2018年10月29日月曜日

年間第30主日

今日の福音は、イエスが目の見えない人「バルティマイ」を癒すお話でした。
何気ない日常の中に起こる奇跡を物語っています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんは今日の福音をどのように聞いていたでしょうか。どのような場面が心に浮かんだでしょうか?
先週、先々週とみ言葉を聞きながら、私はその時の内容も思い起こしながら今日の「盲人の奇跡」の話を黙想しています。
イエスに仕えてきた2人の弟子が「栄光の日が来たら良い席に着きたい」と願って、他の弟子達から怒りをかった場面が先週語られていました。イエスはその時、良い牧者としての模範を示して「仕える者になりなさい」と弟子たちを諭しています。
今日のみ言葉は、何気ない日常の中で起こる奇跡の物語のようにも感じます。
イエスはエリコを通過する長い道を通ってエルサレムへ向かっていくような状況にありました。旧約時代のエリコという街はオリエント世界の最古の街と言われ、肥沃な土地でヘロデ王が宮殿を建て、娯楽施設が整った貴族的な街とも言われてます。場所的には、塩の海と呼ばれる死海の北、9kmのところにあります。また、この街は「ザアカイの回心」の舞台となった街の近くにあります。
その街を出て、エルサレムに向かうために狭い谷間を通る時の出来事が、今日の物語になっています。今日のマルコの福音は、他の二人の福音史家も共通してこのお話を書いています。ですからこのお話は、当時の人々にとっては大切な話として伝承されていたということも考えられます。しかし、同じ物語を扱いながら二つの福音では盲人の名前はなく、二人の盲人という表現がとられています。マルコの福音だけが盲人の名前も書かれているのは、このバルティマイの信仰がとても素晴らしかったので、バルティマイ一人を中心に取り上げて書かれたのではないかとも考えられます。
ルカの福音によるとザアカイの家に泊まられた翌日のことであると言われています。マルコの福音では、まず先に盲人で道端で乞食をしていたバルティマイに、群衆の会話そして足音がだんだんと自分の方に近いづいてくる、そんな様子が描かれています。バルティマイは以前から、おそらくイエスの話を噂として聞いていたのでしょう。だんだんと近づいて来るのは、もしかしたらイエスではないだろうか、そんなことを思い巡らせながら、近くにいる人に誰なのか?と質問したようです。すると誰かが「ナザレのイエスが通る」と教えました。
バルティマイは、イエスの奇跡の噂を思い出したことでしょう。近づいて来るその足音を聞きながら大きな声で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」執拗に何度も繰り返し、自分の声がイエスに届いているのかも分からずに叫び続けました。
イエスが足を止めて「彼を連れてきなさい」と言われました。うるさいと思っていた人々は、イエスがそのように言うのであればということで、バルティマイに近づき安心させ、立ち上がらせてイエスの前に連れていきます。
盲人の願いはただ一つでした。イエスが「あなたは何を願うのか?」と質問すると、「見えるようになりたい」と答えます。イエスは既にこの叫び続けていたバルティマイの声を聞きながら、この人の熱心な信仰も見つめていたようです。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と彼に答えたイエスがそこに立っています。どこにそんな立派な信仰が表されていたでしょうか?
バルティマイは、近づく足音を聞き「ナザレのイエス」が来たことを知ったのですが、叫んだ言葉は違っていました。ここにこの盲人の信仰が見えてきます。どういうことでしょうか?「ナザレのイエスが来た」と教えられながら、盲人が叫んだ言葉は「ダビデの子イエス」という言葉です。「ナザレの子」と「ダビデの子」にはどのような違いがあるでしょうか?彼は「ダビデの子」というメシアを表す言葉を使ってイエスの向かって叫び続けたのです。そこに、人々の理解とは違ったバルティマイの信仰を見ることができるのです。
「黙れ」と叱りつけられ、人々が黙らせようとしたにも関わらず、彼の求めの熱心さ、そしてその信仰も、恥じらうことなくイエスに向かってはっきりと表されていきました。彼のその熱心な信仰がメシアの憐れみを求めていたことに大きくこの物語の特徴が見えてきます。

バルティマイの求めは「お金」ではなく「目が見えるようになること」でした。一般的に道端で盲人が物乞いをしていると聞くと、お金の無心と考えてしまうのではないでしょうか。しかしバルティマイは違っていました。そこにまた彼の信仰の素晴らしさも見えてくるような気がします。弟子たちが、イエスが栄光の座に着かれたら右と左に座る地位と名誉を求めたことを考えると、同じ求めでも大きな違いがあります。信仰のあるところにメシアの憐れみが現実になるということを、今日のお話は語っているように思います。

あわれみの手を差し伸べる救い主イエスに、私たちの信仰、そして信頼は本物なのでしょうか?
心の底から「主よ、憐れんでください」と叫び続ける信仰を私たちも持ちたいと思います。

人々の中にあわれみを受けたバルティマイも加わって、イエスのエルサレムへの道、決定的な受難の時が迫る旅が続いていきます。
「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」
今日もイエスとの出会いから、心から求める憐れみをとおして、見えない「しるし」と「力」が働いているはずです。
聖体をとおして私たちはイエスと出会い、その力をいただきます。
イエスのことばが今日も私たち一人一人の心に留まるように、このミサをとおして祈り続けましょう。』