2017年12月10日日曜日

待降節第2主日 上杉神父様による「黙想会」

上杉昌弘神父様をお迎えし、主日ミサと黙想会「アドヴェントゥスにこそ“マラナタを”」が行われました。
降誕祭を迎える私たちにとって、心を見つめるよいひと時となりました。


上杉神父様のお説教をご紹介します。

『北一条教会には年に2~3回、聖香油ミサや金祝・銀祝のお祝い、叙階式などでお邪魔し、司教ミサに与っています。しかし、今日、プリンチパーレスと言うのですが、主司式司祭として祭壇に上ると不思議にいろいろな思い出や感慨が蘇ってきました。思えば、北一条教会でミサを捧げさせていただくのは、26年ぶりかもしれません。朝早く9時のミサは久しぶりです。北26条教会は(午前)10時半ですから、ゆっくりしていられるのです。もちろん、二ヶ月に1回花川教会に行くときは9時、手稲教会は9時半など…どうでもよいことですね…。

 私たちは間違いなく、今日、神さまに呼ばれてきました。教会と訳されるギリシャ語「エクレシア」は神さまによって呼び集められた人々、その集会を指します。神さまが本当にいらして、「わたしのもとに来なさい」と。一週間、神なしのこの日本の社会にあって、あなたたちは傷つき倒れているかもしれない、あるいは何を目的に何を望み、自分の生涯を何のために捧げて一日一日を生きるのか、それを見失っているかもしれない。世に染まってはいけない。神に祈らず、神に感謝せず、神を愛さずとも幸せそうに生きている人々を見習ってはならない、と。神は千人に三人といない私達信徒の信仰と祈りを通して、ひよっとしたら滅んだかもしれない地上の生活とこの国、私達の生業(なりわい)を支え、忍耐し待っておられるのでしょう。主の呼びかけに応えて私たちは応えます、「はい。主よ、わたしはここにいます」と。皆さんはこの日本に本当に千人の三人といない中から選ばれ、呼びかけられ、その招きに対し「アーメン(そうなりますように)」そう答えて、今日お集まりになられました。

  ミサは、典礼すなわちレイトゥルギア の翻訳ですが、公務、公の勤めとも訳すことのできる言葉です。わたしたちは神の国の公務員かもしれません。今日ミサの初めで、わたしの思い、言葉、行い、怠りによって度々犯した罪をお許しくださいと祈りました。主語は「わたし」でした。しかし、続く集会祈願の時には(この集会=カハルというのが教会と訳される)、主語が「わたしたち」に変わりました。私ではなく、私たち兄弟姉妹が痛み、病み、心の中の愛の灯が消えそうになる罪の喘ぎを告白しました。それを主がお聞きになって呼んでくださり、今日また神のもとに集まることが出来ました。わたしたち一人ひとりが抱えている重荷によって背が曲がり、その重みに耐えかねている時(重荷で背が曲がる、これが聖書でいう貧しい者=アナヴィ-ムの語源)、その時に主の声を聴く。頭をあげなさいと。あなたの前にわたしがいる。あなたに何が必要で、あなたが何を待ち望んでいるのか。自由か、解放か、慰めか。あなた達一人ひとりに必要なものをわたしは知っている。最愛の子キリストをあなたたちに今日も与えよう。あなたたちがこのミサの中で祝っているのは、我が子イエスがあなたたち一人ひとりをわたしに立ち返らせ、暖め、生きる者になるために、今日も愛によって自分を捨てること。わたしがあなたのために自分の命を捧げるよりも、最愛の一人息子の命がとられることのほうが、どれほど痛いことか。しかし、一人も滅びないこと(これが神のみ旨)、一人も滅びないで生きて感謝するようになる、笑顔であなた方が互いを赦し合い愛し合える心となるようにと、今日もミサの中で我が子は自分を惜しむことなく与える、と。

