2017年12月17日日曜日

12月17日(日)待降節第3主日

今日の福音では洗礼者ヨハネが救い主キリストの到来を告げます。
1週間後はいよいよ降誕祭です。
洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、謙虚な心で主の降誕を待ちましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『「待降節は愛と喜びに包まれた待望の時である」と言われるように、神の子の来臨・主の降誕が近づいてきます。
今日の待降節第3主日は、昔から「喜びの主日」と呼ばれ、かつては司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を着ました。本日の入祭唱はその趣旨をよく示しており、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられます。
先週のマルコの福音では、イザヤ書に書かれている「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という言葉どおりに、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える場面が語られました。
今日のヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネが光として現れるメシアの証し人としてユダヤ人が遣わした祭司やレビ人の質問に答えています。ヨハネは荒れ野という光の届かない暗い世界から沈黙を破って「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と叫んでいますが、これは私たちの心に神を導くためでした。道を整えなければ、ヨハネがいくら主を案内したくても来られないということです。「道を整えよ」というのは心の中にふさわしく迎える準備ができたのかということと、へりくだった思いを持って、主を迎える祈りをしなさい、ということです。
今日のヨハネの姿に現れているのは、へりくだりの模範の姿です。ヨハネこそキリストだと信じていた人が大勢いたにも関わらず、人々が「キリストではないか?」と思われたとき「そうではない」と答え、人の誤りを自分の誉れとして用いる方ではありませんでした。
ヨハネは自らの試練の場である荒れ野に身を置いて、神だけにしか頼ることしか出来ない環境の中で、人間的虚飾を剥ぎ取りながら、神と純粋に交わり、神の中に身を委ねて生きたのです。見過ごすことの出来ない言葉として、私たちの心の中に響くヨハネの声は、真剣なる神の愛と思いの中でその神秘を生きたヨハネだからこそ、私たちの心に感動を与えるということではないでしょうか。私たちもヨハネの信仰と謙虚な心を見習う必要があるようです。待降節はそのような心の準備も大事にしなければと思います。

私たちはこの地上的な幸せの虜になり、目先の富に目がくらまされることがあるのではないでしょうか。自分の幸せや健康は大切なことです。しかしそれにのみに心を惹かれてしまうと、人を思いやる心や奉仕する心さえもだんだんと小さなものになっていくような気がします。便利な環境に囲まれ快適な生活に恵まれれば恵まれるほど、利己的な欲望に支配されてしまうことがよくあります。そうすると私たちは神を見失い、荒れ野の試煉と危険が迫ってくるのかもしれません。

ヨハネの呼びかけ、その声は、神の姿を見失いかけている私たちに向かって、もう一度恵みの世界へと呼び戻すことを真剣に呼びかけている声なのかもしれません。

来週の日曜日はもうクリスマスになります。
今日のみ言葉の中にもありました「はきものの紐を解く値打ちもありません」とヨハネは公言し謙虚な姿を私たちに示しています。その洗礼者ヨハネに倣って私たちも心を清めて待降節に向かいたいと思います。
「傷ついた心の闇に光を照らしてください」と、罪があるならば赦しを願いながら、謙虚に主の訪れを希望のうちに祈っていく一週間でありたいと思います。』