2018年11月7日水曜日

年間第31主日

イエスは律法学者の問いに対し、申命記(6・5)とレビ記(19・18)を引用して最も重要な掟について話されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『モーセはトーラー(モーセ五書)をヤコブ共同体の相続財産として我々に命令した。申命記の中で聖書は述べています。ユダヤの民は律法学者によってその信仰を厳しく指導されています。その信仰を守っています。でも、そのユダヤ伝来の信仰は掟が少しずつイエスの時代に変化していきます。熱心なユダヤ教のグループのある人々は、古代からの伝統が少しずつイエスによって崩されていく、壊れていくようなそんな思いがあったようです。特に律法学者たちの間で。それはどういうことなのか。ひとつ例をあげると、イエスはたくさんの人々を癒やし、慰め、励ましています。時に神の業をしるしとして人々の前で現します。奇跡がそこで行われました。でも、安息日に行われるそういう行為は、イザヤの掟に背くものであると考える人々がいます。安息日は聖なるものである。そして、安息日は仕事は出来ないということが、当時の人々の考えでもありました。安息日、主の日に3百数十種類の仕事の内容が記されていて、それ以外は許されないとか、そういう細かい規定があったそうです。今で言うと、1日800メートル以上歩いてしまうと仕事にもってなると、そういう掟があるという中味が伝えられています。ですから本当に安息日に縛られてしまう、そのような人々の生活もあったということです。
  そういう背景の中で考えると、イエス様が神殿で人々を見て憐れみ、奇跡を行ったとき律法学者たちはまさに、仕事をしている  掟を破ったという見方になりました。考えのようです。でもイエスはその時に安息日は国民のためにつくられた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。安息日が私たちの上にあるのではなく、人が安息日のためにあるのだ。厳格に守ってきた掟が覆されたように考える人々はイエスに対する反発をだんだんと増幅させてしまいます。病人を癒やす行為にさえ、そこにあまりにも恵みや権威に満ちていることを知って、妬む心が大きくなってしまいます。
聖書の中で何度も律法学者ファリサイ派、サドカイ派の人々が現れてはイエスに意地悪な質問をする。そういう物語がたくさん現れます。そのくらい、イエスの行いがだんだんと特定なグループの人たちから反感を買うようになった、そういう時代のお話が今日もまた出てきます。
 タルムード(口伝律法)の戒律は613の掟があるそうです。インターネットで調べるとそれが全部出てくるのですが、小さなことから様々な掟が見ることが出来ます。その掟の中に消極的な掟と積極的な掟があるといわれています。インターネットで見たところ、消極的な掟は365、積極的な掟、命令が 248、合わせて 613あるようです。もちろん、ユダヤ教の信仰の中にに入ってくる様々な掟や規律ですが、その十戒の内容もその掟の中に入っています。

