2021年2月27日土曜日

四旬節第2主日

 2月28日(日)四旬節第2主日 湯澤神父様の「福音への一言」を、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音への一言 湯澤神父様】

2021年2月28日 四旬節第二主日(マルコ、9章2~10節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音書の個所は、イエス様のご変容の出来事を語っています。そしてこの個所を理解するには、前後の出来事を踏まえる必要があります。それで、簡単に流れを遡ってみましょう。フィリポ・カイザリアで、イエス様は御自分のことをどう思っているか尋ねます。ペトロが「あなたはメシア(キリスト)です」と答えます。すると誰にも話さないように言いますが、それでいてイエス様は、御自分の受難について公然と話し出します。そこで今度は、ペトロがイエス様に話さないようにアドバイスします。するとイエス様は、それは人間の考えであって、神様の考えではないと激しく叱り付けます。

「イエス様がキリスト(メシア・神の子)である」とはどういうことなのでしょうか。実は、ペトロを始めその当時のイスラエル人すべてが知っている「メシア」という存在のイメージを、イエス様は根本から変えようとしています。人間的な考え、それは誰もが持っている同時の人々のメシア観なのです。しかし、神様がイエス様を通して示し、教えようとしたメシア観はまったく違ったものでした。これを最も明確に示すものが十字架の死と復活だったのです。ですから、公然と受難について語り始めたのです。

こうしたことを背景にイエス様の御変容の出来事があります。そこで、神様は、神的存在と思われていたモーセとエリヤと共に、イエス様に神様の輝きを示させます。イエス様は受け身で、弟子たちも受け身で、それを見させられます。ここで、世の終わりに来るメシアと受難のメシアを区別させようとしています。この出来事は、イスラエルの人たちのメシア観、世の終わりと栄光のメシアというメシア観と、神様の示そうとする、歴史の中で苦難を受けて殺され、復活するメシア観を分けて見るようにさせる出来事なのです。

四旬節は洗礼志願者と共に過ごすときです。洗礼志願者は、イエス様がキリスト(メシア)であることを信じそれを、聖土曜日には宣言しようと知的にも霊的にも準備しています。私たちも彼らと四旬節を共に過ごそうとしているとしたら、私たち、洗礼を受けた者も、もう一度イエス様がキリストであると信じたその信仰を見直してみようではありませんか。何か人間の思いが付け加わって、神様が示そうとした姿からずれてしまっているかもしれません。この見直しの上に立って、聖土曜日に洗礼を受けた時のような、初めてキリストに出会った時のような新たな気持ちで、聖土曜日の「洗礼式」の後に行われる「洗礼更新式」を受けるようにしてみませんか。  

では、どのようにしたらいいのでしょうか。ご変容の場面で神様は私たちに向けて言葉を残しています。「これは、私の愛する子。これに聞け。」私たちが今なさなければならないことは、この世に来られて来られたイエス様にもう一度目を注ぎ、その言葉にもう一度耳を傾けることではないでしょうか。                

