この日は平日にもかかわらず300名ほどの方がお祝いに訪れました。
また、ミサの中でもうすぐ1歳になる(27日)アンジェリーナちゃんの洗礼式が行われました。おめでとうございます!
それからクリスマスプレゼントでしょうか、今のキタラコンサートホールの専属オルガニスト、マルタン・グレゴリウス氏(ポーランド)がミサに与り、そのあとで即興的にクリスマスの音楽をひいてくれました。7月に当教会でのカテドラルコンサートが決まっています。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
例年、この日は外部からミサ時間の問い合わせが多くなりますが、今年はいつになく多いと思っています。今年はそんな中、珍しい質問がありました。「クリスマスとはどんなことですか?」簡単な説明であれば、電話でもすぐに出来るのですが、十分に説明するとなると時間が必要です。是非、教会にお出でくださいと、お声かけしました。
全世界のキリスト者と教会が祝うクリスマスについて、皆さまといっしょに少し考えてみたいと思います。主の降誕を記念する一日を私たちは「クリスマス」と呼んでいると思います。そのクリスマスは、昨日24日の日没から今日の日没までをお祝いする教会の行事として「クリスマス」とか「主の降誕」という言葉を使ってお祝いをします。教会の典礼という、祈りの季節を表す言葉がありますが、典礼としては主の公現を祝う日まで、その喜びの中に置かれます。教会のクリスマスは、街の中で行われる華やかなクリスマスとは違います。その本来の意味が教会では考えられるからです。
キリスト教という宗教に深く結ばれた主の降誕をお祝いする祭日、お祝い。直接にはイエス・キリストの誕生日というわけではありません。イエス・キリストが何時産まれたというのは、古代から教会内部でも様々な説があるようです。例えば3世紀の初め頃、アレキサンドリアのクレメンスという教会の聖人は5月20日頃と推測した資料が残っているようです。実際に私たちは聖書でキリストの誕生をみていますが、新約聖書にも誕生日を特定するような記述は一切ありません。降誕祭とは別に西方教会では1月の6日にキリストの公現を祝う公現祭を持っています。公現祭は公にキリストがこの世に現れた、お祭りとして古くから祝われていたようです。実際に、誕生を祝うようになったのは、キリストが亡くなってから約300年が経過してから、初めて降誕を祝うようなことが起きています。遅くとも345年には西方教会で主の降誕を祝う資料が出てきてます。救いをもたらす神の子イエス、誕生し私たちのもとにきた。私たちを救うために十字架に架かり亡くなられた。その方の誕生を祝うことはとても大事なことです。今で言うキリストの誕生のお祝いがどんどん広まっていった。キリストが規模の光を届けるように、当時の祭りに結ばれて12月に祝われるようにもなったようです。12月25日を産まれた日として今日のクリスマスに繋がったようです。ですから24日は産まれた日としてではなく、2000年前の生誕を祝う日として24日、25日が定着したとのことです。冬至との関係があったようです。
私たちは先ほど聖書の言葉を聴きました。聖書の言葉が3つ朗読されました。
最初に読まれたのは、旧約聖書のイザヤ書でした。その内容は紀元前6世紀のイスラエルの歴史が語られました。イエス・キリストが誕生したエルサレムの町に平和が告げられていました。驚きを感じました。
そして、第二の朗読では、この世界を創造された神が人類の歴史に深い関わりをもって、古い時代から新しい時代に移り変わる。そこにキリストが関わることを物語ります。キリストが誕生して始まる世界は新約時代という言い方をしますし、聖書では新約聖書というふうに使われます。
3つ目の朗読は、ヨハネによる福音が朗読されました。創造主である神が言葉とともにあった。言葉は神であった。この言葉は旧約聖書に出て来る創世記の一番最初の内容と深く結ばれているお話しです。暗い時間より、光の時間が長くなる冬至にも関連するように、光となって人間の世界に降りてくるという、救い主イエス・キリストの誕生を告げる話しが、今日の最後に読まれたヨハネによる福音の内容になっています。
光となって私たちの救いのために神の子であるイエス・キリストがこの世に誕生する。それがまさにクリスマスの意味です。一般の暦では新しい一日は深夜のの0時から始まります。0時を過ぎると新しい一日が始まると普通に理解していますが、キリスト教の世界では、ユダヤ教の教会暦が繋がってきました。ユダヤ教では日没から一日が始まり、日没で終わります。ですから12月24日の日没からクリスマスが始まって25日の日没で終わると言うことです。ですからクリスマス・イヴ(=24日日没)という言葉もここからきているようです。
昨夜のミサではローソクに火を灯しながらお祝いしました。その時もイザヤ書が読まれましたが、「大いなる光が輝く」という唄で儀式が始まりました。イエスの降誕の光の輝きが私たち皆に輝き、ともに喜び祝うもの。まさに預言者イザヤの言葉は、いかに真実で理に適っていると驚きを感じます。紀元前の預言がまさに現実になった。さらに2000年経って、私たちは毎年祝ってます。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになりましたとイザヤは告げています。私たちもこのような喜び、楽しみを待ち続けてきました。この時期、プレゼントを贈る習慣があるようですが、私たちは「愛」のプレゼントを贈りたいと思います。
さて、英語のクリスマスが一般的になっていますが、クリスマスはキリストのミサということでクリス・マスと言われています。日本語では「主の降誕(祭)」です。私たちはこのクリスマスの日をが心から喜び、主を心に 迎えて素晴らしい一年に向かうことが出来れば、私たちの世界は少しずつ変わっていくと思います。
素敵な詩をを皆さんにお聞かせします。
「生まれる前は 母に待たれ 死ぬ前は 神を待つ
この世に生きること それは 待って 待たれることばかり
たとえ 誤解されたり、裏切られたり
迷い、不安、孤独に苛まれても苛まれても
身を委ねて 待つ
……そんなにあなたこそ待たれている もっと大きな存在に
(カトリック生活 2017年12月号 P7 おむらまりこ)
神さまに私たちは最終的に待たれているということ。
このクリスマス、いっけん華やかなイメージが最初に浮かびますが、実際はそうではありませんでした。昨日の(夜半ミサの)司教様の説教でそうしたことが触れられました。人々を救う神の子のスタートは私たちの人間の常識では考えられない、煌びやかな神殿でスタートしたのではありません。この幼子の環境、スタートは貧しく冷たい飼葉桶の中から始まっています。驚きを感じます。世において、神にできない事はないというしるしがここにも感じます。
今日の喜びの愛の灯を私たちの心に燃やし続けて行きたいと思います。私たちの心の中に光をもっともっと大切にして、自分だけでなく周りの人にもその光が照らされるように、祈りたいと思います。このことを家族にとっても私たちにとっても大いなる光であります。』