2022年9月23日金曜日

9月25日 年間第26主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第26主日 C年 2022年9月25日 湯澤神父

兄弟姉妹の皆様

  この箇所はルカだけが残しているたとえ話です。お金持ちがお金持ちらしい生活をしています。その門前にラザロという皮膚病を病む貧しい人が物貰いをしています。お金持ちもラザロがいることを知り、家の出入りのたびに、なにがしかの施しをしていたのでしょう。また、ラザロもお金持ちの家の入り口にいて、お金持ちから何らかのものを、何らかの施しを受けていたのでしょう。おそらくこれが彼らの日常的な生活だったのでしょう。金持ちもラザロを虐めていたわけではなく、日常というのはそうしたものではなかったかと思います。私たちは、こうした日常生活を想像することができます。

  しかし、イエス様があえてこの話をしたのは、それで十分ではなかったからだと思います。イエス様は、最初に「モーセと預言者に耳を傾けなさい」とのべています。これは、日常、常識の世界です。旧約聖書では、弱い人、貧しい人に心を配るようにと教えています。特に、孤児、未亡人、難民に対して配慮することが求められています。彼らは、食べる手段を持たないからです。こういう在り方は、隣人愛の教えとして旧約聖書の中で繰り返し教えられています。ですから、たとえばホームレスの人たちにワンコインを施すことはある意味では普段の日常なのです。

  しかし、ここで、イエス様は二つのことを教えているのではないでしょうか。一つは、もう一度その人たちを見直してみることです。イエス様は、サマリア人のたとえ話をしています。ファリザイ派の人々も祭司も悪い人ではなかったでしょう。しかし、自分の日常を生きたのではないでしょうか。彼らは与えられた使命、与えられた仕事を果たすことそれを優先したに過ぎないでしょう。しかし、そこでもう一度怪我人に目を注いだのはサマリア人でした。イエス様は、日常の中で出会う人たちの中でもう一度見直す必要のある人のいることに気付いて欲しかったのではないかと思います。この金持ちにとっては、それが、毎日が見慣れたラザロではなかったかと思います。

  もう一つは、イエス様の十字架です。イエス様はこの話を十字架に向かうときに話をしています。そして、十字架を暗示することを金持ちに語らせています。「誰か死んだ者が生き返って兄弟のところに行ったら気が付くのではないでしょうか」。しかし、アブラハムの口を借りてイエス様は語っています。「旧約聖書で語られていることが理解できなければ、実際十字架にかかって死んでもそれが理解できないだろう」。十字架の在り方は、人のためにという在り方です。

  こうして見ると、実は、イエス様の言いたいことは一つの同じことだったのではないかと思います。このたとえ話を通して、もう一度普段の在り方を見直し、一番そばにいる人を見直し、人のために生きることが何か、考え直してはいかがでしょうか。


【聖書朗読箇所】

 いつくしみ深い神、

  苦しむ者の叫びを聞き、

  貧しい者の嘆きにこたえてくださる方。

  あなたのもとに集まったわたしたちに

  救いのことばを語りかけてください。

  みことばの光によって、

  わたしたちの住む世界が照らされますように。

集会祈願より


第1朗読 アモスの預言 6章1a,4-7節

 (主は言われる)災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは。

お前たちは象牙の寝台に横たわり長いすに寝そべり

羊の群れから小羊を取り牛舎から子牛を取って宴を開き

竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考え出す。

大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。

しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。

それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き

寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 6章11-16節

 神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。 正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。 命を得るために、あなたは神から召され、 多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 万物に命をお与えになる神の御前で、 そして、ポンティオ・ピラトの面前で 立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、 あなたに命じます。 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、 おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。 神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、 だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。 この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 16章19-31節

 「そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた)ある金持ちがいた。 いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。 犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、 天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。 金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、 宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、大声で言った。 『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。 ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。 わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。 『子よ、思い出してみるがよい。 お前は生きている間に良いものをもらっていたが、 ラザロは反対に悪いものをもらっていた。 今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、 ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、 そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。 『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。 あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、 よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。 『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。 彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。 『いいえ、父アブラハムよ、 もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、 悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。 『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、 たとえ死者の中から生き返る者があっても、 その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

2022年9月17日土曜日

9月18日 年間第25主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第25主日 C年 2022年9月18日 松村神父