湯澤民夫


【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。

  みことばによってわたしたちを養ってください。

  信仰の目が清められて

  あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。

   集会祈願より


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


第1朗読 創世記 22章1~2, 9a, 10~13, 15~18節


これらのことの後で、神はアブラハムを試された。

神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子

イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

わたしが命じる山の一つに登り、

彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」


神が命じられた場所に着くと、

アブラハムはそこに祭壇を築き、薪(たきぎ)を並べた。

そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠(ほふ)ろうとした。

そのとき、天から主の御使(みつか)いが、

「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。

あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。

あなたは、自分の独り子である息子すら、

わたしにささげることを惜しまなかった。」


アブラハムは目を凝らして見回した。

すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。

アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、

息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。


主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。

あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、

海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。

あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」



第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章31b~34節


もし神がわたしたちの味方であるならば、

だれがわたしたちに敵対できますか。

わたしたちすべてのために、

その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、

御子と一緒にすべてのものを

わたしたちに賜(たまわ)らないはずがありましょうか。


だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。

人を義としてくださるのは神なのです。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。

死んだ方、否(いな)、むしろ、

復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、

わたしたちのために執(と)り成してくださるのです。



福音朗読 マルコによる福音書 9章2~10節


六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、

高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も

及ばぬほど白くなった。


エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。

仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、

一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。

弟子たちは非常に恐れていたのである。


すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、

ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

一同が山を下りるとき、イエスは、

「人の子が死者の中から復活するまでは、

今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

彼らはこの言葉を心に留めて、

死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 

2021年2月20日土曜日

四旬節第1主日

 2月17日「灰の水曜日」から四旬節が始まりました。

灰の式は、勝谷司教様と松村神父様の共同司式により行われました。



2月21日 四旬節第1主日の松村神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

【福音メッセージ 松村神父様】

2月21日四旬節第一主日 メッセージ

昔はよく街角で「神を信じなさい!洗礼を受けると救われます!」「信じる者は救われる!洗礼を受けたものに救いが与えられます!」とアナウンスが流れていた。特に1999年の世紀末問題では似たようなキリスト教系の宗教や新興宗教・新新宗教・カルト教が人の不安に付け込んで、救いをちらつかせて人々に恐怖からの救済を伝えていた。私は同じキリスト教を信じる者として、その伝え方に詐欺めいたものを感じていた。確かに文言は間違いではないのだけど、メリットしか伝えない手法は詐欺師の常とう手段。実際私たちの信仰はメリットばかりではない。

私たちは洗礼を受けるとバラ色の人生が待っているように受け止めがちだが、実際皆さんの生活がバラ色である人はそれほど多くないだろう。日常生活が多くの問題を私たちに投げかけている中で、信仰と生活の間でもがいているのが一般的でしょう。

四旬節第一主日の福音ではイエスが誘惑に合うシーンが読まれる。何故洗礼を受けたのに誘惑に合うのだろう。そもそも洗礼の時に天が開け、霊がイエスにやってきた後、さっそくその霊に導かれて生活が面倒な荒れ野に連れていかれた。今回の誘惑もバラ色なイエスの人生であればあり得ないが、実際霊の導きと支えにより乗り越えた。今日のメッセージでは洗礼を受けることは決してバラ色ではない事を示されたのではないだろうか。それよりも霊の導きに従う生き方そのものが洗礼を受けたたまものであることを強調しているのではないだろうか。アダムは蛇の誘惑に負けてエデンを追放される。霊ではなく自由意志に従った結果である。イエスは自由意志に加え、サタンの誘惑に霊の導きをもって乗り越える。洗礼を受けることは自由意志と霊の導きに人生をかけることであり、特に聖霊に耳を傾ける事なのだろう。実生活の中でよいことが起こるのが洗礼ではなく、洗礼は霊の導きを知りそれに耳を傾けて生きる力が与えられる恵み。だから日常生活でも不幸が起き、多くの問題が起き、誘惑があり、傷つき、泣き、倒れることもある私たちの生活は当たり前で、そのことが起こったから「神様などいない」とご利益信仰を掲げるのは私たちの信仰ではない。洗礼による力は諸問題を神の価値観で乗り越えるため霊に導かれるということを知る力なのだろう。つまり日常生活の問題は霊を知り霊に生かされていることを知る神の誘惑の場であるということで、そこから逃れて生きることは社会集団に属する私たちの生き方ではないことが言えると感じている。皆さんの日常生活こそ神と出会える生々しい現場であることを今日は知らされたことだろう。だから不幸を悲しみながらも、乗り越えるための希望を聖霊に願いながら歩まなければならない。それに誠実であれば、私たちは救われる。