  第一朗読で慰めよ、我が民を慰めよとイザヤが呼びかけます。この2千4、5百年前の預言は、キリストにおいて今日実現しています。カトリック教会で行われているこの儀式は、単なる儀式に留まらず、主キリストがここにいて、わたしたちに手を差し伸べて、暖かい心で言葉をかけ助け起こしてくださると信じる時に、司祭の身体を通してキリストがわたしたちのもとにおられ、み言葉は実現していると。そう信じています。「慰めよ」と聞いた古(いにしえ)のみ言葉は、今日わたしたちのうちに実現します。わたしたちが心を閉ざされた自分の狭い殻から解放されて、広い心に移され、主イエス・キリストの心をいただくなら、今日いただく恵みと平和、慰めは、人々へのため。わたしたちがいかに愛するか、その道を知らない時でも、この一週間に閉じた心を開き、今日いただく恵みを分かち合わせてくださる。そう信じて、この素晴らしい秘跡に与りましょう。秘跡として訳されている言葉はミュステリオンすなわち神秘です。わたしたちが信仰の目を持って臨むならその秘められた大きな宝、恵み、道が見えるようになる。それがこの一週間、わたしたちが気付くまいと、ともにいらしたイエスが私たちにしてくださったみ業とみ言葉です。この秘跡に与っていきましょう。
  愛する人たち、このことだけは忘れてほしくない。ペトロは第二朗読でそう呼びかけます。
一人も滅びないこと。これが父である神の御心であると。しかし、この言葉を無視するならば永遠の滅びがこの地上に入りこみます。この私、愛する家族、群れすべて滅びないように。主よ、わたしたちに必要な糧をお与えください。

  福音書はマルコの第一章第一節から始まりました。マルコ福音書のイエス像は「神の子」これに尽きるそうです。ですから、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と断言します。この神の子イエスは、第一朗読で語られた小羊であることでしょう。「羊飼いが群れを養い、御腕をもって集めた小羊を懐に抱き、その母を導いていかれる。」父である神にとって小羊のようなイエスをわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは最後の信仰告白のときに、キリストのからだとなった聖体を示されこう応えます。「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い。・・・主よ、あなたは神の子キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう。」
  子羊キリストとは、あの出エジプト記の時モーセに率いられてその夜、エジプトを脱出する時に急いで屠られた小羊。その血はイスラエルの家の鴨居に塗られ、そこには災いが過ぎ越して行った。その古事に由来します。災いが過ぎ去りわたしたちを滅ぼさないために、キリストは小羊のように死に渡されました。わたしたちは知っています。災いではなく、神の子の命に生きる幸いをもたらすために、今日キリストはご自分を捧げてくださった。

 円山教会にいたころ、ある中学生が「神父様。あなたをおいてだれのところに行きましょうといつも言っているのですが、だれのところに行くのですか?」わたしは大声で笑いました。「あなたの素朴な質問は本当に正しい。神父さんはじめひょっとしたら大人の人も、ミサが終わったら神様を忘れて誰かのところに行っているかもしれないよね。一週間いっしょに家庭で祈ることも、神さまを忘れて祈らない日もあるでしょう。わたしたちはいつもイエス様に従っていかなければたった一人でこの地上を旅することはできない。その目的地をイエス様はご存知なのです。だからご聖体をいただいて、今日も旅をするためイエス様に従っていくんだよ。」と、お話しすることがありました。

  さあ、もう言葉はよいでしょう。沈黙のうちに、静けさのうちに、わたしたちの心と霊に
近づいてくださる主をお迎えしましょう。あなたこそ私の神。あなたを通していただいた洗礼の恵みによって、わたしたちも父の子、神の子となる。』


御ミサの後、黙想会が行われました。


『どうか皆さん、イエズス様と向かい合うひと時にしましょう。
この一週間、迷ったり、困惑したり、ため息を付くような日々だったのかもしれません。私たちがへりくだって「主よ教えてください」と待ち望んでいるならば、必ず立ち上がらせ元気に笑顔に戻してくださる神の言葉が与えられる、今日それをともに心に蓄え、キリストに一緒に聞いていきましょう。』

典礼聖歌集から、上杉神父様がお選びになった
「あなたの息吹を受けて私は新しくなる」
「主はわれらの牧者」
「主を仰ぎ見て」
を唱え、神父様のご指導により黙想を行いました。

黙想会が終わり、場所を移し茶話会の中で神父様とお話をしました。