2017年10月9日月曜日

年間第27主日 「ぶどう園と農夫」のたとえ

香部屋の蔦も色付きはじめ、秋を感じるようになりました。


この日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、主人からゆだねられ管理をまかされたものを、感謝することなく当然のように感じ、自分の所有物だと思い込む。現代に生きる私たちにもつながる教えです。
やがては、神のみことばを聞いてもそれを行わない者からは、神の国は取り上げられてしまいます。

この日の後藤神父様のお説教は、ブログの最後に掲載しています。


主日ミサの後、聖堂で典礼部主催による「聖書朗読のための勉強会」が行われました。


参加者からは、朗読に際しての細かい所作などについて、たくさんの質問がありました。
奉仕に当たっての心配事が解消され、朗読に専念できる助けになったのではないでしょうか。
ただ読むのではなく「神のみことばを宣べ伝える」ために心がけなければならないことを学びました。それはそれでとても大切なことですが、身構える余り緊張しすぎないようにも気を付けましょう。

後藤神父様のお説教

『今日、皆さんは福音のみ言葉をどのように聴いていたでしょうか。そして、どのように受けとめているでしょうか。もう一つの話しを聞きなさいと呼びかけて今日の福音は始まっています。すでに皆さんはもう一つの話しを聞いたということを前提に、今日の話しは語られています。もう一つの話しは先週聞いているお話になります。先週のお話しを思いおこさなければ、今日のお話しは少し難しいかもしれません。
 今日のみ言葉では、第一朗読のユダヤの預言を彷彿とさせるものがあります。ユダヤの預言もぶどう園のお話しです。もう三周間も日曜日の話しは、ぶどう園の話しが舞台になっています。一生懸命働いても地主、主人だけが良いおもいをしていることに腹をたてている小作人たち。主人の財産を自分たちのものにしようとした、ぶどう園で働く悪い小作人の話しが今日の舞台で語られてています。先週のたとえと違って、今日のお話しはどの福音にも語られているものです。マルコ福音書でも、ルカ福音書でも同じような話しが語られているのです。でも、まったく同じではありません。内容のほとんど同じですが、細かい点でちがった物語になっています。ですから、比較すると興味深い点にぶちあたります。いずれも先週と同じように、イエスが祭司長や民の長老たちに向けて呼びかけ、もう一つの話しを聞きなさいと始まるわけです。もう一つの話しを皆さんは思い出していると思います。二人の息子のお話がありました。仕事を頼まれたお兄さんは「いや。」と答えたのです。同じように仕事を頼まれた弟は「はい。」と答えました。ところが、それぞれ後の行動は返事とは違った行動になっています。どちらが正しいと思うのかが先週のお話しでした。仕事を頼まれたとき「はい。」と答えたが、それをあやふやにして果たさなかった人。「いや。」と答えたが、よくよく考えると申し訳ないと考え、その仕事に忠実に果たそうと努力した人。これが先週の話しでした。
 今日の話しでも、ぶどう園の主人は父である神様を指しています。そして最後に送った主人の息子は、もしかするとイエスを表していると思います。私たちが聖書を通して学んでいる、理解している、父が送ったイエスが十字架に架かって亡くなったという話しに繋がってくる、このぶどう園の話しになります。ぶどうの実りを小作人に要求する権利を持っているのは主人、地主です。その当然の権利を働く人にお願いしているけれども、時代も時代、今の時代もそういう思いを持つ人はたくさんいると思いますが、時代を良く考えながらこの物語を味わう必要があります。
  今日の第一朗読のイザヤの預言は、イスラエルの不信仰を恐れるために物語っているが、話しはぶどうの収穫を拒む農夫たち、その悪意がいっそう強調されて話されています。先ほどほかの福音書でも同じ内容があると話しました。主人から派遣される僕の人数やその回数もそれぞれの福音で少し違ってきます。そういう点では比較すると面白いと思います。マタイ福音書では農夫たちの反抗の凄まじさ、悪意がはっきりと描かれました。最後に主人は自分の息子をぶどう園に送っていますが、ここでもマルコ福音書では、まだ一人の息子を持っていた。彼の最愛の息子である。こういう表現をとっています。それがイエス自身であることを強調した表現がとられた。マタイ福音書の方では表現が違います。彼は自分の子を遣わしたと、こういう表現だけです。最愛の息子を送るということ、自分の息子を遣わすということ。こういうところも違った表現があります。
  いずれにせよ、イエスはこのたとえ話しの結論を人々に質問しています。先週も弟と兄の返事に対して正しいのはどちらかと言う形で最後イエスは質問して、それぞれ考えさせる、そういう教えを展開していた。今日の話しも同じようです。結果的にあなたがたはどう考えるのかということを問いかけます。ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするだろうか。人々がそれに答えて、その答えをイエスは認めます。答えは正しいのですが、先週と同じように口では立派な答えが出来て居るはずなのに、実行が伴わないことがある。それがきっと私たち一人ひとりが、はっきりとしっかりと考えていかなければならないテーマになっています。口では正しいことを話していても、それをしっかりと行動に移すことが出来ているかどうか、そのことも問われているのだということ。
 特に今日のお話しの背景には、当時の指導者である長老や祭司長たち。彼らは律法にも聖書にも通じていて信仰の指導者です。正しいことを人々に教え、神の教えを大切にしようと指導的な立場からいつも話されている人たちです。でも、話し方、教えは素晴らしいけれども、彼ら自身はどうであったのか。そんなことが私たちに語られます。イエスのこうしたたとえ話を当然、祭司長や長老たちは聞いています。そして、一言でも間違った言い方をしたならば、イエスを何とか窮地に立たせたいと願っているのが祭司長や長老たち。一言でさえもイエスの言葉を聞き逃すまいと構えています。イザヤの預言で言われたように、イスラエルの不信仰があったように、宗教の教えをある意味導いている祭司長や民の長老たちも、神の国は取り上げられてしまう、そういうおこない生き方をしている。
 私たちはどうですか?神の国を願い、私たちも祈りを一生懸命捧げます。私たちの信仰、祈りと行動は一つになっているでしょうか。パウロの第2朗読の言葉も、大切な言葉が私たちに告げられています。共同体の中にある私たちの目指す心が触れられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事に付け感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。それは慈しみ深い、憐れみ深い心があるなら、心をあわせて心を一つにして祈りなさい。自分のことだけではなくて、共同体の一人ひとりを思いやって、互いにこころがけて歩みなさい。そういうことだと思います。

  私たちは今日の聖書のみ言葉から、もう一度どんなことを心に留めるべきでしょうか。イエスは最後に言われます。私から学んだこと受けたこと、私について聞いたこと見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方とともにおられる。み言葉である神は、耳を傾ける私たちにも祈りが実を結び、その実りを大切にしなさいということを教えます。
 今日もう一度、聖書のみ言葉を味わい、わたしたちが理解したことを、わたしたちの生活、行動の中でそれが実りを結ぶことが出来るように。そのことを願いながら、今日のミサに入りたいと思います。』