消してメリットだけではない。その過程こそ最も大事であることを忘れて「洗礼を受けると救われます!」と飴だけを渡すようなことは避けねばならないことに気づかされる。

もう一度私たちに与えられた洗礼を洗礼志願者と共にこの四旬節中に思い起こすことを始めましょう。


【聖書朗読箇所】

全能の神よ、

  年ごとに行われる四旬節の典礼を通して、わたしたちに、

  キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。

  日々、キリストのいのちに生きることができますように。

   集会祈願より

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

第1朗読 創世記 9章8~15節


神はノアと彼の息子たちに言われた。

「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。

あなたたちと共にいるすべての生き物、

またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、

箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。

わたしがあなたたちと契約を立てたならば、

二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、

洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」


更に神は言われた。

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、

代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。

すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。

これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。

わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、

わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、

すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。

水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。



第2朗読 ペトロの手紙一 3章18~22節


キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。

正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。

あなたがたを神のもとへ導くためです。

キリストは、肉では死に渡されましたが、

霊では生きる者とされたのです。


そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの

ところへ行って宣教されました。

この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、

神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。

この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが

水の中を通って救われました。


この水で前もって表された洗礼は、

今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。

洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、

神に正しい良心を願い求めることです。

キリストは、天に上って神の右におられます。

天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。



福音朗読 マルコによる福音書 1章12~15節


それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。

その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


ヨハネが捕らえられた後、

イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 

2021年2月13日土曜日

年間第6主日

 年間第6主日の福音メッセージをウルバン神父様からいただきましたので、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ ウルバン神父様】


“私は望む、清くなれ”。                 2月14日  ウルバン神父


皆さんは今日の福音の言葉を聞いたことがありますか。誰かが震えながら、泣きながらイエスに近づいてその前にひれ伏しました。ひどい皮膚病に傷つけられた顔を見上げようとして言いました:主よ、お望みでしたら、私を治すことができます。その時、どんな心、どんな顔、どんな目でイエスを見たでしょうか。暗闇と切望の中で光は一つしかありませんでした、それはイエスでした。

十数年前に私は十数人の中学生と共に外国へ行きました。深い田舎の中で私たちはバスを待っていました。バスが来ましたが、すごく混んでいました。それなのに、人々は私たちの可愛い日本人の女の子供たちを見た時、中へ詰めて親切に乗せてくれました。私たちが安心して外の景色を眺めた時、バスの中ですごい叫び声が聞こえた。次々と人が叫び出して、最後にバスのすべての人は騒いでいました。田舎の真中で、何もない所でバスが止まって、一人の男の人は蹴とばされて外へ追い出されました。後で言われたのは:まゆ毛が少し薄かったので、らい病人だと思われたのです。本当に病気だったでしょうか。バスはまた動き出して、寂しい所で追い出された人はだんだん見えなくなりました。あの方の顔を、孤独と恐れにあふれた顔を忘れませんでした。

イエスの前にひれ伏した人も心配して、それでも希望をもって主の顔を眺めながら待っていました。この方も皆と同じく石を拾うでしょうか。“汚れた者、人と神に嫌われた者、あっち行け”と言うでしょうか。いえ、そうではありませんでした。イエスの顔は哀れみにあふれ、また声が聞こえた。“私は望む、清くなれ”。その時、病人はどのように感じたでしょうか。彼にも天は開き光が見えたでしょう。僕は捨てられたもの、人のくずではない。僕も愛されていると深く感じて喜びにあふれ、それだけではなく、イエスは手を述べて彼に触れた。何年も人に逃げられた人は、初めて人の温かい手を感じました。その時、体の傷だけではなく、もっと深い傷、心の傷はイエスの手に癒されたのでした。イエスの言葉は本当です:”私は裁くためではなく、救うために遣わされた“。イエスは今日も私たちを救うために来ます、私たち一人一人を見て話します:”私は望む、あなたの救い、あなたの喜びを。“