今日の福音の個所は、司祭を含めて大きな壁の個所と言われています。だからこそ、どこに着目するかで、その解釈は大きく変わり、場合によればキリスト教に対する不信感を得るかもしれません。そのため、この福音を喜びの知らせに変換させる視点は、私たちの信仰、私たちのイエスに対する見方が問われているのかもしれないと思い、私はいつもドキドキしながらこの聖書の個所に挑んでいます。

聖書に向き合うたびに、毎回その視点は変わり新しさをくみ取っている個所となります。

さて、今日の個所を今の私から眺めてみると、次のように感じましたので、分かち合いたいと思います。

「不正な富」と言われていますが、そもそも「富」とはこの世で人間が作り出したもう一つの神に似たものではないかと思うわけです。私たちは「富」の誘惑といつも戦っています。人によっては「富」の虜になってしまい、奴隷になってしまう恐れまである強い力を宿すものです。だからこそすべてを捨てて「富」との関係性を断ち、神に向かって邁進するようにアシジのフランシスコは心を決めて歩みました。必要なもの、「日ごとの糧」を神から受ける托鉢修道会の誕生です。しかし世俗の中で生きる私たちは、その生活基盤を支える「富」なしに生きてはいけません。ついつい少し多めに、はたまたゆとりをもっていきたいと願うのが私たちです。昨今残りの人生2000万円騒動もあったぐらいです。だからこそ有り余るほど持ちたいと願う人も少なくなく、またお金で何でもできると考える人まで出てきます。もともと人間の心を揺るがす「富」は、「不正を起こさせる富」として人間社会に存在しています。これを「不正な富」と表現しているのであればあながち間違ってはいません。問題はこの「不正な富」を上手に制御し、神から離れないようにしなければなりません。神と富とどちらに使えるか。それは神を私たちが制御することはできませんが、「富」は私たちの心もち一つで制御できるのです。

いろいろな神父様を見てみると、定期的にご自身の給与を寄付される人もいれば、貧しい方を支援している人もいます。多額の寄付を貧しい団体に寄付している人もいれば、良い活動を陰ながら支援をしている人もいます。それはキリストの心でもありながら同時に、ため込まずご自身が「富」に左右されない生き方を示しているということでもあります。自分を律し、富に心を奪われないように、溜まれば放出するというダム的な考え方ですね。

ある学校で私は先生たちにこのように説明したことがあります。「頭のいい生徒を育ててください」「お金持ちになるように育ててください」と。なんという神父でしょうと言われるかもしれません。でもそのあとに付け加えます。「得た頭脳、得たお金を誰のために使うかも、必ず教えてください」と。それぞれ持てる人は持てない人のために働く使命がキリストから来ているからです。分かち合うことが何よりも大切。人をさげすんだり、比べたり、蹴落としたりするために教育しているのではありませんし、そのためにミッション校は存在していません。誰かのために「富」を得ているのであって、自分の為ではありません。もともと親からもらった命だし、そもそも神から与えられた命だからです。だから持てない人の分をしっかり稼いで、分かち合う必要があるのです。

だから今日の福音は、「不正な富」を制御する管理者になり、神の働き手になっていくことが求められているという意味で、不正な管理人が褒められていることを忘れてはいけないと感じるのです。「不正な富」が悪いのではなく、その「富」に制御されないように、イエス様は私たちの心に最大の恵みである「愛」を注いでいるのです。


【聖書朗読箇所】

 恵み豊かな神よ、

  ひとり子イエスは、その生涯をとおして、

  貧しさに徹して生きる道を示してくださいました。

  キリストに従うわたしたちが、

  まことの豊かさを知ることができますように。

集会祈願より



第1朗読 アモスの預言 8章4-7節


このことを聞け。

貧しい者を踏みつけ

苦しむ農民を押さえつける者たちよ。

お前たちは言う。 「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。

安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。 

エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。

弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。 また、くず麦を売ろう。」

主はヤコブの誇りにかけて誓われる。

「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」



第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 2章1-8節

(愛する者よ、)まず第一に勧めます。 願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。 わたしたちが常に信心と品位を保ち、 平穏で落ち着いた生活を送るためです。 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、 喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、 人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。 これは定められた時になされた証しです。 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、 すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。 わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、 清い手を上げてどこででも祈ることです。


