今日のみことばは、先週に引き続き「ぶどう園」のお話でした。
神のみ旨・神の慈しみを実行することの大切さが語られます。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日は10月1日、「ロザリオの月」に入りました。
昼の長さはすでに11時間54分と12時間を切っており、秋から冬へと一歩一歩近づいています。つい先日、利尻富士にも雪が降ったそうですが、今朝のニュースでは大雪連峰の黒岳、旭岳でも初冠雪を記録したということが流れていました。
さて、今日のみ言葉は、よく私たちの日常にも起こっていることではないかと思います。返事はさっと「はい」と応えているけれど、それがうまくできないことが私たちの日常ではよくあることです。そのような内容が今日のお話でした。
先週から引き続いて、「ぶどう園」の話が続いています。先週の話を思い起こしてみてください。一日中、朝早くから働いた人、半日働いた人、遅れてきて一時間働いた人も、皆同じ報酬であった。そのような話を聞いたら、私たちは誰もが不公平ではないかと感じながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。しかし、聖書のメッセージはどういう視点で語っているのかということに気付かされると、すなわち、神様はどんな人にも愛と恵みを不公平なく注がれる方なのだと、そのような視点でみ言葉を黙想し味わうと、神のメッセージは如何に、私たち人間の心の中には自分中心の欲や妬みというものが潜んでいるかということを思い知らされる、そんな内容が先週のお話でした。神の思いよりも自分中心、人間の思いが先になってしまう私たち。私たちの心の狭さや妬みと、それに対して、神の愛の深さ大きさを表しているお話でした。
今日も同じ「ぶどう園」の話ですが、その内容は、神の国に入るためには神に立ち返る事、それはつまり悔い改め・回心が大切だということを教えています。今日のこのお話の背景には、イエスを何とかしてやり込めてやろうと思っている律法学者やファリサイ派の人たちがいることを考えなければなりません。そしてその人たちは、信仰にも聖書にも通じており社会的にも認められ尊敬されている人たちでした。イエスのこのお話は、そうした律法学者やファリサイ派の人たちへ向けても話されている内容です。
ファリサイ派の人たちから非難の的となっていた伝統を守らない人々が、回心をし洗礼を受けて、キリストと共に生きるようになった人々を長男に似せて話しています。また、掟を忠実に守っていたけれども肝心な時にはキリストを拒絶したり、神のみ旨を実行しない口先だけの人を次男に例えています。
キリストがたとえ話で強調するのは、神のみ旨、神の慈しみを実行することの大切さです。私たちも律法学者やファリサイ派の人たちのように、神の教え、神のみ旨を知っているということだけでなく、それだけで済ますものではなくて、いつも神のみ旨に心を向けて、反省し、回心し、悔い改めながら、さらに成長していくということを大切にするように、というのが今日のみ言葉です。
思い悩むことの多い私たちの日常生活、時には神に応えることがすぐに出来ずに戸惑ってしまう私たち。しかし、落ち着いて考える時が訪れたときには、神が示された道が見えてくるものだと思います。ですから慌てずにゆっくりと神に心を向けて、平和な心を取り戻して、新たな道に向って歩むことが求められます。
正しい道から、そして愛の心から離れたときには、神様に心の目を向けて、回心の恵みが求められます。私たちの信仰生活の中で、そのようなことがどのくらい大切にされているでしょうか。そのことに気付いているでしょうか。そのことを私たちはもう一度思い起こして今日のみ言葉を黙想したいと思います。
今日10月1日は、「幼きイエスのテレジア」の聖人記念日です。皆さんの中にもテレジアの洗礼名をいただいている方々がおられると思います。
テレジアは自分の使命を「わたしは神様の愛となりましょう」と宣言されたと伝えられています。15歳くらいの若さにおいて信仰の小さな道を歩んだといわれます。私たちもテレジアのように、自分に示された信仰の道、それは小さな道であるかもしれませんが、謙虚な心を持って、熱心な愛を持って、歩み続けたいと思います。』