上に話したバス旅は、森の中にあるらい病人の村への旅でした。ある子は初めて病人を見た時、ショックになって倒れてしまった。一日彼らと共に暮らしたあと、別れの時が来ました。言葉は通じなくて、あげるものも何もありませんでした。その時、子供たちは突然、別れの涙を流しながら手を伸べて病人を抱き始めた。村の人たちはびっくりしました。あの方々にとって最高のプレセントでした。別れはつらかった。村から離れた時、皆の姿はだんだん小さくなって、とうとう見えなくなったが、私たちの心の中にずっと生きていました。寝る前、皆で分かち合った時、皆は喜んでいました:イエス様が心の中に生きたら、私たちの手もイエス様になります。どこかの人は私たちの手を待っています。


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  ひとり子イエスのことばと行いによって、

  あなたの愛は世に現されました。

  悩み、苦しみの中から救いを求める わたしたちの声を聞き、

  きょうもいつくしみの手を差し伸べてください。

   集会祈願より


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


第1朗読 創世記 3章16~19節


神は女に向かって言われた。

「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。

お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め

彼はお前を支配する。」


神はアダムに向かって言われた。

「お前は女の声に従い

取って食べるなと命じた木から食べた。

お前のゆえに、土は呪(のろ)われるものとなった。

お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

お前に対して

土は茨とあざみを生(は)えいでさせる

野の草を食べようとするお前に。

お前は顔に汗を流してパンを得る

土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。

塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る。」



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節


だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、

何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、

あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。

わたしも、人々を救うために、

自分の益ではなく多くの人の益を求めて、

すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。

わたしがキリストに倣(なら)う者であるように、

あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。



福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節


さて、重い皮膚病を患(わずら)っている人が、

イエスのところに来てひざまずいて願い、

「御心(みこころ)ならば、

わたしを清くすることがおできになります」と言った。

イエスが深く憐(あわ)れんで、手を差し伸べてその人に触れ、

「よろしい。清くなれ」と言われると、

たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。


イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。

「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。

ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを

清めのために献(ささ)げて、人々に証明しなさい。」


しかし、彼はそこを立ち去ると、

大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。

それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、

町の外の人のいない所におられた。

それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。


注:「重い皮膚病」は、1987年の新共同訳聖書とは異なります。


2021年2月7日日曜日

年間第5主日

 レイ神父様からいただきました年間第5主日の福音メッセージをご紹介します。(英語版も最後に掲載しています)



なぜイエスがこの世に来たかについて様々な説明がありますが、神が御ひとり子を最後の楽園のこの世に送られた本当の理由には殆どが至っておりません。

アフリカのことわざに「どこで雨が打ち始めるかを知らない者は、どこで体が乾いたかは言えない」。私たちがどうしてこの罪深い状態に陥ったのかをよく理解するために、どこでこの罪の雨が打ち始めたのかを振り返って見ましょう。以下の聖書の所でどのようにして人間が神の無条件の恩恵と土地より、制限のある場所へと追放されてしまったのがわかります。「主なる神は言われた。見よ、人は我々の一人のように、善悪を知るものとなった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者になるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼にそこから取られた土を耕せることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎をおかれた。

悪魔は人間の不幸の起源であります。天国から神に追放されたのち、神の国でなされていることとはまるで反対の性質のこの世の王国を作ることにとりかかったのです。神と悪魔の戦いの本質はどちらを称え賛美するかにあります。しかし、この世全ては神の創造であるということを忘れてはなりません。悪魔でさえ神の創造であり、それはこの世とその被造物に働きかけます。神がアダムとイブを造られたのち、悪魔は人間の注意、信頼、従順さを神から自分に向けようとしました。蛇を用い人間から神の恵みを取り去り、命の木のある天国と呼ぶエデンの園から追放させたのです。