福音朗読 ルカによる福音 16章1-13節

(そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。   「ある金持ちに一人の管理人がいた。 この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。 会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。 『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。 土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。 管理の仕事をやめさせられても、 自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、 まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。 『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。 そうしておけば、金がなくなったとき、 あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。 ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、 だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、 だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。 一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


2022年9月8日木曜日

9月11日 年間第24主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第24主日 C年 2022年9月11日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、「主の憐みに三つのたとえ話」などとタイトルが付けられている個所です。また、それぞれ「見失った羊のたとえ」、「なくした銀貨のたとえ」、「いなくなった息子のたとえ」と別々のタイトルをつけているものもあります。いずれにせよ、今日読まれる最初の状況設定が大切になります。そのために三つのたとえ話がここにまとめられているからです。その意味では、一つ一つのたとえ話に囚われてしまうと、大切な全体が見えてこなくなってしまいます。

  まず大切なことは、ルカが三つのたとえ話をここにまとめ上げるきっかけとなった出来事です。それは、徴税人や罪人たちがイエス様の話を聞きに来た時、ファリザイ派の人たちや律法学者たちがそれを、「あんな人たちまで仲間にして」と、好ましく思わなかったということです。それで、三つのたとえ話を並べています。これら全体のまとめになるのは、放蕩息子のたとえ話のお兄さんと父親との会話です。

  探し、見つけるものはそれぞれのたとえで異なっていますが、共通しているのは、喜びです。そしてその喜びは、変わっていきます。最初の見失った羊のたとえでは、見失ったもの(一頭の羊)を見つけることは、「喜びです」。次に、なくした銀貨を見つけることは、「近所の人と一緒に喜ぶような喜びです」。最後に行方知れずになった弟を見つけることは、「ともに喜ぶべきことではないか」、そうした喜びです。喜びは、周りの人たちを引き入れて深まっていきます(喜ぶ、喜ぼう、喜ぶべきだと)。

  ところで徴税人は、政務書の役人ではなく、徴税請負人のことです。その職業のゆえに差別されている人たちです。罪びとは、犯罪者ではなく、悪いことをする半端ものでもありません。様々な理由でファリザイ派の人たちのように律法に従って生きることが難しい人たち、神様から離れてしまった人たちです。神様を知らない人も含まれるでしょう。

  もしかしたら、ここに宣教の原型があるかもしれません。皆さんの周りに一人でもキリストに興味を持つ人がいたら、それは見失った羊のように喜びでしょう。少なくとも神様にとっては喜びだとイエス様は教えています。もしそんな人を見いだせたら、神様にとって喜びでしょうし、私たちも一緒に喜ぶよう招かれています。それは、兄が弟にしたように、それはファリザイ派の人がしていたようですが、評価したり、裁いたりすべきことではなく、喜ぶべくことなのです。

  イエス様のたとえ話は、実は非常に身近なことです。しかし、私たちは、宣教も含めて遠いところに置いてしまって、評価したり、栽いたりして、喜ぶことを忘れていないでしょうか。もし、身近なものとして味わえたら、イエス様の残念さが、この例え話をしなければならなかった気持ちがわかるのではないでしょうか。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


 いつくしみ深い神よ、

  あなたはひとり子を遣わし、

  すべての人を回心の道へと招いておられます。

  キリストのもとに集められたわたしたちが、

  たえずあなたの救いを喜び歌うことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 32章7-11,13-14節

 (その日、)主はモーセに仰せになった。 「直ちに下山せよ。 あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、 それにひれ伏し、いけにえをささげて、 『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と 叫んでいる。」 主は更に、モーセに言われた。 「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 今は、わたしを引き止めるな。 わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。 わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 モーセは主なる神をなだめて言った。 「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。 あなたが大いなる御力と強い御手をもって エジプトの国から導き出された民ではありませんか。 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを 思い起こしてください。 あなたは彼らに自ら誓って、 『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、 わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、 永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 1章12-17節

(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。 この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。 しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、 あふれるほど与えられました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。 わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、 キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、 わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、 誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 15章1-32節

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と 不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、 その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも 大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、 その一枚を無くしたとすれば、 ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、 『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、 神の天使たちの間に喜びがある。」

  (また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を ください』と言った。 それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、 そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、 彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、 その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、 食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。 『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、 わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。 「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、 憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。 『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。 『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、 足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、 音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。 無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。 言いつけに背いたことは一度もありません。 それなのに、わたしが友達と宴会をするために、 子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、 娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、 肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。 『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」)