどうだったでしょうか。抱き合いながら、母親は孤独の痛みと涙をすべて忘れました。お連れの弟子達のためにお母さんは忙しかったでしょうが、後でお二人は共に日が沈むのを見ながら、心の中で深い平和と喜びが広まった。では明日は村の懐かしい皆様に会いましょう。
安息日の朝になりました。イエスは会堂の中で昔と同じように皆の内で座っていた。礼拝の途中、会堂長が“誰に今日の朗読を読んでいただけるのか”と尋ねた時、だれも返事しませんでした。皆はイエスのほうを見ていた。イエスが立ち上がって、皆の前で立っていた。“わぁ、全然前と同じだ。偉い顔をひとつもしない”と互いに言い合った。イエスは懐かしい人々を見回しながら言われた。“主の霊は私の上にある”。会堂はとっても静かになって、皆の目はイエスに注がれていた。ところが教えの途中、次第に驚きと不平の声が大きくなった。”この人はこのようなことをどこから得たのか。皆は彼を知っているでしょう。主の霊は私の上にあるって?自分は何だと思うか。ただの大工で、一緒に汗をかいて働いたり、祝いの時共に踊ったりしたではないか。侮辱ではないか“。騒ぎが爆発して、皆はイエスを会堂の外に追い出して山の崖から落とそうとした。しかしイエスは皆の間を抜けて去ってしまった。
大きな期待と喜びをもってナザレへ上って行ったが、泣いている母を後に残して、人の不信仰に非常に驚き悲しみながら、また旅を続けた。それでも人々に心を閉じないで、いつか来ることを待っていた。2000年後の今でも、イエスは旅して人を探しています。私たちにも主の故郷の人々のように不安や疑いがあって、いろいろなことを分かりません。それでもイエスに近づこう。主は人の惨めさを見るのではなく、ただ使徒ペトロのような信頼の言葉を待っている。“主よ、私はだれの所へ行かれよう。あなた以外にもう行く所はない。あなただけは命の言葉を持っておられる“。その時あなたを見ている主の目の眼差しは美しい、そして主の手から生きる水が流れ出て、あなたの乾いた心を潤す。 ウルバン神父
【お説教 レイ神父】
今日の福音では、他人を裁き、傷つけられ侮辱され、拒むと、無意識に嫌悪や恨みを人のせいにするようになり、それに対して私たちは正面から立ち向かえと教えます。家族、仕事仲間、どこにおいても、パリサイ人やヘロデ党、イエスをすぐに拒絶した故郷の人々のようにならないよう、否定的なことを広げないように気をつける必要があります。偏見や自分好みの見方が現実を簡単に混乱させてしまいます。すべての話には別の面があり、誰の行いにもそれぞれの理由があると理解しましょう。
聖パウロと共に自分の'とげ’つまり自身の複雑さ、影、劣等感、神経症的な行いを認めましょう。なんと呼ぼうと、私たちにはそれがあります。本当に弟子になりたいのなら、自分の存在の中心を神の言葉の上に建て直す学びが必要です。現実との関係の、しっかりした意味ある土台を築くためです。これは精神性であり、心理学がしばしば私たちには必要と示すものです。どうか神の恵み、それが行く手を導くものであり、足場となるものであり、そして勇気を与えるものであると思いおこすことができますように。
聖パウロのように、この困難な経験は神の存在が私たちに開いているのだと気づかせます。取るにたらないとか、価値がないと見なすそのものこそが、私たちの命のうちに力強く働く隙間を生み出すのです。パウロが聞いた、昇天した主が語った中に逆説的な何かがあります。「私の力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。人生は戦いであると切に感じる時、神は度々私たちの命に力強く創造的に触れられます。
【聖書朗読箇所】
限りない愛に満ちておられる神よ、
あなたはたえずわたしたちを、真理のことばで導いてくださいます。
ここに集うわたしたちが、あなたのことばを深く受けとめ、
心からあなたを賛美することができますように。
集会祈願より
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第1朗読 エゼキエル書 2章2~5節
彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、
わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、
わたしに逆らった反逆の民に遣わす。
彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。
彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。
彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、
彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 12章7b~10節
思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。
それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、
サタンから送られた使いです。
この使いについて、離れ去らせてくださるように、
わたしは三度主に願いました。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、
そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。
この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
この人は、大工ではないか。
マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」
このように、人々はイエスにつまずいた。
イエスは、「預言者が敬われないのは、
自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。