神は自らの姿に似せて人間を造られました。創造に先立ち、神はなぜ私たちを造るのかをご存知でした。生まれたときから死ぬときまで私たちのすべきことをご存知です。目的なく神に造られた者はおりません。この世に生れ落ちるとき、それぞれの才能により働くよう望まれます。それを使い成し遂げ、その道のりで神に仕え、称え、賞賛すべきなのです。つまり私たちは神から来てこの世でそれぞれの任務を行うのです。それを終えると、栄光のうちに最後に神の元に戻ることを望まれます。イエスが遣わされたのはイエスの多くの教えによって、この世にいる間に悪魔の罠に陥らず燃えさかる地獄に行くことがないよう私たちに気を付けさせるためなのです。イエスは私たちのもとの家、天国に帰るのを望まれています。

イエスは言われます。自分の才能を活用しその成功を神に帰すことをしなければ私たちは罪に陥ります。成功すると富、地位そして世の権力を崇拝し始めます。この世にある全てのものは神に在り、栄光は神のみに与えるべしということを忘れてしまいます。イエスは何を表しますか?富を得たとき、神を称え賛美するということなのです。富やこの世の王を称えて神を忘れるのは罪なのです。イエスはこうも言われます。神はあなた方がよりよく神に仕えることができるようにと富をあたえたと。しかし我々人間はお金をくださいと神に祈り、それを得ると神を忘れ、それを崇拝しはじめるのです。イエスが金持ちの若者に話された通りです。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。


Many people ask why Jesus Christ came to earth. They get different explanations from different people, but mostly they do not get the real reason that made God to send His only begotten Son to the world as the last resort.

There is an African proverb that says, “a man who does not know where the rain began to beat him cannot say where he dried his body!” Therefore, to better understand how we got ourselves to this deep state of sin, let us retrace back our steps to where this rain of sin started beating us.

From the Bible Verse below we see how man was banished from the unconditional God’s Grace and Providence to conditional providence. “Then the Lord God said: See! The man has become like one of us, knowing good and evil! Now, what if he also reaches out his hand to take fruit from the tree of life, and eats of it and lives forever? The Lord God, therefore, banished him from the garden of Eden, to till the ground from which he had been taken. He expelled the man, stationing the cherubim and the fiery revolving sword east of the garden of Eden, to guard the way to the tree of life.

Satan was the genesis of man’s misery. After being banished by God from the Heavenly Kingdom, he set forth in quest to build his earthly kingdom whose characteristics are the exact opposite of what is practised in God’s Kingdom. The bone of contention now between God and Satan is who will praised and glorified more than the other. But don’t forget that the whole world is a creation of God, but Satan, still a creation of God, works entirely on earth and its contents. So, after God created Adam and Eve, Satan had his chance to divert man’s attention, faithfulness and obedience from God to himself. So using the serpent, he managed to remove man from the Grace of God and man was banished from the Garden of Eden, which we can equate to the Kingdom of Heaven, where the Tree of Life is found. You know, God created us in His own image. Before He creates us He already knows for what reason He is creating us. He knows the exact tasks we will perform right from when we are born until death. No one is created by God without a purpose. When God creates us and places us on earth, He expects us to work as per our talents. We are then required to exploit and utilize our talents and on the process serve, praise and glorify God.

So it means we initially come from God, then He places us on earth to accomplish a particular task. Then once we accomplish that, He wishes that we go back to Him on the last day in glory.

Therefore Jesus, from His many teachings, was sent to make sure that while we are here on earth we don’t get trapped by Satan and end up in the fiery Gehennah. Jesus wants us to return to Heaven our original home. Jesus tells us that we fall into sin when we exploit our talents and fail to attribute our success to God. When we become successful, we start worshipping money, social status and earthly power. We forget that all that is in this earth belong to God and only Him we should give glory to.

What does Jesus Mean? He means that when you get money, praise and glorify God. Don’t praise money and an earthly king and forget God because that is sin.

Jesus also says that God gives you money to enable you to serve Him better. But we human beings pray to God to give us money but after we get it we forget God and start worshipping money. That is the one reason Jesus told the rich young man that it is easier for a camel to enter through the eye of a needle than for a rich man to enter into heaven.