待降節第1主日の12月3日は、クリスマスを迎える準備として、馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行います。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のミサには、フィリッピンの巡礼団が多数参加しています。これらの方にも主の豊かな祝福があるよう共に祈りましょう。
今日のミサで一年の締めくくりである「王であるキリスト」の祭日を迎えたことになります。来週からは、新しい典礼歴(B年)に入ろうとしています。待降節がやってきます。先週の説教の時にひとこと触れましたが、聖書週間は今日で終わります。皆さんはこの一週間の中で、み言葉に触れ、祈ることが出来たでしょうか。聖書を開く機会があったでしょうか。聖書に触れる、み言葉に触れることはこれからも大切なことになります。
さて、イエスの最後の説教といわれる「最後の審判」のことが私たちに語られています。一年の最後の主日を迎える中で私たちは、毎日曜日にイエスと弟子たちの宣教の姿をイメージしながらみ言葉に耳を傾けてきました。そういう意味では、今日の福音はイエスの弟子たちに向けた総決算の言葉とも言えるでしょう。
第一朗読のエゼキエルの預言で、神である牧者は羊の群れを養い、導くように尋ね求め、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものを滅ぼして裁きのためにくる。牧者はそういう方である、と話しています。
神の裁きについては、良くご存知のように新約聖書の一番最後「ヨハネの黙示」で語られています。キリストが万物の王であるといわれているように、最後の日には栄光の座に着かれる王といわれるように、もっとも権威ある審判者として現れています。その方は人の子であり、王であることを今日のマタイ福音書は告げています。歴史の終わり、終末にはキリストがはっきり自らを現される。そして、万物は神の前に膝をかがめる。このとき裁きが行われ、その裁きはもっとも小さい人々に対する愛の行いで裁かれるということも話されています。
小さな人々。先週、教皇様のメッセージをお話しをしましたが、教皇様も貧しい人のために、世界中で祈って欲しいとメッセージを流され、日曜日はその日に当たっていました。教皇様も聖書からくる貧しい人、小さな人、弱い立場にある人を大切にしましょう。私たちはもっとそういう人たちに向き合っていきましょう。その人たちと共に歩ける、そういう世界つくりあげていきましょう。そういう呼びかけをしています。
そういうメッセージを心に留めながら、今日のみ言葉を黙想するときに、私たちは一人ひとりの生きざま、行動がどうであったか問われるような気がいたします。キリストを信じ、キリストに従って生きているはずの私たち信者一人ひとりもまた、み言葉が示している裁きの前に立たされ、私は右側に招かれるのだろうか、左側に置かれるのだろうか。私たちは福音をとおして考えざるを得ないと思います。
主イエスが羊の世話をする牧者としての王であって、御父に全支配を返す僕として私たちは今日のみ言葉を黙想します。そのような中、愛徳について何よりも大切と考えている私たちの行い、行動、日々の生活はどうなっていたでしょうか。王の右側に立つか、左側に置かれるか。真剣に考えると震えがくるような気がします。もう一度、私たちは神の前に、キリストの前に相応しい生き方を考えるようにと、今日の福音は語りかけていると思います。
十分に理解しているはずの私たちの信仰者としての生き方。何度も聖書の話しを聴き、その内容を理解し、その場面に立たされるような思いを持って、いつもみ言葉に繋がっています。でも、私たちの愛は、私たちの奉納は、考え方は必ずしも神さまの御旨に適う生き方から外れることも度々あります。自己満足や自己の欲望を満たすほうに日々歩む私たちでもあります。
王であるキリスト。私たちは王のイメージをどのように捉えているでしょうか。私が子供時代は本や映画やいろんなところで王様の存在が身近だったような気がします。今はピンとこない感覚が私の中にあります。特に日本人はイメージが乏しいような気がします。安倍総理は王とは思えないし、天皇も王様とは見えてきません。一方、外国の国といっても十分理解出来ませんが、王様というイメージは見えてくるような気がします。王様はそれぞれの国、それぞれの民族の中にあったとしても、神さまの御旨を生きる王様はほとんどいないような気がします。テレビで時々、素晴らしいニュースが流れてきます。素晴らしい人の生き方、考え方、行動。そういうものに触れていくと感動sます。よほど私たち神を信ずるものよりも、立派な生きかたをしている。社会のために、隣人のために自分を中心にしてではなく、奉仕する生き方をしている。つい最近のニュースで皆さんも聞いているかもしれません。アフリカのジンバウエで独立以来40年近くにわたって国の実権を握り続けた、英雄として讃えられていた(ムガベ前大統領)が40年経って93歳、世界最高齢の独裁者。その高齢でどこまで仕事が出来るのか。自分の限界を知って52歳の若い妻に権力を与えようと表明したそうです。かつては英雄と讃えられた人が、今の時代では独裁者としか呼ばれない。こんな中、自分の妻に権力を譲ろうとした。国際的な非難も受けていました。そして、自分の地位を降りることを表明しました。国民は大喜びとのニュースが流れてきました。その国の王様のような存在であったといえるでしょう。国民の誰からも信頼できなくなってしまった。今日の福音もいろいろ考えさせられます。
私たち一人ひとりはどうなんだ。私たちの周りの隣人にどうであったか。人様の非難をしているときではない。政治的な権限を持って国を治める時には、小さい人、弱い立場にある人を軽んずることがないよう努力をしていると思います。すべてにそれを奉仕することは難しいことは誰もが知っています。今日のみ言葉と比較しながら、私たち一人ひとりの生き方をもう一度見つめましょう。私たちの周りから小さき人々の悲しみの涙が少なくなりますように。イエスが話されている「もっとも小さい者の一人にしなかったことは、私にしてくれなかったことである。」ということで、裁かれることのないように。
主の再臨と最後の審判。そこにだけ目を向けると、恐ろしいことばかりが私たちの心の中を支配してしまいがちですが、恐れの対象としてこの話しを聴くのではなく、隣人愛と弱い立場にある人を大切に生きるように、そして喜びと希望のうちに生きることが出来るように、あなたがたも心をもう一度見つめ直しなさい、そういう聖書のお話しとして聞くことが出来る。
待降節を間近にしています。新しい1年、貧しい人とともに歩める、私たち一人ひとりに成長することが出来るように、今日もまた主の祭壇の前で祈りたいと思います。』