 今日のお話は律法学者から出される質問です。律法学者たちは掟を研究している人たちですから、モーセの掟もその中に入っていることも知っているし、特にその掟は大事にさればならないことを当然知っている質問です。一番の掟は何ですか。一番良く知っている学者さんがそういう質問をするとはどういうことでしょうか。いろいろ想像してしまいますが、イエスに質問します。もちろんイエスは彼らの質問の意図をよく知って答えます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが一番の掟です。日本語で話されていますから説明は必要ないと思いますが、次から次へと神に向かう心が出てきます。すべてをあげて全身全霊を込めて神を愛しなさいということに尽きると思います。
 イエスはさらに加えました。隣人を自分のように愛しなさい。切り離すことではなくて、最初に唯一の主である神を愛することと隣人を愛すること、セットになるように答えていました。律法を研究している律法学者にとって、イエスのこの答えは否定する余地はまったくありません。イエスのこの最初答えは、申命記6章にある聖書の言葉そのものです。二つ目の隣人を自分のように愛しなさいというのも、レビ記にある聖書そのものです。ですから律法学者は否定することはもちろん出来ません。そのとおりと認めざるを得ません。何よりも大切なすぐれた教えそのものであると認めます。掟の数が数多くあると人々は迷ったり、どちらの教えが正しいのか、そういう迷いも当時あったそうです。あまりにも細かく規定がありすぎて、この掟を守れば、こちらの掟は守れそうもない。それくらい規定がいっぱいあったそうです。ひとつ例をあげると、供え物を捧げよという掟もあったそうです。当然、父母を敬えという掟もありました。当時の社会では供え物を理由に両親の扶養の義務を怠ったり、放棄する風潮があったともいわれます。現代でもそのことがあるような気がします。お金をどのように使うか。財産をどのように使うか。両親のために使うか、自分たち若い家族のために使うか。そんなことで両親を投げやりにしたり、粗末にあつかったり、扶養を怠ったり。そういうことは、今の私たちにも考えられることです。当時の社会も同じような風潮があったそうです。神殿に犠牲を捧げるために物を使った。それを用意したから、両親の世話を十分することが出来ませんでしたという理由もたくさんあったのではないでしょうか。
  でも、よくよく考えなければならない。イエスの教え、神の教えはそういうことだったでしょうか。掟はそういうことではなかったはずということが指摘されることです。犠牲や燔祭は罪ある人間が自分を全部神に捧げるしるしに犠牲を捧げる。時に小鳥や鳩であったり、少し余裕のある人は仔牛を捧げたり、そういう風にして犠牲にはお金がかかることであったのかもしれません。生活の一部を捧げざるを得ない。罪の償いがあったかのように当時の社会を想像することが出来ます。でも、その犠牲を捧げるために生活の一部をそれに当てたとすれば、両親をどこかで十分に養うことができないという人がどんどん出ていったとすれば、掟を守る中で間違ったことをしているというふうに考えられます。

  神を愛することと人を愛することは切り離すことではない。愛するときに神はその人とともにいる。愛に欠ける行為がだんだん当時の社会の中に現れてしまう。イエスはそういうことを含めてきっと律法学者に神を愛することと人を愛することがなにより大切である
と答えたのではないでしょうか。神を愛する。実際に具体的にどのようなものでしょうかと考えてしまうかもしれません。
 神を愛するということは具体的にはイエスのみ言葉を聴くほかはないと言えるかもしれません。イエスのみ言葉に心から従い神を思うとき、私たちの心は自分の周りの人々に向かっていくのではないでしょうか。時々とても熱心な人が一生懸命教会で祈りを捧げます。祈りに多くの時間をかけて本当に熱心な姿をそこに見てしまいます。時々、そういう人の中に教会、共同体の皆さんとの関わりよりも、神に祈るその時間の方が大切であるという人がなんとなく見えてくる場合があります。神を愛する。祈りを大切にする。もちろんそれも大切なこと。でも、人との関わりを避けて、その時間を割いてただ祈りだけをするのであれば、神を愛する人を愛することに少し問題が出てくるのかもしれません。バランスは難しいと思いますが、ただ熱心に神に祈るだけではなく、神と人とを介することの大切さを私たちはもっともっと考えなければならないような気がします。
  神の言葉に、そしてその教えに耳を傾け黙想するとき、当然私たちは自分の周りにいる人々、助けを必要とする人々、苦しんでいる人、悩んでいる人、そういう人にも心が向かうはずです。そういう思いこそ必要としている人の隣人になることが出来るのではないでしょか。それはマリア様がイエスのみ言葉に耳を傾けていたその態度にも表れているような気がします。
 イエスは後に弟子たちに話します。私があなたがたを愛したように、あなた方も愛し合いなさい。自分のようにだけでは足りないのかもしれません。イエスが愛したように、私たちはそれを一番の模範としなければならないようです。ですから、イエスの言葉を心に留めて思い巡らし黙想していかなければ、イエスがどのように私たちを愛してくださったかを知ることは出来ないはずです。

  自分ほど神の国から遠い人間であると誰もが思えてしまいます。自分に欠けているものがあるから、そのようにどうしても考えます。洗礼の恵みをいただいた私たち。キリストの教えをただ学ぶだけでなくて、本当に全身全霊をもって神の国に相応しい人にならなければなりません。愛を生きる人こそ神の国から遠くないと呼ばれるはずです。今日、私たちは共同祈願でもたくさんの祈りを捧げます。私たちの祈りで、私の祈りとしてその一つ一つの祈りを捧げるようにしたいものです。』